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京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第五章 現世編
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第四十五話 雨夜の獣(下)

「お会計、一五七五円になります」 


(なにをやってるんだ、僕は……)


 右手にはすでにスーパーの袋を抱えていた。今レジに並んでいるのは、母親に頼まれた買い物のためではない。司がいるのはペット用品店で、そして若い女の店員が司から受け取ったのは犬の首輪であった。深い緑色の合皮製のもので、子犬用にしてはいささかデザインが重厚過ぎなくもなかったが、一目その首輪を見たが最後、司の頭にはその首輪をつけた子犬の姿が浮かんでなかなか容易に引っ込んでくれなかったのだ。


 店員に包みを渡されて店を出る時、司は思わずため息をついた。まさに思惑通りというわけだ。首輪なんてまだいらないと思っていたのに。少なくとも正式に結城家の犬になるまでは必要ないと。しかし……もういいのではないだろうか、と司は弱気ながらに胸のなかでつぶやいてみる。こんな気になったのはあの男性と話してからであった――犬を引き取ることになりそうだといった、あの瞬間の誇らしさが、司の心を押したのだった。


 「今から帰る」と母親にメールを送っておいてから、司はバスに乗り込んだ。すでに空は暮れかけていた。


 ついに家にたどり着くまでに母親から返事がなかった。もしかするとまだ京野舞と盛り上がっているのかもしれない。しかし、もう夕食時だ。こんな時分には引き上げるのが常識というものではないか、全く。例の事件のことだってあるというのに……腹立たしく思いつつながら家の扉を開けると、見慣れぬショートレインブーツが目に入った。まだいるのかと呆れるのも束の間、廊下を駆けてくる足音がして、蒼白な顔をした少女がこちらへと駆け寄ってきた。


「結城君、お母さんが……!!」



 

 …………台所で急に卒倒したという司の母親は救急車で運ばれたが、間もなくさほど重篤ではないことが判明した。倒れたのはつい最近まで「いつもの発作」と呼んでいた症状のためであり、医師によれば仕事による慢性的な疲労が原因で再発したのだということであった。ひとまずその日一晩は病院で安静に過ごすこととして、翌日にでも調子がよければ退院してよいとのことで、司はひとまず胸をなでおろした。ただし、母親には少々きつく当たっておいた。また仕事に精を出されても困るので。


 土曜の夜間ということもあり、帰り際に通りかかった病院の待合室は薄暗かった。薄ピンク色のソファが青い闇のなかに白くぼんやりと浮かび上がるさまは、さながらその上に座って延々と待たされる病人たちの憂鬱をソファが写しとってしまったかのようだった。彼らは辛抱強く並んでいるのだ。受付カウンターの奥にわだかまっている濃い闇を前に、一様にうつむいて。ソファの背もたれには、窓の外の雨が儚い一瞬の影を投げかけていた。


 救急車のサイレンが近づいてきて、雨が赤く濡れるのを司は横目に見た。仰々しく騒ぐ人の声が遠くから聞えてくる。急病人だろうか。と、司は不意にこの病院こそ、九年前、事故に遭った時に自分が運ばれてきたところだという気がしてならなくなった。無論、理屈から言ったら当然そうなのだ。桜花市内の病院で大きなところといえばこの桜花市立病院ぐらいしかないのだから。しかし、司がそう思ったのは、ほとんど感覚によるものであった。九年前、紛れもなく自分がここに来たのだという、記憶よりもずっと原始的でかすかな感覚……


 九年前のあの日、司は車に跳ねられそうになった猫を助けて事故に遭った。京野舞が一緒だった。司は一時的に意識不明の重体に陥り、この事故が原因で、以前からすでに危うい兆しをみせていた父と母の関係は決裂した。母は司を連れて実家のある京都に帰った。その日から、今年の四月まで司は一度として桜花市に足を踏み入れなかった。父親に会ったこともなかった。




 再び玄関の扉を開けた司の胸に、子犬がこちらが狼狽するほど激しく鳴き立てながら飛びかかってきた。司は慌てて子犬を受け止めた。冷たい雨に囲われていた肌には興奮しきった子犬の温度は熱く感ぜられる。犬は胸のなかでも落ち着かない。司のにおいをかいだり、口元や手を舐めたり、前足で胸やら腕やらを引っ掻いたりして大忙しだ。よほどさびしかったのだろう。突然一人きりにされて…………


