第四十四話 月宮から(上)
それは九月の終わりごろのある土曜日のことだった。
姉が急に部屋に押しかけてきたので、ベッドに寝そべって左大臣と一緒にのんびりとティーン誌をめくっていた舞は、驚きと混乱と恐怖のあまり床の上に正座した。そうしながらも頭を必死にフル回転させていたのだが。議題はひとつ――私、何かしでかしたっけ?
ゆかりは舞の勉強机の前から椅子を勝手に引っ張ってきて、正座する舞の前に脚を組んで座った。そのまましばらく、ゆかりは舞を吟味するかのようにじっと黙って見下ろしていた。まるで生まれて初めて妹というものを見ているような目つきだ。ゆかりの膝には何かラベンダー色の表紙をしたノートのようなものが置かれていたが残念ながら心当たりはない。舞に対する判決がそこに書かれているのかもしれない。いや、だから私、何もしてないってば。たぶん……!
「舞」
ゆかりが永遠かとも思われた長い沈黙を破って口を開くと、舞は上ずった声で、「は、はい!」と応じた。
「単刀直入に言うから覚悟して……あんた、京姫なの?」
舞はまるまる一分間フリーズした。
「えっ……えっ、ちょっ……今なんて?」
「チッ、私は二度同じことは言わない主義だが言ってやろう。あんた、京姫なの?」
「なっ、なっ、なっ……なんで知ってるのー????!!!!」
舞の絶叫に、一階で丸くなって眠っていたはなちゃんが飛び起きたことを、京野姉妹はついに知らなかった。
「赤星先輩から聞いた」
「れ、玲子さんから?!も、もしかして、この間の文化祭の時……?!」
「そうよ。目の前で信じられないような色んなことがあった挙句に殺されかけて、何も知らないでいられるわけないでしょ。あんたが京姫で、白崎会長が白虎で、赤星先輩が朱雀、そんで、奈々ちゃんが玄武で、翼ちゃんが青龍。この五人の前世の仲間でつるんでんでしょ?」
「やめて!なんかわかんないけど恥ずかしくなってきたからやめて!」
「あとそれから、その熊しゃべるんでしょ?」
ゆかりに指さされてパニックになったらしい左大臣は、何を思ったかせっかくのテディベアらしいポーズを崩して立ち上がり、短い両腕を振ってあたふたし始めた。
「い、いやはや、ゆかり殿!ぬいぐるみはしゃべりませんぞ!」
「えっ、そんな爺声なの、その見た目で?!」
「じじいッ?!」
一同の騒ぎはそれから数分後にひとまず収まった。というより、散々叫んだりわめいたりしたせいで皆すっかり息が切れていただけだが。
ちょっと飲み物飲んでくる、と言ってゆかりは一度部屋を去った。左大臣がベッドから飛び降りてきて、床に突っ伏して顔を埋めている舞の頭を撫でてくれた。舞は色んな感情がごちゃ混ぜになって、ぐすんぐすんと泣いていた。玲子さん、ひどい。何も全部打ち明けなくたっていいじゃない。絶対他に方法があったはずだもん。たとえば秘蔵の薬でお姉ちゃんの記憶を抹消するとか……!
