第四十九話 雨止み(上)
刀の面は常に明滅していた。それは夜の闇と、琥珀の毛皮の輝きとを交互に映し出しているためである。いかめしい顔つきをした狩衣姿の老人は、老練の獅子のような俊敏で的確な動きで手にする剣を閃かせる。獣を追い詰めることこそできなかったが、決して琥珀の牙を近づけようとはしなかった。白く太い眉の下ではまた、黒々とした眼光が鋭く琥珀の緋色の炎と切り結んでいた。
銃を構えつつ、玲子はやや距離をとって慎重にねらいを定めていた。獣の動きは素早く、容易には捉えられない。焦りは禁物だった。手元が少しでも狂えば左大臣を打ち抜きかねない。
左大臣の影が堤防の下にひらりと飛んでいったのを追って、琥珀の姿も玲子の視界から消えた。だが、玲子が銃を下ろしたのはそのためではなかった。突如として胸のあたりがずきずきと疼きはじめたのである。琥珀が醸し出す荒れ狂う嵐の冷気とは違う、刃物を首筋に充てられたような冷たさを、玲子は背筋に覚えた。
銃口と共にぱっと背後を振り返った玲子は、闇に沈んだ家々の壁の色を睨み続けて、ひそめた眉根を開こうとしはしなかった。何もいないが何かがいる。あるいは漆よりもよほど狡知に長け、邪で、悪意に満ちている何かが――深く息を吸い、胸元の疼きを抑えようとしながら、銃口で闇を切り開くようにして玲子は辺りを見回した。やはり何もいない。
その時、真上から冷たく重い果実が落ちてきたように、何かが玲子の背後に現れて、耳元でささやきかけた。
「あんまり邪魔しないでくださいねぇ、いい子ですから」
「……!」
身を捩ろうとしても体が動かない。囁きかけてきた女の声は、正体を晒さぬままに玲子の耳に軽薄な笑いを吹きかける。眼鏡がみるみるうちに曇っていく……これはレンズを霜が覆っているためだ。
「ふふ、あなたにはあまり乱暴したくないんですよねぇ。だから大好きなパパの声でも聴いて、ちょっとばかしおとなしくしててくださいな…………『玲子、愛してるよ。私にはお前しかいないんだ……ほら、お父様のそばにおいで』」
「っ!」
女がけたたましく声を上げて笑う。玲子は嫌悪と怒りのあまりに心だけは弾かれつつもまるで見えない無数の手に抑えつけられたかのようにまだ動けないでいる。なんという悪夢だろうか――聞こえた声がまさしく父親の声そのものであったなんて。しかし、一体この声の主は何者なのだろうか。新たな敵であることには間違いないけれど、それにしてもどこかで……
「危ないっ!」
可憐な声が悪夢を、霜を取り払った。雫を結んだレンズの向こうに、燃え盛る金色の炎を確かに認めた。玲子の瞳は驚きに見開かれ、そして睫毛がレンズを伝う雫を拾ったために微かに細められた。その間にも銃を持つ手はかかげられてはいたが、ねらいが定まるより先に炎が隕石のように玲子に突撃して、車椅子を宙高く跳ね飛ばした。炎は玲子の意識をも焼き尽くした。
「玲子さん!」
咄嗟に駆けつけようとするも落下していく玲子の身を受け止めることはできなかった。金属が地面に打ちつけられるすさまじい音を立てながら車椅子が墜落し、玲子の身もそれから間を置かずして鉄塊のすぐ傍らに崩れ落ちた。駆け寄ろうとした京姫は、ずれ落ちた玲子の眼鏡が白くひび割れているのと、青ざめて眠っているその額に紅の鮮血がすっと一筋の線を描いているのが見えた。一瞬、姫にはそれが玲子の前髪かとも思われたのであったが。
「玲子さん……!」
あと一歩を踏み込もうとした京姫は、横から殴りかかってくる風に気づいて間一髪で身を交わす。着地の瞬間にバランスを崩しかけて身を立て直した京姫は、玲子との間に立ちはだかる琥珀と真正面から向き合う形になった。ふと気がつくのは、こんな時に身を守ってくれる武器を自分は持っていないということだ。確かに自分には霊力があるが、それだけでは敵の攻撃をいなすことはできない。仗があった時は随分と便利だったものだ。だが、どれだけ惜しんでも仗はもう戻ってはこない。今の京姫には必要ないとみなされたために。
(でも、もし今この瞬間、武器があれば……)
『桜花……!』
両掌を琥珀に突き出して姫は唱えかける。しかし、予想通り、琥珀は京姫を待ってはくれなかった。直前まで立ち尽くしていた場所に琥珀の息が立ち込めるのを、京姫は夜空の風に吹かれつつ感じた。後退した京姫はまだまともに身を支えきれぬ間に、ぱっと身を屈めて琥珀の爪から首を庇わなくてはならなかった。もし一瞬でも遅かったら、頭と胴体が切り離されることになる。京姫は思わずぞっとした。やはりせめて武器さえあれば……!
