第四十二話 芙蓉再び!!(下)
市立桜花中学校二年生一行による百合煎移動教室も、いよいよ終わりが近づきつつあった。一行は二艘の遊覧船にわかれて、煎湖クルーズを楽しんでいた。船着き場ではすでに観光バスが皆を待っているはずだ。これでやっと家に、桜花町に帰れる――安堵のなかに一抹のさびしさが入り混じるのはなぜなのだろう。
クラスメートたちが鳥居先生の制止も聞かずに船内を駆けまわるのをよそに、舞は美香と二人、デッキに並んでやや強い風を前髪に受けていた。
「あたし、結局昨日告白できなかったの」
そうなんだ、と舞はつぶやいた。美香は船が蹴立てる青い波に目を落としていたから、舞がすでに知っていることをその表情からは見取れなかったはずだった。
「最後の最後で勇気が出なくてさ……ほんと自分がいやになっちゃう」
「仕方ないよ。告白ってすごく勇気がいるもの」
「だからこそ、ちゃんと百合煎でしたかったの。学校に帰ったらきっとできない気がする。あたし、きっと、今日告白するより明日東野と笑いあえる方を大事にしちゃうもん。だって、あたし、弱いから……」
「そんなことない」と、その一言だけは、舞は風のなかでも毀れぬように、強く静かに言った。美香の瞳が揺らぎだすのを見て舞は手すりにかけられた手を取った。
「そんなことないよ、美香。美香が弱いんだとしたら、それはみんな同じなんだよ……私もそう。だからみんな龍明神社にお参りにくるんでしょう?勇気が欲しいから。恋はかなうから、神さまがかなえてくれるから、だから大丈夫だって。そういう安心がないと告白なんてできないから」
「そうなの、かな……」
美香はポケットから龍明神社の恋守りを取り出して、掌のなかで見つめながら言った。まだそんなものを持ち歩いていたいじらしさに、舞は一瞬胸が苦しくなった。
「そうだよ、大丈夫。美香だけが弱いわけじゃないし、弱いから恋がかなわないわけじゃないよ。だからね……」
「もう全くあんたってやつは!」「だからお前ってやつは!」少年少女の怒鳴り声が同時に船内に響き渡った。いつものごとく、翼と恭弥だ。二階の甲板で何やら言い合っている声がこの一階後部のデッキまで風も怖じずに降りてきたものと見える。船内をはしゃぎ駆けまわっていたクラスメートたちも思わず二階を見上げて騒ぎの方に注目した。舞は思わずため息をついた。……まったく、タイミングが悪い。
クラスメートたちの視線に倣って二階デッキを見上げる美香の手をぎゅっと握りしめて、舞は美香のうつろな瞳を掬い上げると、そのまま湖の景色の方へと導いた。遊覧船はちょうど湖の中心にあって、紺青の湖が陽を浴びてきらめきひろがるその向こうには、龍明山が青々と聳えていた。澄みわたった空のどこかで鳶が高く啼いている。強い湖上の風に揺られて、飛びはほんの一瞬、湖面に影を落としたように思われた――うららかな、秋の午後であった。
(衣姫はもうここにはいないのかな。でも、たとえ遠くからでも見守っていてほしいな。ここに寄せられてくるたくさんの恋の願いを)
「まーいー!みーかー!」
名を呼ばれて舞と美香は同時に振り返った。前方のデッキから理沙と優美が手を振っている。
「写真撮ろっ、写真!」
「佐々木君が撮ってくれるって」
「な、なぜ僕が……」
舞と美香は顔を見合わせて笑った。そうだ。今日という日の思い出を残さなければ。切なくても、苦しくとも、きっといつかは懐かしむことになるだろう今日この日の思い出を。
いち早く駆け出した美香を追ってデッキ前方へ向かって走っていくと、鳥居先生の「こーらー!船のなかを走るなっつってんでしょ!」との怒号が飛んだ。だが、舞の足を止めたのは鳥居先生の声ではなかった。
(えっ……?)
