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京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第五章 現世編
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第四十六話 My Father's Eyes(上)

 音楽はオペラ『椿姫』より「乾杯の歌」――もっとも舞は聴いたことはあっても曲名を知らなかったが。シャンデリアの輝きを反射している窓硝子に映っているのは、この日のために特別に誂えたのであろう色とりどりのドレスのきらめきとグラスの揺らめきと、そして人々のさざめきと。そうした目も眩むほどきらびやかなものたちを背景に、舞はひとり窓辺に立ち尽くしている。白崎邸の中庭をじっと見下ろしながら。


「舞、楽しんでいるかい?」


 今宵の主役がやってきた。白いスーツがすらりとした長身によく似合っている。プラチナブランドの波打つ髪を今日はひとつにまとめているのも貴公子然として凛々しく美しい。舞はルカを前に微笑んだ。


「うん、とっても!」


 十月十四日――白崎ルカの誕生日であるこの夜、白崎邸では毎年必ず豪華なパーティが開かれることとなっている。ルカのために一言申し添えておくならば、これは何も本人の希望によるものではなくて、万事派手好きの父親が企画して開催するのであったが、招待客の方も恒例行事としてすっかり楽しみにしているから、ルカとしてはどうしても中止も縮小もできずに困っているのであった。もっとも、ルカはこうした華やかな催しが嫌いなわけではないのだったが。


 舞だって決して嫌ではない。今日は舞も、小さな薔薇をいくつもあしらったローズピンクのドレスでおめかしをして、まるでおとぎばなしのお姫さまになった気分だ。食事も飲み物もすばらしいし、お客さんは皆立派な人ばかりだ。たとえば有名歌劇女優のKだとか、歌手のUだとか、クラシックの疎い舞でさえも名前を知っているスウェーデン人老指揮者だとか、ニュースでよく顔を見る某有名企業の社長だとか。しかも、こうした人たちは誰もが親切で気取っていない。本当に夢のようなひと時ではあるのだが……


 ルカは慈愛の目を細めながら、白い手袋を嵌めた指でそっと舞の頬に触れた。


「嘘つき。心配ごとがあるんだろう?」


 そんなことないよ、と否定しかけて舞の微笑みはくずれかけた。ルカさんには敵わない。


「……ごめんなさい、ルカさん」

「なぜ謝るの?」

「だってルカさんの誕生日なのに。今日だけは忘れようとしてるんだけど……」

「忘れられるはずがない」


 うつむいている舞には、ルカの顔から微笑みが消え去っていることを知らない。しばらくして、ルカは言った。


「結城司のことだから君は忘れられない。それでいいんだよ、舞。でも、自分を責めてはいけないよ。君のせいではないんだから」

「そうなの、かな……」


 ちょうどその時、翼と奈々が人混みのなかではぐれた舞を見つけてこちらへと駆けてきたので、舞の物思いは否応なしに吹き飛ばされることとなった。翼は胸元に大きなリボンがついた空色のワンピースに白のボレロを重ねて着ていて、奈々は黒いロングドレスの袖から突き出た肩をシルバーのショールで隠していた。二人ともなかなか様になっている。舞は思わずにっこりした。


「ルカさん、お誕生日おめでとうございます!」

「ありがとう。料理は口に合ったかい?」

「もっちろん!」


 奈々が機嫌よく答える。お洒落をしていても決して気取らないのが奈々らしかった。


「翼は?」

「すっごく美味しかったです!ねっ、舞?」

「うん!特にデザートの苺のケーキ、美味しかったなぁ」

「それならよかった……おや」


 その時、人の波の何気ない動きを感じ取って、一同の目が同じ方向を向いた。ちょうど皆を探していたらしい玲子が、車椅子を操ってこちらへとやってくるところであった。


「ルカ、父があなたと会いたいと言っているのだけど」

「市長が?それは光栄だ。どちらにいらっしゃる?」


 ルカと玲子が話している間、舞は、赤いイヴニングドレスに身を包んだ玲子の横顔を見つめていた。読みかけてやめてしまった手紙のことを思い出していたのだった。あの日以来、舞も玲子も顔を合わす機会はあったというのに、一度として手紙のことに触れなかったのは考えようによっては不自然なことではあった。玲子が避けられていると思うのも無理はない。


