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京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第五章 現世編
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第四十四話 月宮から(下)

「月修院さまってさぁ、覚えてる?」

「うーん……」

「あんまり……」

「だよねぇ」


 ルカと玲子が水仙女学院の生徒会室で話し合っている頃、中学生チームの三人(と左大臣)も放課後の教室に残って協議を行っていた。誰かに聞かれないようにと扉を締め切った教室には、カーテン越しに午後の光が差し込んで、机の上に木材の香りを濃く立ちのぼらせるようなあたたかい日だまりを作っている。一年中こんな日が続けばよいのにと願いたくなるような好い気候のために、深刻な話題にすでに飽き飽きした三人娘は、机の上に突っ伏したり頬杖をついたり、あるいは天井をぼんやりと見上げたりしていた……やはり中学生チームである。


「奈々さんの絵を見てやっと顔を思い出したぐらいかな」


 と、めずらしく頬杖を突いている翼。


「印象には残ってるんだけど、別に接点ないものねぇ」


 こちらは机に突っ伏している奈々。


「でも、姫は月修院さまと手紙のやり取りもしてたじゃない」

「一回だけだよ。確かほら、月宮参りの後で藤尾さんがどうなったか気になって私が手紙を送ったの。それに返事があっただけ」

「藤尾さんって誰だっけ?」

「ほら、月修院にいたじゃないですか。見た目はもう大人だけど、心が子供のままっていうきれいな女性。あの人のせいで、姫は森で迷っちゃったんだよね?」


 舞はうなずいた。あの人のせい、というと必ずしもそう言い切れない部分はあるが。京姫だってこっそり皆の監視から抜け出して、潭月寮たんげつりょうを冒険していたのだし。その途中で、藤尾と出くわした。他の巫女がお祈りをしている際中、藤尾ひとりが花筐はながたみを持って廊下をさまよっていたのだった。藤尾は感情のない目で京姫を眺めていたが、何を思ったか唐突に姫の手を取って駆け出し、京姫を潭月寮の庭へ、それから月修院の裏に広がる森へと導いたのだ。


(あの時、誰かの声を聞いた気がする。八重藤やえふじって、私をそう呼んでた。あの声は一体……)


「まさかあの人が漆だなんてね」


 奈々の声に舞は目を瞬かせた。そしてようやく合点した。話は藤尾から月修院さまの方へと戻っていたのだ。


「立派な人だって、いろんな人からそう聞いてたのに。前世であの人と会った時、特に何も感じませんでした。少なくとも、邪悪なものはなんにも。漆に会ったときは、なんだかすごく嫌な感じがしたんですけど」

「人って豹変するっていうもんね」

「豹変しすぎですよっ!そもそも顔まで変わっちゃってるじゃないですか!」

「確かに」


 翼は我慢できないように「あーっ!」と叫んで机を叩いた。こういう白か黒かはっきりしないような事態が、どうやら翼は苦手なのらしい。これで捜査ができるのだろうかと舞は少し疑問に思った――翼は警察官志望であったから。


「意味がわかんないっ!なんで月修院が漆になるのよっ?!」

「……左大臣は、月修院について何か知らないの?」


 と、今までずっと黙り込んで難しい顔をしていた左大臣に舞が尋ねると、左大臣はいよいよ眉間に皺を寄せてテディベアなりに厳しい顔つきになった。


「わたくしは確かに皆さま方よりあの男と接しております。月宮参りにも数回同行しておりますのでな。しかし…………いやはや、なにも思い至るところはありませぬ。ただ、あの男の俗名は二条楷にじょうのかいと申しまして、かの二条家の出身ではあるのです」


 まさか左大臣は「二条家って?」という質問が飛んでくるとは思わなかったのだろうが、舞はこういうことにかけては期待を裏切ることが得意だった。左大臣は卒倒した。


「お、覚えていらっしゃらない?かの二条家を覚えていらっしゃらないのですか?!二条家といったら二条家ですぞ!いやはや、歴史の勉強が足りないのは現世だけではないようですな」

