第四十話 九頭龍と衣姫(下)
龍明神社の参道に、京姫はじっと息をひそめて立っている。篝火の話によれば、龍は篝火が放った独楽を京姫と思い込んで追いかけ続けてこの近くまで迫っているらしい。龍の姿は見えないが、その荒れ狂うさまは空気の震えや地の轟き、そして時折湧き上がる咆哮によって感じられる。それが段々と近づいてきていることも……咽ぶほどの風雨が皮膚を打つのにひたすら耐え忍びつつ、京姫は目を閉じる。
(大丈夫。待っててね、翼。絶対に助けてあげるから)
まだ手遅れじゃないよね……?胸をよぎる不安をいそいで振り払う。
(翼はそんな簡単に九頭龍に取り込まれたりしない。そんな簡単に恋の不安に呑み込まれたりしない。自分の恋の行方を誰かに委ねるような性格じゃないもの、翼は)
たとえ苦しい恋のために流した涙があったとしても。非情な運命の前に憤った記憶があったとしても。
いいえ、そうしたものがあるからこそ……!
『来るよ、舞お姉ちゃん……!』
篝火の声に京姫は瞼を開く。龍の吼える声が響いて、鼓膜をじんじんとさせた。
「わかった……!」
姫が答えたその時、稲妻が湖面の色を掻き消した。
「衣姫よ!」
地を裂く雷鳴の後から、凛々しい声が上がった。
「鎮まりたまえ、衣姫よ。私はここにいる。瑠璃丸はここにいるぞ!」
京姫の目に、嵐を前にたじろがぬ一輪の百合のような立ち姿が見えた気がした。
が、篝火の変身の出来を批評するだけの時間は与えられなかった。黒い影に圧し掛かられて思わず夜空を見上げた京姫は、憤怒と憎悪に龍が身をくねらせて悶え、この世のものとも思えぬおぞましいおらび声をあげて湖に飛び込んでいくのを見た。その勢いたるや、水辺から離れた参道に立っている京姫でさえ、したたかに水しぶきを浴びたほどである。
「つば……!」
『舞お姉ちゃん、急いで!龍が水から飛び出た瞬間がチャンスだよ!』
京姫は湖へ向かって駆けだした。そして、水柱と共に湖面から飛び出した龍が、瑠璃丸の姿を探し求めてわめきちらし、十八の眼をぎらぎらと光らせながら境内の上を低く徘徊しはじめるのに気づくと、ちょうど宝冠をかすめるばかりに真上に迫りきた鋼のような爪に向かって跳躍した。
耳元でうなりを立てる風に吹き飛ばされぬよう、京姫は龍の手首にしっかりとしがみついた。髪を衿のうちにしまっておいてよかった、と姫は思った。風になびく長い髪はきっと邪魔になったことだろうから。
龍の皮膚は見た目通り硬くなめらかで冷え切っていて、これを這いあがるのはどう考えても無理なように思われた。だが、とにかくやるしかないのだ。決して真下を見ないように、振り落とされないように気をつけながら、息が凍りつくほどの猛風のなかで、京姫は慎重に、けれどもすばやく動いた。勇気を振り絞って片手を龍の手首から離すと、龍の胴に掌を押し当て、鎧のような硬い鱗を掴んだ。再び死ぬほどの勇気を振り絞り、片足を鱗と鱗の間の窪みにかけ、龍がまっすぐ低く飛んでいるその間を狙っていっきに胴の上へと飛び上がった。
龍の鬣にしがみつくと、夜の闇は辺りを包んでいるものからすさまじい速度で流れ去っていく冷たいものへと変わった。雷が龍の鬣をきらめかせるほか、京姫にはもう何も見えなかった。手足の感覚さえもが失われそうだ。降るというよりは吹きつけてくる雨のなかで目を細め何度もしばたかせつつ、唇に受けた雨に喘いで、京姫はやっとのことで鬣をよじ登りはじめる。よじ登っているのか降りているのかは正直のところわからなかった。ただ頭の向いている方へ進むだけだ。滑り落ちないように、振り落とされないように、それだけ心がけて。
闇は姫のまわりで膨らみ、捩じれ、いっきに滑り落ちていく。龍が吼える度に、鱗は一斉にカタカタと震え出し、京姫の足場を危うくした。九頭竜は瑠璃丸の姿を追っているのだろう。お願い、逃げ切って、篝火……!
