第三十七話 蝶は潜む(下)
それから約五分後のことである。
「あー、気持ちいいわねー」と大きく伸びをしながら横たわるゆかりの隣で、香苗は横座りになって腰を下ろしていた。何も憂いのなさそうなゆかりのようすに、香苗は呆れつつも羨ましく思う。ゆかりはほとんど全クラスメートの計略にはまるようにしてロミオ役に抜擢されたわけであるが、彼女ほど主役としてふさわしい人間も確かにいないのであった。一度はクラスメートが追いかけるなかを学校中を逃げ回って抵抗したゆかりではあったが、なんだかんだでおさまってしまうと、セリフを覚えるのは誰よりも速いし(記憶力がよすぎるあまり人のセリフまで言ってしまうけど)、勉強家でいろいろな役者の演じるロミオ役について調べてきているし、演出についてもよく考えている。このごろは休み時間になると、監督役の生徒とああでもないこうでもないと白熱した議論を交わしている姿がよく見受けられた――やはり全国模試十位以内の常連である頭脳と気力はやはり伊達ではない、というところか。
本番でもきっと彼女はすばらしいロミオを演じるだろう。それはまちがいないことだ。不安なのは自分。自分はゆかりのロミオにふさわしいジュリエットだろうか?きれいだから絶対に似合うと、みんなはそう言ってくれたけれど。
「あの、ゆかり、セリフの練習は……?」
「いいのよいいのよ。言ったでしょ?リフレッシュタイムだって」
ゆかりは目をつぶったまま、頭も組んで腕の上に載せたままである。
「でも、他のみんなは今頃準備を進めてるわ。わたくしたちだけゆっくりしていたら、なんだか申し訳ない気がしないこと?」
「……さっきも言ったけどさ、香苗は真面目すぎるのよ」
寝転がった時特有の気だるげな声で、ゆかりは言った。それでも開いた瞳の開き方が、空に向かってまっすぐだった。
「みんなだってあたしたちの稽古してる間にちゃんと休んでるんだから、気にしなくていいわよ。香苗は他人のことばっかり心配しすぎ」
「……そんなことないわ」
「そんなことあるってば。もう……昔からほんと変わらないのね、香苗は」
「昔から」という言葉が、また小暗い谷に香苗を引きずっていく。大勢の仲間に囲まれている今であるけれども、思えば昔からの友人はゆかりだけである。水仙女学院中等部に入るまでは友人を作るゆとりさえなかったのだ。ただひたすら毎日が勉強の日々であった。香苗は一人娘である上に、両親がもう決して若いとはいえなくなったころに出来た子どもであったから、寄せられる期待は大きかったのだ。その期待に応えるために、否、どちらかといえばその期待に応えられると自分自身で確信できるようになるまでには、香苗には過密で膨大な勉強時間が必要だった。
ゆかりと仲良くなったのは中学二年生で同じクラスになった時からである。なぜ親しくなったのかは覚えていない。きっとフィールドワークで同じ班になったからだろう。言動はややがさつではあったが、情に厚く皆に頼られていたゆかりは、自分とは正反対の人間に思われた。対する自分は、おとなしくて、影の薄い、ただ真面目なことが取り柄なだけの少女。誰かが話しかけてくれても、上手く答えようとするあまり緊張して、上手に返せなくなってしまう。黙り込んでいるそのあいだに、相手は香苗に嫌われているものと思い込んで、去ってしまう。それなのに、人気者のゆかりは自分のそばにいることを選んでくれたのだ。ただ顔が広いから自分とも付き合ってくれるというのではなく、一番の親友としてそばにいてくれた。
きっと明るいゆかりに影響されたからだろう。香苗は変わった。今では冗談を言うこともできる。声を立てて笑うこともできる。全校生徒の注視を浴びても震えずに立っていられるし、慕ってくれる者もいくらかはいる。いるけれども……次期生徒会長とみなされるようになった今だって、本質的な部分では何も変わっていないのではないか。そんな不安がふとした時に頭をもたげるのだ。