「そ、そんな……ひどい!」


 図星を突かれてショックを受けている舞に、左大臣は教卓に仁王立ちになって講釈を垂れ始める。


「よいですか?二条家とは!元を辿れば蔦明ちょうみょう帝の一の宮!蔦明帝の御代みよ、帝の一の宮である阿月親王あげつのしんのうと、帝の弟宮である榊葉親王さかきばしんのうとが、後継をめぐって激しく争われました。熾烈な戦いの末、軍配は榊葉親王の方に上がりました。蔦明帝はご自分の亡き後、弟宮が一の宮を害することがないように、そして血のつながった叔父と甥とがもう争うことがないようにと、阿月親王を臣下に降ろされました。かくして、ここに二条家が誕生したのです……!」

「ダメだこれ、誰か止めないと……」


 先行きに不安を感じたらしい奈々が奈々らしくもない低い声でつぶやいた。


「しかし、榊葉親王が三榊みさかき帝として即位されると、三榊帝はご自身の三人の子を臣下に降ろし、新たな家をお創りになりました。そのうちのひとつが一条家であったのです。一条家と二条家とは、かつてその御祖みおやが争いあったということもあり、密かに憎み合っておりましたが、誇りも体裁もありましたから、表立って騒ぎ立てるような真似はしませんでした。ですが……ですが、この二つの家が憎み合っているのを知り、それを利用しようとする連中が現れました……」


 左大臣の声が急速に力を失っていくのに、早くうんざりしだしていた舞も不思議そうに顔を上げた。気がつくと、奈々と翼も深刻そうな顔でうつむいている。重苦しい沈黙を破ったのは、翼であった。


「九条家と三条家……」


 左大臣は暗い顔でうなずいた。


「まさしく。政治的に対立しあっていた両家は、一条家と二条家をそれぞれ援助することによって、我が身を損なわずして相手の勢力を削ごうとしたわけでございます。いえ、それだけではありませぬ。一条家と二条家を争わせ疲弊させることも、九条と三条の共通した目論見もくろみでございました」

「でも、なんで……?」

「不安の芽は早く摘んでおくにかぎるってこと。敵は少ない方がいいものね。一条と二条、どちらかが力をつけて、いつか自分の敵にならないとも限らないもの」

「そんな……」


 翼の説明に、舞は言葉を失った。


「そんな残酷なことって……」

「ずいぶんと残酷なことも平気で行ったものです、我々は……さて、こうして一条家の後ろには九条家が、二条家の後ろには三条家がつき、争いは表面化し、激化いたしました。しかし、段々と三条と二条との仲がしっくりいかないようになりました。そして、三条はついに二条の家を見捨てたというわけですな。

 かくして、無傷とは言えなかったものの、一条と二条の戦いは、一条家の勝利に終わり、一方の二条家はその後いよいよ追い詰められてきます。このままでは二条家は政治の表舞台から排除されてしまう、というところまで」

「それで二条家の人は謀反を起こしたってわけだ」


 奈々がごく簡潔に言い切った。暗くなった場を持ち直そうとする努力があっけらかんとした言い方に滲んでいた。


「つまり、自分たちが追い詰められたのは世のなかが悪い。こんな悪い世のなかを変えてやる!ってことでしょ」

「その通りでございます。そして、二条家の連中は、その『間違い』の原因を、蔦明帝の御代の皇位争いに求めました。あの折に帝となるべきは自分たちの御祖たる阿月親王だったのだと。よって、三榊帝より後の世は今上帝に至るまでの『間違った』血筋にかわって、阿月親王の血を引く自分たちこそが国を治めなければならないと」

「だけど、計画は事前にバレて失敗したの」


 その後を翼が舞に説明してくれた。


「それで二条家のほとんどの人間が捕まって処罰を受けたんだけど、何人かはこっそり逃げ延びて、その次の年に一条家のお邸を襲ったの。その時、一条家は皆殺しにされて、白虎ひとりだけが生き残ったの……まあ、こんがらがってきたけど、要は、漆はその二条家の出身ってことでしょ、左大臣?」