伸ばした手が空を掴んだとき、京姫はついに行きつくべきところへ行きついたのだと知った。呼吸をする気力を失って、恐怖と疲労に息を震わせながらぐっと身を乗り出してみると、はたして龍の額が真下にあった。突き出した鼻先が闇に閃いている。
その時、龍が勢いよく降下を始めたので、吹き飛ばされかけた京姫は咄嗟に龍の金色の角を掴んだ。龍の鼻の向こうに、樹々の海と、その海沿いに続く道を、こちらを振り仰ぎつつ駆ける青年の姿がちらりと見えた。九つの口が同時に怒りの声を放った。
『舞お姉ちゃん、ボク、そろそろ限界なんだけど……っ!』
さすがの篝火も切羽詰まった声である。
「着いたっ!!」
京姫は風のなかで叫んだ。もっともこの音の洪水のなかで聞こえたかどうかは怪しいものだったが、京姫が龍の頭頂にたどり着いたことは伝わったらしい。次の瞬間、ぽんという軽やかな音とともに篝火の尻尾が姫の頭の上に現れた。
「うわあ……大丈夫?」
「だいじょうぶなわけ……ないじゃない……っ!」
と、龍の角に掴まりつつ息も絶え絶えに姫。さながら突風に吹かれる鯉のぼりのごとくなっている姫の腰を押して、篝火は龍の首の上に姫を座らせた。
「あ、ありがとう……」
「とにかく振り落とされないうちに、さっさとやっちゃったほうがいいね。舞お姉ちゃん、できる?」
「うん……!」
京姫が闇にかざした手に、篝火は雷光の閃きに照らし出されるところから銀の刃となっておさまった。目の前の化生の身に憐みを感じないわけではない――瑠璃丸もきっとそうだっただろう、とふと思う。まして瑠璃丸は自分が父親を殺したことが、姫を狂わせた原因と思い込んでいたのだから。それでも瑠璃丸は剣を振り上げた。百合煎の人々を守るために。
京姫は翼を救うために、この剣を振り下ろす。
『今だよ、舞お姉ちゃん!』
(さよなら、衣姫……!)
キーン!と高らかな音が鳴り渡る。振り下ろした刃は、九頭龍の金の角に当たって弾き飛ばされた。えっ、と姫が目を見開いた瞬間、龍は何か苦しげな悲鳴のような声をあげながら大きく全身をのけぞらせた。角を掴もうとして手を伸ばしたが遅かった。京姫の身は闇に放り投げられた。
「えっ……?」
闇が姫の身を浮上させていく。ものすごい速度で。稲妻を孕んでいる黒雲の腹が間近になる。
そして落下していく。浮上していくときよりはるかに速く。衿の中におさめた髪が解き放たれ、身につけている衣服がはためいて音をたてるのを感じた。ただ闇雲に虚空に手を伸ばす。
「か、篝火……!」
「舞お姉ちゃん!」
「何とかして!」
「ムリだよ、ムリ!間に合わないもん!ボクひとりならどうにかなるけど」
「ダ、ダメ!私も助けて!!」
「う、うわー!」という悲鳴が同時に二人の口から上がった。このままでは湖に墜落する。この距離では絶対に助からない。湖面に叩きつけられたらひとたまりもないだろう……!京姫はぎゅっと目をつぶった。すると、嵐の闇よりも一層濃く重たい闇が姫を包み込んだ。
「……ちゃん」
……誰?