 礼を言うべきなのかもしれないと思いつつも結局言い出しかねているのは、偏に舞の感情の問題なのである――結城司という存在が舞のなかではあまりにも大きな存在だったがゆえに。結城司をうしなった悲しみが、結城司を喪わなければならなかった苦しみが、あらゆる感情に勝ってしまうがゆえに。舞は玲子を許せない。


(玲子さんのせいじゃないってわかってる。悪いのは漆。司がいなくなってしまったのは、漆のせいだもの。だけど……)


 舞が見つめている間も、玲子はちらともこちらを見ようとはしなかった。前世ではあれほど朱雀が大好きだったというのに、今は玲子に対してこんなにも寒々とした気持ちを抱いていることが、舞にはさびしかった。




 四月十二日――優しく誰もに好かれていた幼馴染の結城司は、孤独で冷酷な転校生として舞の前に現れた。舞はまもなくして、司の豹変が性格だけにとどまらぬことを知った――ひとつめは誕生日の事。かつての司は舞と同じ七月十三日生まれだった。同じ日に、同じ病院で生まれた。まるで、生まれる前から出会う約束をしていたみたいだと、母親たちは言いあった。けれども、今の司は六月十三日生まれだという。舞より一月も早い。


 もうひとつは家庭のことだ。かつての結城家は、父親と母親とそして司の三人家族だった。もちろん何の問題もなかったとまでは言いきれないが、家族ぐるみで親しく付き合っていた舞から見ても穏やかな幸せそうな家庭に見えた。優秀で愛情深い両親に見守られて、司はのびのびと育ったのだ。


 今の司には父親がいない。舞の母親の話では、恐らく司の両親は離婚していて、それは幼いころの司の事故に関係があるのだという。その事故のことは舞もよく覚えていた。道路を横断していた猫を助けようとして、司は交通事故に遭い、三日三晩生死の境をさまよったのだ。


「そうそう、それで、やっぱりあなたと司君が一緒に遊んでた時に、司君が車に轢かれちゃったのよ。確か野良猫を助けようとしたんだと思うんだけど……それで、まあ、司君のお父さん、司君のお母さんにとっても怒ったのね。子供の管理がなってないって。その前から関係がよくないのはお母さんも知ってたから、一応フォローはしたのよ。でも、駄目だったの……それで、司君のお母さん、御実家に帰ることに決めたのよ。それで、京都に戻っちゃったの」


 いつしか聞いた母親の話を、舞は思い出す。舞はそれが真実なのだと認めつつも、一方ではとても信じられないでいた。あの幸せそうだった結城家が離れ離れになってしまうだなんて。あの優しい結城君のお父さんがお母さんをひどく責めるだなんて。きっとなにかの間違いだ。だって、かつての司の事故のときには、()()()()()()()()()()のだから。司の両親はお互いに支え合って、司の回復をただ祈り続けていた。手術室前で抱き合う二人の姿を舞は覚えている。そうだ、なぜ同じ事故が違った結末を引き寄せるというの?そんなことはあり得ない。


 そう思っていたのだ、あの夜までは――







「あっ、お母さん?うん……うん……そうなの。だからね、帰りは遅くなるって……えっ、お父さんが?お迎えに?えー……はーい」


 携帯電話を切ったあとで、舞は思わずため息をついた。結城家の留守を預かることとなったわけが不服というのではない。もちろん自らすすんで引き受けた役割ではなかったし、空腹とさびしさとの戦いになることも理解してはいたけれど、結局自分がここにいなければならないことはよくわかっていたから。そして、もしそれが結城家のためになるならば、舞にとっては嬉しいのだ。たとえ自己満足だという誹りを免れなかったとしても。


