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京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第四章 現世編―芙蓉の巻再び―
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第四十一話 たった一つの私の恋よ(下)


 貴人あてびとの家に侍女まかたちとして仕えはじめたわたくしがどのような日々を送ったかですって?申し上げるほどのことはございませんわ。


 わたくしが憧れてやまなかった、雅やかで華やかな世界。そこでは甘い蜜の中に一滴の毒を垂らし、かぐわしい香で身をいぶり、錦の紐でくびり殺すような、そんな行為がいともたやすく行われていたのでした……えぇ、本当におぞましかった。だからこそ、わたくしは悟ったのです。この世界こそまぎれもなくわたくしの世界であると。


 わたくしが仕えていたのは卯木うつぎの宮と呼ばれていた親王で、これはかの澤瀉帝おもだかていの弟宮、松枝帝まつがえていからすれば、年下ではありますけれど、叔父上にあたる殿方でした。わたくしが仕えていた当時の卯木の宮はまだ年若く、肌の色が抜けるように白くて、体つきはほっそりと華奢で、まるで女人のよう。美男子であるのにいつも眉をひそめたような表情をしておりましたが、見た目のとおりに気難しい性格をしていて、ひどい潔癖症でもありました。これは女人に関することでも変わりません。自分の姉の子であり、一条某とやらの三の君だとかいうわらびの上だとかいう女人ひとりを妻として、他の女人のもとへは通う気配もございません。情愛が格別濃やかというのではありませんでしたが、お互い何の不満もなく暮らしているようでした。夫は妻がひどく不器量なのも気にかけていないようなのです。世にもふしぎな夫婦めおとでございましたわ。


 ……ねぇ、お許しくださいませ、これはわたくしのたったひとつの欠点だと信じておりますけれど。わたくしはこういう自分では理解できないような人間をみると、どうしてもどうしても、めちゃくちゃにしてやりたいという気持ちをおさえられないのです――あなたはよくご存知ですわよね?月修院でわたくしがどれほどの罪なき処女おとめたちをいたぶり殺してしまったかを……わたくしはすでにこの頃から、悪い()()を抑えられなかったのですわ、恥ずかしいことに。だって、この上なく美しいわたくしを差し置いて、不器量な妻に満足している男なんて、到底理解できませんもの。こんな男がわたくしには憎らしくて仕方ないのです。もちろん、妻の方はもっとですわ。


 わたくしのたったひとつの失敗はこの憎悪に、破壊の衝動に、身をまかせてしまったことですわ。失敗……?いいえ、のちのことを考えれば、失敗とは必ずしも言いきれませんけれど。


 主人の言いつけを粛々とこなすわたくしは、何かと注文がうるさく、そのくせ()()()()()を何よりも嫌う主人からすでに気に入られておりました。単純な妻は、夫がわたくしを気に入っているというそれだけの理由でわたくしを信じきっておりました。えぇ、この愚鈍な女はわたくしの美貌に対してもひとかけらの嫉妬も羨望も抱かぬようなのでした。それがいよいよわたくしの苛立ちを募らせ、加虐心をそそりました。でも、このことは却ってわたくしには好都合だったのです。


 安心しきっている妻に代わって、わたくしはさらに細やかに、行き届いた世話を主人にいたしました。主人の身の回りについては他の者には決して手を触れさせず、目が覚めてから床に入るまでの世話をすべてわたくしひとりで行ったのです……つまりは甘い蜜で溺れさせたのですわ。そして主人が留守の間に、妻の方に三日の暇を申し出ました。妻はまさか夫がわたくしなしでは生きられぬほどになっているとは知りませんから、言われた通りに暇をやります。