 と、その時であった。子犬の耳越しに司の目に飛び込んできたのは、例のレインブーツであった。あまりの意外な事態に怒りにも愕きにも行きつけずに混乱していた司は、居間の扉から舞が恐る恐るこちらをうかがっているのと目があっても、まともな言葉をかけることができなかった。


「なんで……」

「ごめんなさい、結城君。でも、鍵をあけっぱなしで出るわけにいかないと思っって……」


 ようやく口が聞けるようになった司に、舞は半べそをかきながらそう言い訳した。あっ、と自分の口から思いがけず情けない声が漏れるのに、司は気づいた。母親が倒れて救急車で搬送されるとき、舞が「私も行く!」と言ったのに思わず「お前は帰れ」と冷たく返した。司は買い物の袋も玄関先に放り出したままに救急車に乗り込んでしまったから、舞のことにも家のことにも子犬のことにも思い至らずじまいであったが、確かに司は鍵をかけていなかったのである。現につい今しがた、鍵を開けずに玄関を抜けてきたばかりではないか。


 子犬が首をかしげて見つめる前で、司は思わず頭を抱えた。すでに時刻は九時をまわっている。こんな時間になるまで他人に留守を任せた不手際への自責の念やら、しかもその他人がよりによって京野舞であることへの不快やら、京野舞への申し訳なさやら、それを認めたくない気持ちやらがせめぎあって、目の前にいる少女に何と声をかけてよいのやらわからない。そんな司の様子を見て、舞は慌てたように言った。


「だ、大丈夫、安心して、もう帰るから!」


 舞はすでに荷物をまとめており、言い終わるなりレインブーツを突っかけてすぐにでも出ていこうとする様子だった。だが、さすがに司の良心がそれを許さなかった。頭を抱えたままの姿勢で、司は静かに舞を制した。


「待て」


 靴を履きかけた姿勢で舞の動きが止まる。


「ひとりで帰るのか?」

「えっと、一応お父さんが迎えに来てくれるって言ってるんだけど……」


 なんとなく口ごもるのは父親の到着をこの家で待っているのも悪いから、という意味らしい。


「なら父親が来るまで待ってればいい」

「でも、まだ時間がかかるし……」

「僕は別に気にしない」


 本当ならば思いがけず留守を頼むことになった件ついて一言詫びでも入れなければいけないのだが、どうしてもこうした言い方になってしまうのは、やはり相手が京野舞であるせいだ。舞は当惑するそぶりをみせていたが、これ以上の言葉が浮かばずに一人でそそくさと居間に引っ込んでしまう司の後ろ姿を見送って、その場にとどまる気配であった。どうやら父を待つことにしたらしい。


 まずは子犬の食事だ。と、司は犬を床に下ろして屈んだそのままの目線の先に、きれいにたいらげられたあとの餌皿となみなみとつがれた水の皿を発見した。嫌な気がしてふと振り返る。玄関先に置き去りにした買い物袋がテーブルの上に置かれていたが、買ったはずの牛肉と卵だけが見当たらない。冷蔵庫の中を見てみると、やはりしまってあった。司は冷蔵庫の冷気を浴びつつ溜息をついた。――余計な気ばかり回して。


 その時、司は自分がひどく空腹なことに気がついた。よく考えれば夕食がまだだった、今からカレーを作る気力はないし、何より待ちきれそうにない。廊下の向こうから子犬とたわむれている少女の声がする。そういえば、京野舞も急な留守を預かったせいで夕食がまだなのではなかろうか……




「えっ……こ、これ、結城君が?わ、私に?!」

「食べたくないならいい。別に無理には勧めない」

「えぇっ?!食べるよ!絶対食べる!お腹すいたもん!!」


 テーブルの向こうから呆れたような目を向ける司をよそに、舞は大はしゃぎでどんぶりを覗きこむ。立ちのぼる湯気にかつおだしの香りが満ち満ちて鼻孔をくすぐった。わかめにかまぼこ、それに玉子まで。舞はあまりの嬉しさに思わず手をぱんと打って笑顔を浮かべた。司の推測通り、舞はお茶受けのクッキーをいただいて以来何も食べていなかったので実のところ今にも空腹で死にそうだったのだ。


「……冷凍だからな」

「うどん大好き!いただきまーす」


 舞は手を合わせると用意された割りばしをいそいそと割ってうどんをすすり始めた。司はなおも湯気の向こうから舞の様子をじっと伺っていたが、やがて小さく息をついて箸を取った。かくしてかつてはもう二度と会話することさえないと思われたこの少年と、舞は不思議にも午後九時過ぎの食卓を囲むことになったのである。


