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京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第四章 現世編―芙蓉の巻再び―
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第三十八話 恋する湖畔(下)


(どうして私、気づかなかったんだろう)


 龍明町りゅうめいちょうの狭い歩道では三人並ぶことができずに、理沙と優美のあとを気遣われつつもとぼとぼと歩みながら、舞はバスに揺られつつ考えていたことを反芻していた。


(私は美香の親友なのに。その親友の私がちっとも気づかなかったなんて。ほかの友達はみんな気づいてたのに、なんで私だけ……)


 美香の恋がなぜ舞の胸を暗くさせるのか。理由は大きく二つある。一つは舞が美香に対していかに不注意であったかを気づかされたためだ。昼食の時、「美香ってば、あんなにかわいくなっちゃってさ」という理沙の言葉を聞いて、舞は胸を衝かれた。まさしく理沙の言う通りだった。この移動教室に臨んで、美香は思い切って眼鏡をはずし、いつもの三つ編みをポニーテールにしてシュシュで飾り、兄のお下がりなんだかよくわからないとにかく見た目より動きやすさに全能力を振り分けたような服装を脱ぎ捨てて、花柄のついたパステルカラーのシャツにリボンのついたキュロットという出で立ちで、見事な変貌を遂げていた。もちろん舞だって美香がおしゃれをしてきたという事実ぐらいは朝のうちから認めていた。このごろ美香が見た目に気をつかっていることも。でも、まさかその理由が恋愛だなんて、それも東野恭弥への恋愛だなんて、思いもしなかったのだ。


 一体いつから美香は恭弥のことを好きになったのだろう?夏祭りの時だろうか。夏祭りで二人の距離が近づいたことは十分考えられるけれども……


 いや、待てよ。四月のころから、美香は急にシュシュを買いたがったり、急にプロムナードに行きたがったりしたのではなかったっけ?プロムナードは桜花町内でもっとも評判のいいケーキ屋で、恭弥の母がそこのオーナーであるのだという。ということはずっと前から美香は恭弥を気にしていたのだ。それに気がつかない自分はなんなのだろう。


 それから、美香の恋を喜べないもうひとつの理由は……



 急停止した理沙のリュックサックに衝突して、舞は叱られた。


「なにしてんの、舞。ほら、もう龍明神社りゅうめいじんじゃに着くぞ」


 言われてみると、横断歩道の向こう側に立派な青い鳥居が据えられているのが目に入る。朱色の鳥居はしょっちゅうお目にかかるが青い鳥居はなかなか見かけない。昔はもう少し鮮やかな青であったらしいが、長い年月を経て、青色はくすみ黒ずんでいて、却って荘厳さを増しているように思われる。三班の班長であり、学級委員も務める真面目な佐々木一郎ささきいちろうは歓声を上げて喜びながら、その場で伸びたり屈んだりして貸与されたカメラのシャッターを夢中になって切り始めた。


「おお、これぞ噂に名高い龍明神社の青鳥居!矢嶋君、結城君、とくと見たまえ!」


 矢嶋君は目を細めて鳥居を見上げていたが、結城君はちらと一瞥したきりであった。


「なぜ龍明神社の鳥居が青いのか?一説によれば、四神信仰に基づいていると言われている。古くから北を守護するのは青龍だとされるが、龍明神社は煎湖せんじこの北側にあり、すなわち、青龍が守護する地と見なされたのだ。ゆえに、青龍を表す青色を鳥居に用いたのだという。また、ご存知の通り、龍明神社の祭神は……」

「ねぇ、信号も青になったよ、佐々木君?」


 優美のやさしいささやきにようやくファインダーから顔を離した佐々木は、横断歩道の向こうから「早く来い」と怒鳴る理沙に飛び上がり、点滅しはじめた信号を猛スピードで駆け渡った。