その時、「姫さま!」と声がして、左大臣が河原の急斜面を駆けあがってやってきた。左大臣は銀の刃を振りかざして琥珀の目を惑わせると、琥珀が忌々しそうに唸るすぐ鼻先で、京姫と獣の正面を代わった。京姫は流星のように銀の輝きをほとばしらせる刃のしたたかさを後目に駆けに駆け、横たわる玲子の元へとようやく駆けつけた。河原の草の上に横たわれるその胸が静かに上下をしていることに、京姫はまずほっとした。額の傷は後で玄武が治してくれるだろう。それにしても、頭を打ったらしいことが少し気になるが。
今はともかく琥珀を退治しなければ。立ち上がった京姫は、再び琥珀の方へと行きかけた時、玲子の唇が紡いだ言葉を聞いた。それは京姫の足を止めさせはしたものの振り向かせはしなかった。ただ、姫は翡翠の瞳をほんの一瞬だけ苦しそうに閉じた。
開いた瞳が、左大臣の危機を捕らえた。三日月のように閃くものがあったかと思うと、左大臣の狩衣の袖が引き裂かれ、その拍子に、まるで指貫の裾が地面から飛び出てきた見えない手に強く引っ張られたとでもいうように、左大臣は大きくバランスを崩した。京姫はたちまち地を蹴った。
「左大臣!」
思わず叫んだその声で背後から迫る京姫に気づいたのだろうか。琥珀は右耳をちらりと寝かせて姫の方を片頬で見遣ると、よろめきながらも刀を振る左大臣を前足で跳ね飛ばし、身を翻して京姫の方へと駆け出した。「えぇっ?!」と慌てふためきながら急ブレーキをかけた京姫は、琥珀の突進を到底交わしきれないことを悟るやいなや、ぱっと地面に伏せて頭を庇ったが、そうしたところで、ただ轢き殺されるか踏みつぶされるかの違いだと気づいたころには、もう琥珀の巨大な影を頭に浴びていた。お、お願い、飛び越えて――!
ひゅっと矢が風を切るような音が頭上に聞こえた気がした。続いて雷鳴が鳴り渡るようなすさまじい騒ぎが起こった。はっと顔を上げた京姫は、草の上でもつれあう三頭の獣を見た。一頭は太陽のように巨大で黄金に煌めき、二頭は一双の月のように白銀に輝いている。天文学的な速度で動き回る三つの影をぽかんと見つめるうちに、姫はそれが狼と二頭のボルゾイだと気づいてはっとする――ボリスとアンドレイ!
