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京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第四章 現世編―芙蓉の巻再び―
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第四十二話 芙蓉再び!!(上)

 ……ああ、なんだか遠くから誰かの声が聞こえてくる。聞き覚えのある声だ。そうだ、毎日のようにこの講堂ばしょで演説を聞いているもの――あれは生徒会長の声だ。生徒会長・白崎ルカ。類まれなる美貌とありとあらゆる才能を持ちこの学園に君臨する雲の上の人物だ。あたしには縁のない人物。あの人の立つ場所は舞台の上で、あたしが立つのは観客席だ。でも、それに不満はない。観客席は楽しいもの。感情のままに手を打って笑い、声を上げて泣き、隣の席の人と語り合うことができるから。きっと舞台の上にいる人は窮屈だろう。求められたことしかできなくて。


 それなのにどうしてみんな舞台の上に憧れるんだろう。あんなに聡明な香苗でさえもが……香苗は舞台の上に憧れる気持ちの強さのあまり、ついに舞台に上がってしまった。香苗はきれいだし、頭もいい。あたしとは出来が違うのは確かだ。でも、はっきり言える。香苗はやっぱり舞台向きじゃない。


 あたしが言っているのは決して香苗と生徒会長が不似合いだとか、そんな話ではない――香苗の想いは知っている。香苗はあたしに打ち明けなかったけど、香苗の目線を追っていれば大体のことはわかった。生徒会長を見るとき、香苗の頬は紅潮し、瞳は潤みを帯びて輝いていた。それは他の人にはわからないささやかな変化だったのかもしれないけれど、あたしにはわかった。あたしは香苗の親友だから。そうだ。だからこそ、香苗と生徒会長がどれほど似つかわしい二人であろうとも、その想いが伝わらないのもわかる。


 変なの……あたしと香苗。舞台の上の人間じゃないのに、今日は主役だなんて。ロミオとジュリエットだなんて。ふふ、変なの。香苗が好きなのは会長なのに。あたしがロミオだなんて…………



 なんだか頭がひどく重い。そして口の中が渇いている。ぼやけた視界に、スポットライトの光が痛いほどに眩しい。スポットライトのなかに向かい合って立っているのは会長と香苗だろう。影絵のようにしか見えないけれどきっとそうだ。


 ところでなんであたしは床の上に突っ伏しているんだろう。確かあたし、本番の途中じゃなかったっけ?もしかしてあたしが倒れたから、会長がロミオ役、代わってくれたのかな。よかったじゃん、香苗。ロミオとジュリエット、会長とできて……あたしなんかじゃ、なくて…………



 眠い。眠い。眠すぎる。意識が今にも途切れそうだ。会長が代わりをしてくれるなら、あたし、もう少し寝ててもいいかな。でも、なんか悔しいな。せっかく頑張って練習したのに。クラスのみんなで、絶対に優勝しようって言ってたのにさ。


 会長の手に剣が握られている。ジュリエットが死ぬ場面なんだろうか。でも変だ。ロミオは毒薬で死んで、ジュリエットが剣で自らを刺すはずなのに。なんでがジュリエットに剣を向けるの?こんなのは台本にない。ロミオがジュリエットを殺すなんておかしい。台本と違う。台詞が違う。だから、止めなきゃ。止めなきゃ……止めなきゃ……!

 


「かな、え……っ!」






「『私のたったひとつの恋は、たったひとつの憎しみから生まれたのね……』」


 つぶやいてみて、少女は恍惚として微笑んだ。


「香苗、お前の恋はわたくしの憎しみに育まれ、今飛び立つのですわ。恋を叶えましょう……潰えてしまうはずだった憐れな少女の恋を」


 少女はふと瞳を上げた。講堂内に立ち込めていた紫色の霧の内側を、銀色の蜘蛛の糸のように細い光線が巡ったためであった。と、冷気が辺り一面を包むとともに、硝子が粉々に砕かれるような音がしたかと思われた刹那、霧は凍て付き、無数の細やかな雪片と化して、音を立てて床に散らばり落ちた。