 龍明神社の祭神は九頭龍大神くずりゅうのおおかみである。百合煎は九頭龍伝説との関わりが深いことは先に述べたが、その伝説というのは次のようなものである。


 かつてこの百合煎の地を治めていた殿様の娘で、衣姫きぬひめと呼ばれる美しい姫君があった。衣姫はある時、この地を通りかかって殿様のお屋敷に逗留した瑠璃丸るりまるという若い侍に一目ぼれをしてしまった。


 しかし、この瑠璃丸、実は殺された父の仇を探して旅をしていた瑠璃姫という姫君の仮の姿であったのだ。初めて恋というものを覚えた衣姫の激しい恋情に瑠璃丸は戸惑い、適当に姫をあしらって百合煎の地を後にするが、衣姫は瑠璃丸を忘れられず喉にものも通らないありさまで、日に日にやつれていった。と、再び、瑠璃丸がお屋敷を訪れる。衣姫は涙を流して狂喜し給い、女の恥じらいも慎みも忘れ、夜も更けたころひそかに瑠璃丸の部屋を訪う。


「……ところが、部屋をそっとのぞいてみると、乏しい灯影のうちにあったのは見知らぬ美しい女の姿」


 佐々木班長が観光ガイド顔負けの見事な語り口で説明するのに、舞たち班員のみならず、周りの観光客までもが聴き入っていた。


「その姿こそほかでもない、瑠璃丸の本当の姿、すなわち瑠璃姫の姿であったのだが、そうとは知らない衣姫は嫉妬に狂う。そう、衣姫はその女を瑠璃丸の恋人だと思い込んでしまったのだ。瑠璃丸は自分になびかないばかりか、あろうことか自分のいるこの城で他の女と逢引をしている。それもこの上なく美しい女とだよ。想像したまえ、諸君。衣姫の苦しみ、嫉み、憤り。これまで庭先に出ることさえためらっていた姫君は、ついにお屋敷の外へと駆け出した」


「しかし、瑠璃丸はそんなこととは夢にも思わない。実は瑠璃丸がここに戻ってきたのは、ほかでもない、衣姫の父親である殿様こそが我が父の仇だと知り、念願の仇討ちを果たしにきたのだ。瑠璃丸は夜の闇に紛れて殿様の部屋に忍び込み、その首を掻っ切ってしまう」


 舞は聴きながら目の前にある瑠璃丸の銅像をしみじみと見つめた。大小を腰に帯びた凛々しい若侍のその顔が、どこかにやわらかな憂いのようなものを湛えているのは、女人としての真の姿を写し取らんとしたためなのだろうか。この麗しい若者が、親の仇とはいえ人の首を切り落としただなんてとても信じられない。


 舞はその隣に並ぶ衣姫の像の方に目を移す。


「一方、出奔した衣姫が乳母や侍女たちによって湖のほとりで見つけられたとき、姫はすでに狂女と化していた。駆けつけてきた家来によって父の死が告げられてもなお、衣姫は嘆くことはなかった。ただ、父を殺したのがかの瑠璃丸だと家来が告げたとき、瑠璃丸という名を聞いた衣姫の目は怪しく光った……と、次の瞬間!姫は乳母の手を逃れてこの煎湖に飛び込んだのだ。途端に黒雲が夜空に立ち込め、雷鳴があたりに轟きわたる。すさまじい風が吹きつけ、湖面は荒海のように激しく波打ち始める。突然の嵐のなか、やがて湖から九つの頭を持った龍が姿を現した。そう!嫉妬に狂った衣姫のあさましい成れの果てである!」


 舞の背後で話に聴き入っていた老夫婦がごくりと唾を呑む。


「龍はこの百合煎の地で暴虐の限りをつくした。野はことごとく龍の吐く毒気にただれ、湖は濁り、山の樹々は枯れ果てた。人々も皆毒気に溺れて死んでいった。そのなかで、瑠璃丸は、姫の変化へんげは父を殺された怒りによるものと考えた――『私は親の仇討ちを果たし、もうこの世に未練はない。かくなる上は、龍を退治し、我が身を捧げて姫のみたまを鎮め申さん』と、そう思った龍の元へ赴き、その九つの首の八つまでを薙いだ。だが、首が残りひとつとなったとき、ふとした拍子に結い上げていた瑠璃丸の髪がほどけ、瑠璃丸は女人のなりとなった」


