第四十三話 毒を薙げ!(上)
氷柱から雫が滴り落ちる。床に溜まった水の色は濃く、赤く。
「君は……!」
見開かれた白虎の瞳が映し出したのは愕きと当惑であった。今まさに芙蓉にとどめを刺すというその時、舞台袖から駆けつけてきた男装の少女は先ほどまでこの舞台の上でロミオの役を演じていたために、よく白虎の印象に残っている。否、それだけではない。この少女のことを白虎はよく知っていた。
(京野ゆかり……!)
京野舞の姉、白虎にとってこの世界でもっとも大切な人の家族――桐一葉の刃はわずかにゆかりの右肩を切っただけだ。致命傷ではないが、それでも痛みはあるはずだ。戦いに慣れていない一般人にとっては尚更のこと。ゆかりはぎりぎりと歯を食いしばり、痛みに足をふらつかせながら、それでも香苗の前に踏みとどまって退こうとしなかった。
「何よそれ……本物、なの……?」
ゆかりが顔をしかめて言った。しかし、そんなことは些事であるらしい。肩をぎゅっと抑えながらゆかりは次の句を継いだから。
「一体どうしてそんな物騒なものを香苗に向けようっていうのよ……?」
「君には関係のないことだ。そこを退いてくれ、さもないと……!」
君の背後に佇んでいる芙蓉の顔がどんな企みを宿しているかわからない。君も危険なんだ、そんな言葉はゆかりの怒りの声に遮られた。
「関係ない?クラスメートが、友達が刃物向けられてるのに、関係ないってことはないでしょ?!白崎先輩、あんた……自分が何してんのかわかってんの?!」
「わかっているさ!だが、京野君、いま君の後ろにいるのは北条院香苗じゃないんだ。私は香苗を救いたいんだ……!」
「香苗じゃ、ない……?」
かすれた声でつぶやいて、ふっと思い出す。本番の前の香苗の様子に違和感を抱いたことを。香苗の中にはまるで別の人格が潜んでいるように思われた。ゆかりはそれをジュリエットだと思い込んだのだったが、ゆかりのなかのロミオはどうしてもジュリエットを愛することができなかった。では、香苗のなかに他の誰かが棲みついているとでもいうのだろうか。そんな馬鹿なことがあって……!
「ゆかり」
背後から唐突に名を呼ばれて、ゆかりはびくりとした。でも、間違いなく香苗の声だ。
「香苗……香苗だよね?」
「ゆかり、たすけて……痛いの、とても苦しいの……」
「香苗……!」
振り返ろうとした動きは細い腕に閉じ込められて塞がれた。胸を締め付ける力の強さと、衣装を透かして皮膚に染み入る手の冷たさに、ゆかりは戦慄した。対峙している生徒会長の表情がはっきりと物語っている。先ほどの言葉は本当だと。いま自分の後ろにいるのは北条院香苗ではない、別の何者かであると。
「かな……」
「動かないでいただけますこと?思いがけず殺してしまうかもしれませんもの……えぇ、白虎、この娘だけじゃなくて、お前にも言っているの。聞いていて?少しでも妙な真似をしたら、この娘の首を胴体から切り離しますわよ」
傷ついた肩に歪んだ笑いが生温かい吐息を押し当てた。
「それくらいの切れ味はあるでしょう?お前の氷でも」
「き、さま……っ!」
白虎が低くうなる。羽交い絞めにされたゆかりには目を動かすだけが精いっぱいであった。震えを押し殺して懸命に瞳を真下へと向けると、なにか、巨大な針か刃のように、艶やかに尖って光っているものが目に入った。ゆかりにはそれしかわからなかったがそれだけで充分であった。香苗が、香苗のなかにいる何者かが自分を殺そうとしているという事実はそれだけで十分にわかったから。
(なによ、これ……悪い夢?それともこれも芝居だっていうの?)