 暗闇の中央で、雪片の光を受けて長い金色の髪がきらめいた。白い外套マントは舞台を照らすライトの光を集めて輝いた。観客席にあってもなお、少女は舞台の上の人物さながらであった。


 その姿を認めた舞台の上の少女は微笑をそのままに、瞳を異様に輝かせた。


「ふふ……さすがにこれしきではくたばりませんわね」

「くたばりぞこないは貴様の方だ、芙蓉。なぜお前が()()にいる」


 アイスブルーの瞳は静かな怒りを湛えて舞台の上の少女を、否、芙蓉を見据えていた。


「出ていけ。香苗のなかから」


 芙蓉はラベンダー色のジュリエットドレスの裾を揺らしながら笑みを歪めてみせた。


「気にいりませんの?この娘のことはさほど気にかけていないと思ってましたけど。かわいそうに、この娘がどれほどお前を想ってもお前は振り向きもしなかったじゃありませんか」

「黙れ」

「もっとも、そのおかげでわたくしはこの娘の身体を手に入れられたわけですけれど。この娘が強く強くお前のことを想っていたおかげで。この娘の愛、わたくしの憎悪、お前に対する執着がわたくしたちを結びつけたのですから」

「黙れと言っている……!」

「ふふ。それに、見知った顔の方がよいじゃありませんか……どうせ殺されるのなら」


 芙蓉は白虎を見下ろしながら右腕を観客席の方へとすっと伸べた。その動きを受けて白虎は袴の腰にいていた剣を抜いた。桐一葉きりひとは――全てのものをむなしくすることからそう名付けられた――の葉は雪原にうち出でたがごとき閃きを宿した。袖が捲れてむき出しになった芙蓉の(いな、香苗のと言うべきだろうか)のただむきと桐一葉の刃は、その一瞬、同じ白さで向かい合っていた。


 芙蓉の微笑みが歪むとともに腕の白さが濁った。観客席にいる白虎からは見取れぬ些細な変化ではあったが。少女の皮膚は濁り、静脈の色と汚れた血の色を透かしたのちに幾匹もの薄色うすいろの蝶となってはらはらと飛び立った。


 白虎は目を細めた。飛び立ったばかりの蝶たちはたちまち宙に凍てついて砕かれた。


「貴様の毒は効かない。私の風は全てを凍てつかせる」

「……まあ、なんと残酷な」


 砕かれた蝶の破片を両手に受けて、芙蓉は大仰に首を振った。


「これでは世界が凍えてしまいますわ。白虎、お前はこの娘が凍え死んでしまってもいいというの?」

「香苗は殺さない」


 白虎は澱みなく言い返した。


「……だが、貴様を倒すために犠牲が必要だと言うのなら、私はそれを厭わない。たとえ香苗であろうと私は立ち塞がるものを切り捨てる」

「有言実行、と申しますわ。そう言い切るからには試してみなさい……北条院香苗の身体をばらばらに切り刻むといい。その果てにお前はきっと……」


 芙蓉の言葉は不意に途切れた。風は突如として鋭い氷の刃となって唇を切りつけたためであった。玉虫色に輝いていた唇はたちまち鮮血の紅に染まった。


 赤く濡れた唇から「ああっ!」と悲鳴がこぼれて芙蓉は血にむせぶ。風の刃が今度はその全身に切りかかったためであった。ジュリエットドレスが切り裂かれ、白い皮膚がのぞくとともに、ラベンダー色のベルベット地に黒く重たく血は滲んだ。痛みに悶え、倒れかけた芙蓉は、床からそそり立つ氷柱から急ぎ右頬を庇って胸を貫かれた。舞台の上で芙蓉が身をのけぞらせるさまは、舞台を照らす眩すぎるライトがその色を掻き消してしまったせいで、暗い観客席から見ると東南アジアの影絵芝居のようにも思われた。観客にとっては、動きも、悲鳴も、全てが大げさであった。


