第四十話 九頭龍と衣姫(上)
来よ、来よ。妾が水底に来よ
少女よ、汝が恋を叶えん
疾く来よ、水藻の褥のうち、水泡の帳のなか
永久の夢を彼の人の面影とともに
いざ来よ少女、汝が恋ふ人は誰そ
妾に汝が恋を捧げよ
ああ、瑠璃丸さま……!
「おや、ジュースが余ってますねぇ」
宿のロビーに悠然と腰かけ、生徒たちと言葉を交わしていた菅谷先生の笑顔が、パックジュースを詰めた段ボールの上に屈みこんだその拍子に、ふっと途切れた。菅谷先生は定年間近のベテラン国語教師で、みごとな禿げ頭と授業中に突如としてさしはさまれる小噺が有名な先生だ。
「はて、誰がもらっていないのでしょうか」
「だいぶ降ってきましたね、外」
鳥居みちる先生が菅谷先生のそばに寄ってきて言った。背のすらっと高い、ガゼルやインパラといった草食動物をどことなく彷彿とさせる女性の先生で、生徒たちからは親しみをこめて「みちるちゃん」と呼ばれている。菅谷先生も段ボール箱から窓の外へと目をやった。
「もうっ、こんな予報じゃなかったのに。明日は大丈夫ですかね?」
「……鳥居先生、すみませんが女風呂をのぞいてきていただけませんか?」
菅谷先生が立ち上がって言う。鳥居先生はぱちぱちと目をしばたかせた。
「女風呂ですか?もう生徒は全員出たはずですけど……」
「一応ですが確認をお願いします。いえね、何人かジュースを取りに来ていない生徒がいるようなので。まっすぐ部屋に戻っただけならいいのですけれど」
「なら部屋の方も見てきますね。そろそろ就寝準備の時間ですし、ロビーの生徒も部屋に戻しましょうか?」
「そうしましょう」
はい、ではそろそろ九時になりますから部屋に戻りなさいね、ロビーでくつろぐ生徒をみまわして言う菅野先生は、すぐ隣を通り過ぎていった結城と東野を見てふと気づく。そういえば京野と青木の姿がない。それからずいぶん前から佐久間の姿も見ていない気がするが……
「翼が危ないってどういうことなの?!」
煎湖へと続く林のなかを京姫は駆け抜けながら怒鳴るようにして尋ねた。つい語調が強くなるのはなにも篝火に対する警戒心からばかりではない。急な斜面になっている林を乱立する樹々を交わしつつ滑り降りていかなければならないため、かなり神経を使っていたのである。暗闇に紛れる木の幹に何度ぶつかりそうになったことか。一方で、化生の身である篝火は気楽にも常に京姫の斜め前あたりをゆらりゆらりと浮遊して、立ち群れる樹々を巧みに交わしている。小癪にも、進行方向に背を向けて宙にあぐらをかいた姿勢で、篝火はにやっと笑った。
「舞お姉ちゃん……じゃなかった。今は京姫のお姉ちゃんって呼んだほうがいい?でも言いづらいから舞お姉ちゃんでいいや。舞お姉ちゃんはさ、九頭龍の伝説、聞いた?衣姫っていうお姫さまが嫉妬に狂って龍になっちゃったってやつ」
「知ってるけどそれがどうし……」
「あの伝説だと衣姫は湖の底に潜ったんだよね?誰かに倒されたり封印されたりしたわけじゃなくて……だからさ、よみがえることもできるよね?よみがえろうと思えばさ」
篝火の言わんとすることが漠然とだがつかめてきて、京姫ははっとする。その時、白い閃光が目の前に迫り来る大木を照らし出した。姫は慌てて避けた。雷鳴は少し遅れてやってきた。
「まさか九頭龍がよみがえったの?今?」
その通り、とうなずく篝火。