「すると、首は突如、大口を開けて瑠璃丸に迫り、その身をぱくりと呑み込むと、恍惚として煎湖の底に消えてしまった……つまりだね、諸君、この龍明神社は九頭龍と瑠璃丸、いや、瑠璃姫を鎮めるがために建てられたものなのだ」


 老夫婦がぱちぱちと拍手をすると、佐々木は丁重にそちらにむかって頭を下げた。理沙と優美もなんとなく感心したらしく、話が長いとの文句のひとつも言わない。舞は変わらず衣姫の銅像を眺めていた。色こそ青銅の一色であるものの豪奢な衣装をまとった衣姫は、つややかな額の下からじっと瑠璃丸を見つめている。まだどことなくあどけなさの残る、少女と言ってもよいほどの年ごろと見ゆるのに、その目つきはどうしたことだろう。それはすでに狂し果てた後の目つきなのであろうか。憐れを催すようなか弱いものはまるで見受けられない。瑠璃丸への恋心と瑠璃姫への嫉妬が綯交ないまぜになっているようで、姫は並び立つ像の横顔に、愛しいひとと憎むべきひと、二人の横顔を見出しているのであろうと思われる。ゆえに、姫の感情は揺らぎない。愛と憎しみ――それは執着という点では近しい感情なのだろうか。愛という感情をまだ崇めていたい舞にとって、衣姫の目つきにはなかなか信じがたいものがあった。



 御朱印帳をもらいに社務所へと向かった優美と理沙(理沙は単なる付き添いだったが)と別れ、ひとりで歩いていると、境内の一画に湖を望める場所を見つけて舞は足を止めた。そこはちょうど境内を囲う樹々が途切れている場所で、湖面との間に一面に茂るあしの穂が、砂色の波のように舞の足元にそよいでいた。その向こうに湖面の青はいよいよまやかに集っている。水辺の清涼な風を浴びるとき、舞はまるでその青色のなかに身を浸しているかのように思った。


「や、やあ、京野君……!」


 背後から声をかけてきたのは佐々木だった。


「一人かね?」

「うん。ここからだと、湖が見えるんだね」

「ああ。すばらしい景色だ。都会の暮らしで荒み切った心が洗われる」


 舞と佐々木はしばらくの間並んで湖を見つめていた。舞は不自然な沈黙に困ったが、取り立てて話題も思いつかなかったのでただ景色に見惚れているふりをした。と、葦の森を見渡していた舞は、汀のごく間近に結城司の姿があることに気づいてしまった。いつの間に降りたのだろう。境内と葦の森の間にはずいぶんと高低差があるが、まさか飛び降りたとも思われないし、どこぞに階段でもあるのだろうか。司はたたずんで動かない。


 佐々木が口を開いたときも、舞は司の後ろ姿にすっかり気をとられていた。


「この麗しき湖底にかの恐ろしき九頭龍が眠っているとはとても思われないな。そう思うだろう?京野君」

「えっ、うん……」

「しかし、京野君、君は衣姫をどう思う?浅ましいと思うかね?それとも憐れだと思うかね?」

「えー、うーん……」

「僕には憐れに思われて仕方がない。まこと、いかなる貞女、賢女であろうとも恋の苦しみからは逃れがたきものだ。知っているかい、京野君?あまり大きな声では言えないが、かつては衣姫と同じように恋や嫉妬に苦しむ女性たちがこの湖に身を投げたのだという。とある言い伝えによれば、九頭龍はそうした女性たちを呼び集め、その力を蓄え、再びこの地に蘇らんとたくらんでいるのだとかなんとか」

「ふーん」


 司の影を見失ってしまって、舞の意識は理沙と優美の方へと向かいはじめる。ずいぶん遅いけれどどうしたのだろうか。そもそもゴシュインチョウってなに?鳥の種類?