 ちんぷんかんぷんの舞のために、歴史の教師のように黒板で図解をしてくれていた左大臣は、バレリーナのようなポーズでこちらを振り向きながら、大きくうなずいた。


「しかも、かの謀反の首謀者こそ、漆の実の父親でございます。二条楷は確かその父親の九男でございますからな」


 そこで舞は素朴な疑問を口にした。


「じゃあ、漆もそのム、ムホンに関わってたってこと?でもなんでその時捕まらなかったの?」

「いえ、その時楷はすでに月修院にいたはずです。ですから謀反とは直接関わりはな……」


 左大臣が急にその場で固まったまま口をつぐんでしまったので、舞たち三人は一斉に揃ってまじまじと左大臣を見遣った。左大臣の黒いボタンの目が必死に何かを訴えているような気がするがよくわからない。しかし、最前列にいた舞は釦のなかに映り込む人影を認めたような気がした。


 三人が三人とも同時に振り返り、そして飛び上がった。話に夢中で気づかなかったのだが、教室後方の扉がいつのまにか開いていて、男子生徒が一人、呆れた様子で舞たちを眺めているのである。それはよく見知った顔であった。


「ゆ、結城君……!」


 三人の視線を受けると、司は少し居心地が悪そうなそぶりを見せた後で、すたすたと自分の席の方へと歩んでいった。すなわち、舞が座っている席へと。慄いた舞が飛びのくのに目もくれず、司はやや荒っぽい手つきで机のなかに手を差し入れて洋書らしき分厚い本を引っ掴むと、そのまま来た時と同じ足取りで去っていこうとする。その間、舞の頭のなかはガンガンと鳴りっぱなしであった。


 机の森を抜け出た司を、「結城!」と翼が呼び止めた。正気を疑って舞と奈々と左大臣とが驚き目をみはるなか、迷惑そうに振り向いた司の表情にも怯まず、翼は言った。


「あんたは覚えてない?月修院のこと。月宮参りの時に会ったでしょ。あいつが漆だったのよ。京を滅ぼしたのは、あいつだったの」


 舞の声にならなかった叫びは、翼を止めることはできなかった。はたして翼に向かってだったのだろうか。手を伸ばしかけた舞を、ほんの一瞬、司の瞳がとらえた気がした。


 が、すぐに司は教室にいる全員から顔を背けた。


「……覚えていない」


 再び司は歩きだす。素っ気ない返事にも負けず、翼はその背中に言葉を投げつけた。


「結城!たとえ前世のことだったとしても、過去をなかったことにはできないんだからねっ!」


 司の返事はなかった。



 二人の遣り取りをはらはらと見守っていた舞は、司の姿が完全に見えなくなると、気が抜けてしまってそのままへなへなと椅子の上に腰を下ろしてしまう。なんだか麻酔をかけられてしまったように、心がうまく働かず、今の出来事を自分がどう感じているのか、どう感じればよいのかがわからない。


 最初に奈々と目が合った。舞ほどではないにしても奈々も今の翼の行動には驚かされたようだった。奈々はまだ睫毛の長いマホガニー色の目を大きく見開いていた。続いて翼と目が合うと、意外にも翼は優しくにこっと笑って舞の方へと歩み寄ってきた。


「翼、どうして……」

「結城のやつさ、『覚えてない』だって。『関係ない』でも『知らない』でもなくて」

「あっ……」


 すっと伸びてきた翼の手が舞の髪を撫でる。舞は犬のように上目遣いで翼を見つめながら、もじもじとセーラー服のスカートの上で手を動かした。


「大丈夫。あいつ、前世のことなかったことにするつもりはないよ。もちろん舞とのことだって」

「翼……」

「さっ、これで煎湖せんじこのときのお返し。あとは自分でしっかりやるんだぞっ」


 ウインクをする翼に、舞は顔を赤らめる。奈々が翼に後ろから抱きつきながら言う――ずっるーい、二人だけの話して、あたしも混ぜてよー!いきなり抱き着かれた衝撃で翼が前のめりになって慌てて舞にしがみつく。二人分の重みを受けて、舞が椅子ごとひっくり返る。響き渡るすさまじい音に耳をふさいだあとで、左大臣は溜息をひとつ吐いた。


