第三十八話 恋する湖畔(上)
……生まれた家は京の南にございました。母はかつて宮仕えの身でありましたが、とある身分ある殿方の子を身ごもりましたことから北の方の嫉みを買い、宮中を追われることとなりました。頼る身寄りもない母親が行きついた先のあばら屋で産みました子こそ、わたくしでございます。
母はやがて新しい男と結婚いたしました。わたくしの父の足元にも及ばない卑しい者ではありましたが、乳飲み子を連れて生活のあてもない母にはいたしかたなかったのでございましょう。
はじめは親子三人、貧しいながらにそれなりにまっとうな生活を送っておりました。しかし、ひとり、またひとり、と子が――わたくしにとっては父親違いの弟妹たちですが――生まれるにつれて、生活は荒れ、日に日に困窮するようになりました。まるで堕落のお手本のように継父は酒に浸り、母や子を殴りつけるようになりました。生活に追われる母はたくさんいる子どもたちの顔すら見分けられないといったありさまでしたわ。けれども、ただひとり、美しいわたくしのことは偏愛しておりました。この子だけは身分が違うのだからといって、継父にも指一本たりとも触れさせようとしませんでした。何かにつけて母は嘆息したものです。
「ああ、お胤の違いでこうも娘の出来が違うとは。お前の妹たちはなんてのろまで不細工なんだろう!それに比べてお前は宮仕えをしたところでひけをとらないだろうにねぇ。こんな穢いところで朽ち果てるなんてことがあってたまるものですか。なんとかしてお前を世に出してあげられればよいのだけれど」
えぇ、母のそんな嘆きがなくとも、わたくしは自分の美しいことを充分に理解しておりました。幼いころのわたくしの遊び場所といったら路の端ぐらいなものでしたけれど、わたくしが路に出るとすぐに近所の男の子たちが後を追いかけまわしはじめるのですもの。わたくしはこの汚らしい男の子たちを心底嫌悪しておりましたが、下僕のように扱っても彼らがなんとも言わないので好きなように使ってやりました。いえいえ、たとえ帝であろうとお后であろうと、わたくしほどには彼らに対して力を持たなかったでしょう。わたくしの命令は必ず遂行されました。わたくしの行為は必ず称えられました。もしなにか気にくわないことがある時や、虫の居所の悪い時などは、彼らを蔓や布の切れ端などで編んだ鞭で折檻いたしました。
おかしなことに、彼らはどれだけ打擲されようとも決して私から逃れようとしないのでした。もちろん鞭で打たれているときは猿のようにひいひい泣いて許しを乞うのですけれど、翌日にはまた私を追いかけまわし、以前にも増していよいよ私を崇拝するようすなのです――きっと卑しい者には生まれついて奴婢の根性が染みついているのでしょう――なかなかおもしろい光景でございましたわ。少なくとも気晴らしにはなりました。ですから、わたくし、ある時少しいたずらをいたしましたの。
わたくしは、寝ていると耳元までやってきておどかす鼠を退治するために母が木の実をつぶして毒を調合するのを間近でよく見ておりました。ある時、見よう見まねで作ってみて、その時はまだそれをどうしようとも思っていなかったのですけれど、これをあの子たちに飲ませたらどうなるのだろうと気になって、これは何とも言わずに飲ませてみたのです。憐れな二人の生贄は、何も聞かずに飲みました。えぇ、もちろん大変悶え苦しみましたわ。わたくしはわたくしの下僕とともに、そのさまをいつまでも楽しく眺めておりました。そしてとうとう二人が動かなくなりましたので、つまらなくなってその場を去りました。