「いや、忘れてくれ。僕としたことがつい慎みも忘れてつまらぬ噂話をした。しかし……ああ!恋とは恐ろしき罪悪だ。病だ。それを知りながらも人は恋なくしては生きられない。むしろ恋に苦しむことこそ人の宿命といってもよいほどだ。人はなんと愚かなのだろう…………と、時に、京野君。その、じ、実は、かくいう僕もその愚か者のひとりだと言ったら、君はどう思う?つ、つまりだね、僕は恋をしているのだ。その相手こそ、他でもない、き……」

「おい、いつまで演説してるつもりだ。さっさと行くぞ」


 舞と佐々木は驚いて同時に振り返った。いつの間にか司が二人の後ろ、少し離れたところに立っていた。佐々木の広長舌にしびれを切らしたのか、かなり不機嫌そうである。


 理沙、優美、矢嶋も集ったところで、三班は予定通りの時刻に龍明神社を発つことになった。と、舞が数歩進みかけたその時、葦の穂を分けて、ぽんと舞の足元に転がり出たものがある。舞がふしぎに思って屈みこみ拾い上げてみると、それはきらびやかな紋様の手鞠であった。


「……何これ?」


 一面の葦原を見渡しても、鞠の持ち主は見当たらない。理沙が前から急かすので、舞は仕方なく鞠を水辺に投げ返した。舞の去った後で葦原はかすかに揺れた。


 その夜のことである。


 自由行動を終えてバスで宿泊施設に向かった桜花中学校二年生の一行は、部屋の窓から見渡せる壮観に歓声をあげ、地元の産物を使った夕飯を楽しんだあとで、男女別れて大浴場へと赴いた。入浴にあてられた時間はごくわずかであったが、この施設では温泉を引いているのだと知っていた女子たちは手早く髪と体を洗い、一分一秒でも長く湯に浸かれるよう努力を惜しまなかった。舞もそのひとりであった。


 湯は熱く、もうもうと湯気が立ち込める中ではまじまじと裸体を吟味されることもないので広い湯舟の縁に腰かけて足だけを浸しているものも何人かあったが、舞は肩まで浸からないと気が済まないので頬を湯気にあてていた。暑がりな翼は腰までしか浸かれないままに、舞の頬が真っ赤に染まっているのを林檎みたいだと言って笑った。ので、舞は怒ってますます赤くなりながら、熱い飛沫をお見舞いし、翼もその仕返しにと舞の近くで湯の面を蹴った。



 湯上りの舞たちを、ロビーの肘掛椅子に深々と腰かけて菅野先生が待ち受けていた。長谷先生や鳥居先生といった女性教員たちが、髪を乾かしていなかったり、スリッパを片方なくしていたり、まともに部屋着を着ていなかったりする生徒を叱るその奥で、好々爺の菅野先生はにこにこと笑いながら、紙パック入りの林檎ジュースを配布していた(林檎がまた出てきたので翼は笑った)。舞と翼は喜んでそれを受け取って周りのみんなにならい、ロビーのソファのひとつに腰かけた。


「夜になると湖って真っ黒なんだね。なんか穴があいてるみたい」


 と、翼はストローから唇を放して呟いた。舞と翼は窓際の席を陣取っていたため、百合煎の夜景がよく見えた。ロビーの灯りが大窓に映り込むので、舞は冷たい窓に鼻を押しつけるようにして見てみたが、確かに翼の言う通り、湖のあるべきところには見透かせぬほどの濃い闇が溜まっており、あたかも巨大な空洞が横たわっているように見えるのであった。湖沿いに建てられたホテルや家々や道路の灯りが、湖の周りをビーズ飾りのようにきらきらと縁取っていた。その間に、小さな光の粒が流星のごとくすっと流れるのは道路を走る車のライトであろうと思われる。舞はこの夜に水辺を行く人の心を思った。


 ふと、舞はなんの関連もなく、龍明神社の青い鳥居を思い出した。見つめている景色のどこかにあるはずだった。そして、龍と化した衣姫もまた穴のあいたような闇の底に眠っているのだ。