「白虎!近くにいるの?!」
風の声で呼びかけるも返事はない。なぜだろう。だが、考えている暇はない。今は目の前のことに集中しなくては……!京姫は両足を開いてまっすぐに立つと、川辺の黒い靄を切り薙ぐように右手を突き出した。
優美なボルゾイたちが今や赤く充血した歯茎までをもむき出しにして、琥珀に食らいつこうとする様がぼんやりと見える。対する琥珀の頭は振りかざされ、牙の影を銀の雫のように飛び散らしている。目に見えないほどの速さ――でも、ボリスとアンドレイのおかげで琥珀の身は一所にとどまっている。今がチャンスだ。
獣の唸りが指先の皮膚をびりびりと震わせて、心臓にまで伝わってくるような気がした。私の技のいいところは味方を傷つけずに済むところだなと姫は思う。これだけは武器ではどうにもできないことだけど……
(さようなら、琥珀……)
さあ今度こそ、桜花爛漫を――
ああ、やだな。また背中の傷が疼き出して…………
その時、この場にひどく不似合いなキャンキャンという鳴き声が聞こえてきて、京姫は眉をひそめた。
「待てっ!」
キャンキャンと吠えたてながら河原の斜面を走り上ってくる子犬を、司が追ってくる声がした。どうやら琥珀とボルゾイたちの戦いに興奮して、トビーが司の腕を飛び出してきてしまったらしい。駄目、こっちに来ては……!京姫ははっとする。今来ては、琥珀たちの乱闘に巻き込まれてしまう。
「トビちゃん、ダメッ!!」
京姫が駆けだしたのと、琥珀が子犬に気がついたのが同時であった。そして、琥珀がボルゾイを振り捨てて子犬の元に駆けつけたのと、結城司がトビーを抱きかかえようとしたのもまた、同時であった。
「結城く……!」
見ひらかれた翡翠の瞳に、憎悪が凍てつかせた氷柱の突端に光った月光を点じて強く閃いた。司の立ち姿はその閃きの下に影絵となった。影絵は光に刺し貫かれてかき消された――姫の瞳から輝きを奪っていっそう強く、いっそう冷ややかに煌めく月光に。
「ゆうき、く……」
「ゆうき、く……」
色彩を失った世界に月の色ばかりが満ちていた。風が草の上を渡るささやきをも、生ぬるい川のにおいも、獣の毛並みをも、月の色が染め上げていた。それなのに司の姿ばかりはどうして……影絵は朽ちた木のように、けれども確かに重さを伴った音を立てて崩れ落ち、暗い川面に向けて転がり落ちる。
まるで悲鳴をあげるようにトビーが甲高い声でわめきはじめるとともに、突如世界がざわめきはじめた。辺りを包んでいた闇夜が街灯に照らされた部分だけは相変わらず白く穿たれながら、激しく揺らめき、加速して、流れていく。自分が司の体を追って走り出していることに気づいたのは、もう斜面の半ばを下りかけたころだった。それでも足は止めない。司の体が川べりにかかる。
「結城君、だめ……!」
唇にのぼる言葉。そうだ、だめ。絶対だめ。だって伝えてないもの、私。
『舞ちゃんは司のことをどう思ってるんだい?』
この胸のなかにあるもの。
『私は……』
伝えなければならないもの。
私は、結城君のことが――――
闇のなかに湧き上がる飛沫が点綴され、白い火花のように姫の視界に弾けた。それを掴もうとするかのように手を差し伸べた京姫は、何を考えるでもなく、黒い水のなかに飛び込んだ。
――まとわりつく水泡が僕を水底の暗闇へと引き込んでいく。
どうしてこんなにも凍えていて、僕は孤独なのだろう。あの少女を突き放してしまったせいだろうか。それとも僕が生まれながらにして孤独なせいだろうか。だって、僕は……
そう、僕はかわいそうな紫蘭、見捨てられた紫蘭、ひとりぼっちの紫蘭――これは紫蘭の記憶だ。
この世界でたったひとり、僕しか、結城司しか知らない記憶。すなわち真実であったかどうかさえあいまいな、けれども確かにこの身に託された記憶だ。草を渡る夜風と、満天の星と、夜露の冷たさと。