 さて、主人は出仕から帰ってみて、すっかり頼りにしていたわたくしがいないことに狼狽いたします。それでも宮家の誇りがあって、たかだか侍女ひとりのことで騒ぐようなみっともないことはできませんから、わたくしのいない三日をいつも以上に不機嫌そうな顔をしながら、不自由と不愉快とをただひたすら耐え忍ぼうとします。二日間がのろのろと過ぎて、ああ、あと一日耐え忍ばねばならぬのかと、憂鬱のうちに床に就いたその夜、なにものかの気配にふと目覚めてみると(ちなみにこの男は眠りのたいそう浅い性質でした)、他の者たちの至らない世話のあとを、わたくしがひとつひとつ入念に、ことりとも音をさせずに片付けているではありませんか。えぇ、姿は見えずとも嗅ぎなれた香のにおいで、わたくしとわかったはずなのです。


槿きんか」


 とささやく声がいたします。わたくしは手をとめて、ただ静かに「はい」と答えました。


「いつ戻った」

「つい先ほど」

「こんな夜更けにか」

「えぇ……」

「そうか」


 主人はしばらく黙っておりました。再び寝入ったかと思われるほど長い時間でした。わたくしの耳にはどこかでひとりでに床板の軋む音と、隣で寝入っている蕨の上の寝息だけが聞こえます。わたくしもそのまま黙って動かないでおりました。そう、じっと息をひそめて…………


 「槿、どこにおる」という問いかけに、「ここにおります」と心持ち主人の方へと身をにじり寄らせて答えますと、「槿」と唐突にかすれた声が鋭く言って、冷たい手が闇のなかからわたくしの手を捉えました。わたくしははっと息を呑みましたが、冷たく貴く粗暴な手は、お構いなしにわたくしを床に引き入れました。


 主人が名を呼びます。その息がわたくしの鼻先にかかるほどの距離で。わたくしはただ慄き顔を背けようとするばかり。すると、男の手がわたくしの頬を挟んで無理に振り返らせるのです。薄墨色の闇の奥に、いつも以上に青ざめて見える、若い親王の顔をわたくしはかつてないほど間近に見ました。濃く黒い眉はひそめられ、唇や頬のあたりが激しくわなないておりました。


 これまで味わったことのない苛烈な衝動に駆られ、自分でもどうしてよいかわからないように、主人はただ再びわたくしの名を呼びます。わたくしが潤んだ目で見つめ返しますと、つかの間主人は途方に暮れ、それから迷いを押し切るようにして、わたくしを覆い尽くしてしまいました。



 ああ、あの晩は香が強く立ちのぼっていました。なぜかしら……



 かせを外された獣は立ち止まることを知りませぬ。従順であった獣ほど、野を駆けることを知った時の悦びは大きなものですもの。卯木の宮はただひたすらに、狂暴なまでにわたくしを求めました。妻は遠ざけられました。その果てに、わたくしは望んでいたものを得ました――すなわち、宮の御胤おんたねを。


 しかし、それを知ったとき、あの愚かで単純な女は怒り狂いました。女のなかに一向に子を授からぬことへの鬱屈した思いがあることに、まだ若かったわたくしは気づけなかったのです。それに、どれほど夫に疎んじられていようとも、蕨の上は内親王の母と、一条家の後ろ盾とを持っていたのです――えぇ、わたくしは蕨の上に少しも劣っておりませんでしたとも。蕨の上と比べてどれほど多くの才をわたくしは持っていたことでしょう。でもたったひとつ、生まれという点ではどうしてもかなわなかった。そのたったひとつを持っていなかったがために、あらゆる才と幸運を費やしても、わたくしはこの勝負にけたのです。


 蕨の上は実家の力を背後に、わたくしを追い出しにかかりました。よほど妻の実家に厳しく咎められたのでしょう、卯木の宮さえ最後はわたくしを見放したのです。わたくしはいくらかのものを受け取って主家を出ることとなりました。


 いざ主家を出ると決まったその前夜のこと。卯木の宮に密かに呼び出されて庭なかへと降り立ったわたくしは、突如として見知らぬ数人の男たちに囲まれました。そしてあれよあれよという間に取り押さえられると、舌が痺れるほどに苦い、薬のようなものを無理やり飲ませられました。どれほど必死に抗おうとも無駄でした。溢れだした薬が唇を濡らして首を伝い衿元に冷たく染みる不快を、わたくしは最後に感じました……