……さて、わたくしの家のことに話をお戻しいたしましょう。そのころにはわたくしの家の荒廃も極まり、見るに堪えないようすに陥っておりました。恥を承知で申すのですよ。母でさえもとうとう堕落してしまいました。このころ継父が急に血を吐いて死んだため(お酒の飲みすぎでしょうか)、八人の子をひとりで抱え込むようになっていたのです。日に日に美しかった母の容色は衰え、目は濁り、知性と品位は失われていきました。生活のために一線を越えたところから、母はたちまち坂を転がり落ちていきました。
昼頃に起きてきて、片手に酒を、片手に乳飲み子を抱き、だらしなくはだけた胸元から乳を含ませていた母の姿を覚えておりますわ。ほんとうに、今思い出しても胸がむかむかいたします。醜悪な姿でした。家じゅうを漁っても食べるものなどないというのに、母だけはぶよぶよと太っていたのもまた憎たらしく思われました。そんななかでも母はわたくしに縋り、姉妹のなかたったひとり美しいわたくしをいよいよ頼みの綱にしようというので、わたくしはたまらず家を出ました。わたくしはまだ九つだったのですもの!後を追われるのは嫌でしたので、例の木の実の毒を、以前よりもう少し強めに作って、家の水桶と酒に混ぜておきました。その後消息も聞きませんが、きっと薬は効いたことでしょう。
自由になったわたくしは、下僕たちに囲われつつ路上に起き伏しし、その日食べるものを探す生活を送りました。あさましい日々でしたが、命令ひとつで叶うことも多かったのでさほど困りはしませんでした。逆らう者がいても、鞭か毒のどちらかを用いればよかったのであらゆることはたやすく済んだのです。
しかし、わたくしは、わたくしの美しさと出自の高さを忘れたわけではございません。「お前は宮仕えをしたところでひけをとらないだろうにねぇ」という母の言葉はなおもわたくしの胸に刻まれておりました。
ある夏の日、珍しく伴も連れずにわたくしが川辺で涼んでいると、ひとりの身なりのいい男が揉み手をしながら、にこにことわたくしの方に近づいて参ります。けげんな顔でわたくしが見やると、男はこんなところで思いがけず高貴なお方がお寝みと見受けられるがはたしてどこの姫君か、と尋ねます。わたくしはすなおに自らの父の名を告げ――もちろん、実の父の名です――身の上を一通り語りました。すると、男は大変驚いたようすで、そのようなお方の姫君がさまよっているのはあり得べからざること、今すぐ父君の元にお連れ申し上げなければ、いやご心配なさるな、わたくしはこれこれこういう縁であなたさまの父君とは知己の仲であるのです、とそう申すのです。まだ子どもだったわたくしは男の言うことを信じました。愚かなわたくし!男に連れていかれた先で、せっかく父君にお会いするのだからと身なりを整えられたわたくしは、そのままとある邸の婢として売られました。
「いってきまーす!」
あくる朝のことである。母親に見送られて、舞は大きな荷物を背負いながら学校に向けて出発した。今日は七時半に学校に集合したのち、貸し切りバスに乗って百合煎へと向かう予定である。昨夜のニュースで見た天気予報では、百合煎のあたりは三日間とも快晴で過ごしやすいとのことであったので、舞はなにひとつ憂いなく――結城司のことがひっかかっているとはいえ――九月の空の下に飛び出していった。しかし、もしテディが居間のソファの上ではなちゃんに羽交い絞めにされている事実を知っていれば、舞とて多少の憂いを覚えたはずである。
「あらあら、ダメよはなちゃん。それは舞のお友達なんだから」
母親はかくのごとくのたまって白猫をテディベアから引き剥がしたが、人目がなくなり、左大臣が窓へ向かって駆けだしたころには、舞の後ろ姿はとうに通りから消えていた。左大臣はその場でがくりと膝を折った。
「……それでうちに来たのかい?」
「はい。姫さまがいらっしゃらないと京野家ではろくに身動きもできませぬものでして。いやはや、ご迷惑をおかけいたしまする……!」