 白虎はフッと笑った。


「有言実行、だ。芙蓉、貴様の思惑ははずれたな。香苗の身体を利用すれば私がためらうとでも思ったか」

「い、いいえ、まさか……!」


 芙蓉は苦しげに笑みを浮かべながら、恨めしげに白虎を睨んで、息も切れ切れに答えてみせた。


「……まさかお前が心までけだものに墜ちただなんて、思いもしなかったのですもの。()()()()()()()()、白虎」

「好きなだけわめくがいい。かくいう貴様は獣にも劣るのだから」

「白虎、この娘を死なせたら、お前は永久とこしえに呪われるでしょう……でも、そんな不幸でさえも、わたくしはお前に許さない……!」


 ただのこけおどしに過ぎない。だって、胸を刺し貫かれて、今更逃れられる術もないのだから。いくら芙蓉と言っても生身の娘の身体を借りている以上、もし氷柱から我が身を引き抜けば出血多量で死ぬ。白虎は凪いだ瞳の底にそれだけの考えを巡らせながらも、剣を構えた。金色の髪が氷のような風にかすかに揺れはじめる。ふと思い出したのは、いつしか白崎邸で玲子の手を取ってつぶやいた言葉。



『私たちだって潔癖ではいられないのかもしれない。これまで頼みにしてきたこの魂の純潔をも汚さねばならないのかもしれない。それでも私たちは前に進むしかない。立ち塞がる者を切り捨てるしかない……』



(そうだろう、玲子?君が純潔でないと言うのなら私だって汚れてみせるさ――ああ、私はその覚悟で戦場ここに来たとも。本当さ、本当なんだ、玲子……)



君が、かつて…………





『玲子』


 奈々に車椅子を押され、水仙女学院高等部校舎へと向かう道を進んでいた玲子は静かに目を見開いた。白樺に挟まれた道の両脇には食べ物やら花やら手作りの可愛らしい品を売る露店が並び、群れ集った人々の進みは鈍かった。玲子は聞こえてきた声が、この人混みのうなりのなかから投げかけられたものではないとすぐに悟った。


『……白虎?』

『今どこにいる?』

『学校よ。奈々も一緒にいるわ』

『なら好都合だ。玲子、奈々、今すぐ講堂に来てくれ。芙蓉がまた現れた。生徒の身体に憑依して』

『……わかったわ』


 風を頬に感じた瞬間、人々とすれ違う速度がほんの少し速くなった気がした。もう奈々の方を振り返る必要はなかった。ただ、こんな悠長な歩みでは間に合わない。玲子は車椅子を押している手に触れた。


「玲子さん」

「奈々、先に行って。講堂は高等部校舎の西にあるわ」

「う、うん。でも、玲子さんは?」

「大丈夫よ、すぐに追うから」


 そう言いながら、玲子はすでに携帯電話を取り出していた。柏木を呼ぶのだと、奈々にはわかった。その方がいい――この人混みを車椅子で掻き分けていくことは不可能だし、奈々は舞や柏木のように玲子を担ぎ上げていく腕力はない。


 人混みのなかから甲高い少女の悲鳴が上がった。二人がさっとそちらを見遣ると、毒々しい角を持った巨大な山羊のような単眼の怪物が、宙に飛び上がり、露店のテントを踏みつぶして着地したところであった。露店の少女たちは間一髪で逃げ出した。


「あれは……!」


 鈴を掲げかけた奈々の手を、玲子は軽く握って押しとどめた。


「行って、奈々」

「でも……!」

「あの怪物は私の銃でも始末できる。芙蓉との戦いにはあなたの力が必要よ。だから急いで」

「……わかった」


 しっかりとうなずいた奈々の後ろ姿は玲子の隣をすり抜けた人混みのなかにたちまち消え失せた。その時、ちょうど電話がつながった。二言三言を交わしつつも玲子は右手に構えた銃の先を、こちらの姿を捉えて再び飛び上がった怪物に向けた。