「剣を捨てなさい。そして、舞台から降りなさい、白虎。そうですわね、変身を解けと言った方が早かったかしら。鈴をここに置いていきなさい。さあ、早く」
白虎は無言のまま後ずさり、伏せた目で香苗の太腿の傷のあたりを探った。破れたドレスの裾から香苗の左腿はくっきりと露わになっていて、痛々しい傷跡からは変わらず血が流れ続けているが、突き刺さった氷柱のその先端が欠けていた。
「どうしましたの、この娘が死んでもよいと?」
ゆかりは青ざめ震えながらこちらを見つめている。訳がわからないながらにも、自分の命がもはや自分の力ではどうしようもないことを、他人に委ねるしかないことを悟ったらしかった。京野ゆかりを見殺しにすればあるいは――そんな考えが脳裏を過る。だが、京野ゆかりは京野舞の実の姉である。駄目だ。舞が不幸になるのであれば、芙蓉を倒す意味などないのだから。
手を滑り落ちた桐一葉は床の上で白い鈴となった。芙蓉が満足げに見つめるなかで、ルカは命ぜられた通りに舞台を降りた。
「そう、それでよいのですわ」
「会長……!」
「さて、次はお前の番ですわ」と、怯えるゆかりの頬に手をあてて芙蓉は微笑む。ルカははっとした。
「待て!その娘に手を出すな!」
「お前がわたくしに命令できる立場ですの?まあ、すぐには殺しませんから安心なさいな……ねぇ、ゆかり、わたくしを庇ってくれてありがとう。嬉しかったわ。わたくしね、先ほど知ったのです。お前たちは、たとえこの身を燻らせ、疼かせ、焦がしてやまぬ感情でなくとも、そのために命を賭けられるのだと。ですから、わたくし、お前に賭けたのですわ。だって、お前は香苗のロミオなんですもの、そうですわよね?」
友の手が妖しくいかがわしく胸元を撫でさすり、友の唇がやわらかく傷ついた肩に寄せられる。ゆかりの身はびくんと跳ねた。
「香苗を、かえ、して……っ!」
「おやおや、怖がらなくてもいいのよ。わたくしは香苗なの。わたくしは香苗とひとつの強い感情でつながっているのだから。ねぇ、ゆかり……だから、ちょうだい?そうでないと、わたくし、死んでしまうわ」
「い、や……っ!」
玉虫色の唇が息を傷口に吹きかけると、吐息に紛れて四匹の蝶が現れて血に濡れたゆかりの肩の上に足先を浸した。渦巻き状に巻かれていた口吻がするすると伸びて、傷の中に差し込まれると、ゆかりは声にならない声を上げて、芙蓉の腕のなかでもがいた。
「大丈夫よ、ゆかり……ほうら、痛くない、痛くない」
掌に血がにじむほど強く、ルカは拳を握りしめる――なぜ私は何もできずにここに立っている?苦しんでいる少女ひとり救うことができない。鈴がなければ私は何もできないというのか……いや、その通りだ。前世の力がなければ私はただの無力な少女に過ぎない。組み敷かれ、屈服させられる、この世界にあふれる弱者のひとりに過ぎない。
それを前世では知っていた。女であるというだけで弱者だったあの世界で、白虎は男の装いを纏った。大切なひとを守りたかった。だが、その実いつも本物の男に脅かされていた。
「あっ、はっ……くっ……!」
(私は弱い。どうしようもなく弱い。このままではきっと負ける……みんな死んでしまうというのに)
ゆかりの苦悶の声を前に拳がわななく。今、唯一の頼みの綱は玄武だ。玄武が目覚め、芙蓉の気づかぬうちに矢を射てくれること。それを願うしかない。玄武は芙蓉の鞭に打たれて以来、目覚めていない。まさかとは思うが……いや、そんなことはないはずだ。
(目を覚ましてくれ。玄武、お願いだ……!)