「まあそれは構わないが、大したお相手はできませんよ。なにせ明日から文化祭だからね」
「えぇ、わかっておりますとも。置いていただけるだけで充分でございます……!ルカ殿がお留守の間は、例の作業を進めさせていただきたいと存じております」
制服を着込んだルカはうなずいて立ち上がった。時刻はすでに九時を回っている。普段ならばとうに学校に着いていなければならない時刻だが、今日は準備日であるので登校時間は個人の裁量に任せられていた。クラス劇を発表する生徒たちは七時の開門前から学校の前に並んでいるだろうし、玲子のように何をする気もない生徒は全く登校しなくても特に文句は言われなかった。ルカはいつも通りに登校しようと思っていた矢先、這う這うの体で左大臣が白崎邸にたどり着いたので、迎え入れて椅子を勧め、猫に襲われ身動きがとれぬうちに舞が気づかずに出発してしまった経緯などを聞いていたが、ひと段落ついたここらでひとまず登校することに決めたのである。
「ではごゆっくりと。私もそんなに遅くはならないと思うが」
「いやはや、かたじけない。ルカ殿も道中お気をつけなされ。わたくしなど三回も烏の輩に襲われ……」
ルカが苦笑しかけたとき左大臣がぴたりと口をつぐみ、すとんと椅子の上に腰を落としたのは、扉をノックする音が原因であった。「はい」とルカが答えると、「入るからね!」と明るい声がして、ルカが止める間もなく母親のソーニャが顔をのぞかせた。
「ルイ、あなた何時に家を出るつもりなの?さっき香苗ちゃんからでん……」
そこまで言いかけて、母親が突如キャーッと悲鳴をあげたので、ルカは思わず怯んだ。
「な、なに……?」
「そ、それ……!」
母親がピンクのマニキュアの光る手で指さした先には、左大臣の姿がある。日頃の鍛錬の甲斐あって微動だにせず、まさしくテディベア然としているのだが、その瞬間、ルカはしまったと思った。恐れていた事態が起こったのだ。母親の悲鳴の理由もルカはたちまち理解した。
「かーわいーっ!!」
やはり……きらきらと輝く母の目から顔を背けて、ルカは掌で額を覆った。
「かーわいーっ!!どうしたの、この子?うちにこんな子いたっけ?それよりルイがテディベアと向かい合って座ってる姿が最高にかわいいっ!」
「ち、違うんだ母さん、これには理由が……」
一体どんな理由だ、と自分でも思わずにはいられないルカであった。
「誰とおしゃべりしてるのかと思ったら、テディベアちゃんとおしゃべりしてたのね!もうー、ルイったら、案外ロマンティックなところあるじゃなーい」
「違う……!」
もっともらしい言い訳も思いつかなかったルカは、肘で娘を突っつくソーニャにただ力強くそう叫ぶしかなかった。
(はて、母御はルカ殿を「ルイ」とお呼びになっているようだが)
ソーニャの存外力強い腕に抱きしめられながら、毛一本動かせぬままに左大臣は思考回路だけをめいっぱい稼働させて物思う。
(一体なぜであろうか。何か事情があるのだろうが……しかし、理由を直接うかがうのもなんとなく憚られる。家庭のことには首を突っ込むのも野暮というものだし……)
「あ、れ……左大臣……?」
「早くこっちにきなよ」と呼ぶ友人の声に「今行く!」と答えつつ、舞は改めてリュックサックのなかを点検してみた。リュックサックのなかは弁当箱の包みを取り出した今もなおぎゅうぎゅうと苦しげに詰まっていて、到底テディベアが入り込む隙間などない。あまりの息苦しさについに左大臣も逃げ出したものかと疑った舞は、リュックサックを降ろした木陰のまわりを見渡してみながら「おーい左大臣」と小声でささやきかけてみるのだが返事はなかった。
(ま、まさか置いてきた……?!)