「……おねえちゃん……まいおねえちゃん……!」
揺すぶられて、舞はゆっくりと重たい瞼を開いた。篝火の面輪がおぼろな月のように二重にぼやけて浮かんでいる。
「あれ、私……」
「けがはない?だいじょうぶ?」
篝火の小さな手に助けられて身を起こす。長いこと気を失っていたのだろうか、変身は解けていた。疲労のために体はぐったりと重たいが、痛みはない。あれだけ風雨に曝されたのに寒気もしない……で、私はどこにいるんだろう?
見渡すかぎりは暗闇だが、どうやら屋外ではなさそうだった。しんと静まり返っていて風のそよぐ音ひとつせず、頭上には星の瞬きひとつ見当たらなかった。だが、屋内だとしても変な感じだ。大体空間の広さが掴めない。ものすごく広いようでもあり、狭いようでもある。それに灯りひとつないのも変だ。灯りひとつないのに、篝火の顔や自分の姿ははっきりと認識できるという点も。
「ここはどこ?」
舞が尋ねると篝火は肩をすくめて首を振ったが、それはわからないという意味ではなかった。
「聞いて驚かないでよ、舞お姉ちゃん。ここ、九頭龍のお腹のなか」
「……?」
舞は口元に引き攣った微笑を浮かべつつ目をぱちぱちさせた。その言わんとしているところは――えっ?冗談だよね?
「ううん、ぜんっぜん冗談じゃないからね。ボクたち、落ちたときにそのまま龍の口のなかにすぽんって入っちゃったの。たまたまだけど。舞お姉ちゃんはそのまま気絶しちゃうし、ボクずっとどうやってここから出ようか考えてたんだ。今のところ妙案はないんだけどね」
「えっ、ってことはつまり……わ、私たちこのままだと消化されちゃうの?!」
どうだろう、と篝火は首をひねる。
「確かにボクたちは九頭龍に呑み込まれたけど、九頭龍の胃袋のなかにいるかっていうとまたちがうみたい。九頭龍には『形』はあっても『中身』がないから。つまりさ、さっき言ったこととつながってくるんだけど、九頭龍っていうのは人々の『信仰』によってよみがえった存在でしょ?だから人々がイメージするような姿形だとか能力だとか、そういうものは持ってても、内臓とか脳とかの生き物としての器官は持ってないんだよ。だからといって必ずしも空っぽってわけでもなさそうだけど」
「じゃあ、どうやってここから……」
舞ははたと口をつぐんだ。何か聞こえた気がしたのだ。人の声のようだった。誰かがすすり泣くような――舞と目を合うと、篝火もこくんとうなずいた。声のようなものは幻聴ではなかったようだ。
「今のは……?」
「……九頭龍にとって脳や内臓の代わりになってるのは、九頭龍への『信仰』、そして衣姫自身の『想い』なんだよ、舞お姉ちゃん」
いつになく真剣な口調で、篝火は低く語った。
「行こう、今の音の正体がわかる。ボクの予想が正しければ、外に出るためのヒントにもなるはずだから。舞お姉ちゃん、立ち上がれそう?」
「う、うん……」
手を借りて立ち上がった舞は、篝火が闇のなかを浮上しながら導く先へと歩みだした。九頭龍のお腹のなかですって?このどこまでも続いていくような空間が?篝火の説明はわかるようでわからない。内臓がない、脳がない、それはわかるけれど、『信仰』や『想い』がその代わりってどういうことなの?さっきのすすり泣きのような声はなに?誰か、私たちの他に九頭龍に呑み込まれた人がいるというの……?そこまで考えて、舞ははっとした。
「翼?!」
舞は思わず叫んだ。その声は闇のなかに幾重にも反響した。
「翼、どこにいるの?!」