「そっ。厳密に言えばまだよみがえってないけど、もうすぐってところ。よみがえってこの百合煎の地を荒らすつもりだよ。伝説と同じみたいにね」
「じゃあ、翼はそれに気づいたの?それで、ひとりで九頭龍を倒しにいったの?」
食いつくように尋ねる京姫に、篝火は木の枝のあいだをすり抜けて肩をすくめた。
「それはちょっと違うかな。たぶんだけど、九頭龍がよみがえるってことに気づいたの、ボクひとりぐらいなんじゃない?翼お姉ちゃんだって気づいてないよ、きっと。だからこそ、翼お姉ちゃんは九頭龍の贄にされそうなんだよ」
「ニ、エ……?」
聞き慣れない言葉に戸惑う京姫。
「そっ。舞お姉ちゃんも生贄って言葉は知ってるでしょ?贄っていうのは神さまへの捧げもののこと。ボクもその昔は……まあいいや。とにかく、翼お姉ちゃんは九頭龍復活のための贄にされそうってわけ。ねっ、危ないでしょ?」
「そんな!どうして翼が……?!」
龍の唸り声のごとく黒雲が轟く。林を抜け出た京姫の瞳は不安げに空を見上げた拍子に、夜空を駆ける稲妻の線を見た。降りかかる雨はいよいよ激しさを増していく。まるで煎湖に向かう京姫を阻もうとするかのようだ。
実際に京姫の行く手を阻むものがあって、姫は足を止めた。もっとも、それは踏みつけさえすれば、あるいは飛び越えれば、容易に行き過ぎることができるものであった。いや、そんな手間さえ必要ない。ただ、気づきさえしなければよかったのだ。
数歩歩み出したあとで、朽ちかけた落ち葉の降り積もる土の上から、京姫は震える手で見覚えのある袋を拾い上げた。バスタオルや着替えの詰まった袋からはほのかに石鹸のにおいがした。
「……ねぇ、舞お姉ちゃん。神さまっていうのはさ、すっごく強くて怖い存在みたいに思えるよね?でもさ、ほんとうは人間の方がずっと強いんだよ」
篝火はいつのまにやら大きな蓮の葉を取り出してそれを傘がわりに抱えている。びしょ濡れになっている京姫に憐れを催したものか、それとも狐のきまぐれか、篝火は京姫の方につと寄ると、同じ蓮の葉のなかに姫の頭と右肩あたりをおさめてくれた。雨音にかき消されぬようにか、そのまま京姫の耳元で篝火はささやく。
「少なくとも今の時代はね。そりゃあはるか昔はちがったけど。なんで人間の方が強いかって、人間の『信仰』の力がなかったら神さまは生きていけないからだよ。人間に忘れられてしまった神さまはね、だんだんと弱っていって、最後には空気みたいになっちゃうんだ。もちろん、完全に消えちゃうわけじゃないよ。確かに存在はそこにあるんだ。でも、誰かにそれを伝えることはできないし、感じ取ってももらえない。自分の力で動くこともできないから、風に吹かれるままにゆらゆらとさまようだけ。そして、だんだんと、自分でも自分がなんなのかわからなくなっちゃうんだ……だからさ、ほら、神さまは時に人をこわがらせてみたり、人を喜ばせてみたりするんだよ。そうすれば、忘れられることはなくなるからさ」
一体何を語っているのだろう、篝火は。袋を抱きしめ濡れた落ち葉を踏みしめながら京姫は苛々と物思う。湖面に遠く瞳を投げかけると、波立つ闇は意外に近くにたたずんでいた。翼が昨夜、「なんか穴があいているみたい」と言った夜の湖だ。今は灰色の波が絶えず渦巻いているから穴があいているようには見えないけれど――
(翼……!)