「おや、君たちは」


 九月十九日、日曜日。白崎家の令嬢は文化祭のために留守にしていたはずだが、その友人たちが悠々と白崎邸を闊歩しているのを見かけて、ドミトリーは足を止めた。ルカにはミーチャおじさんと呼ばれて慕われているこの痩身の初老の男性は、妹のソーニャとのささやかな昼食会のあとで庭にでも出ようかと廊下を歩んでいたところだった。


「お邪魔しております、ドミトリー・ドミトリエヴィチ」

「こんにちは。調子はどうだい、玲子嬢」

「変わりませんわ」

「そのように見えるね」


 ドミトリーは医者らしい冷徹な目を細めてフットサポートにつつましげに載せられた玲子の脚を見遣り、それから窓外の日を反射している車椅子の金属の光沢に射られたようにふっと目を逸らした。玲子の車椅子を押していた奈々はぱちぱちと長い睫毛をしばたかせた。


「あれ?ルカさんの……?」

「奈々、こちらはドミトリー・ドミトリーエヴィチ・パブロフ。ルカの伯父さんよ」


 わずかに体をねじらせて玲子がささやく。奈々は目をまん丸くしてまじまじとドミトリーを見つめていたが、ドミトリーが微笑むとあわてて頭を下げた。玲子は静かにすばやく首をかしげることで、奈々と激突するのを避けた。


「初めまして。私のことは、ぜひミーチャと呼んでくれ」

「ミーチャさん初めまして!あたし、黒田奈々です!よろしくお願いします!」

「奈々さんか、話はよく聞いているよ。ルイがいつも世話になっているようだね」


 「ルイ?」と奈々がきょとんとしてみせる。おや、という顔をして、ドミトリーが玲子と目を合わせると、玲子は小さくこくんとうなずいた。「奈々はまだ何も知らないの」という合図であった。折しも、例のバルコニーがあった場所に三人は立っている。あのバルコニーは事故があってから撤去され、今こうして見る限りでは周りの壁と変わりなく、大きなアーチ型の窓が据えられているだけだ。ただ、その窓枠にソーニャはいとし子の名前を刻んでいたけれども――Лукаと。


 ドミトリーは再び微笑みなおした。


「ああ、ルカのことさ。あの子は家族にはルイと呼ばれていてね」

「へぇー、そうなんですか。知らなかったなぁ」

 

と、奈々はすなおにそれだけつぶやいて納得している。


「……まあ、ゆっくりしていってくれたまえ。今日は文化祭だからルカの帰りも遅いだろうが」

「ありがとうございます!」


 ドミトリーが去った後で、薄花色うすはないろの絨毯が敷かれた廊下の真ん中に立ち止まったまま、奈々は深いため息をついて、伸びをする猫のように腕を伸ばして玲子の肩に後ろからもたれかかった。


「……奈々、重くってよ」

「ねぇー玲子さん、あたしたちも水仙女学院の文化祭行こうよー」

「勉強があるでしょう?」

「昨日も今日もずっと勉強してるんだもん、もうつかれたー!それに息抜きも大事だってルカさんが言ってたじゃん」

「目指してもいない学校の文化祭に行ってどうするの」

「ルカさんと玲子さんが行ってる学校なんだからいいでしょ!」


 今度は玲子が溜息をついて肩をすくめた。


「行きたいならあなたひとりで行きなさいな」

「なんで?」

「私の車椅子は邪魔になるもの。とても混みあっているから」

「えー、やだ。一緒に行こう。ねっ?いざとなったらあたしがだっこするからいいでしょ?」

「駄目よ」

「へーき、へーき!あたし、悠太のこといっつもだっこしてるから力強いし。」

「そういう問題じゃないわ」

「さあ!ルカさんの雄姿を見にいこう!」

「奈々」


 抵抗むなしく車椅子は白崎邸から水仙女学院中等部・高等部の校舎に向けて押し出されていった。





 鏡のなかで思い切りしかめ面をしてみせた。


 化粧担当のクラスメートからすばやくお叱りの声が飛んでくるのはわかっていたが、そうでもしないと鏡のなかの()()が自分だなんてとても信じられなかったのだ。少年もしかめ面を返した。まるで、ゆかりに演じられることが気にくわないみたいに。