奇跡を願うしかない自分。誰かを頼るしかない自分。弱い弱い自分……
「ああ、そういえば玄武を忘れていましたわね」
おもむろに二階席の方を見上げて芙蓉がつぶやいた。ルカは内心の動揺を必死に押し隠した。
「せっかくだから玄武からもいただきましょうか。ルカ、お前は駄目よ。お前は見ていなくてはね。観客として、この悲劇の全てをね」
「やめ……っ!」
「あら、攻撃してきてもかまいませんわよ、わたくしは。玄武の方がこの娘より大事なのは当たり前。だって、玄武は前世から共に過ごしてきた仲間ですものね」
たった今気がついた。魂の純潔を汚すとは、弱りきった憐れな仲間を手にかけることではないのかもしれないと。勝利のために弱い存在を踏みつぶすことなのかもしれないと。玲子はやはり穢れていないのだ。ルカが庇うまでもなく。ルカもまだ穢れていない。だが、今この場において純潔を穢さなければ仲間を救うことはできない。
芙蓉の元から蝶が飛び立つ。命を秤にかけてその価値を見定めること、重い命を選び取り、軽い命を見捨てること。それこそが真に魂の純潔を穢すことなのだ。
(私は先ほど京野ゆかりの命を秤に載せた。彼女は重たかった。なぜなら、京野ゆかりは京野舞の姉だから)
しかし、玄武の命と比べればどうなる?玄武は大切な仲間だ。そしてこの戦いを切り抜けるには玄武の力が必要だ。玄武を救うことが、この世界の大勢の命を救うことにもなる。
「私たちは前に進むしかない。立ち塞がる者を切り捨てるしかない」
ルカ自身の言葉が木霊のように、今ようやく跳ね返って降り注いでくる。あの時には気がつかなかった残酷な響きを持って。ルカはうつむいた。答えは示された。はじめからわかっていたではないか。この戦いは悪と善との戦いではない。侵略するものと守るもの戦いなのだと。
(申し訳ございません、姫さま……この罪はきっと贖います)
白虎の鈴は照明を受けて輝いている。遠目からでもその位置ははっきりとわかった。私はただ、そこに向かって、風のように速く駆ければよい。
位置について、よーい、のピストルの音が、却ってルカの足を留まらせた。何が起こったのかわからぬまま呆然と舞台の上を見渡したルカは、銀色の星のように、粉々に砕け散ってきらきらと光る氷の破片を見た。弾丸に撃ち抜かれて。
(玲子……!)
スタートよりやや遅れた。だが、この遅れは巻き返せる。ルカは駆けだした。芙蓉が身を建て直すより前に。たどり着ける、私なら。守ることができる。京野ゆかりも、北条院香苗も、この講堂にいる全ての人を。
舞台脇から木守が現れて、胴体で以って床に倒れ込みかけたゆかりを拾うと同時に、尾で以って鈴をルカの方に投げ渡した。舞台に向かって飛びあがったその一瞬で、ルカは鈴をつかみ取った。
舞台に降り立ったとき、ルカはすでに白虎であった。桐一葉の刃が照明を浴びて眩く映えるのが、白虎自身の目にも流星の尾かと捉えきれぬうちに、白虎は芙蓉の頸動脈を斬りつけた。
「なっ……!」
鮮血は高く噴きあがって白くきらめくものの一切を赤く濡らした。照明も、寝台のシーツも、天蓋の布も、木守の鱗も、溶けかけた氷柱も、白虎の外套も。寝台に仰向けに倒れ込んだ香苗の上に白虎は覆いかぶさって、低く囁いた。
「終わりだ、芙蓉」
「いやよ、こんなことがあっていいわけ…………漆さま……っ!!」
抗う太腿を白虎は両膝でしかと挟んだ。爪を立てる手首を押さえつけ、滲んだ悔し涙の上に、優しささえ漂わせた微笑みを落とす。
「地獄だろうが、月の裏側だろうが、お前の行く先は知らない。だが、いずれにしても連れていかれた先で漆を待つことだ。じきにあいつも来るだろう」
「なにを、馬鹿なことを……漆さまに、おまえたちが……勝てる、はずが……」
涙に洗われたように香苗の瞳が色を失っていく。