「それにしても残念だったな、水仙女学院の文化祭」


 翼がつぶやいたので舞は窓から顔を離した。翼はまだいくらか濡れている藍色の髪を左肩の上に流して、タオルで毛先を包んでいた。


「明日からだよね。舞のお姉さん、クラス劇で主役やるんでしょ?見たかったなぁ」

「うちのお姉ちゃんはどうでもいいんだけど。それよりジュリエット役の人がすごいんだよ!きれいで、おしとやかで、見るからにお嬢様って感じで。それにすっごく優しいの!ほんとに、あんなひとがなんでお姉ちゃんの友達なのかわかんない。生徒会の副会長もやってるんだよ!」

「へぇ。じゃあ、ルカさんも知ってるんだ」


 舞はいつしかルカを探して水仙女学院を訪ねたおり、手をつないで校舎を案内してくれた優しい香苗の姿を思い出した。そうだ、あの日は香苗の案内によって、舞はようやくルカと会えたのだった。それから勝手に妹を名乗って呼び出した時も、香苗は親切に対応してくれた。ルカに会わせてほしいという舞の希望を叶えてはくれなかったけれど。会長は大切な方を失われたばかりなのです、と香苗はそう言った。今の舞ならばその「大切な方」の正体がわかる。まさにあの時、玲子は冷たい眠りのなかにいたのだから。


 雨滴のごとく、舞の胸に滴り落ちてささやかな波を立てたものがある。「……会長は大切な方を失われたばかりなのです」と、そう告げたときの香苗の背中を舞は唐突に思い出した。香苗は舞に語りつつもひとり物思いに耽っているようだった。今思えば、その背中はどことなくさびしげで苦しげで……


(あ、れ……)


 まこと、いかなる貞女、賢女であろうとも恋の苦しみからは逃れがたきものだ――聞き流していたはずの佐々木の演説の一節がわけもなく耳によみがえる。



「みんなのお土産何にしようね?」


 舞の胸中知らぬ翼はぐっと腕を伸ばして、ゆっくりと左右に揺らした。


「やっぱりお菓子かなあ?奈々さんは甘いもの苦手だから、お煎餅とかの方がいいよね。でもルカさんはお煎餅って感じしないしなぁ。玲子さんも……そういえば、左大臣はどこにいるかわかったの?」

「えっ?あっ、うん!ルカさんの家にいるんだって」


 舞は夕飯前にルカに電話をして(携帯電話の使用は禁じられていたが、舞はいざという時のために番号を控えておいたので宿の公衆電話から電話したのだ)確認しておいたのだ。電話口に出た左大臣は舞に置いていかれたショックと舞を案じるので半泣きだったが、舞は適当に慰めておいた。


「それならよかった!左大臣にもお土産買わないとね」

「じゃあ左大臣と奈々さんにはお煎餅にしよう!」


 舞の提案に二人はそれはいいとくすくす笑った。


「あっ、舞、ジュース飲み終わったの?パック貸して。捨ててくるから」


 翼はそう言って、舞の紙パックを回収するなりぴょんと立ち上がると、ゴミ箱の方へと軽やかに駆けていく。おろした藍色の髪がきれいだなぁと見惚れながら、舞はなぜか胸に不安が萌すのを覚えた。一体なぜ?私、何を考えていたんだっけ?


「まーい!」


 舞がひとりきりになるタイミングを見計らっていたのだろうか。後ろから二本の腕が伸びてきて肩に抱き着いたので、舞はわぁっと叫んで飛び上がった。振り向いてみると、ソファの背もたれの後ろに理沙と優美が立っていた。二人ともなぜだかにやにや笑いを浮かべていた。


「び、びっくりした……どうしたの?」

「ちょうどいいとこなんだってば。見てみろって。ねっ、あれ?」


 理沙がそう言ってさりげなく顎をしゃくって見せた方向に、例の如く美香と恭弥の姿がある。二人はクラスメートたちが腰を下ろしているところから離れたところにある、少人数用のテーブル席について、何やら楽しげに話し込んでいる。サッカーの話でもしているのだろうか。