「ちょっと!もっとキメ顔しなさいよ、キメ顔!あんたロミオでしょ」


 あんたロミオでしょ、か。ゆかりは苦笑いをした。自分がロミオなんて柄じゃないのはわかっている。でもさ、たかだか芝居だもの。そうでしょう?なんの因果か知らないがロミオの役になってしまった。だから演じるだけ。そう割り切っても自分自身の変貌には驚くけれども。


 いつもの教室は、パテーションによって仕切られ、大きな鏡がいくつも運ばれて、今日はすっかり楽屋へと様変わりしていた。役者たちはまさにここで衣装をまとい、髪をセットされ、化粧をほどこされて変身を遂げているところである。衣装の方はこれまでも何度か身に着けているが、髪も顔を整えて挑むのは本番一度だけのことなので、役者たちは皆、今まで見たことのない自分の顔と出会った衝撃やら違和感やら感激やらできゃーきゃーと騒ぎ立てていた。しかめ面で済んだゆかりはおとなしいほうだ。ゆかりが鏡のなかに見出したのは、亜麻色の髪に蒼い瞳をした、いかにも感情的に脆そうな美少年だったのだが。


 ああ、なるほど。ロミオ、あんたってそういう顔だったのね……


「うわぁ。すっごいイケメンじゃん、ゆかり!」


 ティボルト役の友が、くどい化粧に似合わぬかわいらしい声で言った。


「イケメンっていうか美少年だわ」

「はい、写真撮らせて写真!」

「香苗に早く見せたいなぁ。まだ香苗終わらないの?」

「ねっ、香苗も喜ぶよね!」

「かっこいい、かっこいい。生徒会長ともいい勝負じゃない?」

「まーさか。会長にはかなわないって……」


 クラスメートたちに取り囲まれてもてはやされるゆかりは、次々に投げかけられる称賛の言葉のうち最後の言葉にだけ反応した。しかし、いささか冗談めかして答えてはみても、表情が曇るのをうまく隠しきれなかったかもしれなかった。


 ともするうちに、パテーションの向こうで明るいさざめきが起きて、やがてラベンダー色のジュリエットドレスを着た香苗が取り巻きに囲まれつつ、しずしずとゆかりの方へ歩んできた。薄色の髪には菫の花冠をつけて、長い睫毛を伏せて、まるで花嫁のように。


ゆかりは思わず立ち上がっていた。香苗とゆかりの目があった。


「かな……」


 つぶやきかけて口をつぐむ。つぶやきかけた名前と目の前にいる少女は同じなのだろうか――それがわからなくなってしまったがために。あやしいまでに輝きを湛えて、一心にこちらを見つめている瞳は本当に香苗のものだろうか。そこには同じ色が重ねられてはいないだろうか。香苗の瞳の奥で、誰かの瞳が自分を見つめているような気がしてならないのはなぜだろうか……


 当惑するゆかりの腕に香苗が手をかけると、周囲から二人を囃し立てるかしましい声があがった。気がつくとゆかりは香苗を胸のなかに抱きしめていたが、どうもそれが自分の動作のようには思われない。香苗の手がゆかりの腕を自らの背へ導いたのではなかったか。いともさりげなく。


「ゆかり」


 腕のなかから香苗がささやきかかる。


「頑張りましょう。そして、必ず成功させましょうね」

「う、うん……」


 不意に、香苗がゆかりの肘のあたりにかけていた手に力を込めた。何がなんだかわからずにいるあいだに、やわらかく冷たいものが頬に触れたのをゆかりは感じた。まるで冬空に咲く野の花の花弁のように。二人を見守っていたクラスメートたちが一瞬あっと息を呑み、そしてわっと拍手をして歓声をあげた。その時になってゆかりは、頬に残っている香りが何を示すのかを悟った。