鈴の音が鳴った気がした。けれども音は続かない。ただ、胸のなかに冷たい水滴が落とされたかのように体の芯から震えが来る。心地よかったはずの風が皮膚を冷やしていく。あらゆる光が、色が、声が、音が途端に無意味になっていく。
「まーいー!どうしたのー?」
「船酔いでもしたかー?」
舞ははっと二階デッキを見上げた。白いリボンで結んだ藍色の髪を垂らして、翼もまた凍りついたような表情でこちらを見下ろしていた。間違いない。今この瞬間、桜花町で誰かが戦っている。
「みんな……!」
青い静脈を透かしている、薄い貝殻のような香苗の瞼がかすかに動いた。膝の上に香苗の身を抱いてその手を握りしめていたルカは、短い眠りから少女が目覚めて、淡い春の夕べのような光を灯して瞳が見開かれるのを、厳かな面持ちで見守った。
「会、長……?」
「香苗、どこも痛くないか?」
「えぇ。でも、わたくしは一体……」
ルカは何も答えぬままそっと香苗を抱きしめた。何も知らなくていい。身体の傷は玄武が癒してくれた。心も身体にも掠り傷ひとつ残しやしない……!この戦いで傷つくのは、四神たちだけで十分だ。
「心配いらない。君は芝居の途中で倒れただけだから」
「お芝居の……?」
香苗の腕が弱々しい力でルカの背に回される。
「ああ、そうだわ、わたくし……お芝居を続けなくては」
「もういいんだよ。今は休むんだ、香苗」
「いいえ、いけませんわ、やり遂げなければ。わたくし、かりそめの死の薬を飲んだのですもの。この次には葬られて、暗い暗い霊廟のなかへ運ばれるのです。キャピュレット家の霊廟に。そして、そこでわたくしはロミオに会うの……冷たい骸と化したロミオと…………!」
香苗の目からあふれ出した涙が肩に流れるのを、ルカは感じた。ルカは香苗を憐れんだ。香苗の涙を、芝居をやり遂げられなかったことへの悔しさゆえと受け取っただけであった。花冠もすでに萎れて朽ちてしまった薄色の頭を、ルカはそっと撫でる。
「香苗……」
「会長、どうしてですの?どうして…………
…………どうして邪魔をするんですの?わたくしの舞台を」
「……!」
ルカが香苗を我が身から引き剥がしたのと、二階席からじっと二人の様子をうかがっていた玄武が矢を射かけたのが同時であった。矢はジュリエットドレスの裾に突き刺さって震えた。すかさず木守が飛びかかったが、少女は長い前髪で目元を翳らせつつにやりと笑うと、さながら見えない糸で吊られたように、ゆらりと闇に浮かび上がった。木守の牙は千切れた裾の端を噛んだ。
「さすがに油断しきって変身を解いていたわけではありませんのね。褒めてさしあげますわ。おめでとう、ほんの少し生き永らえましたわね」
「芙蓉、貴様ッ!」
一体どうやって生き永らえたのだろう。紅葉狩は確かに芙蓉という悪しき魂を香苗から取り去ったはずなのに――と、ルカは頬をかすめて何かが浮かびあがっていくのに気付いた。ほとんど本能的にそれを手に掴んだルカは、掌を開いてみて、そこにぼろぼろに崩れた紫色の蝶の残骸を見出した。あっと息を呑んだルカは、続けて幾匹もの毒の蝶がたった今羽化を迎えたがごとく、暗い講堂のなかに美しい埃のように浮遊するのを見た。
無数の蝶は足元の氷を透かして来たるのである。氷の下に横たわる人々の元より飛び立って。
「一体なにを……」
同じ光景を二階席から目撃していた玄武が唖然として言うと、そちらに背を向けていた芙蓉は横顔だけで振り返って長い睫毛の下から流し目を向けた。
「あら驚いていただけましたこと、玄武?先ほどあの気色の悪い生き物をお前がわたくしにけしかけたでしょう。ですからわたくし、あまりにおぞましくてどうしても耐えられずにこの体を抜け出しましたの。幾匹もの、幾千匹もの小さな小さな蝶に身を変えて。そして蛹が羽化を待つように香苗が目覚めるまでのあいだの束の間、眠っていたのです。おかげで甘い蜜にもありつけましたわ。人々の精気という蜜にね」
「まさか……!」
玄武が目を瞠ると、芙蓉は高らかな哄笑を響かせた。その間にも蝶は人々の生命の力を運んで芙蓉の元へ集い来る。蝶は芙蓉の髪に、皮膚に、衣服に、靴に止まっては次々に芙蓉と同化していくようであった。木守が食い止めようとしていたが、もはや焼石に水である。
玄武が芙蓉目掛けて矢を放とうとする。しかし、蝶を掌に集めた芙蓉が右手をかざすと、そこに新たな鞭が現れて、神渡を玄武もろともにしたたかに殴打した。玄武は「ああっ!」と声をあげて二階席の壁に弾き飛ばされた。玄武は後頭部を打ちつけてうめいた。
「玄武!」