「九頭龍だっていっしょだよ。まあ、神さまって言えるかどうかはビミョーなところだけどさ。ふだんから龍明神社で祀られてるからってさ、それだけじゃだめなんだよね。肉体を持って蘇るためにはさ、ものすごい『信仰』が必要だから。『信仰』っていうか、なんていうのかな。『妄信』ともちがうかな。『執着』っていうの?死ぬ気で縋りつくっていうか、そんな感じの」
「さっきから何の話をしてるの?」
京姫は語気も荒く言った。湖の手前では、老婆の白髪のような葦原が風に吹かれてうねっているのが見える。篝火は白い犬歯をちらっと見せて笑い、まあまあと姫をなだめた。
「まあまあ。確かにちょっと話が長くなったけど、ここからちょうど核心に触れるところなんだから……つまりね、九頭龍がよみがえるためにはものすごい九頭龍に対して執着を持った人間が必要だったってこと。そんな人間がどこにいるのかって話だけど、九頭龍はほら、恋愛の神さまでもあるでしょ?龍明神社のお守り見なかった?恋をかなえるために、九頭龍に縋りつく女の人はたくさんいるんだよ。苦しい恋に悩んだ末に湖に身投げした女性もいるしね」
翼、湖、九頭龍の復活、恋、苦しい恋、身投げ……京姫は思わず袋を取り落としかけた。篝火は慌てもせずに「おっと」とおどけるように言って白い尻尾の先に袋の紐を引っかける。ふしぎなことに、篝火が傘にしている蓮の葉は大風にもそよともしない。
「翼は身投げなんてしないもの!」
京姫はキッと篝火の白い顔を睨んだ。翼は恋に狂ってもいない。翼はそんなにやわじゃない――続けたい言葉を、姫は胸のなかだけで叫ぶ。篝火はわざとらしくしゅんとして狐の耳を垂れさがらせた。
「そう怒らないでよ。ボクだって翼お姉ちゃんのこと少しは知ってるもん……もちろん翼お姉ちゃんはすごく強いよ?でも、今の翼お姉ちゃんは恋のことで悩んでるしさ。九頭龍に呼び寄せられたらどうなるか怪しいもんだよ」
「じゃあ、まさか翼は……」
九頭龍に呼び寄せられるまま湖へ向かったの?そして湖に……揺らぐ京姫の瞳を見て、篝火の表情からにやにや笑いが消えた。狐はこくんと小さく、しかし力強くうなずいた。
「……でも、まだ大丈夫。今から急いでいけば間に合うかもしれない。とにかく急ごう」
……これも嘘なのかもしれない、と京姫は思わなくはなかった。篝火の十八番は幻術を操ることで、幻術でできた世界のなかに人を閉じ込めることも可能である。だから、京姫ももしかしたら篝火に騙されていて、実際には今もなお空には月が輝き、湖面は凪ぎ、翼はすでに宿にいて舞を探しているのかもしれなかった。恩返しだのと理屈をつけたところで、篝火が京姫を助ける理由はないのだから。しかし、だとしても、翼が危ない目に遭っているかもしれないというのに放っておくわけにはいかない。九十九パーセント中の一パーセントを無視することはできない。
(騙せるものなら騙してみなさい!)
葦原を見渡しながら、京姫は言った。
(嘘を見抜くのは前世では得意だったんだから。これが嘘だとしたら、今度は絶対見逃してあげない。私を利用するつもりなら、覚悟しなさい篝火!)
