表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第四章 現世編―芙蓉の巻再び―
71/120

第三十七話 蝶は潜む(上)


白崎ルカ





白崎ルカ





白崎ルカ






白崎ルカ






白崎ルカ






白崎ルカ






白崎ルカ






白崎ルカ






白崎ルカ、白





白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ、白崎ルカ








 ……幾度この胸に繰り返せばよいのですか?幾度日記帳にその名を綴ればよいのですか?どうしたらあなたの目はわたくしを向いてくださるのですか?


 初めからこんな恋ではなかったのでした。そう……初めはただ遠くから見つめているだけでよかったのです。出会ったとき、あなたは虎のように美しく、獰猛で、恐ろしかった。あなたの眼に睨まれると、ふだんはどんなに威張り散らしている教師でも怖気づき、黙りこんだものでした。あなたには決して大人や社会といったものには飼い慣らせない野性がありました。そのくせ、あなたの容貌はどれほど麗しかったことか。あなたの所作はどれだけ優雅であったことか――えぇ、それは嫉ましいほどでした。



 わたくしはよく、退屈な授業の合間にふと窓の外を見遣って(誰もこんなことをするわたくしだとは思いますまい)、ようやく学校に到着したばかりのあなたがこちらへ歩いてくる姿を見つけ出したものでした。日差しがあなたの学ランと帽子の色をいよいよ眩くしておりました。あなたの豊かな金糸は燦然と煌めいていました。わたくしは遠目にほれぼれとあなたを見つめ、気づくのです――あなたは遅れて登校するとき、いつも校舎の方を直視せずに、斜を向いてどこか拗ねたような顔をしておいででした――その横顔ともつかぬ横顔に揺らめいている感情に。それは白樺の木立が投げかけたいたずらではないのでした。


 何かを求めてさまよいつつも、それが何であるのかさえ確かでない。あなたはそういう人の顔をしておいででした。いいえ、決してわたくしにそういう経験があるという意味ではないのですが……苛立ちと懊悩が、木枯らしに巻かれた落葉のようにあなたの周りにただよっていました。でも、そうした感情はどこにも行き場はないのですよね。わたくしはそれを半ば憐れみ、半ば喜ばしく思いました。そして、あなたに惹かれていったのです。誰よりも猛々しく、その実誰よりも弱いあなたに。わたくしひとりだけがあなたの弱さを知っているような気がして嬉しかったのです。


 ことに、あなたのチェロに強さと脆さはよくあらわれていました。その頃、ごくまれにですが、放課後の校舎であなたが狂おしくチェロをかき鳴らす音を耳にしたのです。わたくしはあなたが有名なチェリストであること、今は(その時は、という意味ですが)活動を休止していることを知りました。また、あなたの生まれ持った名が白崎ルイであることを知りました。



 去年の秋のことでした。あなたがどこの男子生徒を殴っただとか、あなたがどの教師に歯向かって挙句退職にまで追い込んだとか、深夜のどこそこであなたを見かけただとか、そんな噂をふっつりと聞かなくなりました。ほとんど同時期にあなたはひと月ほども姿を見せなくなりました。もしかしたらあなたは退学された、いや、退学させられたのかもしれないと、わたくしは不安になりました。


 この不安が杞憂だとわかったとき、わたくしは安堵すると同時に当惑もいたしました。久しぶりに登校されたあなたは変わらぬ学ラン姿。けれども、その目はまっすぐに校舎を向いていました。それになんと穏やかな物腰、やさしい瞳、静かな口調であったことでしょう。あなたの美しさはより洗練され、さながら宮殿の一室に飾られた宝剣のよう。あなたのなかの野性は消え去ったわけではなかったのでしょうが、眠ることを学んでしまったのです。たったひと月のあいだに!