「漆さまは……この世界を、必ず……くつがえ、す…………」
「玄武!!!!」
押さえつけていた柔い四肢が力を失うのを感じたその瞬間、白虎はシーツを歯で引き裂いて香苗の首の傷に宛がい、冷たい体を抱きかかえながら二階席に向かって怒鳴った。応える声がかすかにして、たった今木守に叩き起こされたばかりといった様子の玄武が、青い顔で木守の背にしがみついて、二階席から飛び降りてきた。まだくらくらするらしく、ややぼんやりしているが、体は無事であるらしい。
「香苗の傷を塞いでくれ!今すぐ!」
「わかった。でも、傷を塞いだだけじゃダメだ。このままじゃまちがいなく失血死するよ」
「わかっている。だから今すぐ輸血する……玲子!」
上手側から出てきて、柏木の腕に抱きかかえられた玲子はすでに銃を携帯電話に持ち替えていた。
「ドミトリー・ドミトリエヴィチ?赤星です。今から怪我人がそちらへ向かいますので対応お願いいたします。早急に輸血が必要です……」
「京野君、香苗の血液型は?」
床にへたり込んで事のなりゆきを唖然と眺めるばかりであったゆかりは、香苗を見下ろしたままの白虎に突然尋ねられて不意を突かれた。
「香苗の血液型は?!」
「えっ、えっと、確かО型……」
「玲子!ミーチャに伝えてくれ!今回は母さんから輸血してもらう!それ以外は絶対駄目だと」
玲子が電話口で白虎の注文を伝えているあいだ、ルカはもう香苗を抱いて舞台を飛び降り、講堂の出口に向かって駆け始めていた。その背中に玲子が言う。
「ルカ!赤星家の車を使うといいわ。校門の外に停まっているはず」
「わかった!」
蹴破られた扉から陽ざしが入り込んで、講堂内を明るく照らし出す。ゆかりはただ見守るしかなかった。何もかもわからなかったのだから。香苗に何があったのか、自分になにがあったのか。なぜ観客席の人々は眠りこけていて、今目が覚めたみたいにもぞもぞと動きはじめたりあくびをしたりしているのか。芝居が退屈すぎたわけではないはずだけど……ああ、ひどい、お父さんとお母さんまで。
「大丈夫ですか、お姉さん?」
「えっ……」
後ろから両肩を包んだのはどこかで見たことがある少女だった――ああ、そうだ、前にうちに来たことがある。舞の友達の、確か奈々とかいう子……この子、さっきまで変な格好して変なバカでかい蛇と一緒にいて……あれ、いつの間にかわたしの怪我、治ってる……?
全てが夢みたいだ。私も観客と一緒に眠りこけていたのではないだろうか。その時、ゆかりは自分の衣装に赤い血の模様がついていることに気がついた。この血は私のではない。そうだ、香苗のだ。だから夢じゃないはずだ。確かに香苗は生徒会長に運ばれていった……
ゆかりは立ち上がった。外からどやどやと教員やら警備員やらが入ってきて、にわかに辺りが騒がしくなってきたが、ゆかりの耳には入らない。
携帯電話を下ろした玲子の方に歩み寄って、ゆかりは尋ねた。
「赤星先輩、香苗は助かるんですか?」
玲子は眼鏡越しに落ち着きすぎたまなざしをゆかりに向けた。赤星玲子と話すのは初めてだ。この人もやはり舞台の上の人、これまで縁のない人であったから。
「ルカが助けるわ」
玲子はやはり落ち着きすぎた口調で答えた。
「私も香苗のところに連れていってください。それから何があったのか教えてください」
背の高いボディガードに抱き上げられている玲子の顔はゆかりよりやや上にあった。感情に乏しい目にじっと見下ろされているのは居心地悪くもあり、腹立たしくもあった。確かに香苗がどうなろうがこの人には関係ないかもしれないけれど……!
しかし、意外にもあっさりと玲子は承諾した。拍子抜けしているゆかりに玲子は付いてくるように言った。舞台袖の出入り口を使いましょう。あの観客席の騒ぎのなかを抜けていくのは至難の業よ、貴女は主役なのだから。