「翼!!」
篝火の蓮の葉から飛び出しながら、京姫は葦原に向かって叫ぶ。乱れそうになる呼吸を必死に呑み込みながら。
「翼!どこにいるの?!」
翼が舞のもとを去って、京姫が篝火と共に宿を出発するまではそう長い時間があったわけではない。ここまで京姫は全速力で駆けてきたのだから、翼が歩いてここまでやってきたのだとしたら追いつくことはできたはずだ。問題はひとりで翼を探すにはこの湖の周囲はあまりにも広いことである。吹きつける雨風もまた京姫の捜索の邪魔をした。もはや灰色を伴って見える強風のなかでは息をするのも苦しく、葦はことごとく薙ぎ倒され、湖は荒海のごとく波を立てて岸に押し寄せ、白い飛沫を飛ばして打ち砕かれた。京姫は風のなかでけんめいに地面を踏みしめながら、濡れる目元を拭い、はためくスカートを抑えた。
「翼!」
叫びもまた風にかき消されてしまう。
「翼!!」
「舞おねえちゃん、手分けして探そう!ボクはあっちの方を探してみる!」
あまりの強風にしっぽを吹き飛ばされそうになって慌てて抱えつつ、篝火は向かって右手側を指さした。京姫はうなずいた。蓮の葉を手渡されるままに受け取った京姫は、篝火の姿がたちまち消えてしまうと、なにがなんだかわからぬままに数歩駆けた。その時、ひときわ狂暴な風が吹きつけてきて、京姫は思わず身を屈めた。蓮の傘は嵐に奪い去られ遠い闇へと消えていく。
やはり篝火に騙されたのでは、との思いが、京姫の胸をかすめた。しかし、篝火への怒りが沸いてくるよりその前に、不意に、辺りを静寂が圧した。
『なぜじゃ。汝も恋をしているというのに』
か細い、女の声だった。
『なにゆえ汝は妾を求めぬ。恋の悲嘆に展い転びつつ妾を拝むがよい。恋の苦悶に泥つ泣きつつ妾を崇めるがよい。そして、妾にその身を捧げるがよい。かの少女のように、大勢の女どものように。さすれば汝が恋は成るというのに。なぜじゃ……』
頭のなかに流れ込んでくる声に顔を上げた京姫の目に、雷光だけが無音の映画のように白くひらめく。
『なぜ、汝は恋を叶えようとせぬ。なぜ縋らぬのじゃ……この衣姫に』
「……!」
轟く雷光に、天が裂けた。京姫は霹靂のその爪先が煎湖の中央に降り立つのを見た。その瞬間、波打つ湖面は凪いだ。京姫がただ唖然として眺めるなか、水底より立ちのぼる泡がひとつ、またひとつ。と、水面がいっせいにささ波立ち、足元の大地が揺れはじめた。
突如として、水柱が白い大樹のように聳え立った。京姫はその梢が黒雲に差し入るのを見て、はっと我に返った。姫が後ずさると、樹の幹はたちまち黒ずみ鋼鉄の鎧のごとく稲光のなかに鈍く光るものがその樹皮を裂き割った。
京姫の目はとてもその全容を捉えることはできなかった。ただそれが紛れもなく九頭龍であること、九つの頭を持った龍であることだけはわかった。青色の鎧のごとき鱗を持った巨大な蛇体ならぬ龍体が閃光のなかに絶え間なく照らし出されるさまは、新たに地から湧き上がった山のように見える。九つの頭の頂から水中に隠れている尾までには銀色の鬣が連なり、胴体には不釣り合いなほど小さな手には、今度はその手には不釣り合いなほど巨大な爪が光っている。瑠璃丸によって断ち切られたはずの八つの首は湖面の真上にあって湖畔の悉くを見渡すかのように伸べられ、ひと際大きな頭だけが天にすくっと聳えているが、その頭は面を被っているかのようにその上顎から額にかけて白銀の分厚い外皮に覆われており、二本の金色の角が耳のあるあたりに生えている。この頭だけが京姫の姿を捉えているようで、般若面のごとき金色の眼がかっと見開かれ、京姫をねめつけていた。
龍は九つの口を同時に開き、むき出しにした銀色の牙も荒々しく、咆哮を放った。その咆哮のおぞましさたるや、風雨の音さえをもつんざき、地を揺るがせ、思わず耳を塞いだ京姫を立ちすくませるほどであった。
皮膚を刺すように迫る龍の禍々しさに、京姫はついに目の前の光景が幻術ではないかという疑惑を捨てた。紛れもない現実として九頭龍は京姫の前に立ちはだかっている。篝火が話した通り、はるか昔、この湖深くに沈んだはずの九頭龍は再び甦ったのだと。でも、もしそうだとしたら――
(翼……!)
