第四十五話 雨夜の獣(上)
雨の音が聞こえる――
僕は雨が好きだった。雨は僕を世界からほんのわずかながらに遠ざけてくれるような気がしていた。うるさい音も、わずらわしい色彩も、雨が薄れさせ掻き消してくれる。そんな気がしていた。
今は以前ほどに雨が好きではなくなったように思われる。きっと、あの忌々しい前世の記憶とやらのせいだ。雨の音は、あの木の洞のなかの湿っぽい薄暗がりとその暗がりに浮かび上がる少女の顔をいつでも連れてくる。少女は笑っている。京野舞がクラスメートに振りまいているのと全く同じ笑顔だ。
……忌々しいのはなぜ?それが誰しもに与えられる薄っぺらい善意であるからか。そうだ、あの笑顔とそこに込められた善意は、天つ乙女が百姓にもたらすという恵みとやらと同種なのだ。なにも天つ乙女に限らない。この世界中のあらゆる神が人間に与えるのだという愛と同じ。人々はそれを無償の愛だと讃える。しかし、無償の対価は高くつく。その愛の前にはあらゆる個性も苦悶も嘆きも無視されるのであるから。誰にでも愛が与えられるというのなら、僕が僕である意味などなくなってしまう。僕が僕であれ、真向かいの家の誰かであれ、等しく愛されるというのなら、僕が僕であることの価値はない。自分が自分であることの価値を認めてくれない愛を、僕は肯えない。誰もに等しく与えられる愛に意味も価値もない。それは、街中で配られるティッシュペーパーと同じだ。
薄暗がりに浮かんだ京野舞の笑顔が歪む。京野舞だろうが京姫だろうがこの際どうでもよい。薄っぺらい笑顔が剥がれ落ちて、絶望と涙がその後に浮かぶのであれば。僕に(あるいは紫蘭に)突き放されて絶望する少女。誰もに愛され、誰もを愛する少女。この少女を苦しめようというのはこの世界で僕一人ぐらいだろう。だとするならば、京野、もう二度と僕に笑顔を向けないでくれ。僕はせめてそこに僕が僕である意味を見出すから。
雨の音が聞こえる――
結城司は水たまりに踏み込みかけて足を止めた。雨音が遠ざけた世界のなかで何かが聞こえたような気がしたのだ。脳の片隅をひっかくような、だが決して耳障りではないかすかな音が。
司はあたりを見回した。まだ昼の三時過ぎだというのに午後から急に降り出した雨のせいで住宅街はすでにどんよりとして薄暗く、家人はあらかた出払ってしまって留守なのであろう、カーテンを閉め切られた家々の窓は皆一様に灰色で、軒先は陰鬱な影を湛えている。元より閑静な住宅街であるからこんな日はいよいよ静まり返っている。時おりそう遠からぬ場所から、タイヤが濡れたアスファルトの上を横切る音が聞こえてくるだけだ。
さて、さっきの音はどこからしたのだろう。ただの聞きまちがいだったのだろうか。一通り道路を見渡したあとで、司は前方へと向き直った。こんなところでのんびりしている余裕はないのだ――なにせ傘を持っていないのだから。と、その時、足元になにか物音を聞いた気がした。
足元を見下ろして、司はいささか狼狽した。そこにちっちゃなとがった耳の、ふわふわした小さなものを見出したのであった。これは……子犬だ。灰色だか茶色だか、汚れなのだか元の毛の色なのだかよくわからない色をした子犬が、つぶらな瞳で司を見上げ、短い尾をぱたぱたと振りながら、司の革靴にあるかなきかも怪しいほどの前足を載せている。司が自分のことを認識したことに気づくと、子犬は鼻でクンクンと鳴いた。先ほど聞こえた音はこの子犬の鳴き声だったのだ。
「なんでこんなところに……」
思わず声に出してつぶやきながら、司は身を屈めた。すると、子犬は前足を司の靴から降ろして尾の動きをいっそう速めながらたどたどしく後ずさり、そのまま先ほど司が踏み込みかけた水たまりに飛び込んだ。慌てた司が伸ばしたブレザーの袖に、水が跳ねた。その冷たさに怯んだ司が一瞬固まると、子犬は差し伸べられた手に湿った鼻を近づけてくんくんと嗅ぎ、それから濡れた毛並みを押しつけた。水たまりにとっぷりと浸かっているのはさほど気にならないらしい。
「お前な……」