ゆかりが戻ってくる気配がした。舞は何かがゴトンという音を立てて自分の頭のそばに置かれたのに気づいて、真っ赤になった泣き顔を上げた。グラスに入った麦茶がそこに置かれていた。
「お姉ちゃん……」
「泣きやめ、舞。まず鼻をかみなさいったら。っていうか泣くほど嫌だったわけ、ばれるの?」
「わかんないけどなんか恥ずかしいだもん……」
「別に、恥ずかしいことをしてるわけでもないでしょ」
ゆかりが箱ごと投げつけてきたティッシュを受け取って、舞は思わず目をしばたかせて姉を見た。ゆかりは舞の椅子の高さを調節するのに忙しく、舞の顔など見ていなかった。
「これでよしっと……さてと、まああんたが京姫だろうがかぐや姫だろうが、どーでもいいんだけど。まずひとつ忠告しておくわ。危ないマネはよしなさい」
ゆかりの目はいつになく真剣である。ただ単に舞をからかいにきたわけでもなさそうだった。体を起こした舞は鼻をかみながら「でも……」ともごもごと反論した。
「戦わないと、みんなを守れないし……」
「知ってる。漆とかいうやつを倒すためには、どうしてもあんたたちが戦わなきゃいけないことも、赤星先輩から聞いてちゃんとわかってる。でも……というか、だからこそ言うの。あたしは戦ったこととかないから、っていうか普通はないから、わかんないけどさ。目の前で見て、あんたたちの戦いっていうのがどんだけ危険なものかはよくわかった。だから、舞、戦うにしても慎重にならなくちゃダメ。自分の命を大事にしないと。戦う時は、自分の命の安全を守った上で戦うの。よく知らないけど、捨て身の攻撃とか、自分を犠牲にするような作戦は絶対に禁止。まして無用な戦いはしないこと。わかった?」
「お姉ちゃん……!」
またもや瞳が潤みだそうとしていた。舞はもう必要もないのに鼻をかむふりをして必死に堪えた。
「守らなかったらお母さんとお父さんに言いつけるからそのつもりで」
「うん……!」
「それから二点、あんたに渡すものがある」
まずはこれ、と言って、香苗は膝の上のノートのようなものを舞に手渡した。遠目で見るより重厚な造りになっていることに舞はまず驚いたが、ラベンダー色の表紙に書かれた文字にはっとした――Diary。英語は不得意だったがこれぐらいならわかる。
「香苗の日記よ。香苗は毎日日記をつけてたの。今は休憩中らしいけど」
「でも、なんで……?」
舞が当惑して尋ねると、ゆかりは舞からやや目を逸らして、唇をきゅっと結んだ。
「……あんたも聞いてるでしょ?香苗が芙蓉とかいうやつに憑りつかれて、この間の文化祭の騒ぎを起こしたの。香苗は夏ごろから一時的な記憶喪失になることがあったらしいんだけど、どうもその間、芙蓉に体を乗っ取られたみたい。香苗はその時のことを日記に書いておいたんだって。それだけじゃなくて、芙蓉は香苗の体を乗っ取って、自分の過去のこともその日記に書いてるの。あたしにはよくわかんないけど、それがあんたたちの戦いの助けになればって香苗が提供してくれたのよ、その日記」
舞は深い感銘を覚えて、その場にいない香苗を真剣に伏し拝みたいほどの気持ちになった。本当になんて立派な女性なんだろう、香苗さんは。日記なんて絶対誰にも見られたくないに違いないのだし、そもそもあの時のことを思いだしたり誰かに話したりすること自体が相当に辛いはずなのに。それなのに、香苗さんは……
ゆかりはこほんと一つ咳払いをした。
「ただし、あんた以外の……なんだっけ?四神の仲間に見せる前に、あんたがよく検閲して。必要ない情報は極力みんなの目に触れないようにしてよ?別に香苗がそう言った訳じゃないけどさ…………そうじゃないと、香苗がかわいそうじゃない」
ゆかりは苦しそうに最後の一言を付け足した。舞は香苗の献身にも姉の優しさにもすっかり感じ入って、強くうなずいた。約束は絶対に守ると誓った胸に、舞は日記帳を強く押し当てた。
「と、それからもうひとつ渡すもの」
ゆかりは日記帳の下に敷いていたらしい白無地の洋封筒を、舞に投げつけた。宛先も差出人も何も書いていない。切手も貼っていないし、封筒の蓋も糊付けされていなかった。そっと中を覗いてみると、便箋が数枚重ねられて折りたたまれている。
「何これ?」
「赤星先輩からあんたにって」
「玲子さんが?」