「もうあれは完全に付き合ってるっしょ」

「お似合いだよね。サッカー部カップルで」


 優美もにこにこ言う。


「明日もできるだけ二人きりにするから。舞も協力してよ、いい?」


 舞は答えられなかった。答えられるはずがなかった。一体舞はどうすればいいというのだろうか。翼も美香もどちらも舞の大切な親友だ。親友の恋が叶うのは喜ばしいことなのに、舞はもう翼の恋も美香の恋もすなおな気持ちで応援することができない。現に今も美香があれほど楽しそうに、幸せそうにしているというのに、祝福できていない自分がいる。舞はそんな自分が悲しく、あさましく思われて仕方がなかった。翼か美香か。どちらかが笑えばどちらかが泣くことになる……ああ、なんでよりによってこの二人が同じ男子を好きになったのだろう!


 なおもつらいのは、美香より翼の方が好きだとかそんなことではなしに、翼の筒井筒の恋を以前から知っている分だけ、舞の気持ちはどうしても翼の方に傾きがちであることだった――舞もまた幼馴染に想いを寄せていたということもいくらか手伝っていたかもしれない。しかし、目に見えるかぎりで状況は翼に不利である。



(もし、東野君が美香と付き合うことになったら……)


 舞の胸は再び波立ちはじめた。


(翼はどうなるんだろう。あんなに昔から好きなのに。でもそんなの関係ないのかな?美香だって東野君を好きな気持ちの強さは変わらないんだから。だって、あんなにおしゃれして、かわいくなって……翼はあんな性格だから素直になれないだろうし。私、どうすればいいの?)


 つい昨晩――それはもうはるか昔にも思われるのだったが――左大臣に対して無責任に言い放った言葉を思い出して、舞は苦々しい気分になった。自分の恋は終わったから翼の恋を応援するだとかなんとか言ったけど、さっそくお手上げ状態じゃないの、私。


 ちょうど紙パックを捨てた翼が戻ってきた。舞を囲む二人を見て不思議そうな表情を浮かべている翼を見た瞬間、舞は立ち上がっていた。理沙と優美は翼の恋を知らないはずだ。だからこの場で余計な事を言い出しかねない。たとえば、翼に協力を願うだとか……そんなことは絶対に避けなければならなかった。


「翼!部屋に戻ろう!」

「えっ、えぇ?どうしたの急に?」


 親友の戸惑う翼の手を掴んで、舞は半ば無理やり引っ張った。


「いいから戻ろう!……ま、枕投げの準備しないと!」


 唖然とする理沙と優美を残し、さらには「ちょっと今『枕投げ』って単語が聞こえたんだけど?!」とわめく鳥居先生の声も無視して、舞は翼を引き連れてみんなより一足早く階段を上りはじめた。




 その夜、枕投げの昂奮が残っていたためではなく、舞はなかなか寝付かれなかった。その両隣では何も知らない翼と美香が安らかな寝息を立てていた。翼と美香ばかりではない。クラスメートたちは最初こそ騒ぎ興じていたが、見回りの先生の影が差すごとに狸寝入りがそのまま夢への扉となり、ひとりまたひとりと眠りに落ちていった。


 少女たちのあたたかく静かな寝息は見えぬ靄となって部屋のなかに立ち込めているようであるのに、舞はその靄に包まれ眠気まで催しながら、それでも闇のなかに目が冴え冴えとしてくるのを感じていた。寝返りを打つ。その度に思っている。本当に、私どうすればいいの……?



「ふーん。やっぱりご馳走様されてたんだ、ボクの宝物。まったく、衣姫さまも大食らいで困ったものだなあ。まあいいや。舞お姉ちゃんと翼お姉ちゃんがきっと助けてくれるもん、ねっ?」


 そのころ、湖の真上では、上弦の月が狐の尾を雪原のごとく照らし出していた。


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