 「お返し!お返し!」との水仙女学院には似つかわしからぬ野次が周りから飛んだ。いつものがさつなゆかりであれば怒鳴って一蹴することはたやすかったが、香苗が恥じらいを含んだ微笑を湛えてそっと目を逸らすのを見ると、なぜだかそれがためらわれた。


 香苗のなかにいるのは誰?これがジュリエットなのだろうか。ならばロミオよ、お前はどうしたというの?なぜジュリエットを抱きしめてやらないの?香苗に言ったではないか――「ロミオはあたしなんだから」。


 ジュリエットドレスの両肩に手を置いて、ゆかりは香苗の頬にキスをした。先ほどよりますますけたたましい歓声が今度は間髪おかずに沸き上がった。香苗の髪の上に屈みこんだ拍子に、ゆかりは先ほど頬にも施されたかぐわしい香りをいっぱいに吸い込んでせかけた。まるで頭のなかで見知らぬ花が一斉に花開いたかのごときその濃厚な香りに、ゆかりは眩暈を覚えたほどであった。


 清廉祭せいれんさい実行委員の生徒が楽屋の入り口から顔を出して、準備の時間を知らせた。監督役の生徒を中心にクラス一同が揃って円陣を組み、声を上げたところで、皆は緊張を横顔に漲らせて忙しなくホールへと駆け始める。ゆかりは香苗とともにホールへと向かった。香苗の手を取って、階段を駆け下りた。しかし、その間、冷たい手の持ち主の顔を振り返ることはなかった。





「私のたったひとつの恋は、たったひとつの憎しみから生まれたのね」



 生徒会長・白崎ルカは用意された特等席に腰を下ろし、脚を組んで、学園の王者たるものの悠々とした貫禄を醸し出していた。ホールの二階席に腰かけていた者のなかには、舞台で演じられている演劇よりもこの男装の麗人に見惚れて始終オペラグラスやらカメラやらをそちらに向けている者もあるほどだった。この学園でただ一人、ルカだけが纏う純白の学ランは上演中の暗闇のなかでことに目立ったのだ。


「まあ、あれが例のチェリストの……」

「まるでモデルさんみたいね」

「ロシア人の血が入ってるだけあるわよね。きれいだわ」


 生徒の保護者だったのか。すれ違いざまにひそひそとささやき交わす声をルカ自身も聞いた気がする。


「ああいう服を着てると本当に男の人にも見えるわね」

「あの子、一度もスカートを履いてきたことがないそうよ」

「あら、どうしてなの?」

「知らないけれど、うちの娘が言うには心が男性なんですって」

「ああ、()()()()()……」


 違う……ルカはひとり眉をひそめた。舞台の上ではティボルトとマーキューシオが剣を交わしている。小道具の剣の刃がぶつかりあう音が絶え間なく響く。


 この心は男ではない。女である自分を受け容れられないわけでもない……少なくとも今の自分は。女しか愛せぬこととも関係がない。確かに一度は前世からの恋に思い悩み、男となれば渇望するものもたやすく手に入れられるような気がしていたけれど。そして、男になれば、母を、父を、皆を慰められるような気がしていたけれども――白崎ルイから白崎ルカになれば。


 だが、制服のセーラー服が嫌いなことと、あの秋の日だまりのなかで起こった悲劇はそもそも無関係だ。あの時、ルイもルカも七歳だった。白崎邸のバルコニーには金色の日の光が溜まって、ルイとルカの髪の色もその光のなかに溶けあっていた。髪ばかりではない。ルイもルカも笑いあい、子犬のように転がり合って、もうどちらがどちらという区別もなかったのだ、あの時は。まるで彼らの存在そのものが光に溶けてしまったかのように………………