……白虎に打たれた頬がじんじんと疼くのに、なにか拗ねた少年のような気持ちになりながら、紫蘭は決定的な何かが失われたような失望感に満ちて、長いこと草の上にぞんざいに腰を下ろしていた。けれども、それは後悔というのではなかった――たとえそれが後悔であったとしても、紫蘭はそれと認めなかっただろう。紫蘭はやはりどこかでほっとしていたから。少女が去り、馴染み深い静謐が再び戻ってきたことに。
そうだ、いつまでも一緒にいられたはずがない、と紫蘭は思った。少女は熱っぽく、甘く、さながら水飴のように紫蘭を包んで蕩かしはしたが、そんな煩わしい湯浴みにいつまでも耐えていられる紫蘭ではなかった。だから、きっとこれでよかったのだ。自分自身のためにも、あの少女のためにも。あの少女は愛する人々からうんときついお仕置きを食らった後で、また元のとおりの日常に帰るのだろう。紫蘭のことなど忘れ、退屈で幸福な人生をそれと知らずに折り返しはじめるのだ。そして、短い生涯を終える――
では、紫蘭は?と紫蘭は思った。僕はどうなるのだろうか。もはや単調で幸福な人生など自分には許されていないのだという事実に、紫蘭は改めて呆然とする。そこに、草を食み終えた夕景が戻ってきて、慰めるように頬をすり寄せてくる。美しい葦毛の馬を撫でながら、紫蘭はただ眠ろうと思う。今宵は疲れきっている。長いこと姫の枕として貸していた腕からはまだ痺れが抜けきらない。まるでそこに火傷を負ったように。
だから眠るのだと、紫蘭は夕景にそうささやいて、草の上に横たわった。
翌朝、頬を撫ぜられる感触で目を覚ました紫蘭はなおもまだ、決定的な何かが失われたような失望感にとらわれたままであったが、ふと――そう、薄雲を透かして朝日を見出した時であっただろうか、この感覚が、そのまま外界にも当て嵌められることに気がついたのだった。この玉藻の国もまた決定的な何かを失っていた。紫蘭が寝苦しげに臥している間に。
夕景さえいつもの落ち着きを失っている様子だった。もはや自分を縛りつけるものが何一つないのを悟った紫蘭は、ただ予感が促すままに愛馬に跨り、一路来た道を引き返したのであった。
たとえ見咎められたところで死罪になるだけだ。死など恐ろしくはない。もっと恐ろしいのは……何?紫蘭は道中問い続けた。答えは京へ着くとともにおのずから明らかになった。
そう、そこで僕は――否、紫蘭は見たのである。焼け爛れた京、失われた内裏、すでに蠅の昼餉となりかけている、無数のかつて人であったものたち。そして、昨晩草の褥でその身を強く結びつけたあの少女が、無残な亡骸と化したその様を。
人々が群れ集い一様に沈み切って押し黙るその向こう、磔刑の足元に、少女はうつ伏せていた。槍に刺し貫かれた傷跡が背に生々しく、流れ出た血が池のようにその周りを取り巻いていた。その首は捩じ切られ、すでに誰かによって持ち去られた後と見えた。
紫蘭は突如、吐き気を覚え、人混みを離れた。真昼の暑熱に渇かされ、紫蘭は瓦礫のかたわらで嘔吐した。今見たものはなんであったのか。あれが、たった昨夜まで、小鳥の巣の底を思わせて、熱くやわらかであったあの身体だというのか。紫蘭に微笑みかけ、くちづけ、愛を打ち明けたあの少女だというのか。ああ、ああ、ああ!あの翡翠の瞳はどこに失われたのだ?!長くやわらかな髪は?!この手で掻き撫でた樺色の髪……
紫蘭は天を仰ぎ見た。夜の眠りの間に確かに変質しながらも、惰性によって今日もまた世を照らし続けるふてぶてしくも忌まわしい日を見上げた。喘ぎながら、かつて愛おしんだ者たちの名を呼んだ――主上、大后さま!今どこにいらっしゃるのです。栃野、お前もこの地に横たわっているのか?四神たちはどうしたのだ?命がけで京姫を守らねばならないはずの乙女たち……左大臣と右大臣はこの変事に何をしているのだ?