 それに、さびしさの方は堪えられる。トビーがいるから。舞は電話の最中から舞の膝の上に乗って舞のカーディガンの裾をチューインガムのように噛んでいる子犬に微笑みかけながらも、よだれで重たくなった裾をそっと子犬の口元から取り上げた。子犬はきょとんとしたような顔で舞を見上げた。


「トビー、お腹すいたんだよね。カーディガンじゃなくてごはんを食べようね」


 パピー用ドッグフードの袋とそのそばに置かれた餌皿が、先ほどから舞の視界に映り込んでいた。早くも「ごはん」の一語を覚えたらしいトビーは、舞の膝から飛び降りると、なにか一生懸命甲高い声でしゃべりながら、立ち上がった舞のくるぶしに飛びかかる。袋の裏側の表示をにらみつつ、舞はよくよく分量を見定めてスプーンにドライフードをよそい、お座りとお手を命じてから(さすがにこれはまだできなかった)皿を床に置いた。子犬は皿に顔を突っ込んで、勢いよくがっつきはじめる。知らない人が見たら、丸三日間ほども餌を与えていられなかったのかと思うだろう。



 舞はしゃがみこんで、子犬が餌をたいらげるのをじっと見つめていた。黙っていると雨音にたちまち取り囲まれてしまうにも関わらず、雨の音はなぜだかどこか遠い。まるでどこか別の世界に降り注ぐ雨の音を聴いているみたいだ。別の世界――たとえば、水底の国だとか。


 硝子戸を開いたらそこに桜陵殿の庭が広がっていたりはしないだろうか。舞は思わず目をつぶる。何も見えなければ、感覚と記憶とは舞をたちまち世間知らずの姫君のなかに引き戻してくれそうだった。今よりほんの少し白く脆くやわらかかった小さな体のなかに。



 ……いや、やはり駄目だった。先ほどまで雨音に紛れていたのに、秒針の音が淡い優しい靄から抜け出してすっと舞の隣に歩み寄ってくる。そして、その秒針の音もまた、別の物音に押しのけられて急に遠のいてしまう。舞ははっと目を開けた。


 物音は家の外の、極めて近いところから聞こえたように思われた。何の音とも舞には判断がつかないが、自然の音とも思われない。カタンという音――人の手が触れて何かが動いたというような音だった。司が帰ってきたのだろうか。それとも……舞はごくりと唾を呑んだ。


 立ち上がってしばらく待ってみても司が帰ってくる気配はなかった。子犬もすでに空になっているはずの餌皿から顔を上げようとしない。何の音でもないのかもしれない。偶然と気まぐれが奏でた音なのかもしれない。でも、もしかしたらという思いが舞にはある――桜花市内で人々が次々と行方不明になっている事件の犯人かもしれない。今夜は雨夜である。


 その時、再び同じ音がして、今度は子犬の方もさっと顔を上げた。小さな耳がぴんと立っている。まちがいなく玄関からだ。舞は小声で「ここで待っててね」と犬に伝えると、抜き足差し足、椅子とテーブルの間を抜ける表紙に、椅子が床を擦る音さえしないように気をつけながら、居間を出て、廊下をそっと歩んでいった。


 速まる鼓動さえ聞こえるのではないかと案じつつ、つま先立ちになってドアスコープから外をのぞいてみるが、街灯だけが照らしている世界は小さなのぞき穴からはうまく捉えられそうにない。しかし、じっと目を凝らしているうちに、舞はある程度規則的な、不思議な音がそう遠からぬところから聞こえてくることに気がついた。舞は思わず眉をひそめる。


「足音?」


 やはり誰かがいるのだと確信して、舞の鼓動はいよいよ速まった。掌にじっとりとかいている汗を舞はスカートの裾でそっと拭った。


 足音はどうやらこの家の前を行ったり来たりしているようである――すなわち、通りすがりの人間ではないということだ。一体何者だろうか。それは果たして人なのか。この家に何の用があるというのだろうか。


 いざとなったらいつでも変身できるようにと鈴を取り出しつつ、舞はゆっくりと扉の鍵を回した。慎重に、静かに回したつもりだった。だが、やはりカチャンという音が鳴るのは避けられなかった。