 そうです、あなたは見つかるはずのないものを見つけてしまったのです。わたくしの憐みを、喜びから遠ざかって。()()()()()()()()()()()。わたくしは危うくあなたを憎みかけましたわ――えぇ、いっそあなたを憎むことができればよかったのですけれど。でも、ある朝、門の前で出くわしたときに、礼儀正しく先を譲ったわたくしにあなたは微笑みかけてしまったのですものね。「ありがとう」と短く、やさしく、そう言って。その時、わたくしは初めて我が胸が高鳴る音を聞きました。かわいそうな十五のわたくし……


 周囲があなたを見る目は畏怖から尊敬に変わりました。多くの者があなたを慕い、愛し、追うようになりました。どれほどの乙女があなたを想いながら眠れぬ夜を明かしたのでしょう。どれほどの乙女があなたのために微笑み、また涙したのでしょう。わたくしのクラスメイトは来る日も来る日もあなたの話をしておりました。ルカ様、ルカ様と、そうあなたを呼んで。それでもきっとわたくしほどにあなたを想った者はいなかったと自負しております……いけませんか?わたくしはあなたに近づくために生徒会に入れるように努力したのですもの。あなたに憧れて遠くから眺めていただけの彼女たちとはちがうと、それだけは認めてくださってもよいでしょう?


 えぇ、知っておりますわ。あなたに恋するほど、わたくしが嫌な女になっていったこと。でも、あなたのそばにいられるより幸せなことはほかになかったのです。あなたが寄せてくださる信頼が、優しさが、わたくしには天の恵みのごとく思われました。そして身の程知らずにも、わたくしはそれが愛情に変わることを望んでしまいました。あなたがわたくしを呼ぶ、香苗、という声が、わたくしの胸の影深くにうずめられ、わたくしを包むたった一枚の皮膚を額から爪先までぞくりと粟立たせる――その瞬間を夢見てしまったのです。



 …………でも、そのころのわたくしはこの恋が叶わぬこともすでに知っておりました。それまでも時々見かけていた紅の髪の先輩が、あなたの隣にいる光景に何度か出くわしていたのですもの。その女性が、以前からも中等部で噂になっていた赤星市長の娘だと知ったのは、友人が教えてくれたためです。それまでわたくしがそのひとを見るのはいつも図書室で、いつもひとりきりでたたずんでいるようすでした。とても美しいひとでしたが、あまり目立たぬひとでした。そのひとが、あなたの隣にいつのころからか並ぶようになったのです。あなたはそのひとを玲子、と呼んでいました。その名を呼ぶときには、わたくしが大好きだったあの表情が、あなたの瞳によみがえりました。何かを求めてさまよう人の表情です。なんだかまるであなたから風が起こるような感じがしましたわ。また、あなたは誰にでもそうするように、そのひとをエスコートしていましたが、そのひとの肩に触れる手がかすかに震えているのを、わたくしは見てしまったのです。



 ある冬の日、わたくしは遅くまで学校に残っていて、閉門まぎわの時間になって校舎を出ました。ご存知のとおり中等部の生徒にはめずらしいことです。あなたと赤星先輩も何か用事があったのでしょうか、共に門を出られるところでした。わたくしはその後ろ姿を追っていました。お二人の影の向こうにはすでに星がまたたきはじめていました。冬の夜の星は厳しくこわいものです。わたくしはそのひとつひとつの輝きが、無理矢理この胸に嵌め込まれたような気がして、痛みさえ覚えました。それでも涙ぐんでいたのは寒さのせいですわ、その時はまだ。


 半ば閉ざされた門の前で、あなたは立ち止まりました。そこは守衛の目の届かぬ場所です。赤星先輩もまたあなたに倣って立ち止まりました。


 「どうかして?」と赤星先輩が尋ねるのが聞こえます。あなたはしばらく黙りこんでいましたが、やがて、ためらうように、おもむろに、赤星先輩の肩に触れると、そのままそっと胸元に先輩を抱き寄せられました。


 赤星先輩は少しも動じる気配なく、どうしたのか、と尋ねられました。あなたはひとりでさびしいのだ、と答えられました。あなたはひとりではない、と先輩が言うと、違う、君がひとりだからさびしいのだ、とあなたはささやかれました。わたくしには泣いているようにも見えました。


 「私は……」と何か言いかけた先輩を、あなたはその頭を撫でることで黙らせました。そして何か仰いましたが、わたくしには聞き取れませんでした。しかし、わたくしはすべてを悟りました。わたくしにとってはもっとも残酷な真実を知ってしまったのです。




 ……会長、誓って申します。わたくしは赤星先輩を恨んだことはありませんでした。あなたの心には赤星先輩しかいないことを知ってもなお、わたくしはあなたを愛していました。この胸はあなたを想うことに忙しすぎて、赤星先輩のことを考える暇はあまりなかったのです。ですから、赤星先輩が行方不明になってしまったその時も、なにごとかを期待するようなことはありませんでした。ただ苦しむあなたのお姿を見ることがつらいというそれだけでした。確かにあなたがわたくし以外の女性ゆえに苦しんでいるのには、複雑な思いもいたしましたけれど。