司は呆れて溜息をつくと、慎重に子犬の体を抱き上げて水たまりから救出した。子犬の毛から滴る水で制服を汚さないように気を付けながら。子犬は特に恩も感じていない様子だったが、ぶるぶると身を震わせて水気を飛ばした後で(また雨で濡れるにもかかわらず)、それでも小さな桃色の舌を突き出して笑っているような表情を浮かべた。そしてまた、司の手に濡れた毛並みを押しつけるのである。
司のなかで、無垢なるものを慈しむ気持ちと、見知らぬ濡れた子犬の不衛生を警戒する気持ちが同時に起こり、やがて前者の方が勝利した。その場に屈みこんだまま、司はぎこちなく子犬の背を撫でた。しかし、なぜ子犬がこんなところにいるのだろうか。周りには飼い主らしき人物は見当たらない。どこかから逃げ出してきたのだろうか。それとも野良犬だろうか。野良犬なんてこの辺ではめったに聞かないが、首輪をしていないところを見ると可能性はなきにしもあらずだ。
……もしかしたら捨て犬なのかもしれない、と司は思い至る。しかし、捨て犬だろうが野良犬だろうが行き先は一緒なのだろう。保健所へ送られて、引き取り手がいなければ殺処分される――何千、何万という多くの犬と同じで。
救いたければ自分で引き取るか、自ら引き取り手を探すしかない。だが、結城家ではとても無理だ。司自身は学校があって昼間の世話ができないし、母親はだいぶよくなってきたとはいえ、やはり病人だ。体調の方はともかくとしても、日中は母親の方も仕事があるからまず世話は頼めなかった。
では、引き取り手を探す?そんなことを頼める人間がどこにいる?一瞬頭に浮かんだ少女の顔を司は急いで振り払った。それから東野恭弥が浮かんだが、どうも気が引けてならなかった。大体あの少年に物を頼むとどんな見返りを求められるかわからない。親戚――母方の親戚は関西にいて東京にいない。父方の親戚とは最近疎遠になっているし、そもそも…………
ふと気づくと、濡れた毛並みの感触が消えていた。司はさっと立ち上がってあたりを見回した。子犬はどこにいった?
「……この子、君の子かい?」
振りかえった司はそこに男性の姿を見た。年齢は四十代半ばといったところだろうか。黒い髪にちらほらと白髪のまざった男性で、四角いフレームの眼鏡をかけている。いかにも品がよさそうな反面、痩せた体には不似合いなぶかぶかのシャツに(しかも袖をまくりあげている)、アイロンをまともにかけていないらしいグレーのスラックスというなんとなく絞まらない出で立ちをしている。だが、男性の出で立ちよりも男性が指さした先に関心があった司には、こうしたことはあまり気にならなかった。先ほどの子犬は男性の汚れた革靴に前足をかけて、ぶんぶんと尻尾を振っていた。
「い、いえ、僕の犬ではありません。今ちょうどここで見つけて……きっと捨て犬かと」
「そうか、しかし、捨て犬にしてもまだほんの子犬だね。かわいそうに。ほーら、よしよし」
そう言いながら男性は、古そうな黒い傘を右肩の上に載せて、手や服が汚れるのも厭わずに濡れた子犬を抱き上げた。犬がよほど好きなのか、口元が綻んでいる。子犬の尻尾の動きも心持ち速くなった気がした。それに合わせて、司はなぜだか自分の鼓動も不思議と速くなったことに気がついて当惑した。一体なぜだろう。
男性は司にはお構いなしに、抱き上げた子犬の体を左見右見していた。
「捨て犬なら警察だか役所だかに届けないといけないんだろうけど……まずは洗ってきれいにしないとな。これじゃあ元の色もわからないぞ」
「はあ……」
「病院にも連れてった方がいいかもしれないね。なにか病気にかかっていたら困るから」
「そうですね……」
「僕の家でできればいいんだけど、でも今の家はペット禁止なんだよなぁ。一日ぐらい……駄目だな、きっとバレたら怒られる。引っ越しさえしちゃえば……うーん」
綻んでいた男性の顔が真顔に近づいていく。決して芝居がかった調子ではなかった。捨て犬か、と、小さく胸のなかで呟いてみる。そこから沸き起こる自身の感情を、司は水面に石を投げ入れて波紋がひろがるのを見遣るようにじっと見守ってから、ひとつ息を吸って言った。
「一晩ぐらいならうちで預かれると思います」
男性の顔がぱっと輝いた。
「ほんとうかい?」
「はい。飼うことはできませんが」