 しばらくの間は純真なる食欲が二人を沈黙させていた。やがて腹のあたりからぽかぽかと温まり、かまぼこをかじるタイミングに悩まなくてはならないようになると、舞は急に喉のあたりに何かが突っかかっているような気づまりさを感じるようになった。とは言っても、うどんをすする速度は緩めなかったのだが。


 舞は部屋の隅のクッションの上で丸くなってしまった子犬の方に目をやった。舞と二人きりの間はそわそわと落ち着かなかったが、主人の帰りに安心していつの間にか寝入ってしまったらしい。


「トビーちゃん、かわいいね」

「その名前で呼ぶな」


 司は舞の方も見ようともせずにそっけなく言い放った。


「僕がつけた名前じゃない」

「えっ、じゃあ結城君はなんて呼んでるの?」

「犬だ」


 舞は思わず目をぱちぱちさせた。司はやはり舞の方は見ずに、


「それ以外呼びようがないだろう」


 とだけ言った。


「……例の事件はお前たちの管轄なのか?」


 再び沈黙に立ち返ろうとした時、急に司が口火を切ったので、かまぼこを箸ではさもうとしていた舞は「えっ」と空っぽな声を出して顔を上げた。司は食べ終えかけた食器のなかに目を伏せていた。


「最近ニュースでやってるだろう、行方不明の。その……あれも、うるしとやらの仕業なのか?」


 舞は一瞬呆気にとられ、それからすぐに首を振った。


「あっ、ううん。まだ、わからないの」

「今朝のニュースで六人目だと言っていた……同じだ。決まって雨の晩にいなくなる」

「うん、知ってるよ……」


 それは九月の終わりごろであっただろうか。ある雨の夜に、市内に住むひとりの女性が行方不明になった。女性が最後に目撃されたのは、夜の九時ごろ、都心にある職場を出て帰宅するところで、桜花駅に到着したところまでは足取りがつかめているという。しかし、駅から自宅までの間に、女性は忽然として消えてしまった。この時、世間はまだ騒がなかった。


 しかし、それからの一週間で三人もの人間が姿をくらますと、人々は不安に駆られはじめた。被害者は年齢、性別、職業は皆ばらばらで、ただ夜に市内をひとりで歩いていたと思しきところふっとかき消えてしまうのである。それがいずれも雨の降る夜だというので、人々はそれを人為的な事件というよりは怪談のように思いたがった。親たちは子供に夜間の外出を禁じ、集団での登下校を徹底させた。何も親子だけの話ではない。誰もが気味を悪がって、一人歩きを避けるようになった。ことに雨の夜は。


 噂に対して世の人よりもはるかに無責任でいられる桜花中の生徒たちは、親の勝手な推測に子供独自の解釈を加えて、好きなように言いあった。四割近くの生徒が幽霊もしくは同種の諸々のしわざだと言った。三割はやはり人のしわざだと言ったが、思い描く犯人像はまちまちだった。二割はニュースの受け売りしか話さなかった。一割は黙していた。司と舞とはこれまでのところずっとその一割に属していた。司は恐らく特に語るべきことも語り合う相手も持たなかったために。舞は事件に関して自分が無責任でいられないような気がしたために。


 この数週間、舞は四神たちとともに事件を追ってきた。誰もが皆ただならざる気配を感じていた。これは人の所行ではないと皆が言った。しかし、鈴はりんとも鳴らない。左大臣と柏木とが寝ずの警戒態勢を敷いてくれているし、ルカが風の気で始終市内の様子を探っているのだが、怪しき気配は見当たらないのだった。


「もし漆の仕業だったとして……」


 司の言葉はそこで一度途切れてしまった。二人はうどんをすすり終えていた。


「……京野、お前はなぜ戦うんだ?」

「えっ?」


 唐突に問われて、舞は戸惑う。


「お前はもう京姫ではない。お前にこの世界を守る義務はないだろう。なぜ前世のことをいつまでもそうして引きずっていられるんだ?」

「それは……」


 それは私が京姫だから――舞はその答えをぐっと呑み込んだ。生まれ変わり、京野舞という人間になっても、やはり自分は京姫なのだと舞はそう思っている。そこには諦めもあり、悲しみもあり、切望もあり、喜びもある。ゆえに、決して純一な信念ではないのだが、それでも舞はそう思っているのだ。だが、生まれ変わっても舞が京姫であるということは、司もまた紫蘭であるということになる。


