第四十一話 たった一つの私の恋よ(上)
まわりを取り囲んでいる闇がくずれさり、新しい冷たい闇のなかをひゅーっと落下していく感覚があった。が、それも数秒のことであった。どしん!と背中に衝撃を受けて、舞は濡れた地面に伸びて目を回していたが、「舞!」と叱るように呼ぶ声に目を覚ました。誰かの手が、舞の襟を引っ掴んで乱暴に起き上がらせようとしているのを、舞は感じた。
目をしばたいてみる。舞は誰かに上半身を無理やり起こされた状態で、湖面に臨んでいた。雨風がぴたりと止んだなかになおも唸りを轟かせるのは龍だった――八つの口で断末魔の声を上げながら、痛みと怒りに悶えるあまり首をもつれさせ、そしていよいよ身動きがとれなくなっていく龍だ。要となっていた首は落とされ、傷口から黒い血がぼたぼたと流れ出し、湖に油のような染みを落としていた。舞は呆然として、ただ九頭龍の最期を見守っていた。
ふと、舞は浅い息づかいに気づいて振り返る。折しも雲間から姿を現した月光に青玉の瞳を据え、藍色の髪を輝かせた、友の姿があった。
「舞、怪我はない?」
青龍は横顔のままで尋ねた。
「何があったのか聞きたいけど後にするから。とにかく怪我はない?」
「う、うん、ありがとう……!」
さすが青龍だ、と舞は思う。舞と篝火が散々に手こずった敵を見事に切り伏せてしまった。そういえば、篝火はどこに行ったのだろう。今や毛玉のように長い首を絡ませ合い、悲鳴を軋ませている龍から目を離して、舞は辺りをきょろきょろと見回した。篝火も美香の姿も見当たらない。
「あれ……?」
次の瞬間、舞と青龍は頭から水を被った。ついに力尽きた九頭龍の巨体が湖に墜落して、高波のような水しぶきを枯れ果てた湖畔に浴びせかけたのだった。舞と青龍はお互いにひしとしがみついて波に耐えた。しかし、したたかに水に打たれ濡れるその間にも、美香と篝火を案じる舞の不安は決して胸を去らなかった。
九頭龍は沈んだ。波の引いたあとで、舞はすくっと立ち上がった。夜空は夥しい星群のために白くかすみ、月は早くも水面に宿って、湖のほとりを煌々と照らし出していた。水辺の葦原は皆悉く黒く爛れていたが、その枯れ残りがかすかな夜風に揺られてひらめいている。禍はおさまったかのように見えた。だが、まだ終わっていないことを舞は直感的に知っていた。
青龍がかたわらで立ち上がる気配を感じて、舞は目を遠く対岸に投げかけたまま口を開いた。
「青龍、まだ変身を解かないで」
「どうかしたの?」
「わからない。わからないんだけど、でも……」
変身――そういえば私の鈴はどこにいったのだろう。舞は青ざめる。まさか、九頭龍の体もろとも湖に沈んでしまったのか。もしかして、篝火も、美香も?
「美香!」
舞は湖に向かって叫んだ。舞の声は湖畔の静寂に響きわたったが、答える声はない。舞は爪が食い込むほどにぎゅっと手を握りしめる。
「美香、どこにいるの?!」
「えっ、なんで佐久間さんが……」
「詳しいことは話せないけど、とにかく近くにいるはずなの!お願い青龍、一緒に探して!絶対、絶対に近くに……」
青龍の方を振り返り、泣きそうな気持ちを堪えつつ必死に訴えていた舞は、友の肩越しに見たものに言葉を失った。舞の目が見開かれる前から、異様な気配を察してか青龍もすばやく身を翻し、手に持っていた凍解をさっと構える。
龍明神社の参道の奥から、拝殿の影と石灯篭の火を負って、こちらに向かって歩み来るものがある。九頭龍の姿を銀糸で縫い込んだ袿と錫色の袴を纏った女である。その女の顔は、般若の形であったが、舞は慄きつつも、女の肩に縹色の鬢削ぎが揺れていないのを認めて目を細めた。女の乱れた髪は、灯籠の灯を受けて藻のごとく黒々と靡いてみえた。
「来よ、来よ。水底に来よ……」
立ちつくす舞の隣から、青龍が駿馬のごとく駆け出した。凍解の刃が闇に銀の尾を引くのを見て、舞ははっとした。
「青龍、待っ……!」
金属と金属がぶつかりあう甲高い音が境内に鳴り響く。凍解の刃は般若の持つ打杖に弾き返される。掌のなかで柄が跳ねるのを迅速にしっかりと握りなおし、数歩退いた先で刀を構えなおした青龍は、面の奥で低く嗤う声を聞いた。