舞は篝火の制止も聞かずに駆けだした。闇のなかではまっすぐ進んでいるのかがわからない。ただ無我夢中に駆け続けて、冷たい水のようなもののなかに足を踏み入れたとき、ようやく立ち止まった。恐る恐るもう一歩踏み出してみようとして、舞は足元の段差を踏み外し、「わあっ?!」と声を上げながら深く溜まった水のなかに飛沫をあげて転がり落ちた。すかさず立ち上がる。水の嵩は舞の膝のあたりまであるようだった。
「ちょっと、舞お姉ちゃん気をつけてよね!」
ようやく舞に追いついたらしい篝火の声とともに、小さな蒲公英色の狐火が現れてあたりを照らし出した。満ち満ちている黒い水面に波を描いてゆらめくのは燃える狐火の光ばかりではない。先ほどから、なにか、ごくささやかなものが、水に浸かっている腿のあたりにたわむれのように触れては離れていくようなそんな気がしてならなかったのだが、それが、水面にあふれ咲きこぼれる夥しい花なのだということを舞は認めた。舞の見たことのない、青い花であった。夢のように、嘘のように青い。狐火の色を投げかけられてもなお。
「舞お姉ちゃん、あれ!」
篝火が指さす方を望んだ舞は、当惑を忘れてあっと息を呑むと、水と花を蹴散らかしながら走り出した。舞が暗闇のなかに認めたのは、少女の顔のほのかな輪郭だった。少女は白い衿を合わせた胸元まで水に浸り、背後にある壁らしきところへと背をもたせかけている。右肩の方にうなだれているせいで少女の左肩はわずかに上がっており、長い髪がその上に流れて水藻のように黒々と見えた。
舞が少女の顔を両手ではさんで持ち上げると、群れ集いひしめきあっていた青い花たちは、自ら意志を持つかのように、少女の胸乳のあたりから離れていった。舞は狐火に照らし出された顔にはっとした。翼ではない。
「美香?!」
目を閉ざしたまま、美香はかすかにうめいた。
「どうして美香がここに……!」
困惑して篝火の顔を振りかえる。舞としては単に答えを求めたつもりだったのだが、篝火は気まずそうに目を逸らした。ふわふわした耳と尻尾が垂れている。こんな姿を見るのは初めてだ。
「あのさ、すっごく言いづらいんだけど、ボク、かんちがいしてたみたい……」
篝火が小さな声でぼそぼそとつぶやく。
「かんちがい?」
「翼お姉ちゃんじゃなくて、そのお姉ちゃんだったんだと思う。九頭龍に取り込まれたのって」
「じゃあ、翼は……」
「無事、だと思う……たぶん」
舞は呆れた目つきで篝火を見た。狐というものも案外賢くないみたいだ。頼りないんだから、まったく。しかし、状況は変わらない。翼が美香になったにせよ大切な友人が危機に瀕していることには変わりないのだから。美香は気を失っているようだが、命はあるのだからきっと助けられるはずだ。とにかく水に浸かりっぱなしで寝ているのはよくない……風邪を引くし。いや、それよりももっと悪いような気がする。この水はただの水ではないようだから。舞の直感が告げるところによれば。
「とにかく美香をここから出さなくちゃ。それで、篝火君!外に出るためのヒントはあった?」
自分よりもいくらか背の高い美香をもやすやすと抱き上げる舞に、篝火は目を丸くしていたが、舞がじっとにらみつけると慌てたように言った。
「う、うん!あったよ!」
「今度はかんちがいじゃないよね?」
「かんちがいじゃない……というか、今にやってくると思うよ、ヒントというか答えというか」
舞はけげんな顔をした。篝火が黙り込んだあとの静寂に、美香の白い湯着から滴る水の音が響いた。一体なぜ美香は湯着なんか着ているのだろう……
滴る水の音が素足で闇を踏む足音に変わった時、舞ははっとして振り返った。その時すでに篝火は、口元に笑みのようなものを浮かべつつ目を細めてそちらを見つめていた。