『僕はいまだに許されていないというのか……?!』


 雷鳴の轟きよりももっと確かにこの胸に触れた叫びを、舞は覚えている。司の傷ついた顔はもう見たくない。だからといって嘘をつけば司に見抜かれるだろう。司の前に立つと、舞はいつも自分が薄っぺらになったような気がしてならない。


「私は……」


 インターホンの音に、二人は同時に飛び上がった。子犬が揺さぶられたかのように飛び起きてけたたましく鳴きながら、玄関へすっ飛んでいく。その時、二人は自分たちがいかに静かな穏やかな時間を共有していたかを初めて知った。


「お、お父さん……かな?」




 舞が玄関まで駆けつけたとき、父親はたいそう不機嫌だった。娘の帰りが遅くなったうえに、中学生とはいえ一つ屋根の下に男女が二人きりでいて、しかも仲良く(父の目からすれば)食卓を囲んでいたというので、父親からすればけしからぬことのオンパレードであったわけだ。それでも司が愛想こそなかったものの、礼儀正しく父親に挨拶してくれたのに、舞は少なからず感動した。


「そういえば、君は舞と幼馴染なんだってね」


 と、屈みこんで犬の背を撫ぜながら、いくらか態度をやわらげて、舞の父が言った。司がほんの一瞬困ったような表情をしてみせるのを舞は見た。


「そう聞いてますが……」

「だったら、きっと以前に会ったことがあるんだろうね。ところで、舞から聞いたけど、お母さんは大丈夫かい?」

「はい、明日の朝には退院できるとのことです」

「それならよかった……しかし、今夜はくれぐれも気をつけてくれよ。ほら、このところ色々あるからさ。もし、何かあったら連絡してくれ。これ、電話番号だから」


 周囲に聞こえぬように声をひそめて舞の父が言うと、司は礼を言って頭を下げた。舞は今夜一晩、一人で留守をしなければいけない司の不便と孤独を思った。舞もつい忘れがちであるけれど、司は傍目に見せないだけでさまざまなものを背負っているのだ。けれど、決してそれを人に見せることはない。たとえ今宵何があったとしても司は絶対に電話をかけてこないだろう。誰かに頼るぐらいならば、どれだけ辛かろうとも自分ひとりで何もかも片付けてしまう。舞はそれを憐れむわけでないけれど……


 戸外の肌寒さに触れたせいか、急にうどんの温かさが思い出された。レインシューズを履いた舞は父親の隣に並んで、街灯の白い光を背に負った。


「結城君、おうどんごちそうさま。長いことお邪魔しました」

「ああ……」

「トビーちゃん、またね」


 子犬はフローリングの床の上で爪の音をかちゃかちゃと立てて暴れまわりながら、返事をするようにぶんぶんと尻尾を振っている。「その名前で呼ぶな」と司が低くつぶやくのを聞きつつも、玄関前の軒先で傘を広げて舞は迷う――()()()()を言った方がいいだろうか。振り返った舞の目が、父子おやこを見送っている司の瞳とぶつかった。宵闇のような紫色の瞳だ。


「どうかしたか?」


 司の言葉がこんなにも無邪気に聞こえたのはこれが初めてだった。舞の胸のうちで秘密が焦れた。落ち葉の下で燻る焚火の残り火のように。


 でも…………


「ううん、なんでもない!お母さんによろしくね」


 舞は傘の下でくるっと向きを変えて一足先に門を出た父親の後を追いかける。司が怪訝な顔しているのは知っていたが、やはり何も言わなくてよかったと思った。胸の中の秘密も、雨の音に濡れて次第にうとうとと眠りはじめていく。


「それで、あの結城という男の子とは本当に何もないんだな?」

「な、なにもないって!」

「いい子だとは思うがお父さんは認めないぞ」

「だからそーいうのじゃないの!」








 家事を片づけていたら寝るのがだいぶ遅くなってしまったが、どうせ明日は休みだから構わない。家中の雨戸を閉じ終わって二階の自室へと引き上げようとすると、子犬がさびしげにズボンの裾に縋ってきた。いつもなら部屋に入れないことにしている。だが、今夜は……司は屈みこんで犬を抱き上げると、重々しい足取りで階段を上っていった。