「いやはや」














 打ち棄てられた闇が静かに息づいている……長いこと人々はその森に近づかなかった。そこは神の森であり、無暗に立ち入るものは禁忌を犯した咎により、あるいは人にあるいは神によって罰せられ、惨たらしい死を遂げたのである。神は人々に服従を求めた。奉仕を求めた。時には執拗ににえを求めた。幼い清らかな娘が幾人も暗い神秘の臓腑に呑み込まれていった。それでも人々は神を崇め続けた。人々はまだ貧しく、愚かで弱かった。そのころ、神はまだ形も力を持っていた。だから神の気まぐれな庇護とわずかな憐みなくして、人は生きられなかったのである。


 しかし、時代は変遷した。人は相変わらず貧しかったが、賢く強くなっていった。人々の意識が時に神を離れるようになると、神は少しずつ弱っていった。それは鼠が齧った小さな穴から袋のなかの砂糖が零れ落ちていくような弱り方であったが。人々は恐れずに森に脚を踏み入れるようになった。神はそれを罰しようとしたが、もう決して以前のようにはいかなかった。人々は神を侮るようになった。


 やがて人々は神を忘れ、神に守られたこの地を去っていった。あるいは死に絶えあるいは旅立ち、そして二度と帰ってこなかったのだ。もう森に踏み入る不届き者さえいない。その神域を汚されなければ、もう神は自身の神威を示すことができなかったにも関わらず。何百年という時間をかけて神は縊り殺されたのだった。否、殺されるよりももっと残酷だといえるだろう。なぜなら神は完全に消滅したわけでもなく、ただ我が身を動かすこともできなくなって、風に吹かれるままに森のなかをさまよう魂魄になり下がったのだから。もうわめいても怒鳴っても泣いても、この声は人間には届かなかった。

 

 今宵、森が息づいているのも、この無力な神のためではなかった。神は三日ほど前の夜、ようやく『死』らしきものを迎えたところであったから。


 森のなかに濃く立ち込めて息づく闇はかつてやしろと呼ばれた朽ちかけた建物から広がっていた。社の内には、五日目の月の光が恐る恐るといった様子で腐った屋根板の間から細く差し込み、このしずの家にはふさわしからぬ艶やかな女の衣に縫い込まれた金糸の色をきらめかせている。衣をかけて眠っているのは男が一人、そして女が一人。女はうつぶせに倒れ、疲れきって死んだように目を閉じており、なめらかな褐色の皮膚の上で、月光に照らされたところだけが白く閃いていた。ただ、反り返った睫毛だけは月の色にも染まらずこわく黒かった。


 傍らに横たわる男は、女の波打つ長い黒髪を敷いていた。女の鮮やかな皮膚の色と対照をなして、男の皮膚は月に溶け入りそうなほどに青白く冴えていた。月に溶け入りそうなほど……?むしろこんな寂しいところに溜まっている月光が孤独を慰めるために、彼を創りあげたかのようだった。きっと時間はいくらでもあったことだろう。世にも美しく、残酷で、それゆえに完璧な男を創りあげるために。


 男はまどろみから目覚めて、紫紺色の瞳を月光に凝らした。ほとんどそれと同時に若い女の方も目覚めた。女は起き上がろうとして衣を蹴り退け月に裸身を晒しかけたが、男が黒髪を敷いているために豊かな胸を床からもたげきれぬまま、また床に倒れ込んだ。熱帯の赤い花が土の上に落ちるような物々しさであった。


 男の目線を捉えると、女は媚びるように微笑んだ。赤瑪瑙あかめのうの瞳が褐色の薄い瞼にわずかに翳った。


「野暮とは思うけれど、あえて聞きます。はたしてどっちが気に入りました?あたしと芙蓉。あっ、今気づいたけど、名前がそっくりですねぇ。やっぱしこの姿やめましょうか?」