桐蔭宮さま!この惨状をどうお思いか?
父上!何をなさっているのです?貴方ならお救いになれるではありませんか。疲れきり、口を閉ざして立ち尽くしていた大勢のひとびとを。彼らこそが貴方が慈しまれた百姓ではありませんか。そんなところで……どうして……どうして何もなさらないのです…………
答える声はなく、ただ蠅の羽音とものが燻り朽ちる音だけがところどころで低く鳴った。紫蘭はふらつく足で留め置いた愛馬のもとへと向かうと、焼け落ちた朱雀門を出た。門の外には冬の緑が茂っていた。しかし、それとてもう、昨夜夕景の蹄が踏んだ緑ではない。たとえ戦火を逃れたとしても。
紫蘭は夕景を駆けさせ続けた。思惑はなかった。ただ京に充満していた腐臭から逃れたいという思いから、昨夜と同じ道を辿りつづけた。疲れ知らずの夕景は主人をおぞましい場所から遠ざけんと駆けに駆けたが、やがてその足取りも弱々しくなっていった。日の暮れかけるころ、川のせせらぎを聞きつけた夕景は疲れた身を引きずるようにして水辺へ至ると、これ幸いにと主人をそこで下ろした。紫蘭は愛馬に支えられながら川のほとりに至り、そこで共に水を飲んだ。
顎を濡らしながら獣のように水を貪っていた紫蘭は、愛馬が草を食みに離れたすきに、滔々《とうとう》と流れる川面を見下ろした。この川は京の東を流れる東雲川の流れではないかとの考えがふっと胸を過ぎったためだった。
川面は早すぎる冬の夕暮れの空の絶妙な色合いを映し出していた。薄桃色の雲の片鱗と蒼褪めかけた空とが互いに侵しあい、溶け合い、まざりあいながら、幾重もの帳となり、その奥に群青色の夜が姿をほのめかしている。銀色の星を象嵌した夜だ。再び夜が来るのか、と思って、紫蘭はその時不思議な安らぎさえ覚えたものだ。水の流れる音が紫蘭の心地を惑わしていく。
川面に映る星の光――それは遠い神代において、天つ乙女が目にした景色ではなかったか。今ならばわかる気がする、と紫蘭は思った。先の世の神々が遠く旅立ち、たったひとりこの世界に取り残された天つ乙女の悲しみが。
「古の神々は、暁に消え残る、かの星々。残されしこの身は一人、君を恋ふ……」
天つ乙女とたったひとつ違うのは、紫蘭はもう歔欷もできかねるほど疲れきっているということだ。代わりに古い歌を口ずさんで、紫蘭はそれがかつて京姫が歌っていたものだと気がつく。その京姫はもうこの世界のどこにもいない――京を守る貴い姫巫女は、京も、自分の身ひとつ守れずに、惨殺されたのだ。
ふと、水面に映った顔に、かの少女の微笑みが重なって見えたような気がした。はっとして屈みこんだ紫蘭が、馬の激しくいななく声に驚き、乱れる水面から振り返ったその時、胸元に冷たい衝撃を受けた。刃の閃きと、夕闇に覆い尽くされた男の影とが、風のように目の前を過っていく。
……あれは賊であったのか。それとも、白菊帝の最後の末裔を絶やすという崇高な使命を負って紫蘭を追ってきた京の刺客であったのか。今となってはわからない。
細やかな水泡がまとわりつき、僕の体を水底の闇へと引き込むのを感じる。そして、紫蘭の記憶はそこで…………
……いや、
やはり彼女はそこにいたのだった。水底の闇のなかに。微笑んで、手を差し伸べて。長い樺色の髪を玉藻のごとく靡かせ、翡翠の瞳を優しくきらめかせながら、彼女が僕の名前を呼ぶ。
「結城君」
結城……?