 足音が止まった。


 舞はこの機を逃すまじとばかりに勢いよく扉を開いた。灰色の闇のなか、結城家の塀の向こうに、ビニール傘の白い突端がのぞいているのが見えた。その光景は今までのひどく切迫した予感からすると、妙に間が抜けているように思われて、舞には拍子抜けだった。ビニール傘?黒や紺の傘ならいかにもという感じがするけれども。


「あの……!」


 と、勇気を出して呼びかけるそばから、その脇をなにかが弾丸のようにものすごい勢いで駆けていくのを、舞は感じた。はっとして見遣ると、子犬がきゃんきゃんわめきながら門から玄関へと至る階段を雨に濡れるのもかまわず駆け降りていく。舞は慌ててその後を追った。門の前で捕まえようと思ったのに、子犬は門の下をするりと抜けていく。「嘘でしょ!」と舞は思わず叫んだ。


「トビー!」


 トビーを追って門を飛び出した舞は、結城家の塀の前にビニール傘を持ってしゃがみこむ男性の姿を認めた。手に子犬をじゃれつかせつつも男性がおもむろに顔を上げると、舞のなかで水面が波立ちはじめた。街灯の光のなかで目を凝らすこと数秒間、舞は思わず「あっ!」と叫んだ。舞を認めてから明らかに当惑していた男性は、舞の声の大きさにびくりと肩を跳ねさせた。


「結城君の、お父さん……?!」

「君は……?」


 いよいよ当惑する男性に、舞は急いで言った。まるで男性が逃げ出そうとするのを必止めようとするかのように。


「おぼえてますか?私、舞です!あの、つ、司君の、幼馴染の……!」


 眼鏡の奥から遠くを見るような目つきで舞を見遣った男性は、長い沈黙ののちに、「ああ」と低くつぶやいた。そこに込められた感慨は、舞には聞き取れなかったが。


 男性は――否、司の父親は犬を片手に抱きかかえておもむろに立ち上がり、舞の方に傘を差しだした。そして、ふっと微笑んだ。


「たしか司の友達に、同じ病院で生まれた女の子がいた気がする。君がその子なんだね。京野舞ちゃん」

「あっ……」


 覚えててくれたんだ。舞の胸がじわりと温かくなる。


「でも、なんで君がここに?」




 ただ留守を預かっているだけの身には、いくら司の父親とはいっても、家のなかに人を上げる権利はなかったので、舞は玄関前の軒下に司の父親を招いた。肌寒いことには変わりないが、傘を差し続けている手間を省くことはできたから。


 近くで見る司の父親は、舞の記憶より背が高く、おまけに記憶より幾分痩せているように思われた。しかし、やつれた様子はない。むしろ健康そうで、充足しているように見える。シャツは皺だらけ、髪にも寝ぐせがあって、と、身だしなみに無頓着らしいことには舞もやや驚いたが(かつての司の父親はしっかりしていたから)、それも荒んだ印象は決して与えなかった。司の母親の、病に弱った様子を思い出すと、舞はなんだか複雑な気持ちになった。


 舞の胸中も知らぬまま、司の父親は落ち着かなさげにそわそわと周囲を見回していたが、やがて自分からこう切り出した。


「ここには司が住んでると思ったんだけど、どうして君がここに?司と、その……司の母親はいないみたいだね。今、どこにいるんだい?」

「司君のお母さんは病院なんです。夕方に急に倒れて、それで救急車で運ばれて。司君も一緒に救急車に乗って病院についていきました。私はただの留守番です」

「そうか。司の母親は重病なのかい?」


 司の父親は眉をひそめつつ、深刻になりすぎないように気をつけてるらしいなにげないトーンで尋ねた。それでも胸のなかでうたたねしている子犬の上で、舞の表情は曇った。


「わかりません。最近はよくなっていたんです。今日だって元気そうだったんですけど……」


 はたしてどれだけ司の父親に語ってよいものかわからなくなって舞は歯切れが悪くなる。そもそも結城家が今どのような状態にあるのかさえ舞はよく知らないのだ。結城母子(おやこ)のことをべらべらと話してよいものだろうか。舞はこれ以上質問されて困ったことになる前に、こちらから質問をすることに決めた。