夕方にバスの中で見たあの涙が思い出されて、京姫は知らず知らずのうちにぎゅっと拳を握りしめる。
(だめ……!一番大切な思いを、一番大切な記憶を利用されるなんて。絶対だめ……!)
「舞お姉ちゃん!」
京姫のすぐかたわらに篝火の姿が再び現れた。
「きんきゅーじたいとみて戻ってきたよ!大丈夫?!」
「大丈夫、だけど、翼が……!」
呆然とする京姫の肩に篝火は小さな手を置いた。
「落ち着いて、舞お姉ちゃん。確かにあいつがよみがえったってことは、翼お姉ちゃんはあいつに取り込まれたってことだと思う。でも、まだ取り込まれてからそう時間が経ってないはずだから、あいつを倒せば助かるよ、きっと」
「でも……!」
「話はあと!今はとにかくあいつを倒すしかない。ほら、しっかりして!」
ぽん、という軽快な音とともに篝火の姿が掻き消えた。一瞬、京姫は逃げられたものと思ったが、気づけば右手に見知らぬ剣が握られていた。戸惑う姫に剣が怒鳴った。
「逃げて!上から来るよ!」
降りかかる影にはっと空を仰いだ京姫は、剣に手を引かれるようにして咄嗟にその場を飛びのいたために龍の牙を逃れた。続けざまに襲いかかる三つの頭を京姫は慌てて避ける。姫が半ば転びつつも走りながら振り向いて見ると、龍の頭が突撃したところにはもうもうと土煙が立ち込め、龍の吐く息のために湖畔の葦と樹々はたちまち黒く燃えて朽ち果てていた。地面のみならず空気までもがびりびりと震えている。京姫は思わず小さく息を呑んだ。
「気をつけて!あいつの吐く息は毒だから。舞お姉ちゃんだったら少しは耐えられるかもしれないけど、普通の人なら五秒と耐えられないよ」
「どうやって、あいつを、倒せばいいの?!」
ひゅっ、と音を立て襲いくる尾から逃れようと必死に身を屈めて、京姫はとぎれとぎれに叫ぶ。篝火に頼り切っている状況を顧みる余裕もない。
「狙うのはあの一番大きい頭だけだよ。あれが本体だから。ほら、見て。毒気を吐いてるのはあの大きい頭だけでしょ?他の頭は飾りみたいなもんだよ。まあ牙まではお飾りじゃないと思うけど」
「なんで、瑠璃丸に、切り落とされた、はずなのに……っ!まだ、頭が九つ、あるのっ?!」
「あの九頭龍は『信仰』によってよみがえったんだよ?当然よみがえるときだって『信仰』されてる姿のままで、つまりみんなにイメージされてる姿のままでよみがえるに決まってるじゃない。九頭龍って言うぐらいなんだから、みんなのイメージでも頭は九つあるんだよ」
「もう……!」
おかげでこっちは大迷惑だ。十八もの龍の眼を逃れて、あの龍に攻撃を加える方法なんて思いつかないもの。京姫は今、葦原のなかを前も見えないままに掻き分け掻き分け進んでいる。一瞬たりとも足を止めることはできなかった。龍の息吹が周囲一帯の草木を焼き滅ぼすその音と熱気は走りつづける京姫の背にも感じられていたからだ。
「舞お姉ちゃん、ここじゃ駄目だよ!もっと湖から離れなきゃ」
「そんなこと言ったって……!」
隠れろと言ったのはそっちじゃないの。今はうまく葦のなかに隠れられているけれど、ここから抜け出せばたちまち見つかってしまう。そうしたらひとたまりもない。
「でも、ここだってすぐにぜんぶ毒気でやられちゃうよ。姿は見えなくてもここにいることはどうせばれてるんだから。いい?今から慎重に葦原の端っこの方に寄っていってよね。ボクが合図したら、原っぱを抜け出していっきに林のなかに駆けこんで。そこで態勢を立て直そう!」