「大丈夫だよ。私が助けるからね、絶対に離したりしないからね」
彼女の手が僕の手に結ばれる。水の冷たい抵抗など、はじめからないもののように、やすやすと。彼女のぬくもりが掌に滲む。
「どうして……?」
どうして暗い水底だというのに彼女の姿だけが鮮やかに見えるのか。その声がまっすぐに僕の耳に届くのか。それに、どうして僕はこんなにも苦しくて、泣いているのだろうか。
彼女が笑って、水のなかで僕の身を抱き寄せた時、僕は思い出す。そうだ、それは紫蘭がかつて彼女にした仕打ちを覚えているからだ。彼女の純情をもてあそび、突き放し、傷つけた。それはただ自分自身が傷つきたくないというその一心で。
「……大好きだから」
紫蘭さんのことが大好きだから、と、以前も彼女はそう言った。桜陵殿の石垣を乗り越えて。でも、その彼女をさえ僕は突き放したのに。
「私は、結城君のことが大好きだから」
結城君――彼女にそう呼びかけられて、僕は初めて気の遠くなるほど長大な時の流れを知る。しかし、一つの世の終焉と始まりを超え、あれほどの仕打ちの後で、そしてあれほどの悲劇の後で、彼女は今もなお僕を愛し続けているというのだろうか。僕にはそれがにわかには信じがたい。信じがたいのに信じたいと願っている。彼女と出会いながら疑い続けた前世があって、それでも再び彼女と出会えて信じたいと思えた現世が、奇蹟のように僕に降りかかって。
「……京野」
僕は彼女の手を強く握り返す――――
……篠川のほとりに一頭の金色の獣がたたずんでいる。かつて彼がこの辺りを自由に疾駆し、雨に紛れて獣を捕らえていたその時代も、彼はこの川に水を飲みにやってきたものだ。その時の川辺はもっと彼にとって親しみやすく、草も土も風もその足裏に馴染んだものであった。今はそこらに人間のにおいが染みついている。
気に食わなさそうに、琥珀は低く短くうなった。
ボルゾイたちは疲労して草の上でぜいぜいと荒い息を吐いている。もう琥珀にとっての危機ではないから敢えて構わないでおく。琥珀の足元にたたずむ黄金色の子犬は、さっきから川面を見下ろしたり、琥珀の顔を見上げたりを交互に繰り返しながら、不安そうにくんくんと鳴いている。しかし、琥珀の眼はじっと川面の上に据え置かれたまま、子犬の方を見遣ることなかった。
見上げる月が夜の漆黒にあくまでも冷然と身を嵌め込んだのとは対照的に、黒い水に洗われた月は陶然としてあらかた形を失い、金色の藻のように岩陰に漂っている。かつて忌まわしい人間どもと対峙した時は雨の降らぬことが琥珀にとって仇となった。あの篝火……身を焼かれる苦痛よりも、憎悪の方がはるかに勝った。数百年に渡る長い眠りの間にも、その憎悪は片時たりとも忘れたことはない。しかし、行き場をなくした幼い人間どもの魂に関しては別だった。人間どもが皮肉にも琥珀の父性を信仰するゆえ、水子とやら呼ばれる者たちはいつのころからか、眠れる琥珀の周りに群れ集うようになった。琥珀はか弱い者たちを脅かそうとする者から彼らを庇護し、世話をしてやったものだ。
だが、そうだ。やはり人間どもを許したわけではない。思い出すのはやはり煌々と燃え盛るあの緋色の篝火のこと。この身を焼いた焔のこと。人間どもも落ちぶれたものだ。よりによってあの邪悪な妖と手を組むとは。あいつはここ最近うろうろしているのには琥珀も子犬も感づいている。
……かつて琥珀を焼いた焔の色が、再びその眼に燃え上がる。水底よりひとつ浮かんできた小さな泡沫を琥珀は見逃さなかったのだ。今宵が雨の夜でなかったために。