「あんた、衣姫ね……!」
青龍は顔をしかめる。
「汝も恋をしておるな。不毛な恋じゃ……妾に縋ればたやすく叶えてやるぞよ」
青龍は一瞬の当惑のうち、鼻を鳴らした。
「余計なお世話よ!あんたなんかに縋らないでも、自分の恋は自分の手で叶えるものっ!」
「そうか。ならばその手で妾を斬り殺すとよいぞよ。この娘もお前と同じ男を恋うておるようじゃ。恋敵は少ないほうがよい。そう思わぬかえ?」
戯言に耳を貸すものかと敵に斬りかかって、青龍は立ち止まり刀を下ろした。女が般若の面を外したのである。見知った少女の顔は、馴染みの少女の顔は、青龍の知らない艶やかな笑みを湛えて青龍を見据えていた。そして、それは自分より劣ったものを見るときの、憐みと蔑みの入り混じった笑みであった。
「そんな。なんで、佐久間さ……」
「東野恭弥、というのであろう?」
恭弥の名を聞いて、青龍の身は無意識のうちにびくっと痙攣した。少女の指に頬を触れられても抗えぬのは、それが見知った者の指先であるゆえか。
「この娘も慕うておるぞ、かの少年を。汝に劣らず、いいや、汝よりもずっと深く、強く……いっそ今宵恋心を告げようと思いつめるほどに。されども、最後の最後で臆病風に吹かれた。自らの意気地のなさに呆れ果て、頼るものなき恋の暗闇に怯え、この娘は湖へとやってきた……そうじゃ、苦悶のうちに汝を羨んでいたぞ」
ふと、少女の声音が変わった。かぼそくすすり泣くような声に。
『青木さんが羨ましい……』
青龍の瞳は持ち上げられた水盆の水面のごとく、激しく揺れた。
『青木さんはこれまでもずっと東野の隣にいて、これからもずっと東野の隣にいられる。だって幼馴染だから……』
『何があっても幼馴染だったってことは変わらない』
『たとえあたしが東野の彼女になれたとしても、東野にとっての青木さんにだけは、あたしは絶対なれないんだ。その席だけは替わってもらえない』
『ずるい……ずるいよ、そんなの……!』
少女の頬をつと、ひとすじの涙が伝った。
『きらい。青木さんなんてだいきらい……青木さんなんて消えちゃえばいいのに……!もう世のなかみんなきらい。この恋が叶わないんだったら、この世界なんて、めちゃくちゃに、滅びちゃえばいいんだ……!』
「……ッ!」
蛇が獲物に飛びかかるように、勢いよく右手首をとらえられた。気づいた青龍が必死にもがき抗おうともすでに遅かった。凍解は地面に転がり落ちた。途端に少女の両腕が青龍の首へと食らいつく。つい先ほどまで涙で濡れていた少女の瞳は月影に瞠られ、獣のごとく爛々と光を漲らせて、青龍の鼻先にまで迫っていた。赤々と燃える唇は狂気の笑みに歪んで耳元まで裂けんばかりとなり、唾液に濡れた白い犬歯がその端からのぞき出ていた。もはや面を被るまでもない。それは般若の形相であった。
「佐久間、さ……っ!」
それを佐久間さんと呼ぶことは憚られるけれども、青龍はかすれる声でそう呼んだ。
「ダメっ、正気にもどって……!」
こんなこと恭弥は望んでいないから。あなたの想いがあたしに負けず劣らず真剣なものだってことも今なら知っているから。だからこそ、浅ましい化生にまで身を堕とさないでほしい。その想いを利用されないでほしい――こんな切実な願いも、伝えるすべはない。
涙のせい?それとも酸欠のせい?佐久間さんの顔がぼやけているのは。抵抗しようとする手にも力が入らない。まったく、舞は何してるのよ。早く助けなさいったら……ああ、ダメだ。もう痛みも苦しみも感じないもの。ふっと体が軽くなった感じがして。それから、幕が下りるみたいに、目の前が暗くなって…………
ああ、そうだ。確か前世で死ぬときも、こんな感じだった気が……
『桜花爛漫!!!!』
舞い散る桜の花弁のなかに、青龍は膝を突いた。やわらかな風が吹きつけて背中を撫ぜる。ああ、温かい。心地よい。この風に意識を任せてしまいたい……