女がひとり、そこに立っていた。その肌が衣を透かして光を放つように、女の立ち姿は闇のなかでぼうっと明るく浮かびあがってみえた。女というよりは少女と呼んだほうが似つかわしそうな、どことなくあどけなさの残る顔立ちをしているが、切れ長の目とそこに抱え込まれた瞳の重たさとが彼女をひとりの女人にしていた。
藍色の地に銀色で龍の姿を描いた袿をまとい、その壊れそうなほど華奢ななで肩のあたりに、縹色の鬢削ぎがゆらゆらと揺れている――この女こそまさしく衣姫だということは舞にもすぐにわかったが、龍明神社で見た銅像よりもずっと小柄で、「きぬひめちゃん」よりもずっと表情に乏しく、しかしそれらゆえにこそ、その美はひとしおに妖しく揺曳して、見る者の息を詰まらせるようだった。衣姫は音もなく水のなかに錫色の袴の裾を浸して歩み寄ってきたが、舞がびくりと後ずさると、歩みを止めて舞を正面から見据えた。そのまま笑いかけもせずに衣姫は小さな口を開いた。
「汝は恋をしておる」
あやういほどに幼げな口調だった。
「然るになぜ妾に縋らぬ、望みなき恋でありながら。なぜ恋を叶えようと思わぬ」
「……わ、私もあなたに訊きたいことがあるの」
舞は自らを鼓舞して、声の震えを押し隠しながらそう言った。
「あなたの目的はなに?美香を……この子を、どうするつもりだったの?」
「妾は神じゃ」
切り揃えられた前髪の奥で眉ひとつ動かさずに衣姫はつぶやく。その言葉に驕りもなければ皮肉もない。
「ゆえに妾に縋る者の願いを叶える。すなわち恋を」
「あなたは美香を取り込もうとしたんじゃないの?」
じれったい気持ちを押さえつつ尋ねる舞。
「美香を取り込んで、よみがえろうとしていたんじゃないの?あなたに縋る大勢の人々の想いに応えようとしていたの?」
「妾にとってはどちらも同じこと」
すっと袴に寄りついてきた青い花に瞳を落とした衣姫は、ゆるやかな所作で花を掬いあげた。なぜだか舞はどきりとした。滴り落ちる乳のような白い指が触れたのが、花弁ではなく美香の肌であったようなそんな気がしたのだ。舞は思わず美香を胸元に抱き寄せた。美香のゆるやかな呼吸が胸元に触れる。
「……どういうこと?」
「妾はこの娘を贄とする。そしてこの娘の恋を叶える」
「そんなこと出来るわけ……」
舞の声が消え失せたのは、衣姫が両手に掬んだ花のなかに顔を埋めたためであったが、くすりという笑いのこぼれた方を見遣った衣姫の唇から毟り取られた花弁がはらはらとこぼれるのを見て、舞はいよいよ言葉を失った。同時に、舞の頭の斜め上あたりに浮かんで狐火の灯りを投げかけている篝火を力のないまなざしで見上げた。確かに笑いはそこから漏れたようであったから。
「其処な狐、なにゆえに妾を笑う。礼儀を知らぬ狐ながらに、ただの野狐とも思われぬが」
「それはどうも。でもボクのことはどーでもいいんだ。今のボクはね、このお姉ちゃんの味方だから」
篝火はすすっと降りてくると、舞の両肩を後ろからぎゅっと掴んだ。戸惑う舞に、篝火がささやく。
「舞お姉ちゃん、あのね、実は単純なことなんだよ。衣姫は美香お姉ちゃんを取り込んでよみがえって、そして自分の恋だけを叶えるつもりなんだよ。その時、美香お姉ちゃんは衣姫に取り込まれて衣姫とひとつになってるから、衣姫の恋を叶えることは美香お姉ちゃんの恋を叶えることなの。衣姫が言ってるのはそーいう論理なんだよ。わかる?」
「そんな……!」
舞はまたもや絶句した。
「そんなの、それって……それって、みんなを騙してるだけじゃない!そんなの恋の神さまでもなんでもないよ!」
「もっともな理屈だけど、衣姫には響かないと思うよ。言ったでしょう?衣姫は自分の恋しか見えてないんだから」