「そうか、ありがとう。よかったな、お前も。優しい人に拾われて」
言われ慣れていない言葉に胸のあたりがくすぐったいような気がしたが、決して不快な感情ではなかった。
男性はふと司の方を見て、不思議そうに目をしばたかせた。
「ところで、君、傘差さないでいいの?随分濡れてるけど……」
「あっ……」
なんたること。雨に濡れているのも忘れているとは。
「その、今日は傘を忘れてしまって……」
「おや」と男性が笑うのに、司は思わず赤面した。自分らしくもないと思った。傘がないから急いで帰る途中だったではないか。それほど子犬のことに気を取られていたというのか、僕は……
「なんだ。だったら僕の傘を使うといいよ」
「でも……」
「いいんだよ。僕も忘れ物をもらってきただけなんだ。それに僕はすぐにタクシーに乗るつもりだし」
戸惑う司に男性は傘を突き出して微笑みかける。白いシャツの胸を前足で這い上がってきた子犬が、その頬を嬉しそうにぺろぺろと舐め出した。まるで男性のすることに賛同するかのように。まったく子犬というものは落ち着きがないものだ。抱かれていても少しもじっとしていないのだから。男性の微笑はたちまちやわらかく崩れた。袖からむき出しになった腕が、子犬の泥で濡れていた。
「こら、くすぐったいったら。やめろって……さあ、じゃあ僕はもう行かないと。この子をよろしくね」
「はい」
傘を受け取った瞬間、最初に触れた男性の指先を、司は紙のようだと思った。右肩に黒い傘を預けた姿勢で子犬を受け取った時、二度目に指が触れた。司はその指が同じ温もりを抱えていることに気がついた。しかし、おどろいた司と男性の目が空中でぶつかったその刹那、見えない薄紫色の炎が線香花火のようにかすかに空中に舞い上がったことは司もついに知らなかった。
司はほんの小さく会釈をすると、男性に背を向けた。途端に胸元に子犬がきゅうきゅうと悲しげな声で鳴きはじめた。男性との別れを察したのであろう。司はためらいつつも、子犬のあたたかな重みを揺すぶってぎこちなくあやしながら、男性の方を振り返った。子犬は司の腕のなかでぱたぱたともがいて、男性を恋しがった。
「気をつけて帰りなよ。近頃この街も物騒だからね」
「はい、ありがとうございます……」
まるでその言葉をもらうのばかりを待ち受けていたかのように、司はくるりと踵を返すなり足早にその場を立ち去った。子犬はまだ腕のなかで鳴いていたが、生まれて初めて抱えるやらかく心もとないぬくもりをぎゅっと胸に押さえつけるようにしながら、司はいよいよ勢いをつけて通りを突き進み、いつもより二つほど手前の角を曲がった。それでも飽き足らずなじみの薄い通りを駆けていた司は通りの半ばほどまで至ってはっと我に返って立ち止まる――何を急いでいるのだ。そんな必要はないというのに。
雨空を見上げようとした司の視界は、傘の色に遮られた。そうだ、もう急ぐ必要はない。今日は傘を持っているのだから……
「いいじゃない。飼い主がいないんだったら、うちの子になってもらえば」
母のあっけらかんとした物言いに司は唖然とした。
連れて帰った子犬にシャワーを浴びさせ、ドライヤーで乾かすのに司は手間取った。なにせ生まれて初めての作業であることだし、母は仕事に出かけて留守であったために誰にも助けを求めることができなかったのだ。子犬はシャワーを嫌がりこそしなかったものの、はしゃぎまわって司の手のうちをあっという間にすり抜けてしまい、なかなか泥を洗い落とさせてはくれなかった。半時間ほども悪戦苦闘してようやく半分ほどのサイズになったところにドライヤーをあてる際中にも、子犬は絶えず司の手を甘噛みしたり、短い前足で司の腕に絡みついたりしてせわしなく、あたたかい風を全身に満遍なく浴びようなどといういじらしい心がけはみせなかった。
子犬が毛並みが黄金色に輝くころには、司はへとへとに疲れきっていた。思わず司は居間のソファに座りかけたが、足元にからみつき制服のズボンの裾を引っ張ろうとする子犬をぼんやりと撫でているうちに、せめて水ぐらいはやらねばと気がついて、仕方なく立ち上がった。キッチンから適当な皿を取り出して水をやると、子犬は風呂上りのせいかよく飲んだ。司はそれを見ると疲れのうちにもなぜだか心なごんだ。