ルカは鈴を手に取った。が、芙蓉はルカの次なる行動を見透かしていたように、もはや目もくれずして鞭をルカに向かって振るった。咄嗟に木守が頭突きをしてルカを庇ったが、蛇の体に跳ね飛ばされたルカは、氷の上で受け身を取ろうとして床を見失った。その瞬間に、氷の床がすっと消えてしまったのである。
ルカの身は廊下に折り重なって倒れている観客の体の上に落ちた。右半身に鈍い衝撃を受けてルカは身を屈める。頭だけは辛うじて守ったが、なんだかくらくらするのはなぜだろうか。きっと蝶の毒のせいに違いない。蝶の翅からこぼれおちる鱗粉が砂のようにきらきらと光って講堂内に満ちている。たった今、ルカがその胸の上に倒れ込んでいる、生徒の父兄らしき男性のシャツの襟元から飛び立った蝶からも……ルカははっとした。男性の胸がもはや鼓動を打っていないことに気がついたのだ。男性の皮膚は蝋のように白く、冷え切っていた――もはやそこに血が通っているとは思えない。
思わず手を伸ばして蝶を捕えようとしたが、蝶はルカの指をすり抜けてしまう。そういえば鈴はどこだろう。弾き飛ばされた衝撃で取り落としたらしい。講堂は氷の床が消えてもなおその冷気を留めて冷え切っているというのに、ルカは嫌な汗が額ににじむのを感じた。玄武は気を失っているようだし、自分は毒の鱗粉に窒息しかけてまともに動けず、しかも四神の鈴を見失ってしまったときている。こういう状況を言い表す言葉はよく知っているが、あまり使いたくないものだ。
さながら悪い夢のなかにいるようだ。毒の蝶の夥しさたるや、そのささやかなはずの翅の音がわずらわしく聞こえ、呼吸さえも苦しくなるほどだ。芙蓉は無限の蝶の女王として、その中心に君臨している。心なしかその顔は――これまで芙蓉芙蓉と呼びながら、やはり香苗の顔をしていたにもかかわらず――かつての芙蓉のそれに近づきつつあるような気がしてならない。冷然とこちらを見下ろしている表情だけではなく、その造作そのものが。これは無限の蝶の見せる幻であろうか。
肩を鞭で打たれて、上半身を起こしかけていたルカは再び床に伏した。先ほどの男性の胸の上から転がり落ちて、ルカの体は、男性と手を取り合っている女性のかたわらに収まった。女性の皮膚も男性と同様に青ざめていて、呼吸をするそぶりは見られない。この講堂は、今、何百という人の骸に埋め尽くされている。ジュリエットが運ばれるはずだった、キャピュレット家の霊廟のように。
芙蓉の鞭はうつ伏せに横たわるルカの背に次々と振り下ろされた。雷に打たれたような衝撃に、ルカはのけぞりながらも情けない悲鳴をあげないように必死で歯を食いしばる。皮膚が破れていく。背骨までもが砕けそうだった。かたわらの女性の胸元を飾るパールの光が、涙でにじんでいく。
「抵抗は終わりですの?」
苦しい息を吐くルカに、言い返す余裕はとてもなかった。滴り落ちる汗が目に入ったが、霞む視界を拭うこともできない。
「案外あっけないこと。でも、わたくし、待ちましたものね。あらゆる苦難にもあらゆる退屈にも耐え忍んで。ですから終わりにしてさしあげますわ」
鈴、鈴、鈴……鈴はどこにあるんだ。鈴さえあれば…………
「わたくしを毒婦と呼んだことを、最後の痛みで後悔なさい」
痛み?指先から感覚が剥がれ落ちていくというのに――私は今、何を見ている?今、何に触れている?駄目だ。これでは前世と同じだ…………
前世…………
「わたくしを毒婦と呼んだことを、最後の痛みで後悔なさい」
痛み?指先から感覚が剥がれ落ちていくというのに――私は今、何を見ている?今、何に触れている?駄目だ。これでは前世と同じだ…………
前世…………
ねぇ、玲子……いや、朱雀。私はね、嬉しかったんだ。君が私を苦しみから解放してくれて。
何も見えない闇のなかで君を感じていた。生まれ変わって、私はようやくわかったんだ。あの時の感覚は決して幻などではなかったって。
芙蓉の毒に目も眩み四肢も萎え、それでも地を這って京へたどり着いた惨めな獣に、君は憐みをくれたんだね。もう私が助からないことを君は見抜いたんだ。だから、君は私を手にかけた。銃弾で憐れな獣の頭を撃ちぬいて。痛みは何も感じなかった、私の方はね。でも、君は魂の純潔を穢したんだ。私のために。
朱雀、この恩を、私はまだ何も返せていない。
ねぇ、朱雀……いや、玲子、私はこんなところでくたばるわけにはいかないんだ。
君と約束した。私が白虎として覚醒したあの日、必ず姫さまをお守りすると。舞を幸せにすると。
こんなところでくたばれないのに。約束したのに…………
「ルイ、どうして泣いてるの?」
……ルカ?