(わたくしがある日突然消えたとしても代わりはいくらでも見つかるわ)
香苗はつぶやいた。
(ジュリエットの役も、生徒会副会長も、次期生徒会長も、きっと他の誰かが代わりに務めてくれる。きっとわたくし以上に立派にやり遂げるでしょうね、その人は……わたくしはゆかりのようにはなれない。白崎会長のようにはなれない。光当たる人ではない)
だからこの恋もうまくいかないのね、と誰かが言った。その声にはっとしたとき、ゆかりの人差し指と中指が、すっと額に伸びてきて触れた。香苗は呆気にとられてゆかりの顔を打ち眺める。
「な、なに……?」
「いや、なーんかまた眉間にしわが寄ってたから」
「し、わ……?」
まるで知らない異国の言葉を聞かされたかのように繰り返す香苗。
「そっ。しわよしーわ。まったく、まだ若いのに。ジュリエットがそれじゃあダメでしょ?」
「えっ、えぇ。ああ、そうね……ごめんなさい」
うなだれて謝る香苗に、ゆかりは「まーたすぐそうやって」と怒ってみせる。
「ほらほら、なんでもかんでもすぐに謝らないの!気楽にいこ、気楽に。あたしだってなにも本気で言ってるわけじゃないわよ」
ゆかりは組んだ腕をほどき、床を勢いよく押して上半身を起こした。ようやく香苗の顔とゆかりの顔がちょうど同じ高さに並んだ。ゆかりはぐっと腕を真上に伸ばしながら、猫みたいな大きなあくびをひとつして、不意にこんなことを言い出した。
「ねぇ、香苗……あたしさ、散々文句言っといてあれだけど、実は香苗のそういうバカみたいに真面目なとこ、嫌いじゃないよ。むしろ結構好きだし尊敬してる。香苗はさ、いかにもお嬢様らしくおしとやかに、余裕がありそうに見せてるけどさ、本当は努力家だしすごく堅実なんだよね。あたしはそれってすごいことだと思うの。あたしは絶対に香苗みたいになれない。あたしって、ほら、いい加減でその場しのぎの人間だしさ!だからいっつも香苗に甘えるしかないんだよね」
嘘よ、あなたはわたくしに甘えなくても……そう言いかけて綻びかけた唇を、まだ続いていたゆかりの言葉が優しい波のように覆ってしまう。
「だからさ、香苗は、誰かと比べてどうとかじゃなくてそのままでいいんじゃないの?あたしはそう思うけどな。あたしはそのままのあんたが好き。あんたのジュリエットは今まで誰かが演じたジュリエットとは違うし、クラスのみんなが求めているジュリエットとも違うかもしれない。でも、それでいいのよ。たとえ、まあ、額にしわが寄っててもさ」
ゆかりはまた香苗の額をつつきながらいたずらっぽく笑ってみせた。
「大丈夫!ちゃんと愛してあげるから。安心して、ロミオはあたしなんだから」
「ゆかり……」
涙ぐみかけて、香苗は慌てて顔をそむけた。こんなことでどうかしているわ。疲れているせいだろうけれど。
……わたくしは一体なぜこんなにも疲労を覚えているのだろう?稽古は毎日充実している。時にぶつかりあうこともある。でも、それも皆が皆クラス劇をよりよいものにしたいと願っているからだ。あの疲れは心地よく、満足感のあるものである。外から満ちくるあたたかいものに浸されていくような。この疲れは違う……体の奥から蝕まれていくようだ。いつの間にやら自分が空っぽにされていくのではないかという恐怖さえ覚える。
夜ごとの夢を、ついゆかりに語りそうになった。見知らぬ美しい女の腕がこの身を巻いている夢。見知らぬ美しい男の愛撫を受けている夢。女は言う――「わたくしの愛する香苗、かわいい香苗……共に歩みましょう。欲望を解き放ちましょう。わたくしとお前は二人でひとつですわ」。男は言う――「可愛い芙蓉、さあ早く。こちらへおいで。お前の望むものをあげよう……さあ」。
しかし、香苗はとどまった。かの夢々に漂う死臭にも似た淫靡を恥じただけではない。こんな時にこの友人に縋りつく術を知らないことに心づいて。すなおに身をその胸に預け、思いきり声をあげて泣けばよいのかもしれない。いや、きっとそうなのだ。
(もしかしたら、そんな風にすれば会長にも……)