子犬はそのままあたりを嗅ぎまわり、絨毯の隅をしばらく引っ掻いていたが、司がふと目を離したすきにそこに倒れ込むようにして眠ってしまった。司はようやく息をついた。
これからどうするかということについては大体の目星がついていた。これから帰ってくる母親に事情を話し、それから雨があがったら交番に行って犬を預ける。先ほどの男性には一晩ぐらいならとは言ったものの、それはあくまで最長の場合であって、どうせ手放さなければならないなら早いに越したことはない。あまり一緒にいると情が移りそうだ。今でさえ、静かに上下している黄金色の腹が視界の端に映るのから必死に目をそむけているというのに。
しかし、もし飼い主が見つからなかったどうなるのだろう――いや、自分の知ったことではない。司はたまたまこの犬と出会ってたまたまこうして連れ帰る羽目になっただけだ。自分はこの犬に対してこれから交番へ預けにいかなければならないという以上の義務を持たないし、何の責任もない。この子犬の今後の運命がどうなろうと、自分はどうせ知り得ないのであるし……
「いいじゃない。飼い主がいないんだったら、うちの子になってもらえば」
ところが、帰ってきた母親が靴を脱ごうとしゃがみこんだ姿勢のまま子犬を抱きかかえつつ、司の話を聞いて放った返答がそれであった。司は唖然としてしばらく何も言えずにいた。
「えっ……」
「そりゃあ万が一ってことがあるから交番には届けなきゃいけないかもしれないけれど。でも、どうせ飼い主なんて見つからない可能性の方が高いんだし、うちで面倒みればいいじゃない」
「でも、面倒なんて誰が……」
「もちろんあなたよ」
「……」
「あたりまえじゃない。ねーっ?」と母親は胸のなかの子犬と示し合わせてひとり喜んでいた。
「まあ、あなたができないっていうなら仕方ないけど。でも、司、この子がたとえ捨て犬だったとして、新しい飼い主が見つからない可能性の方がずっと高いのよ。飼い主が見つからなかったらどうなるかわかってるでしょう、あなたにだって。それにあなた、暇じゃない。サッカー部だって結局入らなかったんだし」
「でも、それは……」
母さんが病気だからとは言いかねて、司は口ごもった。この件に関してはなにもそればかりが理由ではなかったので。しかし、聡い母は息子の言わんとするところを悟ったらしい。鮮やかに口紅をつけた唇で「大丈夫よ」と微笑する。
「母さんだって働けるぐらいにはもうすっかり元気だもの。まあ働ける分わんちゃんの面倒みてあげられないんだけど。でも、お手伝いぐらいはしてあげる。一晩考えてみなさい……無理にとはいわないわ。だけどね、母さんのために何かを諦めるのはもうやめてね、司?」
司はうつむいて黙っていた。母はそんな息子にはかまわぬようすで鼻歌を歌いながら子犬を床の上にそっと下ろし、脱ぎ捨てたパンプスをを履きはじめた。
「どこか行くの?」
「お買い物。わんちゃんのごはんが必要でしょ」
必要ないと言い張ればよかったのに、司はどうしてもそれができなかった。母が出かけていったあとの扉を、子犬はわけもわからぬ昂奮につつまれたまま尻尾をぶんぶんと振って見守っていた。司はそのかたわらに立って、そっと子犬を抱き上げる。あたたかく、やわらかい…………
「せっかくの土曜日なのに雨なんてねぇ」
「……奈々さんは関係ないんじゃないですか?受験生だし」
「まーた翼ちゃんはそーいうこと言う」
奈々のデッサンのモデルになっていた翼は、ソファの上から呆れた目を奈々に向けただけで、「動かないでよ」とむくれた奈々に叱られた。奈々が鉛筆を動かす音は十月の雨音を刻んで心地よい。キッチンでは今夜の夕飯のカレーの具を煮ている鍋がコトコトと音を立てている。