「なに、大事なものを落としちゃったの?」
そうなんだ。でも探しにいかないで、ルカ。あの時もそう言って、ベランダの手すりから身を乗り出して、君は……
「だいじょうぶだよ。今度はこんな近くにあるんだもん、ほら」
闇のなかで薄っすらと光るものがある。懐かしい小さな手がルカの手を導いてくれる。
「ルカ、でももう私は……」
「ルイ、ぼくはルイなんだよ。ルイがルカなのと同じ。だから力をあげられる。君がぼくとして生きることで、君はぼくに生命をくれた。だからこんどはぼくが生命をあげる。生きよう、ルカ……さあ、戦って」
ふと気がついたとき、ルカはかたわらの女性の首飾りに手を伸ばしていた。パールの首飾り――いや、このパールの光に紛れていたんだ。四神の証の白い鈴。
意識は澄みわたり、体は力にあふれていた。ルカは芙蓉の鞭の先を鮮やかに交わすと、すくっと立ち上がり、蝶の闇に向かって高く鈴を掲げた。
鈴から一片舞い降りたのは、雪の結晶である。結晶はきらきらと銀色に輝きながらルカの胸元へ零れ落ちる。結晶はルカの皮膚に張りついたまま、たちまちルカの全身に氷の枝を張り巡らせ、雪の花を咲かせた。凍れる花はたちまち白い袖となって広げたルカの両腕に纏わりつき、銀の縁取りと刺繍のある白い背子がその上に重なった。旋風の起こって、ルカの足元に絡まりついたかと思うと足首のあたりから紺色の袴の裾が揺れ始める。風の外に伸ばした足袋の足は黒い長靴が覆った。風が止むと、舞い上げられていた透明な領巾がルカの両肩を包んで、たちまち白の布地へと変わり、外套となってルカの背中にひろがっていった。その腰に巻かれた帯革から佩けるのは、彼女の武器である剣・桐一葉である。
白虎が桐一葉で宙を薙ぐと、空間を埋め尽くしもはや翅の動きさえ鈍くなりつつあった蝶たちは、紫色の凍れる葉となって雹のごとく白虎の足元へと降り注いだ。雹は悉く砕け散り、銀の星を鏤めたような壮観が辺りにひろがった。
白虎は観客席の背もたれを蹴って高く飛んだ。空を踏む白虎の長靴の裏を結晶した空気が支えて、氷の階段を作り出す。その果てに閃いた白刃は、芙蓉の肩を切り裂いた。
傷ついた肩を庇いながら、予想外の成り行きに芙蓉は顔を歪めてみせた。
「往生際の悪い……!」
「それはこちらの台詞だ」
大きく旋回して芙蓉の背後に回り込むと、白虎は鞭の先を剣で払って逃げる芙蓉を追った。
『氷室!』
氷で模られた剣が四方から芙蓉を取り囲んできらめいたその刹那、一斉に獲物に向かって突き刺さる。芙蓉は鞭でその切っ先を逸らしたものの、いくつかの剣はまともにその身に突き刺さった。片翅の破れた蝶のように、芙蓉は空中で大きくよろめいた。
氷柱が刺さった太腿から血が滴り落ちている。一度地上に降りた白虎は、血の雨を肩に受けたその時、芙蓉の顔から芙蓉の面影が薄れていくのを確かに認めた。白虎は肩の上の鮮血を見て目を細めた。
『松風……!』
海の唸りを連れた風がジュリエットドレスの裾を煽り、芙蓉の身は風に流されるままに舞台上の寝台に崩れ込んだ。垂れ下がる天蓋が絹の川のようにさらさらと流れ落ちてその腰を覆い隠した。
少女の息づかいが芝居めいて、静まり返った講堂内でたったひとつ脈を打っている。上下する白い砂の上に紅の海が広がりゆく。
寝台の前に立って、白虎は身を起こそうとする少女を見下ろした。白虎を見上げる涙を湛えた瞳はすでに香苗の瞳であった。
「やはり血だな、芙蓉」
「……!」
不自然なほどの芙蓉の狼狽にも白虎は取り合わない。
「血が貴様と香苗を媒介として結びつけているということだ。血を失えば貴様も力を失うのだろう。芙蓉、お前を倒すのはもはや容易い」
「しかし血を失えば香苗も死にますわよ。お前はそれでもいいのね?」
笑みともつかない醜悪な表情を少女は浮かべる。香苗にはもっとも似つかわしくない表情に、白虎は顔をしかめた。
「いや、香苗は殺さない」
「そう。ならばやってみるがいい。さあ、香苗を刺し貫きなさい、その剣で。さあ……!それで死ねれば、あの世で本当の命を!」
寝台から降りて立ち上がる香苗の腰元から血に濡れた絹の布がはらりと落ちる。この誘いは罠かもしれない。何よりこれは一か八かの賭けだ。殺さない。でも、香苗の命が助かる保証はないのだ。風のなかで必死に玄武に呼びかける。返事はなかった。
だが、もう機会は逃さない。白虎は桐一葉を振りかざしかけた。
「かな、え……っ!」
上手から飛び出してきた人物がその刃の前に立ちふさがった。