でも、他でもないこの自分がいざそれをするとなると、あまりにも不格好なように思われる。誰もわたくしがそんなことをするだなんて思っていないだろうから、きっとみんなをびっくりさせてしまう。わたくしらしくないわ。いつもしとやかに微笑んでいるわたくしらしくない。
「……ああ、ロミオ、ロミオ、あなたはどうしてロミオなの?」
そうつぶやいて微笑みかける。こんな風に決められた所作と台詞でもたれかかることはできるけれども。
「ありがとう、ゆかり……さあそろそろ戻りましょう。ロミオとジュリエットが本当に駆け落ちしただなんて思われたら大変ですもの」
ゆかりの手を取って立ち上がる。明るくおしとやかな、いつもの北条院香苗に立ち返って。
百合煎への移動教室の前夜のことである。鼻歌をうたいながら旅行鞄に荷物をぎゅうぎゅうと詰め込んでいる舞を、ベッドの上からはなちゃんと左大臣が仲良く見守っている。もっとも、猫にテディベアが首根っこを押さえつけられている状態を「仲良く」と表現するかは人によってわかれるだろうが。
「ひ、ひめさま、そろそろあぶないですぞ……はな殿が爪を出してる気がして、わたくし、な、なりませぬのですが……!」
左大臣は懸命に抗いつつ、限界の近いことが容易に知れる声を絞り出していた。もちろん猫の爪にかかれば古いテディベアなど造作もない。
「だーめでしょ、はなちゃん!めっ!左大臣の方が先輩なんだから敬わなきゃ」
「そ、そういう問題では……!」
準備に忙しい舞は、口では一通りのことを言いながらも左大臣の方をろくに見上げようともしない。目下、舞は人生最大……とまではいかないが、それなりの大きさの問題にぶつかっているのである。というのはほかでもない、この年ごろの多くの少女たちを悩ませるおしゃれのことである。移動教室中は「動きやすく華美でない」という指定がつけられているものの、私服の着用が認められている。それは嬉しいのだが、何を着ていくかという問題になると選定がなかなか難しいのである。母親とともにこの日のためにいくらか買い物は済ませておいていたけれども、何日目にどのタイミングでどの組み合わせで着るかはかなりの悩みどころであった。
それに寝間着という問題もある。せっかくだから一番かわいいのを着ていきたいが、いつも着ているピンク色のパジャマは百合煎の夜にはやや薄すぎると、先ほど母親に指摘されたのである。
「でもなぁ。こっちのはふりふりがついててちょっと子どもっぽいしなぁ。でもこっちは絶対枕投げの時に動きづらいしなぁ」
「い、一体何しに百合煎にいらっしゃるのですか……?!」
息も絶え絶えになりながらもツッコミを忘れない左大臣の精神は立派である。舞は頬をふくらませた。
「だってー、せっかくのお泊りだもん。楽しみたいでしょ」
「先生方に叱られますぞ」
「だからばれないようにやるんじゃない。あっ、でも長谷先生はちょっと怖いな。鳥居先生は……誘ったら一緒にやってくれないかな。はーい、はなちゃん、左大臣の上からどいてねー。はなちゃんはおるすばんだからねー。いい子にしてるんだよ?猫用のおみやげはないと思うけど、もしあったら買ってくるからねー?」
やっとのことで立ち上がってはなちゃんを抱き上げた舞は、そのままリュックの脇に再び腰を下ろしながら白猫を抱きしめ、そのやわらかい身に頬をすり寄せながら、文字通りの猫撫で声で言った。はなちゃんはいかにも嫌そうなそぶりをして、ひょろりと舞の腕のすり抜けていってしまう。「もう愛想がないんだからー!」と怒る舞を後目に猫は器用に前足で扉を開いて、階下へと降りていってしまった。きっと母親のところにおやつでもねだりにいくのだろう。舞は左大臣との会話を聞かれぬように扉を閉ざした。
「さてと、着替え着替えっと……」
「しかし、姫さま本当に大丈夫でしょうな?」
「なにが?」
舞はうわのそらで聞き返す。そういえば去年買ったかわいい水色のパーカーがあったけど、あれが寝間着じゃだめかなあ?