乱れた呼吸を雨風が塞いで余計に苦しくなる。雷鳴はやかましいほど鳴り響き、京姫を追う龍の影をくっきりと地表に浮かび上がらせた。葦の穂が濡れた頬に貼りつくのを剥がし、篝火の言った通りに、京姫は葦原を水辺から陸の方へと移動した。もっとも視界を一面葦に覆われていてはどちらが湖とも陸の方とも判断しかねたが、湖から現れた龍と対峙して駆けだしたとき咄嗟に右手に向かって走り出した記憶があったので、湖の周りを反時計回りに駆けているものと判断して、右方向に移動したのだった。
「ストップ!」と篝火が叫んだその時、大きく振った右の腕が葦のもつれた葉のなかから突き出したのを感じた。立ち止まった京姫は、続けての「今だ!走って!」との合図に従い、葦の群れから飛び出した。その拍子に、剣の先から何かが飛んでいったような気がしたがとにかく気にしない。暗い急斜面を、京姫は死に物狂いで駆けのぼった。
林の闇のなかに匿われたとき、京姫は膝から崩れ落ちた。もう限界だった。今はこれ以上走れない。ぽん、という音と共に、篝火が姿を現す。篝火は宙に浮かんでじっとしているのは、枝の間から敵の様子をうかがっているらしい。
「よしよし、まだボクたちがここにいるって気づいてないね。まだボクの独楽を追っかけてるもの。これでちょっとは時間稼ぎが出来たかな……しっかし、舞お姉ちゃんって案外たよりないなぁ。ボクがいなかったらどうしてたのさ?」
「だ……だって!……あんなに大きいのっ、ひ、ひとりでっ、たおせるわけっ、ないじゃない……っ!」
京姫はむっとして息も切れ切れながらに言い返す。そして、ふと気づいて、
「そ、そっちには、お得意の、げ、幻術があるでしょ……っ!ど、どうにかし、したらどうなの……?!」
あー、幻術ねぇ、と今思い出したようにつぶやきながら、篝火は宙であぐらを組んで頭をぽりぽりと掻いた。
「んー、確かにちょっとぐらいは使えるんだけどさぁ。いちおうさっきも舞お姉ちゃんの姿を隠すために使ったし……でも、九つの首全部に幻覚見せるのってなかなかきついし、それに基本的にあの手のには効かないんだよねぇ、幻術って」
「あの手のって……?」
篝火は困ったように肩をすくめる。
「なんていうか、聞く耳持たないっていうか。いや、幻術だから見る目を持たないっていうべきなのかなぁ。むしろ幻術なんかかけるまでもないっていうか。九頭竜はさ、嫉妬と恋愛に狂ってるから自分がこうだと思い込んだ世界しか見えてないんだよ。だから幻術なんてかけてもムダなの。すでに自分で自分に幻術をかけてるよーなものだからさ」
「頼りないのはそっちもじゃない……」
ぶつぶつと文句を言いつつも、息が整ってきた京姫は湿っぽい地面から立ち上がった。今のところ案外協力的であるから篝火の言うことを信用するとして、早いうちに九頭竜を倒せば翼は助かるとの話である。だとすればこんなところで篝火と言いあっている暇はない。幻術が使えないのは残念だが、どうにかして九頭竜を倒す方法はあるはずだ。篝火は不意をつけと言っていたけれど……
「一番の弱点はさ、舞お姉ちゃんが武器を持ってないことなんだよね」
京姫の胸中を察したがごとくのタイミングで、篝火がぼやいた。口調からすると姫をからかっているわけではなく、本気で悩んでいるようだ。