 漆は倦んだように笑んだ。


「野暮には野暮な答えを返してあげよう、華陽かよう……お前の方がずっといい。だからそのままでいなさい」

「まあ、それじゃあ芙蓉がかわいそう。長い付き合いだったのに――そう、それこそあなたが『月修院さま』だとかなんとか呼ばれてた頃からの」


 女は漆の胸の上に寝そべると漆の首をはさむようにして両肘をつき、ルビーやらエメラルドやら金やらの指輪をさんざんにきらめかせた両手を組んで、その上に小さな顎を載せた。宝石の眩さにか、艶やかな女の影の面さにか、それとも感傷ゆえか、漆は手の甲を瞼にあてて目を閉じる。


「ああ、芙蓉は忠実な私のしもべだった。芙蓉は本当にすばらしかった。男を惑わし、毒を調合する技に長けていた。私は一目で芙蓉の才を見抜いたものだ。この女は私の右腕となるために生まれてきたのだと。

 私の課した修練が、芙蓉をいよいよ磨き上げた。芙蓉は完璧な女になった。誰も気づかなかった。美しく清らかな蝶が毒の鱗粉を振りまいていることに。私の命じた通りにやってくれたよ、芙蓉は。帝をたぶらかし、上皇を暗殺し、人々の目を眩ませ、京を混乱に陥らせた。期待通りだった、なにもかも…………だが、芙蓉は誤った」


 漆は首の上に宝冠のごとく掲げられた指をほどくと、薬指に嵌められた琥珀の指輪を華陽の指ごと口のなかに含んだ。華陽は少し目を細めた。


「いったいなにを?」

「芙蓉は私以外に執着するものを見つけてしまった。白虎への復讐の念にとらわれるあまり、道を見失ってしまった。欲望に溺れすぎたのだ、芙蓉は……だから芙蓉はこの世をさまよう憐れな蝶に成り下がった。せっかくこの世界に蘇らせてやったといいうのに、期待の半分ほどの働きもせず」

「欲望は毒。感情は悪」


 漆の唇に琥珀の指輪を引き抜かれて、恍惚とした表情で華陽は独りごとのようにつぶやいた。


「人が破滅していくのは、いつも欲望から。人が惑うのは、いつも感情から。ほんっとうにバカだこと」


 漆は指輪を咥えたままくすりと笑った。その指輪を華陽はべにの薄れかけた唇で受け取って、 つややかに濡れた薬指に再び指輪を嵌めなおした。樹液に溺れて窒息した蝶の影がその一瞬、月光のなかにくっきりと浮かび上がった。


「……しかし、華陽よ、お前ほど欲望と感情にまみれて生きている者もおるまい。お前の行動原理は欲望と感情に尽きるといってもよいほどだ」

「だって、あたしは人じゃありませんし?あたしは破滅なんかしない、ましてや惑ったりなんか絶対にしない。欲望と感情はあたしのコードウゲンリであり、そして目的なんですもの。まっ、たまーに痛い目も見ますけど?でも、あたしはまちがっても水底に沈んだりしませんし?」


 華陽は玉虫のようなエメラルドの指輪で飾った人差し指を闇に突き立てた。すると、闇がその場で凝ったがごとく、黒い石のようなものがその指の上に現れて積みあがった。五つの石は、賽の河原で幼子たちが積むという石の塔のように危うく揺れて今にも漆の上に崩れ落ちそうだった。


「でも、あなたは人ですわよね?」


 華陽がささやくと、五つの石は再び闇に帰った。


「あなたのコードウゲンリがどーもわかりません。あなたの欲望や感情が読み取れないんです。あなたは何がしたいんです?なんのためにあの小娘たちにかまうんです?いいえ、もっともっと聞きましょう……あなたは誰なんです?」

「それは追々話すことにしよう。夜伽よとぎは物足りないぐらいがちょうどよいからね」

「まあ、さっすが元僧侶。禁欲的だこと」


 呆れたように華陽はため息をついた。


「今回の仕事、あたし、あんまり気が進まないんですけどねぇ。なにせ犬だなんて……」

「よいから早く行っておいで、華陽。それに見合う報酬はあるはずだ。お前の欲望と感情を満たさなければいけないんだろう?」


 華陽はうなずきもせずにただ笑った。その拍子に、唇の端から白い犬歯がちらりとのぞいた。



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