「うん。なんでもあんたに話さなきゃいけないことをまだ話せてないから、そこに書いたんだって。ほんとは直接話すべきだろうけど、あんたがなんか自分を避けてるみたいだからってさ」
舞はどきりとした。意識的に避けているつもりはなかったけれど、言われてみれば玲子との会話から逃げようとしていたかもしれない自分を思い返して。そして、「話さなきゃいけないこと」とは恐らく司の変貌の理由だと悟って。
「こないだ香苗の輸血をしてる途中に渡されたの。手紙だったらあんたの知りたいタイミングで読めるだろうからってさ。よくわかんないわね、あの人……と、まっ、こーいう訳で!」
ゆかりは大きく伸びをしながら立ち上がった。舞はまだ手紙の与えた動揺から立ち直れないでいたが自然と姉の影を目線で追っていた。ゆかりは舞のよく知っている、暢気でちょっとがさつな、いつも通りの姉の姿に戻っていた。
「ガラにもなくかたっくるしい話したら疲れたわ。昼寝でもしよーっと。午後は香苗と買い物だしね。じゃっ、あたしはこれで」
ゆかりは舞の椅子を片付けもせずに、あくびをしながら扉に向かって歩んでいく。しかし、扉に手をかけたところで何か思いだしたようにぴたりと足を止め、それから振り向きもせずに言った。
「ねぇ、テディベアのおじいさん」
突然話しかけられて、左大臣はきょとんとする素振りを見せる。ゆかりの声はいつもよりほんの少し低かった。
「……舞のことを何があっても守って。ほんっとバカで、危なっかしい子なんです。だから、よろしくお願いします」
ゆかりは間髪おかずに扉の向こうに去った。答えを聞くつもりも、感動しながらもやがて姉の余計な形容に気づいて怒り出す舞の言葉に耳を貸すつもりもないらしい。やっぱり姉はいつもの姉だったようだ。
「私、バカじゃないもん!」と、レッサーパンダの威嚇のごとく両手を振り上げて怒っている舞を、左大臣がまあまあとなだめた。
「それより姫さま、玲子殿の手紙はご覧にならなくてよろしいのですか?」
舞はふっと我に返る。手紙は床に座り込んでいる舞の膝の上に日記帳とともに載せられていて、封筒の白さは日記帳の表紙のあいまいな優しい色をくっきりと劃して、何かあまりにも冷然として明瞭すぎるものを、格別誇示するというのでもなしに示しているように思われた。真実の無意識の驕り、無意識の横暴は例外なくそこにもあったのだ。
舞は乾いた指先で封筒の角を持ち上げた。司に何があったのかを知りたい気持ちは舞の胸に強くあったけれど、いざ玲子の前に立つと、いつも委縮してすごすごと後退してしまうのだ。まるで怯えた犬みたいに。そんなときに、もう何も知らなくてもよいのではないか、とささやきかける声がある。知ったところでどうなるというの?司が戻ってくるわけでもないのだし。知っても余計苦しむだけ。それに、そろそろ結城君を前世からも解放してあげるべきよ。舞、その方が貴女も楽でしょう……?もう結城司のことで思い悩まなくていいのだから。
舞はそんな声に身を任せてしまう一方で、自分がひどく無責任なこともわかっていた。舞を庇って死んでしまった司はどうなるの?司の行為も、司の存在も、全部なかったことにしていいというの?今の司のためではなく、以前の司のために、舞は知らなければいけないのではないか。確かにもういない人ではある。もう会えない人ではある。でも、司はあんなにも強く、深く、舞を愛してくれていた。舞を庇って死んでしまった司。たった今この瞬間に司がこの世界に存在しないという事実こそが、司の舞への想いの証なのかもしれない……
「姫さま?」
舞は厳かに封筒を開いた。便箋を取り出す指に震えはなかった。二つ折りにされた便箋を開いたとき、舞は、玲子の癖のないお手本のような字がきっちりと並んでいる、その風景だけを捉えた。
静かな呼吸をひとつして、舞は最初の一行を読み始めた。
四月十二日、私は鈴の音を聴いてあなたの元へ駆けつけました。ルカは公演のために……
「……ダメ」
舞はそう呟くと、便箋を折りたたんで封筒のなかにしまいこんだ。左大臣が心配そうな目つきで舞を見上げていた。
「姫さま……」
「私、知るのが怖い。四月十二日《あの日》のことを思いだすのが怖くて仕方ない。まだ読めないよ、私……」
舞はやや乱暴な手つきで、封筒ごと手紙を左大臣の方へと押しやった。
「読みたかったら、先に読んでもいいよ。でも、何も言わないで」