「急いで……祭りの余興で済ませられるうちに」


 放たれた銃弾は怪物の頭を果実か何かのように粉々に打ち砕いて飛び散らした。しかし、そんな光景も人々の心を狼狽させることはなかった。人々は続々と現れて彼らを取り巻き、凶悪な口で襲いかかる怪物から逃れるのにすでに手一杯であったから。玲子は眼鏡の奥で目を細めた――ひとりでどれほど仕留められるかしら。こんな時に、私に変身できる力が残っていれば。


(でも奈々をここに留まらせるわけにはいかなかった。奈々は白虎の元へ向かわなければ……白虎の手が汚れないように)




「そういえばさ、前も水仙女学院ここで敵と戦ったっけ……!ねっ、こまちゃん?」


 奈々はすでに玄武となっていた。白樺の林のなかを、玄武の隣を滑るように進むのは玄武の相棒の大蛇、『こまちゃん』こと木守こまもりである。返事の代わりに、木守の白い鱗が木漏れ日を反射してちかちかと光った。


「あの時はルカさんを探しにきたんだった。でも、ルカさんはあたしたちに会ってくれなくて、結局芙蓉を倒したときにやっと参上したんだよね。しっかし、なんで芙蓉なんかがまたよみがえるかなぁー?前も首だけになっても飛びついてきたからびっくりしたけど。あれ、昔お兄ちゃんが話してくれた酒呑童子の話みたいだったね、こまちゃん」


 高等部校舎の西へ――御空色みそらいろの屋根を負った白亜の講堂が見えてきた。さっすが私立、と口をすぼめたのも一瞬、玄武のマホガニー色の瞳が絞られた。あそこに芙蓉がいるという四神の直感だった。


 おぞましい鳴き声が響き渡り、玄武は間近の白樺の梢へと視線を移した。獣のような被毛を持った化鳥けちょうが鶴のような嘴をめいっぱい開いてわめいていた。玄武の視線に気づいたのか、鳥の首がくるりと回転して、嘴の裏側にあるたったひとつの黄色い眼がこちらを睨んだ。化鳥は飛び立って降下してきた。


「こまちゃん!」


 玄武は木守の胴の上にすばやく飛び乗った。まっすぐに突き進む木守の動きが緩まないのを確かめたあとで、玄武は襲いかかってくる怪物に向かって弓を引くように手を構えた。怪物の姿はただ黒い影とばかり見えるだけ、ただその翼が風を切る音が低く聞こえてくる。と、玄武の掌より小さな白い花をつけた蔓が伸びて、弓と矢の形を模した。


 怪物の嘴が陽光を反射するその光を瞳に浴びて、玄武はこちらへ降下してくる音に向かって、拮抗する音は放った。その瞬間、蔓に咲いた白い花は落ち、弓矢は本物の弓矢と化した――この神渡かみわたしこそ、玄武の愛用する武器であった。


 鳥の影が地に堕ちたことを認めて、玄武は木守の首に手をかけながら講堂の方を振り返った。講堂の扉の前には腕章をつけた女学院生が二人ほど立っている。文化祭実行委員の生徒だ。彼女たちが扉の開閉係なのだろう。彼女たちの隣には上演中のプログラムを示した看板が掲げられている。今は「高1S組 ロミオとジュリエット」が上演中()()()のだと、玄武は知った。


 弓を抱え、白い大蛇を従えている玄武が二人の前に到着すると、少女たちは目を点にして固まったが、玄武が扉に手をかけると慌てて止めた。


「す、すみません、上演中は入場できないんです……!」

「上演なんかしてないと思うけど……!」


 玄武がそう言った途端、講堂の内側より突如として強風が吹きつけてきて、講堂の窓硝子が音を立てて一斉に割れた。降りかかってくる破片に怯え立ちすくむ女子学院生を、玄武は本能的に抱きかかえて庇った。