「まーいー!なにしてんの?お弁当食べようよー!」
心ここにあらぬままに返事をして、舞は弁当を持ってふらふらと友人たちの方へと向かう。ちょうど昼時、桜花中学校二年A組一行は煎湖のほとりにある公園で班ごとに昼食を摂っているところである。といっても、菅野先生があまり口うるさく言わないのをいいことにどの班でも当然のように男子と女子は分裂しており、舞たち三班の女子三人組は、湖と龍明山を目の前にのぞめるちょうどよい原っぱを見つけて、そこにレジャーシートを広げた。しかし、せっかくの壮観も舞の目には入らない。
「次、どこいくんだっけ?」
と尋ねたのは井並理沙という少女で、舞とも仲の良い生徒だ。容姿が大人びているので、見かけでは女子高生といっても十分通じるほどである。
「えっとね、バスで龍明町まで行って、そこからは自由行動だよ。その後は三時に集合だって」
答えたのは朝倉優美。美香と同じ女子サッカー部の少女でいつもにこにこしているほんわかした雰囲気の少女だが、部活の時だけ般若のごとき形相に変化することで有名である。
「あー自由行動か。やだなぁ、結城のやつと一緒かよ……」
「ねぇ、困っちゃう。何考えてるんだかぜんぜんわかんないんだもんねぇ」
「それで私たちは最初どこ行くんだっけ?」
「龍明神社だよ。もう、理沙がとりあえずそこでいいって言ったから最初にしたのに」
「そうだっけ?」
(ど、どうしよう……左大臣がいなくても私やっていけるのかな……)
舞は何を口に入れているのかもわからないままに無言で箸を動かし続けていた。その間、理沙と優美はひそひそと小声でささやきあっていたが、やがて同時に舞の方へとにじりよってくる。舞もようやく物思いから覚めて、けげんな顔で二人を交互に見遣った。
「……で、舞はどう思うの?」
「えっ、なんのこと?」
「決まってんじゃん。二人のことだって」
「二人、うまくいくかなぁ?」
「せっかくの行事なんだよ?!ここでくっつかなくてどうすんの?」
くっつく……二人……ああ、と舞は察した。百パーセント中の百パーセント、まちがいなく恋愛の話である。
理沙はキッ!と舞の方を向いて迫った。
「舞だってそう思うでしょ?」
「えっ、あっうん……でも、二人って?」
一体なにを聞いていたの?!と、優美までもが詰め寄ってきた。
「決まってるじゃない!二人と言えば、東野君と……!」
翼のことか、と言いかけた口は思わぬ名前に塞がれた。
「美香のことでしょ!」
舞は風が湖面を渡っていく音を聞いた気がした。群青色の湖面を白く波立たせる風はきっと真向かいに青々とそびえる龍明山の麓の森にまで届いたはずだ。だが、梢の揺すぶられる気配はない。木立は変わらず深閑としている。
聞きまちがいだろうか?美香?今美香と言った?美香と東野君……?そんな、まさか、そんなはずが……
「えっ、ちょっ、舞まさか気づいてなかったの?うっわ」
理沙が声をひそめつつも露骨に驚いたようすを示す。優美もあきれた様子だ。
「えー、誰がどう見たって気づくよねぇ?」
「うん、気づくっしょ。最近のようす見てれば」
「ずっと二人でしゃべってるし」
「最近帰んのも一緒だし」
「今回だって班が一緒だし」
まだ呆然としている舞に、ほら見てみろと理沙がこっそりと背後を指さした。舞はほとんど機械的に振り返る。舞たちから少し離れた丘の上で、五班のメンバーが弁当を広げている。ひと班だけめずらしく男女でわかれていない。メンバーの顔は日差しの下でほとんど影になってはいたが、舞はうつろな目をさまよわせてようやく隣り合って座っている美香と恭弥の姿を見つけた。その瞬間、どきんと胸が鳴った。
「ほら、ね?」
優美にろくに返事ができぬまま、舞は見てはならなかったものを見たかのように顔を逸らした。幸いにも優美と理沙はにやにやするのに忙しく、舞の動揺に気づいていない。
「ったく、美香ってば、あんなにかわいくなっちゃってさ」
「それでも私たちにはなんにも相談しないんだもんね」
「まっ、言えないだろ美香じゃ。恋愛にも男にも興味ありませんって言い張ってたわけだし」
「そっかぁ。相談しないところがまたかわいいのかぁ」
「そーいうこと」
二人の会話は、対岸の森から湖を渡ってささやきくるかのように思われる。舞は日差しが弁当箱の玉子焼きをぬるませていくのを食欲も忘れて、ただ見下ろしている。
美香と東野君…………