雨の日の黒田家である。今日は奈々の両親は二人とも出勤しているため、家には奈々とお客の翼と、奈々の妹弟たちだけだった。翼はデッサンのモデルをしてほしいという理由で朝から強引に呼びつけられ、黒田家と夕飯を共にして一晩泊まって帰る約束まで無理やり取り付けられてしまったのだ。奈々の妹弟たちは先ほどからお客に構いたくてうずうずしているのだが、一方で血の繋がっていない姉を大変慕っているので、奈々が絵を描いている時には邪魔をしないように三人で仲良く遊んでいてくれるのだった。先ほどまで末弟の悠太は「外に出たい」と駄々をこねていたのだが、ここ数日前から子供だけの外出は禁じられていたため、今は姉たちに絵本を読み聞かせてもらっている。翼の耳にも、双子の姉妹の音々《ねね》と美々《みみ》がきれいに声をそろえて朗読するのが、隣の部屋から聞こえてくる。
『……それはむかしむかし、この桜花市がまだ深い森や山々に守られていたころのおはなしです』
「ところでさ、もうすぐルカさんの誕生日だよね?」
奈々が切り出すと、翼も「はい」とうなずいたが今度はお叱りの声は飛ばなかった。
「誕生日パーティーの招待状、すごかったですね」
「ああいう正式のパーティって初めてだからなぁ。ドレス着なきゃいけないんでしょ?どうしようかなぁ」
「あたしはお姉ちゃんのお下がりにしました」
「あっ、いいなぁ。何色?」
「青です」
「さっすが青龍」
「じゃあ奈々さんは黒ですね」
二人はくすくすと笑う。
「ところでプレゼントはもう考えた?」
「いいえ。でも、この間お母さんとデパートに行ったとき、ルカさんが使ってそうなかっこいいシルバーのペンを見つけたのでそれにしようかなぁって。奈々さんは?」
「あたしはチェロモチーフのアクセサリーにしようと思ってるんだ。ネクタイピンとかさ」
「手作りですか?すごーい!」
「まあね」と奈々は照れる様子もなくさらりと言ってのけた。
「そういえば、舞ちゃんはルカさん家の犬……なんだっけ、ボルゾイ?ともかくルカさんの家の犬にそっくりなぬいぐるみがあったから、それにするって。海外公演の時もさびしくないように」
「もう、子どもじゃないんだから」
翼は呆れたように言う。
『そのころの日本にはまだたくさんのオオカミがくらしておりました。この桜花市の近くでも、しばしば、オオカミたちのすがたがみられたものです』
「玲子さんはどうするんでしょう?」
「うーん、聞いてみたけどまだ決めてないって言ってたよ」
「きっと高いものなんだろうなぁ。敵わないですね、玲子さんには」
肩を落として溜息をつく翼に、奈々は意味ありげにふふと笑った。不思議そうな顔をして奈々の顔を見遣る翼に、奈々は優しく「動かないで」と言ってから、微笑みをくずさずにこう続けた。
「たとえその辺の石ころだったとしても、玲子さんのプレゼントには敵わないんじゃない?あたしたちじゃ」
「あっ……」とつぶやいて翼はほのかに頬を赤らめる。奈々の顔はすぐにスケッチブックの影にうつむけられたが、言葉の投げやりさとはうらはらに、奈々の声は朗らかだった。
「そっ。だからさ、別にいいんじゃない?あたしたちはあたしたちのできる精いっぱいで。翼ちゃんが精いっぱい選んで悩んだプレゼントなら、『おめでとう』って気持ちは伝わるもの。ぜったい」
二人の少女がじっと沈黙を支えはじめる。翼はペンにしようか、名前を入れてもらおうかと思い悩み、奈々は次の鉛筆の線にこだわって。二人の少女の沈黙により幼い二人の少女の声が明るく響く。
『そのなかに『琥珀』と呼ばれるオオカミがおりました。黄金色にきらめく毛なみを持った、大きな大きなオスのオオカミです。人もけものも、みな、琥珀のことをおそれました……』
雨の音が聞こえる――
「司、起きてる?」
寝室の扉を叩く音がする。雨の音に交ざって。揺蕩う意識を覚醒させて司は洋書のページの間に挟んでいた左手を抜き、物憂い痺れのような指先の感触にしばし酔った。再び部屋の戸が叩かれると、司は名残惜しくもその痺れを白いシーツの上に擦りつけるようにしてうつぶせに寝ていた体を起こした。この湿っぽい日に唇は乾いていた。
「……今起きた」
「また本読んだまま寝てたんでしょ、もう……ところで、今から舞ちゃんが来るけど、あなたどうする?」
母の言葉に司はたちまち目が覚めた。
「なんで京野が……?!」
「なんでって、トビーを見にくるからよ。お稽古の帰りに寄るんだって」