「敵は明らかにこちらの様子を監視しておりますぞ。我々が分断したところを襲撃されて、しっかり戦えますかな?」
「これまでだってみんなバラバラに戦ってたじゃない。ルカさんと奈々さんはまちがいなく心配ないし、玲子さんと柏木さんだっているし……私たちの方も大丈夫だよ!だって左大臣来てくれるんでしょ?」
「参りますには参りますが……その、わたくしはその『リュック』とやらのなかに詰められるのでございますか?」
すでに相当に膨らんでいるリュックサックの中身をこわごわと見下ろす左大臣に、「もちろん!」と舞はうなずいた。
「だって持って歩くわけにいかないでしょ。それに見つかったら没収されちゃうし。不要物だから……大丈夫!学校の鞄と一緒だって。まあちょっと窮屈かもしれないけど!」
「ちょっと、ですかなあ……」
左大臣の疑わしげな表情はなかなか容易には消えそうにない。だが、構っている暇はないので、舞は再び荷造りに専念しはじめた。奈々さんから宿の夕飯がとっても美味しいと聞いているし、楽しみだなあ。
「……ところで姫さま。ぐるーぷ活動での班割りはどうなりましたか?結城殿と一緒の班になったとうかがっておりましたが」
「……ところで姫さま。ぐるーぷ活動での班割りはどうなりましたか?結城殿と一緒の班になったとうかがっておりましたが」
左大臣がやや沈んだ声で尋ねるとき、舞の手はぴたりと止まった。班割り――この話題が舞と左大臣との間で最後に出たのは先週のことであった。移動教室ではハイキングと最終日午前にある自由行動の時間だけ班単位での活動が認められているのだが、担任の菅野先生お手製のくじによって、舞はあろうことか、結城司と同じ班になってしまったのだ。
一応後でこっそり菅野先生の元に行ってみた。結城君とは前の社会科の活動でも一緒でした、と舞が遠慮がちに言うと、暢気な菅野先生は笑って、また一緒じゃお嫌ですか?と尋ねた。嫌ではないのですが、実はちょっと最近喧嘩してしまって……と舞が正直に打ち明けると、菅野先生は妙に優しい態度をとって、そういう相手とも一緒に生きていかねばならぬ時がこれから先あるのですよ、と舞を諭したのであった。ただし、菅野先生が例に挙げたのはあろうことか自分と妻であったが。
あとは司の方でも抗議してくれることを願うのみだったが、司が実際動いたのかどうかは結局わからずじまいだった。三日目の自由行動のルートを決める際も、司は興味なさそうに黙り込んでいたが、舞に対してわだかまりがあるという態度は特に示さなかった。ただ自分は全面的に興味がないのだと言いたげであった。そんな司の態度をもてあまして、他の班員たちは自分たちだけでルートを決めてしまったわけだが、委縮しがちであまり協力的でなかった舞とさえ、同じ班の女子たちは結城司に対する憤懣をわかちあおうとしてきた。「ほ、ほら、結城君、口下手だから……」と、舞はそう言うしかなかった。
「結局一緒になっちゃったみたい、結城君と」
「しかし、よろしいのですか?」
舞は肩をすくめてみせた。
「しかたないよ。あんまり結城君を避けるのも変だもん。それにこれから二年間はどうしたって一緒にいなきゃいけないでしょ?だから練習だと思ってがんばる。結城君と一緒にいて平気でいる練習。そしたら、きっとそのうちなんとも思えなくなるよ」
「姫さまはまだ結城殿を愛していらっしゃるのですね」
左大臣がおごそかにつぶやいた。舞は胸を衝かれたように思ったが、すぐに笑って首を振った。笑ったのは、愛しているという言葉の重みが、自分の感情にはあまりにも不似合いなように思われたからだった。
「やめて左大臣、そんなんじゃないって!ただね、結城司って人は、京野舞にとってはずっと大切な人だったの。生まれてからずっと。だから、なんていうのかな、結城司って人を好きなことが私にとっては当たり前のことだったの」
舞は息をつきながらテディベアの隣に腰かけると、そのまま後ろ向きにベッドの上に倒れ込んだ。ちょっと休憩、と言い訳しながら。
「でもね、たとえ私と司が巡り合ったのは前世からの縁?みたいなもののせいだったとしても、私が司を……つまり、前の司を好きになったのは、前世のことなんか全然関係なかったよ。私はね、司が優しくて、それでいつもそばにいて励ましてくれたから、楽しいことも悲しいこともたっくさん一緒に経験したから、それで好きになったの」
前の司のことを思い出すと少し心が痛くなる。その人を失ってからあまりに長い時を過ごしてしまった事実が、まざまざと感じられる。