「あの、司君のお父さんはどうしてここに?」

「いや、なんというか、その……司たちに会うつもりはなかったんだ。ただ、なんとなく、そうだね。お別れを言っておきたかったのかな」

「お別れ……?」


 司の父親は、悲しげに微笑んだ。


「舞ちゃんは、僕たちの家のことをどれぐらい知ってるのかな?」

「えっと……その、あんまりよく知らないです。司君とお母さんが京都に帰ってから一緒に住んでないことぐらい……」


 ああ、また質問されるじゃない、私。しかし、司の父親には舞の警戒心をするすると解いてしまうようなものがあった。この人はどこかで疲れ、どこかで傷ついていると舞は本能的に察した。


「そうだね……じゃあもう一つ聞いていいかな、舞ちゃん?舞ちゃんは司のことをどう思ってるんだい?」

「ど、どう、って……」


 舞は頬がほのかに赤らむのを感じた。けれども、舞を見つめる司の父の表情には、舞をからかうような様子や、舞の反応を面白がっている様子は微塵もない。眼鏡の奥に凝らされた瞳には何か哀切な光さえもがあった。


 舞ははっとした。同じ瞳だったのだ――今まではただ記憶だけが目の前の男性と結城司という少年を結びつけていた。すなわち、舞が司の父を司の父と認めたのは、記憶のなかの司の父親の姿と、門の上に現れた姿が重ね合わせられたからであった。しかし今、舞はこちらをじっと見つめている瞳の、あの宵闇の色によって、司と目の前の男性のつながりを改めて知ったのだ。この人は本当に司の父親なのだと。不思議な感じがした。以前の結城父子おやこには取り立てて何かを感じることもなかった。瞳の色だなんて、見比べもしなかった。それは、二人が父子だということをわざわざ感ずるまでもなく、二人が父と子であったからなのだろうか。それとも……舞はその時、以前の結城父子が並び合っている光景を、中学入学以降、ほとんど目にしなくなっていたことを思い出した。司の父親は多忙だった。


「私は……」


 皮肉という言葉を上手く理解していない舞にさえ、現状の捩じれが与える痛みはまざまざと伝わってきた。舞はその痛みゆえに、うつむかざるを得なかった。なぜなら、こうして離れて暮らしている今の方が、共に暮らしていた以前よりも、司の父親を父親たらしめていたのがわかったからだ。少なくともこの一瞬は。瞳に光る哀切さは、目の前にたたずむ少女に、息子への情愛を強く深く乞うていた。それが檜板ひのきいたのように純朴な友情であれ、薄紅うすくれないの内なる皮がめくれている恋情であれ。


 では、この胸にあるのは――?


 舞は静かに顔を上げた。


「私は……」



「……………………」



 続く言葉を、通りを過ぎゆくオートバイの音が掻き消そうとする。けれども、薄い唇で懸命に紡いだ言葉は司の父親に届いたようだった。「そっか」と微笑みながら言ったことで舞にはそれと知れたのだった。


 司の父親はふう、とひとつ溜息をついた。


「舞ちゃん……僕は今度ね、新しい女性ひとと結婚するんだ」


 舞は声なく声を発した。


「この町も出ていくことになったんだ。だから、司にお別れを言おうと思ったんだよ。おかしいとは思ったんだけどね、今までずっと会ってなかったのにお別れだなんてさ。司からすればいまさら父親面するなって話だよね」


 うまく答えられない舞は、スラックスのポケットから取り出されたばかりの封筒が、皺くちゃになってぼんやりと白く光って見えるのに、ただ目を吸い寄せられていた。


「僕は、最低の父親だった。いや、父親と言えるのかさえ怪しいものだ。司のことも、司の母親のことも、突き放して、ずっと放りっぱなしだったんだから。そして今もこうして自分ひとりで幸せになろうとして、最後にいい格好だけしようとして、本当に身勝手きわまりない……」