 ロミオとジュリエットが初夜を明かし、後朝の別れを惜しむ場面で、ルカの意識はようやく舞台の上へと戻ってきた。香苗演ずるジュリエットが寝台の上でロミオを口説くさまは、清純ながらに散らされた花のようななまめかしさをも感じさせる。台詞も所作も控えめであったが、思い詰めた少女の狂熱を滲ませて見る者の心に憐れを掻き立てた。ロミオを演ずるのは舞の姉ということで、ルカも興味を抱いて見ていたが、彼女は正統派の役者のようで、誰もが思い描く「理想のロミオ」をそつなくこなしていた。舞台映えするスタイルの持ち主であるので見栄えの点でもジュリエットに決して劣らなかったし、すぐれた安定した演技を見せてくれるためになかなか好感が持てる。今こうして別れを惜しむロミオとジュリエットを見ていると、演劇を見ているというより、本物の恋人同士の惜別を見せられているような気がしてきて、ルカは思わず苦笑した。



『私、戻らない。紫蘭さんと一緒に行くって決めたんだから』



 ふと、抱擁するロミオとジュリエットの姿に、若い恋人たちの姿が重なった気がして、ルカははっとする。紫蘭と京姫もまたロミオとジュリエットのごとき危うい恋の導きのままに手を取り合い、共に崩れ落ちていった……いいや、違う。ロミオとジュリエットは死を共にするほどに愛し合っていたのだから。紫蘭は京姫を突き放した。紫蘭は自分を追放した京への腹癒せのために少女の恋心を利用したにすぎないのだ。紫蘭自身がそう語っていたし、ルカもそれを疑ったことはない――だが、紫蘭はひとかけらの愛情も京姫に対して抱いていなかったのだろうか。


 きっと結城司のなかになら「答え」があるのだろう。前世の記憶を思い出した今の司には。結城司は前世の記憶を思い出す必要があったのだと、玲子は言った。それが漆を倒すためには必要なのだとも。


 結城司が記憶のなかで見つけ出した「答え」とは何なのか。その「答え」を抱えて、結城司という人間はこれからどう行動するのだろうか。それが自分たちに、舞に、どのような影響を…………



 舞台の上にはいつの間にかジュリエットひとりが佇んでいる。ジュリエットの寝室の場面だ。小瓶らしきものを抱えたジュリエットが蒼白な顔をして寝台の周りをうろうろと回っているところを見ると、いよいよジュリエットがかりそめの死の薬を口にするところであるようだ。この場面にくると、香苗の演技はいよいよ迫真のものとなってきて、暗闇に群れ集う無数の観客の誰もが、固唾をのんでジュリエットの台詞に耳を傾けていた。


「ああ!あそこにティボルトが!」


 あらぬ方向を向いて狂乱したジュリエットが叫ぶ。この後の台詞はどうであったかと、ルカは記憶を手繰り寄せた。ちょうど薬を飲む直前に放つ台詞。そうだ、確かこんな台詞だった。



 ――ロミオ、ロミオ、ロミオ!今行きます。これを飲んで、あなたの元へ。



「漆さま、漆さま、漆さま。今行きます。これを飲んで、あなたの元へ……」



 ジュリエットがぱたんと寝台の上に倒れ込む。ただひたすらに舞台の上へ向けられていた観客の心が突如として足場をくずされ、不穏なざわめきが波のように起こった。ルカでさえ何が起こったのかわからずに呆然としていた。


 と、紫色の霧のようなものがどこからともなく漂いはじめ、花を煮詰めたような香りでたちまちホール中を覆いつくした。かぐわしき霧は、人々が慌て立ち騒ぐ声をも吸い取り包み込んでしまうと、やがて人々の意識さえをも奪い去ってしまった。霧のなか、ある者は通路に、ある者は座席の上に、倒れ込みあるいはもたれかかってそのまま立ち上がる力を失った。


 スポットライトに照らされた舞台の上だけが霧の向こうに透けて見える。寝台の上で少女の影が起き上がる。かりそめの死の薬を飲んで四十二時間の眠りに落ちたはずのジュリエットが。それはもはやジュリエットでもなく、北条院香苗ですらなかったのだが。


「ふふ。ようやく戻ってまいりましたわ、漆さま」


 放たれて長くなびく少女の薄色の髪。そのひとすじをくわえて歪んだ唇は玉虫色に輝いていた。


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