「今の結城君を好きになったのも、前の司がいたからなの。だから、私、よく考えてみれば結城君に本当に恋したわけじゃないのかもしれないね。今の結城君の怖いけど実は優しいところが好きだったんだけど……つまりね、前の司なしに、今の結城君を好きになれたかってそれはわからないの」
「姫さまが結城殿に惹かれるのには、前世の紫蘭の君とのことが関係しているのかもしれませんぞ」
だとしたらもっとダメ、と舞は力を込めて言う。そう言いながらごろりと転がって横向きになった。
「そんなにおんなじ人ばっかり好きになってたら、生まれ変わった意味なんてないもの。もちろん前世のことは大切。四神のみんなににも左大臣にももう一度会えてうれしいよ?だけど、お母さんやお父さんはきっと前世では会ってなかったと思う。お姉ちゃんや美香だって。前世で全然関係なくても、大好きな人たちが現世にはいっぱいいるの。これから出会う人たちだってきっとそう。
……ねぇ、左大臣。私、すごく重たい罪を犯して、でも生まれ変わることできて、奇跡的に現世を生きてるんだもん。だからこそ現世を大切したいの。結城君のことも……」
ふと、舞は頭の上に違和感を覚えた。何かが触れているようだ。はなちゃんのしっぽだろうか?ふと目を上げた舞は、テディベアの小さな手が自分の頭を撫でているのを認めた。舞はびっくりした。
「さ、左大臣?」
左大臣は少し照れたように頭の後ろを掻いていた。
「いやはや、ご無礼をば。子どもを褒めるとき親はかようなことをするもの、と覚えておりました……姫さま、失礼だとはわかっておりますが、この一瞬、どうも姫さまが我が子のように思われてなりませんでな。姫さまがあまりにご立派なことをおっしゃるものですから、この九条門松、感心いたしまして。ついこのようにいたしました。お許しくださいませ」
舞はしばらくぽかんと左大臣を見つめていたが、ぎゅっとシーツの上で拳を握ったのち、満面の笑顔を浮かべてみせた。
「やった!褒められた!ねぇ左大臣もっと撫でて!ねっ?」
「いや、これ以上は到底畏れ多い……!」
「いいでしょ、別に。減るもんじゃないし!」
「しかし、もう褒めることがございませんからなぁ……」
「あっ、そうやって逃げようとして!あっ、そうだ!あのね、私ね、決めたんだ。自分の恋は終わったから、今度は人の恋を応援するの。翼の恋を応援するんだ。翼と東野君の。えらいでしょ?ねっ?ねっ?」
「それはあまり感心いたしませんなぁ。他人が口を出すととかく厄介なことになりがちですからな、恋というものは」
「えー、ダメ?」
やがて十時になり、母親が扉を開けて何も仕上がってない荷造りにあきれてみせるまで、舞と左大臣は長いこと他愛のない話題で盛り上がっていた。
「香苗、わたくしのいとしい香苗……」
誰……?
「さあ、今宵こそひとつになりましょう。あなたの身をわたくしと分かち合うのです。そうすることでわたくしたちはこの世の誰よりも美しくなれる。この世の誰よりも優れた存在になれるのですわ。わたくしたちに不可能はありませんのよ」
いや、よ。だって、そんなこと望んでな……
「お前は白崎ルカを愛しているのでしょう?ふふ、一緒ですわ。わたくしも白崎ルカを愛しているの。お前とは少しだけ違う形でね。人はそれを憎しみとも呼びますわ」
いけないわ。会長を憎んでいるのなら、絶対にあなたを会長に近づけさせるわけにいかない。
「なにを言っているの?愛も憎しみもつまるところは同じでしょう?ある人間へのもっとも強い執着の表と裏に過ぎないのですから。だから、わたくしの憎しみとお前の愛を合わせれば、この世に溢れている愛のなかでも、もっとも強い愛になるのですわよ?白崎ルカの心を意のままにできるほど……ほら、素直になって。抱かれたいのでしょう、白崎ルカに?接吻されたいのでしょう?愛されたいのでしょう?赤星玲子を遠ざけて」
やめて、やめて、やめて…………
「このまま嫉妬に身を焦がしていては、緑色の目の怪物になりましてよ?ほら、今日聞こえてきましたわね?廊下を歩んでいるときに、どこの部屋からでしたかしら。『嫉妬――それは緑色の目をした怪物だ』って。浅ましい姿になるんですの?わたくしと一緒なら嫉妬だって世にも艶やかに昇華できるというのに?怖がることはありませんわ。さあ、いとしい香苗、共に参りましょう。寄越しなさい。わたくしにその身を、その美しい身を……!」
舞が寝静まったころ、隣の部屋で嫌な汗をいっぱいにかいて、ゆかりははっと飛び起きた。
「香苗……?」