「お姉ちゃんが武器を持ってれば、ボクがおとりになるなりして一緒に戦えるんだけど。舞お姉ちゃんが戦うの、前にちょっとだけ見たことあるけどさ。舞お姉ちゃんの力って、要は浄化と鎮魂でしょ?本質的といったら本質的だけどさ、物理的なダメージは与えられないよね。あいつの場合はとにかく首を切り落とさなきゃいけないから、剣とか刀とかがないと」
刀――きっともし京姫と青龍が逆の立場であったら、青龍はたやすく敵をしとめて京姫を助けてくれるのだろう。それを思うと自分が不甲斐ない。いや、でも私だって必ず翼を助ける。たとえ篝火の協力なくしては戦えなかったとしても、なんとしても助ける。
「それで、あなたは何ができるの?」
問い返す京姫も篝火に仕返しをしているわけではなかった。篝火は得意げにへへんと笑ってみせた。
「いろいろできるよ、ボクは。本来の姿だったらもっと色々できるけどね。ええっと、幻術でしょ、変身でしょ、瞬間移動でしょ、毒でしょ、独楽でしょ、あとクナイもちょっと持ってるし……」
京姫は懸命に頭を働かせる――作戦を考えるのはあまり得意ではなかったから。幻術は使えないときた。でも、変身と瞬間移動は使えるはずだ。幻術だってほんのちょっとの間なら効くと言っていた。京姫にできることと篝火にできることをうまく組み合わせて、何かできないだろうか。
濡れた皮膚は冷たいのに、考え込んでいる頭が熱くなってくる気がする。と、共に腕を組んで考え込んでいた篝火が「あっ」と手を叩いた。垂れていた狐の耳がぴんと跳ねた。
「いいこと思いついた……!ねぇ、舞お姉ちゃん、ボクさっき、九頭竜は自分がこうと思い込んだ世界しか見ないって言ったでしょ?それを利用してやろうよ」
「どういう意味?」
暗闇のなかの猫のようにらんらんと目を輝かせて身を乗り出す篝火に、姫は怪訝な顔をする。
「時間がないから簡単に言うよ?いい?ボクが瑠璃丸の姿に変身する。単なる幻術じゃなくて変身した姿だから九つの首全部が見てもボクは瑠璃丸に見える。九頭竜は瑠璃丸に死ぬほど恋い焦がれて死ぬほど憎んでるんだからボクのことしか見えなくなって襲いかかるはずだ。そこで舞お姉ちゃんが不意打ちってわけ。元々ボクのことしか見えなくなってるところに、舞お姉ちゃんの姿をボクの幻術で見えなくする。だから、効果は二倍。そしたら舞お姉ちゃんはがんばって自力で龍の首にのぼってね。いい?あの一番大きい首の上だからね。舞お姉ちゃんが首の上にのぼったのを確認したら、ボクが瞬間移動で舞お姉ちゃんのところに移動して、今度は剣に変身する。それで龍の首を切り落とす。わかった?」
龍の首にのぼる……?自力で?あの暴れまわっている龍の首に?京姫は青ざめる。全くできる気が全くしない。
「あのさ、瞬間移動って私にも使えたりしないの?九頭竜の首にのぼるってそんんなの……」
「あー、ムリ」と即答の篝火。
「ボクと一緒に移動ならできるよ?でもボクは瑠璃丸に変身してめちゃくちゃ攻撃を食らってるはずなんだもん。舞お姉ちゃんと一緒になんてとてもムリだよ」
「そう……」
腹をくくるしかないということか。翼のためだもの、仕方ない。
こくんとうなずいた京姫に、篝火はにやっと笑った。
「だいじょーぶ。とりあえず対岸までは一緒に連れていってあげるから。ここの対岸はちょうど龍明神社だよ。そこで龍を待ち伏せしよう」