 玄武の身は、木守の硬い鱗が守ってくれた。「こまちゃん、ありがとう」と玄武が微笑むと、木守は賢そうな黒い目をしばたかせて首をかしげた。その間にも、講堂内で何があったものかと驚いた女子学院生は扉を開こうと奮闘しはじめていた。


「あ、開かない?!どうして……?鍵は絶対かかっていないはずなのに、一体なにが……!」


今度は玄武が扉を開こうとする手を止める番であった。自分が中を確かめてくるからひとまずここを離れるように、ここは危ないから、口早にそう言って、玄武は木守が首をもたげて示す方を見上げた。割れたばかりの窓のひとつがそこにあった。


 木守と目が合って、玄武は木守が言わんとしていることがわかった。窓を指さして、幸いにもまだその場を立ち去りかねていた女学院生に玄武は尋ねる。


「あの窓の向こうってどうなってるの?」

「向こう……?」

「つまり、あの窓までよじのぼったら中に入れるかってこと」

「えぇ、あの窓の向こうは二階席になっています。ですから、窓までたどり着ければなんてことないでしょうけれど。でも……」


 確かにその通りだ。たどり着ければなんてことない。でも、地面から二階席の窓までは白亜の壁がそそり立っているだけで足をかける場所なんてどこにも見当たらない。顔を見合わせて心配そうにうなずく女学院生をよそに、玄武は神渡の本弭もとはずで地を撃った。唖然とする少女たちの顔を聳え立つ一本の大樹の影が覆い隠した。


 玄武は思わず得意げに笑って言った。


「よしっ、木登りってわけね」





(この機会を逃すわけにはいかない。芙蓉は必ず仕留める。そして永久にこの世界から葬り去ってやる)


 舞台の上で苦しげに呼吸をする芙蓉を遠目に見つめながら、白虎は思う。氷柱は背中から芙蓉の右胸を突き刺しているため、芙蓉の足は爪先が心持ち床の上を擦る程度に宙に浮かんでいたが、その足が地に着きそうにかすかに動いた瞬間、たちまちその足をも小さな氷柱が貫いた。芙蓉の口を苦悶と憎悪の声が割った。


「よく……も……っ!」


 痙攣のごとき些細な指先の動きをも、白虎は見逃さなかった。アイスブルーの瞳で両の掌を氷に射られ苦しむ芙蓉の、否、香苗の姿を直視しても、白虎の秀でた金の眉は微動だにしなかった。祈りはひそやかに、切実に、ただ胸のなかだけで。


(玄武、頼む。早く来てくれ……!)


 氷柱が軋む音がして、ふふ、と低い嗤い声がどこからともなく起こるのを、白虎は舞台上から聞こえてくるものとは信じられずにいた。やがて笑いは高まり、広がり、白虎を囲う清廉な冷気でさえをも揺るがした。何がおかしいのだというのだろう、苦痛のなかで身動きもとれぬはずなのに。しかし、この女のことだ。どんな悪辣な手を考えついたものやら。


「白虎、先ほどの言葉を……撤回、いたしますわ……」


 乱れた呼吸のなかにちりばめられた言葉を、白虎は黙って拾い上げる。


「お前はやはり、ただの腑抜けですのね。ふふ、気づきましたわ……だって、こんなにもたくさん、わたくしを、貫くの…ですものっ…………すべて、急所を、外れていますわよ……こん、こんな、生ぬるい痛みで、わたくしを、香苗から、引きはがそうとする……白虎、お前に、わたくしは…殺せませんわ…………!」


 気づかれたのなら仕方ない――白い外套マントをはためかせてひらりと跳躍した白虎が降り立った先から、空気が凍てついて、氷の板が天窓のように講堂の座席や床に倒れる人々の上を覆い尽くした。さながら人々は水槽の底に閉じ込められたようにも見え、一方ではガラスの盾の下に守られているようにも思われたが、白虎は確かに強く地を駆けるその長靴ブーツの底から人々を遠ざけたのであった。