 くしゃり、と手紙が雨に紛れそうな音を立てた。


「でも、僕はそれでも伝えたかったんだ。あの子と会った時、伝えなきゃって思ったんだ。僕があの子を……………………」







「今日は来てくれてありがとう。お疲れのところすまないな」


 パーティがお開きとなった後、舞たちは来客用の調度が整えられた一室に集められた。美しいが窮屈なドレスから質素で気楽な部屋着に着替えて、紅茶と、蜂蜜入りのホットミルク、バラの砂糖漬けが並べられた丸テーブルを囲んでいた。舞たちは心地よい疲労のなかでいささかぼんやりしており、なんだか体が熱いような気がしていた。このまますぐにあのやわらかなベッドにもぐりこめたらどんなによいだろう。


 しかし、いつもなら優しいルカも、うたたねしている奈々を肘で小突いて起こしている。かねてより予定されていた作戦会議を延期するつもりはないようだった。


「……さて、今日の議題は他でもない。舞と左大臣が先日目撃したという例の獣のことだ。舞と左大臣の証言から、奈々が描いてくれたのがこれだ」


 と言いながら、ルカはまた奈々を揺り起こさなければならなかった。


「外見からすると巨大な犬のようにも見えるが、きっとこれは狼だろう。ニホンオオカミだ」

「ニホンオオカミ?」


 声を上げたのは翼だった。


「でも、ニホンオオカミって絶滅したはずじゃ……!」

「ああ、よく知っているね、翼。もちろんその通り。ニホンオオカミは明治期に絶滅したとされている。だが、見てのとおりこの大きさだ。本物じゃないさ。そうだな、ニホンオオカミの怨霊とでもいえばいいだろうか」

「貴女たちは琥珀伝説を知っていて?」


 車椅子の膝の上にソーサーを下ろしながら、玲子が尋ねた。舞は「ううん」と首を横に振り、翼と奈々は「うん」と首を縦に振った。


「知ってるよ。悠太の絵本で読んだからね。たしか、昔このあたりにいた狼のことでしょ?」

「そう。昔この辺りは山や森に囲まれていて、狼が生息していたという記録も多くあるわ。伝説によれば、かつて琥珀と呼ばれる巨大な狼がこの一帯を支配していて、人や獣を食い殺しては人々を恐怖に陥れていたとのこと」

「琥珀は雨の夜に現れたそうだ。雨の夜にうっかり家の外を歩き回っていたがゆえに、琥珀に襲われた人間は数知れない。時には家のなかで眠っていた家族全員が喰い殺されることもあったそうだ。だが、人間側だってやられっぱなしというわけにはいかない。ある時、一人の猟師が琥珀のねぐらを発見し、当時ことのあたりを治めていた杣谷勝忠そまやかつただの元へと報告した……舞?」

「ほら!いつかにみんなで行ったでしょ、螺鈿のお墓!月宗寺げっしゅうじの!あのお寺を作った人がおせいかたで、お清の方の夫が杣谷勝忠!」

「あっ……あぁ!」


 翼の説明に、きょとんとしていた舞もようやく合点がいった。同時に奈々も「へぇー」とつぶやいていたので、どうやら奈々も覚えていなかったかあるいは――こちらの可能性の方がはるかに高いのだが――知らなかったようだ。


 杣谷勝忠はかつてこの桜花市のある一帯をおさめていた戦国武将であったが、桜花市民が愛着と尊敬を抱いているのはその北の方であったお清の方、斎礼院さいれいいんの方である。斎礼院はまだ若きころ、旅の途中で病にかかった夫を救うため、青馬に乗って夫の元へ駆けつけたという伝説があり、こうした話から、斎礼院の建てた月宗寺には旅の無事を祈る人の参拝が絶えなかったという。


 ルカが続けた。


「杣谷勝忠は臣下の者に命じ、琥珀の塒を襲撃した。そうでなければ領民が琥珀に喰い殺されるのだからね。琥珀の塒に勝忠の臣下が押し寄せた時、琥珀は不在だった。臣下は琥珀の群れの狼たちを蹴散らすと、琥珀の子どもたちをさらっていった」