左大臣は悄然とした様子で封筒を押し返して首を振る。
「それはなりません。結城殿のことを最初に知るのは姫さまでなくては。そのために玲子殿は手紙に真実を託したのでしょうから」
「だけど、私、いつになるか……」
「いつでもよいのですぞ、姫さま。いつでもよいのです」
左大臣は手紙を改めて舞に突き返すと、舞の膝にぬいぐるみの手をあてた。舞は左大臣の黒い釦の目をじっと見つめた。
「怖くて当然なのですぞ、姫さま。姫さまはそれほどのものを失われたのです。ですから、自分の弱さをあまり責められますな。結城殿に何があったのか、知ったところで今更どうにもならないというのにも確かに一理はございます。さて、そういう時はどうすればいいか。過去を振り返れぬなら前に進むのです。香苗殿の日記を読みましょうぞ!そこに漆を倒すための鍵が、あやつめの正体が隠されているかもしれません」
「左大臣……ありがと」
舞は日記帳を再びぎゅっと抱きしめてちょっと笑った。左大臣の言う通りかもしれない。手紙が読めないのなら今は日記を読めばいい。漆を倒すためのヒントがきっとここにあると信じて――香苗が自分の秘密をのぞかれる痛みを忍んでまで舞たちに託してくれたこの日記には、香苗の痛みに見合うだけの価値があるはずだ。絶対にそうでなくてはならない。
舞は玲子の手紙を勉強机の抽斗にしまいこむと、左大臣と共に日記帳を繰りはじめる。あたたかな日の差し込む、とある土曜日の朝のこと。
「信じられないわ」
「ああ、信じられない……」
玲子は車椅子の上で、ルカは窓辺に寄って、うつむきながらそれぞれに呟いた。
「まさか漆の正体が月修院宗主だったとはな」
「奈々の英語、最悪だわ」
同時に言い終えた二人のうち、ルカだけが顔を上げた。
「玲子、君、なんの話をしているの?」
「……なんでもないわ。それより漆の話でしょう?」
「ああ、漆の正体は月修院だ。香苗の日記に記されていたことを信じるとすれば、だが」
奈々の模試の結果を折りたたんで玲子が水を差し向けると、ルカは険しい顔でうなずいた。放課後の生徒会室には今は二人の他に誰もいない。吹奏楽部のチューニングの音が、屋外で活動している運動部の声を掻き消して、階下から時折のぼってくるだけだ。
ルカと玲子は互いの顔をじっと見つめ合った。
「信じていいのかしら?」
「芙蓉はこの日記が私たちの手に渡ることを想定できなかったはずだ」
「つまり情報を攪拌する意図はなかったということね。確かに信憑性はあるのかもしれない。この『日記』のなかには知っている名前も見られるわ。卯木の宮が亡くなった時、おとうさ……松枝帝が喪に服していらしたのを覚えている。朱雀が十二の時、二条家の謀反の年だったわ。卯木の宮は変死を遂げたのだと女房からこっそり聞いたけれど」
「私も蕨の上のことは知っている。蕨の上はその翌年に二条家の残党に殺された。一条家が滅ぼされたあの夜に……」
「しかし、なぜこんなものを芙蓉は記したのかしら?」
玲子がところどころ墨塗り教科書のように黒いマーカーで不器用に消された日記のコピーを人差し指で叩きながら言うと、ルカは皮肉っぽく笑った。
「奴の考えなんてわかるわけがない。舞はこの内容に特に虚偽は感じなかったというんだろう?」
「舞の直感も頼ってよいのやら不安なところではあるけれど」
「信じよう。虚偽を書くのなら芙蓉だってもう少し虚栄を張るだろう。まったく不幸な生い立ちだ。だが、同情はできない。自分のためにならば平然と他人を踏み躙り、命を奪うことも辞さず、幼いころから身内さえをも手にかけてきた。あれは生まれながらの毒婦だ」
玲子は思うところがないらしく、特に何も言わなかった。
「……漆は月修院の宗主だったとしましょう。しかし、私たちが知っている月修院とは外見が違いすぎる」
「ああ、その通りだ」
ルカは窓から離れると、机の上に広げられたスケッチブックを覗きこんだ。スケッチブックには奈々が記憶を頼りに再現した前世の絵が数多く描かれていた。その最後のページに、奈々は漆の姿を描いていた――赤い月夜の下に浮かぶ冷ややかな横顔――奈々の画力のせいもあってか、ルカはその絵を見る度にいつも背筋がぞっとするのだったが、他の四神たちが他の絵を懐かしみながらも、その絵のページだけはむやみに開こうとしないのも、きっと同じような理由からであろう。