 疾風のごとく、白虎は舞台へと駆けた。だが、芙蓉の身は水晶のようにきらめく氷の柱を残してすでに消え去っていた。湯気を立てる氷柱の尖端からは、芙蓉の身を刺し貫いていたその名残で、薄紅の雫がぽたりぽたり滴り落ちている。白虎は素早く足を止め辺りを見渡した。よくよく注意してみれば、観客席の闇のなかに、まるで薄紫色の星のように、息を潜めつつきらめいているものがちらちらと見受けられる。やがて白虎はそれが氷柱の滴りを受けた無数の蝶のはねであることに気がついた。


野分のわきッ!!』


 白虎の叫びに応じて、白く色づいて見えるほどの激しい風がうなりを立てつつ講堂内に吹き荒れて、講堂内のガラス窓は吹き飛んだ。無数の蝶の姿は風のなかに掻き消えた。白虎は氷の床に立ち尽くして長い髪と外套を靡かせながらじっと風のおさまるのを待ち構えていた。ほんの一瞬、ガラス窓さえをも砕いた風が遮光カーテンを捲り上げて講堂内に明るい午後の日差しが差し入った。


 静謐と暗闇のなかで、白虎は目を閉じた。風の気で敵の気配を探る。これしきで敗れる芙蓉とは思われないが、やはり近くに気配を感じる。しかし、一体どこに?



 ………………



 シュッ、と何かが振り下ろされる音に白虎はすばやく反応した。飛び上がる長靴に蹴られたためかそれとも鞭に打たれたためか、氷の床にひびが入り、跳ね上がる鞭と翻された剣の刃が攻め合って空中で閃いた。桐一葉のふるえを掌に押し込んで、白虎は後ろに飛びのいた。芙蓉もまた菫色の天鵞絨ビロードの裾をかすかに床に引きずりつつ後退した。


 芙蓉は嗤った。それは香苗にもっとも似つかわしくない嗤いであった。だが、白虎が動揺したのは血に濡れた唇が形作った歪んだ微笑のためではなかった。香苗の身体が傷つき、血を流しているという事実を間近に認めたためであった。そして香苗の身を傷つけたのは他でもないこの自分であるのだ。


 どうやら芙蓉もそこに気がついたらしく、()()()を見下ろして痛々しい傷口を見遣った。


「ああ、これですの?」


 氷の床に紅の天鵞絨の裾が広がっていく。


「ほほ、案じているのね、香苗の身体を。香苗は喜ぶことでしょう。でも、わたくしに言わせれば、それだからお前は腑抜けなのですわ。けれども、そうですわね……血を失いすぎるのはよくないですわね」


 芙蓉の手が香苗の胸の傷を撫であげる――正しく言えば、香苗の手が自身の胸を撫であげたとそう言うべきなのかもしれないが、白虎の目に映った光景はまさしくこの通りであったのだ。すると、蝶が妖しく瞬きながらどこからともなく香苗の胸に集いきて、傷口を覆った。蝶の翅の色はドレスの色に溶けあった。


「香苗を穢すな……!」

「穢してなど。わたくしはただ香苗を癒しただけ」


 唸る白虎に芙蓉は冷然と微笑んでいうと、大きな一匹の蝶のようにそのまま宙にふわりと浮遊する。


「えぇ、わたくしはずっと香苗を癒してきたのですわ。お前への不毛な恋に悩む香苗をね。香苗は何度お前に裏切られ、傷つけられてきたことでしょう。お前は知らないでしょう?知らないから、こうして香苗の身体をも躊躇なく傷つけられる。死ななければよいと、そうお思い?ただ自分の手さえ汚れなければいいと、そう思っているのでしょう?」


 芙蓉の言うことに耳を貸してはいけないと、白虎は必死に言い聞かせる。香苗が私を……?少しも気がつかなかった。いや、芙蓉の言葉が真実であるとの確証はない。この女は平然と嘘もつくだろう。だが…………