私がかの女の気持ちに応えられなかったのは、他でもない。かの女が父の仇の娘であったから。かの女の父親を、私は殺さねばならなかったから。それだけだ。
そうだ、それだけだった――もしそんな事情さえなければ、私はあの女を思うさま抱きしめて二度と手放さなかったかもしれない。私の心はどれほど揺れ動いていただろうか。衣を透かして輝くほどであるというあの女の眩いばかりの美しさに。私を見詰める瞳に。高貴な甘い微笑に。私は胸の高鳴りを覚えた。仇を討つという悲願のために乳房を削いでしまった、この胸には醜い傷跡が毒沼のように黒く広がり、皮膚は乾き縮れこわばって、触れるなにものを感じられなくなってしまっていたというのに。私はその内側に芽生えたものを感じた。そして、かの女が人目を忍んで私の元へやってきたとき、この胸についと寄せられたかの女の胸が恋を知り初めて高鳴っているのを感じた。それはかの女の内奥に触れるよりも甘美な愉悦を私に与えたのだった。
ゆえに、私はかの女を拒んだ。かの女の恋を受け容れれば、私は目的を果たせなくなる。それでは父上に申し訳ない。父の死後、自ら命を絶った母上に申し訳ない。この旅の途中で亡くなってしまった兄上に申し訳ない。
本当は何よりもかの女に申し訳なかったのだ。私の名は、かの女が鈴のような声で何度も口ずさんでいた瑠璃丸ではなく瑠璃姫なのだから。そうだ、私はかの女を抱き寄せられなかったもうひとつの理由は、私は女であるから。それをあの女には隠し続けていたからだ。
……許してください、衣姫さま。私は私の恋人にはなれない。その代わり、私はあなたの父を殺したあなたの仇となりましょう。愛憎は紙一重だとかつて聞いたことがあります。私はあなたの愛を受け容れられぬかわりにあなたの憎しみに応えましょう。あなたの憎しみの前にならば、私はたやすく展い転び、に泥つ泣きましょう……
――そう思った私は愚かだった。私はかの女の想いを軽んじていたのだ。怒り狂い龍となったかの女の姿を前にしても、私はかの女の想いに気づけないでいた。全てを知ったのは私の肉体が此岸において何の意味もなさなくなった時。私もまたかの女の一部となったときだった。
かの女は私を想って龍になったのだ。そう思ったとき、私は激しい苦悶とともに、激しい悦びをも覚えた。しかし、私はすぐに知らなければならなかった。かの女が私を憎んでいるということ、すなわち、瑠璃丸を愛しても瑠璃姫を憎んでいるということを。かの女は私への想いのために龍になったのではない、私への嫉妬のために龍になったのだ。
嫉妬などしなくてよいのだという私の声は、かの女の暗闇に吸い込まれ消えてしまった。私の呼びかけは水底に眠るかの女には届かなかった。幾千の水草を褥とし、幾万の水泡に守られて、かの女は夢を見続けていた。後世の人々が語り、信じた通りの自分の姿を。私にはなにもできなかった。ただかの女とひとつになる快さに、身を任せるほかなかった。それが私のたったひとつの安住、たったひとつの償いだったから。
ふとある時、夢の浅瀬で聞いた気がした。「恋を叶えよ」という声を。人々の信仰を糧に現世によみがえり、瑠璃丸への恋を叶えよと誰かがささやきかけた。私は何も思わなかった。ただそうしなければと思って、再び眠りの底へ沈んでいった。眠る私を取り巻く水と花がかすかに揺れていた……そして、目を覚ましたとき、私の髪は縹色に、私の衣装はかの女のものになっていた。蛇の面が与えられた。見知らぬ他の七人の私にも。
今、かの女の荒ぶる魂は清き桜の力によって鎮められ、私もまたかの女から剥がれ落ち、消え去ろうとしている。この最期の瞬間、私は瑠璃丸として消えようと思う。なぜって、私は九頭龍だったのだから――恋を叶える神であったのだから。幾百年の年月、かの女とひとつであったという僥倖の証として。
――衣姫さま、衣姫さま。
眠っているかの女のみ魂の上に屈みこむ。
――おや、その声は……
――瑠璃丸でございます。さあ、衣姫さま、この百合煎の地を去る時が参りまし た。共に参りましょう。
――しかし、いずこへ?