母が言うなり、当のトビーが司の部屋の戸を引っかいてキャンキャン鳴く声が聞聞こえてきた。司が「まだ正式にこの家の犬になったわけではないから」と言って名前をつけるのを避けている隙に、シャーロキアンもどきの母は勝手な名前で子犬を呼びはじめたのであった。しかもまずいことに、このわずか十日ばかりの間に、子犬は早くも自分の名前を覚えつつあった――司が気をつけて「犬」と呼び続けているにも関わらず。このあたりのすばやさでは司は母にはかなわない。
「それで、あなたはどうするの?」
どうするの?とは失礼な、と司はいささかむっとする。母の言う「どうするの?」とは、つまり舞に会いたくないなら部屋にこもっているか外出するかのいずれかだが、そのどちらにするのかという意味で、気難しい息子に対する母の配慮であることは、司もよくわかっている。だが、この家は司の家でもあるのだ。なぜ司の方がこそこそする必要があるのだろうか。
しかし、いくら抗議をしたところで京野舞の訪問は今更避けられないのだろう。このまま部屋にこもっていてもいいが、女同士の会話が階下から聞こえてくるのはいたたまれない。ましてあの京野舞の声が……
「出かけてくる」
「そう。じゃあおつかいよろしくね」
「……なんで」
「別に用事もないんでしょ。それに私だってお買い物行くの面倒だもの。今夜はカレーにするからね。あっ、トビちゃんのボーロもよろしく」
「……」
「ああ、それからあまり遅くならないように気をつけて。今朝のニュース見たでしょ?帰る時はちゃんとメールちょうだいよ」
母はトビーになにごとか言いながらともに階段を降りていったようだった。ご機嫌な鼻歌が聞こえてくる。子犬がいるのがよほど楽しいのか、お客があるのがよほど嬉しいのか、もしくはその両方か。司は乱れたベッドを整えて読みさしの本を鞄にしまい、出かける支度を進めながら、これからやってくるのであろう少女の顔を思い浮かべて苦々しい気分になった。もし母があれほど気に入っていなければとっくに縁を切っているものを……せめて幼馴染という縁さえなければ。
幼馴染……
慣れない響きだと思う。記憶もない幼馴染に何の意味があるというのだろう。ふしぎなことに、この桜花町で過ごした五歳までのことを思い返そうとしてみても、司の記憶は葛湯のように濁っていて、掬いあげられるのはほろほろと崩れるおぼろな澱ばかりである。人の顔、人の声、景色、音楽、におい、光、温度その全てが霞がかっている。そうだ、さながら雨の日の世界のように。
たったひとつ、はっきりと覚えているのは青くなずむ夕暮れの街の色だ。佇む家々の屋根に成り変わられた地平線のあたりに、一筋の緋色の帯が消え残って燃えていた。響く救急車の音。誰かが幼い声が泣きながら司の名を呼んでいる、何度も何度も。そして、ふと世界の色が消え失せて、まっさらになる。
『どうしてこんなことになったのか、君は本当にわかっているのか?!』
『ああ、君の体のことはわかっているさ!だが、自分の子ども一人のこともまともに見ていられないのか?』
『こうなったのは君に母親としての自覚が足りないからだ!いつかこんなことが起こるんじゃないかと、僕はずっと恐れていたんだ……!』
『……結城さん、その辺りで止めておきましょう。今は司君を見守ってあげる時間です』
玄関の扉にかけたままふと手が止まる。こんな会話を聞いたような気がした。いや、聞いていたのではない。司は見ていたのだ。大人たちが顔を突き合わせているのを。激昂する男性の前で、母親は椅子にもたれ顔を両手に埋めて泣きじゃくっていた。その隣に腰かけて若い女性が怒鳴り散らす男性をなだめている。ものやわらかな口調だが毅然とした女性である。そしてなだめられている男性――会話から察するにおそらく司の父親だ。司には黒い後頭部しか見えなかったが。司は彼らを見下ろしていたのだ。硝子窓の上から。水底に嵌められた硝子窓の上から……
きゅうきゅうという悲しげな声にはっと我に返る。この世のあらゆる悲しみを煮詰めてもこの声には及ぶまいと思われた。黒いつぶらな瞳をうるませて、子犬は廊下と玄関の段差の上を、じれったそうに駆けまわっていた。司は少し口元をゆるめて、子犬の頭に手を伸ばす。