 「会長」とルカをそう呼んで見上げていたあの眼差し、「香苗」とルカに名を呼ばれたときのあのはにかみ。初めて香苗と言葉を交わした時、香苗の瞳はうるんでいたが、あれは生徒会選挙に当選した歓喜を表していたのではなかったのだ。ああ、思い返してみれば、香苗の表情はその慎ましい口に代わって哀切に想いを伝えていたのではなかったか。けれども、ルカは無意識下で香苗の恋を黙殺したのだ。一体なぜか。とてもその想いに応えることはできそうになかったから。ルカにとって香苗は妹のような存在であったから。可愛くて、いとおしくて――そうだ、だからこそルカは香苗の想いをこの手で折り散らすことを恐れて、我が身に寄せられる数多の恋のうち、()()()()()()()()からだけは目を背け続けたのだった。


(すまない、香苗……!)


 胸のなかで懺悔する。遮光カーテンを捲り上げて入り込む光に剣を閃かせ、敵の目を欺くことで、苦しい内奥を見透かされぬようにしながら。


(香苗、そしてもう一度謝ろう。私はきっとこの先も君の想いには応えられないから。だが、約束する。香苗、君のことは私が必ず助ける……だから、待っていてくれ)


 前へ強く踏み込むと、罅の入った氷の床は粉々に砕けて割れた。幾万匹もの毒蛇のごとく襲いかかる鞭を燕のごとく交わし、白虎は剣を振るった。決して不意を衝かれたためではあるまい。ただ白虎の気迫に圧されて、芙蓉は守備に徹さざるを得なかった。鞭と剣が風を切り、ぶつかり合って火花を散らす音が講堂に響き渡った。舞台の上には誰も立っていないというのも関わらず――もはや、観客席こそが舞台であった。


「白虎、ようやくこの娘を殺すつもりになりましたのね……!」


 嘲りながらも芙蓉の笑みは引き攣っている。


「違う。香苗を貴様から救い出す」

「愚かだこと。そんなことがお前に出来まして?」

「ああ、出来るとも!」


 白い稲妻のごとく、剣は闇を駆ける。


「一体この娘を救ったところでどうなりますの?お前がこの娘に何をしてやれるというの?憐れな恋の花は憐憫の接ぎ木で咲くかしら?いいえ!白虎、お前は結局この娘を救えない。お前はこの娘に何もできませんわ……!」

「ああ、何もできないだろう。だが、それでも私は香苗を守る。芙蓉、お前のような毒婦には理解できまい!!」


 その瞬間、芙蓉の目は獣のように大きく見開かれ、鞭を持つ手は獰猛な素早さで闇に向かって高く掲げられた。鞭を交わして空中で大きく回転した白虎が血だまりのなかに着地したはずみに左頬と片方の目に赤い飛沫を浴びたのを、芙蓉は見逃さなかった。


 が、その時、振り上げられた手の甲を、黒い矢羽が射抜いた。


「玄武!」

「お待たせ、白虎!」


 弓を構えた姿勢のまま二階席から白虎に呼びかける玄武を、見遣ろうとした芙蓉の身体は、闇の端から音もなく飛びかかってきた白い大蛇によって締め上げられた。芙蓉はもはや武器を取り落とし、身じろぎすることすらままならない。蝶に変身する間も今度は与えられなかった。蛇が間近より黒い目でじっと芙蓉を見張っていた。その目に忌々しいほど美しいうら若き乙女の顔が映っている。そして蒼褪めた乙女の顔は、闇を仰いで苦悶の喘ぎを放つ。



紅葉狩もみじがり!!』

 


 白虎の咆哮を受けて、それは燃え上がる嵐のように。少女の身を取り巻く夥しい紅葉こそ、邪なるものを取り払い、はるか彼方へ攫と《さら》っていく。清らかな少女の身は守りながらも。


 香苗の瞳の色も、紅葉に奪われて消えた。傷ついた少女はぐったりと木守にもたれかかる…………




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