 ベッドの上に子犬を放つと、純白のシーツに降り立った子犬はくんくんと辺りを嗅ぎまわって探索をはじめた。寝転がってからも司はしばらく寝入らぬまま、まず携帯電話が受信していた東野恭弥からのメールを一読したあとで放り出し、枕元のランプを頼りに本を読み始めた。が、内容は頭に入らぬまま、目は活字を離れて犬の方ばかりを追っていた。子犬はようやく寝る場所を定めたらしく、司の腹のあたありのシーツを引っかいて理想の寝床を作っていた。


 ……いつの間にか本は閉じていた。司は子犬の小さな背にうずめて、その小さな身を両手で抱きすくめた。こんな風に司が感情を示したことはなかったので子犬は落ち着かなさげなようすであったが、やはりどうしたって別れのさびしさには耐えがたいものであるから。


(やはりうちでは飼うことはできない)


 司は子犬の毛のあたたかな闇のなかで物思う。子犬の背は日向に干しておいた布団のような、焼き立てのビスケットのようなどこか甘いにおいがした。


(母さんは完治したわけじゃないんだ。そんなことは最初からわかっていたじゃないか。うちでは面倒はみられない。そうだ、僕一人ではとても……明日の朝いちばんに交番に連れていこう。母さんが帰ってくる前に。それで永遠にお別れだ)


 司はぱっと子犬の背から離れるとそのまま枕に顔を埋め、子犬が湿った鼻先でつついても決して顔を上げようとはしなかった。




 雨の音が聞こえる――




 いつの間にか子犬は眠り、司もまた悲しみの夢の浅瀬に足を浸しかけたところであった。その時、戸外でなにか物音がした気がして、司はまどろみから目を覚ました。カタン、というかすかな音――そうだ、郵便受けの音だ。郵便受けに何かが差し入れられたときの音。


 デジタル時計は午後十一時過ぎを指している。いくらなんでも新聞ではあるまい。こんな時間に郵便が届くはずもなし、今夜はそれほど風が強いわけでもないから風のせいでもない。考えられるのは野良猫ぐらいだ。それ以外であれば……


 母親の病気は今に始まったことではないとはいえ、一人で夜を明かすのは司にとって初めてのことであるから、気づかぬうちに緊張していたのも無理からぬことであった。しかし、司は年頃の少年らしくそんな自分を叱りつけながら、ランプの灯りを消し、携帯電話を持って、そっと階下へと降りていった。


 まずは居間にあるインターホンのカメラで外部の様子を確かめる。スピーカーから流れだすくぐもった雨の音の大きさに司はびくりとした。ぼんやりとした灰色の画面に目を凝らすと真向かいの家の輪郭が見えてきたが、画面のなかで動くのは雨の影ばかりだ。人の気配はない。


 司はインターホンのカメラの電源を切ると、床板の軋む音にさえ神経をとがらせながら暗い廊下を慎重に伝って玄関へと向かい、ドアスコープを覗きこんでみた。やはり人影はない。気のせいであったのだろうか。いいや、音は確かにしたのだ。結城家の郵便受けになにものかが確かに触れたはずだ。


 司は携帯電話を見た。何かあったら連絡してくれ、と舞の父親は言っていた。と、自嘲の笑いが司の唇を歪ませた。これしきのことで《《よそ様》》を騒がせてどうする?もし何もなかったらとんだ笑いものだ。自分のことは自分でできる。これまでだってそうしてきたのだから。


 暗い玄関の床から足先だけでスニーカーを探り出して突っかける。身をよせている扉の冷たさが皮膚に沁みわたる。数分間か数十秒か、いずれにしても司にとっては永遠とも思われる時間じっと息をひそめて待ったあとで、司は汗ばんだ手を寝間着のズボンで何度も拭い、そろそろとドアノブを押した。


 頬がはじめに暗闇に触れた。冷たい風が前髪に触れ、雨音が急に間近になる。扉から顔を突き出してうかがってみても、猫の子一匹いやしない。


 音もなく外の世界へと滑り出る。いくらなんでも警戒しすぎかと自省しつつもどうしても投げやりにはなれずに、いざというときのために家の扉をあけっぱなしにしたまま、スニーカーの爪先で足元を探るようにしながら階段を下りた。雨が降りかかるのも今は気にならない。無事に郵便受けまでたどり着くと、司は携帯電話の懐中電灯機能で手元を照らしながら、郵便受けの中をのぞいてみた。先ほどと同じカタンという音、そして――――何もない。