「子どもを人質に琥珀をおびき寄せようとしたのね」


 玲子はスケッチブックの上の金色の獣をじっと見据えてつぶやくように言った。


「計画は上手くいったわ。怒り狂った琥珀はある夜、捕らえられた子供たちを救うべく姿を現した」

「その日は雨の降らない夜だった。篝火が煌々《こうこう》と焚かれるなか、琥珀は武器を持って襲いかかる臣下どもを物ともせず、勝忠の前に躍り出た。だが、とうとう篝火の間際まで追い詰められ、勝忠の槍に刺し貫かれて打ち倒された」


 それから間もなくして勝忠は病に伏した。人々は琥珀の祟りだと噂しあい、それを耳にした斎礼院は心を痛め、琥珀を手厚く供養したのだという。


「浅ましき身にもあはれを知り初めて 子ゆへの闇に身を焦がしけむ……斎礼院が琥珀を憐れんで詠んだ歌とされる」

「雨降らば篝火消えむ 清き手の琥珀の玉を千々に砕けり……」



 いつの間にか、皆の眠気はどこかへと消え去っていた。パーティのあとの心地よい熱も皮膚を流れ去っていた。


「恐らくこいつは琥珀の亡霊ではないかと思う」


 ルカは紅茶を一口含んでから、長い指でスケッチブックの絵をとんとんと叩いて示した。美しい金色の獣が、舞と左大臣が見た通りの姿で描かれている。しかし、舞たちが見たあの禍々しさと憎悪は、奈々の画力を以ってしても表現しきれていなかった。舞はあの冷たい憎悪を思い出した。全身の血が凍りついてしまいそうな憎悪……あれは子供を奪われた父親の憎しみであったのだろうか。だから、トビーを連れていったのだろうか。そうだと信じたい――だって、それならば琥珀はトビーに危害を加えないはずだから。


「亡霊という言い方が正しいとは思われないが、すでに世を去ったものが再びよみがえったという点では一緒だろう。ただし、やつには実体がある。人を喰い殺すための肉体が。だからこそ厄介だし、だからこそ、仕留めることも可能だ」

「琥珀がよみがえったのも漆のしわざなの?」


 奈々がホットミルクをティースプーンでかきまわしながら尋ねると、ルカは小さく肩をすくめた。


「それはまだわからない。相変わらずやつの気配はこの町の近くにはない。漆は遠く潜んでいる。一体どこでどうしているのかは不明だが、私たちのことを忘れたわけではないはずだ。これは私の推測だが、螺鈿らでんの時と同じで、漆はまたこの町に眠る呪いを利用して、我々を襲撃しようとしているのではないかな。芙蓉が消え去った今、やつには手下と呼べる存在もないだろうし」

「何はともあれ、よっ!とにかくこの琥珀を倒さなきゃ!」


 翼が勢い込んで言った。


「このままじゃ犠牲者はもっと増えるもの!」

「でもさ、舞ちゃんが琥珀に会った日から、行方不明事件のことぜんぜん聞かないよ」


 と、奈々。


「雨の夜だって何度かあったけど。どうしちゃったの?」

「現れてくれないことには私たちも対処のしようがないわね」


 玲子は格別気を落とした様子もなく言った。玲子が眺めやる窓の向こうには、晴れ渡った秋の星空があった。まるでルカの誕生日を祝うかのような爽やかな夜空である。何気なく窓辺に寄ったルカが窓を開けると、白崎邸の庭園の梢を渡る風がそよめいて、パーティの後で、ルカの父親とごく限られたその友人たちがささやかに庭に集っている、その楽しげなささやき声がのぼってきた。疲れて火照ほてった舞の耳朶じだを風がくすぐった。舞は思わず目を閉じた。忘れていた眠気が、瞼の裏に黒く滲んで広がっていくのを覚えた。


「現れないのなら探すしかないだろうな」


 ルカがこちらに背中を向けたままひとりそう言ったのも、舞には夢かうつつかもうわからない。




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