川岸から飛び上がった琥珀は、泡沫に続いて、月影に浮かび上がった黒い澱みがその正体を現すより早く、その影に喰いかかった。飛沫があがり、獣はその顎のうちで憐れな獲物をしとめたかのように見えた。だが、それはじっと待ち構えていた獲物にしてはあまりにも小さすぎた。なにせ、琥珀の牙の隙間からその腕ひとつ突き出ていないというのだから。
異変に気がついた琥珀が、咄嗟に口を開いたその瞬間、くまのぬいぐるみの小さな影がそこからぴょこんと飛び出してきて、水面に降り立つとともに狩衣姿の翁へと変身を遂げた。
獣は唸った。しかし、獣はおのれの唸りのなかにも、かすかな水音を聞きつけた。振り返ろうとした獣の眼光を、水面の色を返して黒鉄色に鈍く閃く剣の刃がさらっていく。その刹那、薄紅色の花びらが獣の鼻づらをそっと撫でるようにかすめた。
『桜花爛漫……!』
少女のささやき声を顧みる琥珀は、夥しく舞い散る花の嵐を鼻先に浴びて、牙を剥きながらもわずかに目を細めた。もしかすると獣は遠い春の日を思い出したのかもしれない。この禍々しく輝く魔物のごとき巨躯を持つ獣にも、彼自身の時代があり、その頃には傍らに妻もおり、その足元には子犬たちがじゃれついていたはずであるから。そして、その時の彼は野生そのものであった。ただ野性のままに獲物を追い回し、その肉を貪り食う、そうした彼のごくあたりまえのささやかな営みに、人間どもがどんな目を向けようと、どんな恐怖と畏怖とを抱こうと、彼には関わりのないことだった。人間ども?人間など、憐れな怯えた野兎に等しかった。震えあがる彼らの前を、琥珀は悠然として群れとともに駆けたものだ。そうだ、人間どもなど視界にも入らなかった、ただ野生の喜びに満ちていた、あの春の日――
が、子犬の鳴き声を耳にした時、彼はたちまち憎悪の獣に立ち返った。武器を持った人間どもの群れが、救いを求めて鳴く子犬たちを閉じ込めた檻を囲んでいた。燃え立つ篝火はそのあまりの眩さゆえに群れ集う武士の顔色を奪い、黒々とした巨大な塊のように見せていた。あの炎の色が点じられるとともに、琥珀の眼差しは桜の花弁を焼き尽くすかのように見えたが。
「琥珀」
少女は怯まず呼びかける。彼女は細い左腕に、傷ついた少年の体を支えている。子犬にやたらと構っていたあの少年だ。水に浸って黒ずんだ衣服の胸元に目を凝らせば、傷口のあたりが赤く滲んでいるのが見える。しかし、その胸は確かに上下していた。
桜の嵐を起こして突き出された少女の右腕は、まだ琥珀に向けられたままであった――食いちぎろうと思えば食いちぎることができる位置。
「ごめんなさい……でも、大丈夫だからね。トビーちゃんのことは、何があっても私たちが守るから」
薄紅色の花弁が夥しく舞い、少女の髪と衣装から、ぽたぽたと雫が落ちる。その目まぐるしく、わずらわしい煌めきのなかで、少女の翡翠色の瞳だけがまっすぐに彼を見つめていた。突き出された右手がためらうように差し伸べられ、彼の頬に触れる。そう、今こそ食いちぎってやればよかったのだ。そうすれば、たとえ花の嵐にこの身はさらわれようとも、憎むべき人間どもに報いることはできたのだから。
……けれども、彼はそのまま遠い春の日へとさらわれることを選んだ。別れの間際、川岸で前足を水に浸してわめく子犬をほんの一瞥だけして、少女の瞳を睨むようにしかと見据えたのち、ふっと瞼を閉ざして。そして、琥珀は去った。少女は、閉ざされた瞼の内にもはや憎悪の篝火のかき消えたことを知っていたが、それでもというべきか、それゆえにというべきか、少女の胸のなかに燻るものは、長いこと消えることはなかった。
「……さようなら」