――ここから遠いところへ。とても静かなところです。私たちは夫婦として、そこで二人だけで暮らすのです。
――左様ですか。
かの女が微笑んだ気がした。風にさえ吹き消されそうな私たちには表情などもはやないのだけれど。
――これからはもうお側を離れませぬ。瑠璃丸はいつまでも衣姫さまと一緒におりますから。
――嬉しゅうございます。しかし、瑠璃丸さま、ひとつお尋ねしとうございます。
――何なりと。
――いいえ、やはり急がなくてよいのです。これからはいつまでも一緒にいられるのなら。でも、どうか……あちらに着いたら教えていただけますか。貴女の本当の名を。
……気がついたとき、青木翼は地面に足を投げ出した状態で、半身を京野舞に抱き起されていた。舞がぺちぺちと翼の頬を叩きながら何度も名前を呼ぶのが聞こえてくる。ぐったりと疲れた目で友人を見上げると、舞はほっと安堵の表情を浮かべた。
「翼、よかった!」
「舞……」
ああ、あたし、助かったんだ。そうだ、京姫が助けてくれたんだもの……まだぼんやりとしながらも翼はしゃがみこんでいる舞の膝を押して立ち上がった。足元はややふらつき、締め付けられた首のあたりに鈍い痛みはあったものの、大きな怪我はないようである。「翼、大丈夫?」と尋ねる舞にうなずきを返すと、翼は少し咳き込んでからかすれた声で尋ねた。
「……佐久間さんは?」
舞が答えるより先に、翼は地面の上に寝転がっている少女の姿を見出した。もう例の仰々しい衣装は身に着けていない。般若の面もない。流れる黒い髪にはくるくると結び癖がついていて、懸命におしゃれをしていた姿を偲ばせた。美香とは格別親しかったわけではない。それでも好感は抱いていた。ずるいと、消えてしまえばいいと、そう言われた今になっても変わらない。どこかほろ苦い感情が加わるのは否めなかったけれども、美香に対して、決して不快ではない、切実な親しみとでもいうべき感情が込み上げてくるのを翼は感じていた。
(あたしだってあなたが羨ましいよ、佐久間さん)
静かに胸を上下させている美香を見つめながら、翼は胸中語りかける。
(恭弥と一緒にサッカーができるあなたが。あいつが夢中になっていることを共有できるあなたが。玄関先で喧嘩して、あいつが飛び出ていったさきには、あなたがいるんだもん……)
美香をじっと見つめている翼の姿に、舞はなにかを感じ取った様子だったが、口には出さなかった。翼も何も言わないことにした。
二人はともに夜空を見上げる。東京ではお目にかかれないような――なにか悲しくなるほどにすさまじく、美しい星空が、湖の上いっぱいに広がっていた。まるではるか彼方、宇宙のどこかでそそっかしい誰かが銀の宝冠を砕いてしまったかのような、取り返しのつかないような、途方もないような感じが、少女たちに降りかかってくる。同じような感傷を前世の人々も抱いたに違いなかった。玉藻国の神話は、星々はこの世を見捨て離れていった先の世の神々の、最後の姿なのだと伝えていた。
「古の神々は、暁に消え残る、かの星々。残されしこの身は一人、君を恋ふ……」
二人の唇から同じ歌が流れだす。旋律と言葉とはぶつかりあい、堰き止められたが、少女たちの胸には源を同じうして、豊かな湖がひろがりつつあった。二人は黙って瞳を交わした。
「……ありがとう、舞」
藤棚の下での舞の言葉の意味も今ならわかる。翼が傷つかないように必死になって焚きつけてくれたそのことへの礼であった。きっとそれが通じたのだろう、舞は目を閉じて静かに首を振った。
「ごめんね、翼。私、どうしたらいいかわからなくて……」
「そんなのあたしにだってわからないよ。でも、恭弥とのこと、どうしたいのかは考えなくちゃね、真剣に」
笑って言いきってから星を見上げ、少しためらって、
「……あたし、舞と結城のこと忘れてたの。舞は前世のことだけじゃなくて、自分の経験から言ってくれてたのにね。幼馴染だった結城が、ある日急に幼馴染じゃなくなっちゃったこと。いつか想いは通じるだなんて、そんな保証どこにもないんだって」
「私のことはもう終わったからいいの……でも、やっぱり翼の恋は応援したいから」
そう言って舞は優しく微笑んだ。その言葉に偽りはないのだろう。でも、本当にいいのだろうか?「もう終わった」ことにしてしまっても。
「結城が変わっちゃった理由、玲子さんに聞けたの?」
尋ねると、舞は再び首を振ってうつむいた。
「聞いたほうがいいのか、聞かないほうがいいのかわからないから。もう全部終わったことだもの。私は結城君を前世のことから解放してあげたい。結城君は忘れていいんだよ。前世の苦しかったことなんて、思い出す必要ないもの。私とのことも、ぜんぶ……」
「本当にそう思うの?」
舞は瞳を揺らして何も答えない。そうだ、どこへ進むべきかわからない恋がここにもあるのだ――そう、ここにも。翼のなかにも。眠っている佐久間美香のなかにも。
どうなるかはわからないし、どうすべきかはもっとわからない。答えは今宵のうちには出ないだろう。ならば、今するべきことはひとつだ。翼は舞の肩をぽんと叩いた。
「さっ!帰ろう、舞」
翼はひとつ大きなあくびをした。急に眠くて仕方がなくなってきた。一刻もはやく布団に潜り込みたい。ところで今は何時だろう……もう就寝時間を過ぎていたとしたら、先生たちに叱られそうだけど、気づかれずに部屋に戻れるだろうか。
と、翼はあることに気がついた。
「舞」
「なーに?」
舞は美香を抱き上げようと身を屈めているところだった。翼は立ち上がった舞に湖の対岸を示した。
「宿、反対にあるんだけど……」