「……すぐ帰ってくるから」
そして傘を打つ雨音の下で急に行き惑う。
買い物を頼まれたからいずれにせよスーパーマーケットに行かねばならないのだが、買い物だけではそれほど時間を潰せない。どこに行こうか。桜花公園の図書館にでも行こうか。いや、休日は混んでいて座席が見つからないかもしれない。それにあの図書館は蔵書数が少ないのが難点だ。それよりも水仙女学院の大学図書館に行こう。土曜日ならば学生もそんなに多くないはずだ。そうだ、そういえば頼んでいた本が届いていたのではなかったっけ。
市営バスに乗って水仙女学院正門前で降車し、司はいつになく閑散とした水仙女学院大学桜花キャンパスへと足を踏み入れた。ガラス張りの校舎の回転ドアをくぐり、しんとしたホールを突っ切って、エレベーターのなかに滑り込む。エレベーターのなかに乗っていた人は閉じかけた扉を開いて、快く司を待っていてくれた。
図書館はこの真新しい建物の上から三階分を占めている。司が見た時にはすでに入り口となっている階のボタンはすでに点灯していたのだが、小さな会釈をしたついでに何気なく扉を挟んで向かい側に立っている人を見上げてみて、司は驚いた。先日傘を貸してくれた眼鏡の男性であった。
と、同時に向こうでもこちらに気づいたらしく、男性はあっと嬉しそうな驚きの表情を浮かべてみせた。
「おや、君は先日の」
「ど、どうも……」
司は再び小さく頭を下げてつぶやくように言った。こんな時になんと挨拶してよいかよくわからない。こんにちは、でも、お久しぶりです、でもどうもしっくりこない気がする。
「偶然だね。図書館で調べものかい?」
「はい、少し読書を……」
「そうかい。それはいいことだ」
かく言う男性はどうやらこの大学の職員であるようだ。首から下げているストラップにSuisen Jogakuin Universityと記されていることからそう推測できる。IDカードはシャツの胸ポケットにしまわれているから名前や身分はわからないが、もしかしたら大学の先生なのかもしれないと司は思った。全くぱっとしない出で立ちなのに(今日のシャツだってかなり皺っぽいし、ついでに髪には寝ぐせがついている)どこか悠然とした知性が感じられる。
エレベーターの低いうなりと、傘から雫の落ちる音が響く。まだ到着までには時間がある。何か話さなければならないだろうか。――よく考えれば大人の男の人と話す機会をこれまであまり多く持っていなかったことに気がついた。
「あの犬の新しい飼い主は見つかった?」
幸いにも男性の方から話題を切り出してくれた。
「いいえ……」
と答えてから、司は注釈を入れて、
「警察には届けたんですが、どうやらうちで引き取ることになりそうです」
「おや、ご家族が許してくれたのかい?」
「許すもなにも、むしろ僕より母の方が乗り気なぐらいなので。名前まで勝手につけて」
「優しいお母さんだね。なんて名前にしたんだい?」
「トビーです。シャーロック・ホームズに出てくる犬の名前だとかなんとか」
「はは、いい名前だよ。賢い犬になりそうだ」
司は気づかなかった。犬について語るときの自分がいつもよりずっと饒舌になって、その呼吸までもがはずんでいることに。男性はきっとこの大人びた少年がいつになく見せる少年らしさを微笑ましく思ったのだろう。紫色の瞳が細くなって眼鏡のレンズに滲んだ。
エレベーターが到着すると、男性は司に先を譲ってくれた。司は小さく、しかししっかりと礼を言って降り、受付カウンターの女性に桜花中学の生徒手帳を示した――水仙女学院大学図書館は市と提携しており、市民にも資料の閲覧と貸出を行っている――先ほどの男性はIDカードを入館ゲートにかざしてその脇を通り過ぎていく。その時、受付の女性がパソコンで司のデータを照合しながらこう言った。
「結城司さんですね。予約されていた本が届いておりますので、入館後……」
男性が足を止めたことを司は知らなかった。司がゲートを潜り抜けるとともに、足早に書架の森のなかへと消えていってしまったことも、司は知らなかった。