「そもそも叶うはずないじゃない……」
舞は知らず知らずのうちに美香の手をぎゅっと握っていた。美香の手は冷たかった。
「瑠璃丸は死んでしまったのに、あなたが殺してしまったのに……!どうしてあなたの恋が叶うだなんて……?!」
衣姫に叫びかけて、舞は口を噤んだ。縹色の前髪の下に衣姫の美しい顔は消え失せ、金の角を生やし、牙を剥いたおぞましい女の情念がそこに形を成していた。よくよく見ればそれは能面なのであったが、同じ面を被り、同じ袿と袴を纏い、縹色の鬢削ぎを垂らした女の姿が、衣姫の後ろからあたかも姫から分裂するがごとく現れてその場にずらりと立ち並んだ。揃って八人――あと一人足りない、龍の頭の数には。
「あれは蛇だ。もう話は通じないよ、舞お姉ちゃん」
篝火がすっと前へ出てきて舞を庇いながら言った。
「舞お姉ちゃん、もう一度変身して。衣姫を倒すしかない。あの衣姫こそ九頭龍の核になっている存在、つまるところの魂だから。あの衣姫を倒せばここからも出られるはず」
「もう、信じるからね、篝火……!」
舞は片腕でしっかりと美香を抱えたまま、片手で鈴を探り出した。その間に篝火は水面に青白い焔を立たせて、夥しい花を爛れさせ、迫りくる蛇の面を被った女たちの進行を妨げた。縹色の鬢削ぎを垂らした女たちは明らかにたじろいだ。けれども、衣姫は歩みを止めなかった。恋の焔に身も心も焼かれすでに熱さも忘れ去ったのであろうか。衣姫はやすやすと焔を踏み越えんとする。焔は衣姫の身燃やすどころか、姫の素足の裏にふっと消えた。
舞は鈴をかかげた。しかし、桜色の光が鈴より放たれるより早く衣姫が打杖を振り上げた途端、「うわあっ!」と声をあげた篝火が後ろ向きに吹き飛んできて、舞の顔面に激突した。舞は倒れかけた拍子に鈴を水のなかに取り落とした。
「あっ!」
屈みこんで暗い水のなかを探ろうとするも、抱きかかえている美香の体が邪魔をする。篝火は水面に浮かんですっかり伸びているようだ。落ち着いて、落ち着いて、落ち着いて……どれだけ言い聞かせても焦りは募るばかりだ。八人の衣姫はいよいよ迫りくる。焔を越え、水面の上を渡って。
「来よ、来よ。妾が水底に来よ
少女よ、汝が恋を叶えん
疾く来よ、水藻の褥のうち、水泡の帳のなか」
八人の唱和は謡のように低く響く。美香を背に負って、必死に水のなかをかきまわしていた舞は、か細い声が背中から立ちのぼってその唱和に寄り添わんとするのを聞いて凍りついた。
「永久の夢を、彼の人の……」
美香の黒髪が頬のそばに揺れている。そうだ、これは美香の黒髪のはずだ。縹色の鬢削ぎではない。それなのに――私が背負っているのは誰?いいえ……《《なに》》?
「み……!」
舞はその時、背中で揺れた重みを水面に見た。狐火が映し出してしまったから。
「嫌い、嫌い、嫌い……青木さんなんて……いなくなればい……」
「美香!!」
舞は本能的に美香の体を背中から振り落としていた。美香の体は水底に沈んだ。我に返った舞の手首を、水面から突き出てきた手が強烈な力で捕まえて水のなかに引き入れんとする。舞は必死に抗った。手首が引きちぎれそうだ。いつのまにか額に汗が滲み出ている。篝火はまだきゅるきゅると目を回している。背後には衣姫が迫っている。低い唱和は生ぬるい風となってうなじの毛を逆立たせる。まずい、まずい、まずい……!でもなによりまずいのは……
「美香、おねがい……っ!」
手首を掴む力がふっと緩んだ気がした。はっとした舞の背に、打杖が振り下ろされる。
「妾に汝が恋を……」
『青海波ッ!!!!』
清らかな叫びとともに、闇が薙がれた。