月修院――玉藻の国において、死後の世界を司るとされて信仰されていたのが月の女神である天満月媛命であった。玉藻の国の人々は(幸運にも)、ある一定の年齢を超えると、死後の世界における安寧と転生を祈り俗世との縁を切って月の女神に仕える習わしであったのだ。それはかつての日本における出家とよく似ていた。月に仕える生活としての究極の形は、京からはるか北にある月修院に入ることであり、そこで女は巫女として、男は僧侶として祈りと潔斎の日々を送るのである。彼らを統べる宗主は一般に月修院さまと呼ばれ、もっとも高潔で人格的にも優れた僧侶のなかから選ばれる決まりとなっていた。代々の帝でさえ月修院さまには一目置いていたものだ。
京姫や四神たちが生きた当時の月修院宗主は十七代目にあたり、俗名を二条楷といって、四十をようよう過ぎたばかり、宗主として選ばれるのには若すぎるといってもよいほどだった。それだけに優れた方ではあった。ルカはスケッチブックを捲って、奈々が描いた月修院の絵を探り当てた。巫女や僧たちを背景に、京姫と帝に優しく微笑みかけている、紫紺色の僧衣をまとった背の高い男こそがそれであった。青々と剃り上げた清らかな頭、威厳に満ちた物腰、その一方で少しも相手を怖じさせない穏やかな灰色の瞳。月の女神の印である三日月を象った銀の首飾りを提げたその姿は、今もなお、ルカに安堵と尊敬を与えこそすれ、決して戦慄させはしなかった。
この男が月修院だと?ルカは首を振る。やはり信じられない。
しかし、いつの間にかルカの傍らまで車椅子を運んでいた玲子はその絵のなかに何かを見つけたようだった。玲子は小さく息を呑むと、すばやく指で絵の背景を指さした。
「ルカ……!」
ルカも見つけた。月修院の背後で慎ましく、銀の冠を被った頭を垂れる巫女の一団の先頭に立つ女を。青藤色の衣を纏った巫女の集団のなかで、たったひとり、冠の下に玉虫色の羅をかけて顔を覆い隠している。確か月当と呼ばれる役目で巫女たちの頭目たる存在だったはずだが……
「なっ……?!」
次の瞬間、ルカは見開いた。羅からわずかにのぞいている、女の唇が玉虫色に色づけられている。それだけではない。奈々は女の髪の色を薄色で塗っていた。
「奈々の気まぐれじゃないだろうな……っ!」
思いがけぬ収穫に対する衝撃と興奮に、ルカは笑みのようなものさえ浮かべながら、次のページを捲った。次の絵は昼食時の光景で、そこに月当は映っていない。その次は巫女たちの住まいである潭月寮を、京姫と青龍と玄武の三人が案内してもらった時の様子を描いたようだ。京姫と青龍の前方にいる女の、羅からのぞいた髪の色……次の絵にはいない、その次の絵にも。その次の絵は、森に迷い込み紫蘭の君によって救出された京姫が皆の元へと戻ってきた場面。そこにもやはり薄色の髪の女が立っている。この場面では緊急事態だったせいだろうか、羅が捲れて顔立ちがわかる。それはまさしく見知った顔であった。
「ビンゴだ……!」
「奈々は描いている時に気づかなかったのかしら」
「仕方ないさ。奈々が芙蓉と接したのは月宗寺の本堂で一回きりだもの。この絵を描くまではね」
「そう。でも、これでわかったわ。芙蓉のいう月修院は第十七代目……」
「俗名、二条楷――不思議なものだな。私はどうしたって二条家との因縁から逃れられないのか」
玲子はただ瞳をルカの方へと寄越した。スケッチブックのなかの月修院を再びじっと見据えているルカの髪を、かすかに開いた窓から吹く風がそよがせている。ルカは視線をそのままに、玲子の肩に手を置いた。
「だが、やはりなぜ漆が京を襲撃したのかは謎のままだ」
「えぇ、なぜ外見が大きく変わったのかということも」
「次の集まりの際の議題だな。とにかく奈々は褒めてあげないといけないね。チーズケーキでもおごってあげないと。その……いくら模試の結果が悪かろうと」
「駄目。相殺でケーキはなしよ」
その時、玲子の携帯電話の着信音が鳴り響いた。どうやら父親かららしい。玲子が電話に出るために退室してしまうと、ちょうど来客があって、ルカもやむを得ずその場を離れることとなった。
唐突な秋の風がスケッチブックのページを繰っていく。同じ月宮参りの一場面を描いたページを開いて、風はふっと凪いだ。花盛りの藤棚の下、藤の色が透かしている佇む女の影――