 そこでようやく司は息をつくことができた。そこでふと思ったのは、もしかしたら何者かが郵便受けのなかに何かを入れたのではなく、何かを抜き取ったのではなかったのかということだ。とすれば盗難ということになるが……それはまた明日考えればよいだろう。スカーレット・オハラの受け売りではないが。


 階段をのぼろうと身を翻した途端、司にとっては左側、通りの向こうから声があがった。男性の声だ。何やら叫んでいるように聞こえてくる。すでに恐怖から解放されていた司は、ほとんど反射的に階段を駆け下りて門を飛び出した。が、通りを数歩駆けたところで司の足はすくんだ。司は通りの向こうに予想だにしていなかったものを見出したのである。


「なっ……!」



 その低い唸りは冷たい霧となって地を低く伝い、司の皮膚をぞくりと粟立たせる。猫の子どころではない。街灯に照らされて、されどその白さに染まり切らず、金色こんじきにきらめく毛並みを闇夜に浮かび上がらせている巨大な獣がそこにたたずんでいた。並んだ耳は夜空の漆黒を慕う星のごとく雨空に向かって佇立し、そのまなこは緋色に燃え立っていた。司はかくも神々しく、かくも恐ろしい獣をいまだかつて見たことがない。だからこそわかる。これは神なる獣であると。


 かつて狼によく似た怪物に追われ、舞とともに苧環おだまき神社へと逃げたことがある。しかし、あの怪物とこの獣とが本質的に異なっていることは直感でわかった。あの怪物から死臭のように漂い出していた邪悪な気が、この金色の獣にはない。しかし、この獣にも憎悪はあった。人々を畏怖させ、その場に立ちすくませるほどの憎悪が。臓腑を底から揺るがし、血液をも凍りつかせるほどの憎悪が。


 ふと、それまで獣の姿に魅入っていた司は、獣の前に誰か人間がうずくまっていることに気がついた。どうやら男性のようである。生きているのか死んでいるのかはわからないが、先ほど声をあげたのはまちがいなくあの男性だろう。獣の緋色の瞳が司を捉えて、地を揺るがすほどの唸りが放たれるとき、司は男性がうずくまった姿勢でこちらを振り向くのを見た。眼鏡が街灯に反射して光ったのでそれと知れたのだ。男性が叫ぶ。


「逃げろ!!」


 怯えて一歩後ずさった司をめがけて、獣は駆けてきた。遠くに見えた金色の被毛がほんの五秒と数えぬ間に、目の前に迫っていた。足の裏がまるで地面に貼りついてしまったかのようだった。太腿の筋肉が石のように重くて、司の神経とは切り離された何かのようだった。駄目だ、間に合わない……!獣の生温かい吐息が顔にかかる。


「やめろッ!!!!」


 さながら山のごとき獣の巨体の向こうから男性が叫ぶのが聞こえてきた。獣の口腔と牙の色とを確かに見たのに、それが遠ざかったのは男性のおかげであるらしい。背後を振り返る獣がわずらわしそうに眉間に黒い皺を寄せる様子までもが司にはつぶさに見えた。男性はどうやらうずくまっていたところから死に物狂いで駆けてきて、獣の長く太い尾にしがみついたらしかった。無論一振りで吹き飛ばされてしまったわけだが。男性が遠からぬブロック塀にまで跳ね飛ばされて黙り込んでしまうと、獣の憎悪の松明たいまつは再び司の方を見た。


 ああ、これこそが例の事件の犯人だったわけだ……不思議にも冷静に司は考えていた。喰い殺されることへの恐怖が、あらゆる感情を麻痺させてしまったのだろうと思われた。しかし、嫌な最期だ。生まれ変わってもこのざまか。前世だって相当ひどかったとはいえ。でも、あの時と同じだ。やはり死ぬときはひとりぼっちなのだ。そうだ、もしかしたらこんな風に生まれ変わってもなお無残な最期を遂げるのも紫蘭の罪なのかもしれない。



『……駄目ッ!!!!』



 少女の声が耳の奥に響いた。掌によみがえる朽ちた柄杓の感触――はっとして見開いた瞳に迫る、獣の影。


「舞……」


「結城君!!!!」


 肩を突き飛ばされた司はそのまま後ろ向きに地面に倒れ込んで、見開いた瞳をしばたいた。桜色のやわらかなものが視界をよぎった気がしたのだった。それは決して間違いではなかった。いくらか余計なおまけがついていたとはいえ。


「姫さま、とうとう見つけましたぞッ!!」

「わかってるよ!あんまり大きい声出さないで!みんな起きちゃうから!!」


 そう怒りながら自身も十分大きな声で怒鳴る桜色の衣装をまとった少女と、そのおまけの狩衣かりぎぬ姿の老人が一人。老人の方が白刃を振るうと、獣が苛立ったように飛びのくのが見えた。


「結城君、怪我はない?」


 老人が獣と対峙している間に、少女が顔だけで司を振り返って尋ねる。


「京野……」

「今は京姫だよ」


 そう言って少女はなぜだか少し悲しげに微笑むと、きりっと表情を変えて獣の方へと向き直った。


「結城君、とにかく家のなかに避難して。ここは私たちでどうにかするから」

「待て、僕の他にも人がいる」


 司はふらつきつつ立ち上がって獣と左大臣が睨み合っている右斜め後方あたりを指さした。京姫は人影を認めたのであろう。すぐにこくんとうなずいた。


「大丈夫。絶対助けるから」


 そう答えるか細い後ろ姿が、司の目には眩いほどに凛々しく映えた。


「さあ、家に戻って」



 その時、この場にひどく不似合いなキャンキャンという鳴き声が聞こえてきて、京姫と司とは同時に眉をひそめた。恐らくは左大臣も同様であったろう。しかし、鳴き声に最も敏感に反応したのは金色の獣で、左大臣の刃を見もせずにかわしたのち、尖った耳をぴんと立てて雨雲の方へと顔をもたげると、すぐに鳴き声のする方を察知して、ぱっと燃ゆる瞳をそちらへ転じた。人間たちの目もそれにならった。


 ……子犬だった。司の部屋で寝ていたはずの子犬が、いつのまにか階下へやってきていて、玄関から飛び出してきたのである。子犬は門へ続く階段を転げるようにして駆けおりてくると、門の下をするりとすり抜けて、雨の道路に躍り出た。そして、京姫や司の方には目もくれず、尻尾をちぎれんばかりに振りながら、獣に向かって短い足でとてとてと駆けていく。司ははっとして叫んだ。


「バカ、戻れッ!!」

「結城君、ダメ!」


 子犬を追いかけようと踏み出した司を制したのは京姫の声ではなく、獣の険しい睨みと唸りであった。しかし、司がひるんだのはほんの一瞬のことで、すぐに京姫の手を払いのけ、子犬を追って駆けだした。雨が針のように頬に、眉に襲いくる。その間にも恐れ知らずの子犬はまっすぐに獣へと向かっていく――あのバカ……!あいつはお前の父親じゃない。喰い殺されるぞ。八つ裂きにされてしまう……駄目だ、戻るんだ。せめて立ち止まってくれ、頼むから。伸ばした掌にこもった熱気は雨夜に逃げていく。


「駄目だ、行くな……!」


 と、金色の獣がぱっと地を飛び上がったかと思うと、子犬と司の前に立ちふさがり、子犬の頭の上に屈みこんだ。凍てつくような絶望感が司の足を止めた。トビーが食い殺される……!


 だが、獣は子犬に牙を剥かなかった。子犬のにおいを嗅いだとき、獣の眼からはおどろおどろしい緋色のかがやきが消えた。子犬の嬉しげな声が静まり返った住宅街に響き渡る。獣はちょうど親犬が自分の子を咥えて移動させる時のように、自分の牙ひとつ分の大きさもない子犬の首元を慎重に咥えあげた。そして、ちらりと人間たちを一瞥すると、疾駆して夜の闇に消え去ってしまった。








 長いこと、残された人間たちは唖然として立ち尽くし、雨に打たれ続けた。三人が我に返ったのはブロック塀にぶつかって気を失っていたのらしい男性がうめき声をあげたからだ。変身を解いて、舞が最初に男性の元へと駆けつけた。司も舞とテディベアの後を追ったが、その足取りはうつろであった。


 司も薄々気づいてはいた。この男性が、子犬を拾った日に司に傘を貸し、そして今日の午後水仙女学院で再会を果たした男性であることに。けれども、うつ伏せになっている男性を抱き起したときの舞の言葉は、司には予想だにしないものであった。


「結城君のお父さん?!」


 舞はぱっと口を覆った。が、もう後の祭りであった。


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