 でも、赤星先輩の無事を知った時から――どうしたのでしょうか――何かがわたくしのなかで変わってしまいました。誰よりも、深く、強く、愛しているからこそ、たとえあなたの心を手に入れられなくともその心に寄り添うことができればよいと思っていた、わたくしの慎みはどこかへ消えてしまいました。わたくしの感情は荒波のように押し寄せてわたくしの秩序を突き崩してしまいます。何度積み上げなおしても……殊にこのごろはひどいのです。あなたのことを考えぬ時はありません。気がつけばあなたの名をつぶやき続けている。気がつけばあなたの名を綴り続けている。あなたへの執着が止まらないのです。この恋さえかなうならば他のものはどうなってもよいというような衝動に駆られるのです。なぜでしょうか?役者が役に取りかれると聞きますけれど、恋するジュリエットにとらわれてしまったのでしょうか、わたくしは。いいえ、ならばわたくしはゆかりのことを思うべきですわ。輝かしいわたくしのロミオを。


 おかしなのはそれだけではありません。就寝前に鏡台の前で寝支度をしていると、鏡の前のわたくしが――いえ、それはわたくしよりもずっと美しく見えるのですが――ささやきかけてくるような幻覚を見るのです。わたくしの唇は少しも動いていないのにも関わらず。鏡のなかの女は言います。こんなに愛している者が報われぬ世界など狂っている。これでは香苗がかわいそう……わたくしがおまえを救ってさしあげる。わたくしが愛する人をおまえのものに連れてきてあげる。そうすれば、おまえは会長といつまでも二人きりでいられるのだから、と。


 ああ、会長!これは世にもいとわしい告白です!


 わたくしはいつも蒼褪めてそんな声を振り払います。でもそれからも長いこと鏡のなかから目を離せないのです。鏡のなかの顔がわたくしを憐れんだように、わたくしもまた鏡のなかの顔がいとおしくて憐れでたまらなくなるのです。ふっと気づくと、鏡面はわたくしの吐息でくもり、その吐息が温めたところにわたくしは接吻をしています。でも、吐息の霧の奥よりわたくしを見つめる瞳は、まるでわたくしのものではないようなのです。まるで……そうですね。獲物を狙う豹の目のようにわたくしを見返しているのです。



 こんな風にわたくしは日に日にますます変になっていくよう。いつまで誘惑をしりぞけられるでしょうか?会長、この間ふと目が覚めたら、わたくしは桜花神社の拝殿にひとりぽつんと立っておりました。その日は桜花神社の夏祭りでしたが、あなたに誘いを断られたわたくしは行く予定などなかったのです。家にいても聞こえてくる祭囃子や、通りに目につく浴衣姿の人々を苦々しく思っていたほどでしたのに。それなのに、わたくしは持っているかぎりで一番美しい浴衣を着つけ、髪をきれいに結い上げて、桜花神社にいたのです。なおも不可解なことに、石段の下には誰一人として姿が見えず、ただ翌日に片付けるつもりなのであろう櫓だとか、夜店の土台だとかが、風に吹かれているのです。祭りはとうに終わっていました。そんな時間までわたくしはそこでたったひとりで何をしていたのでしょう?まったく覚えていないのです。



 それから、それから……妖しいほど美しい男性が夢に現れます。夢のなかで、わたくしはその男性をうるし様、と呼んでいます。漆はわたくしをこう呼びます。可愛い芙蓉、と。


「可愛い芙蓉、私の元に飛んでおいで。力を失った憐れな蝶よ。白虎の血こそお前にとっての花の蜜。蜜を得なさい。花弁をむしり、しべを踏み躙って。私はお前と世の果てを見たいのだ」





 会長、昨夜の夢で、()()はそうおっしゃいました…………





「移動教室?」


 聞き返すルカに、うん、と舞と翼は同時にうなずいた。


「来週の金曜日からなの。月曜日に帰ってくるんだよ!」

「行先は?」


百合煎ゆりせんじ


 と、これまた同時に答える二人。


「ルカさん、行ったことある?」

「ああ、小学生の時にね。煎湖せんじこで遊覧船に乗ったのを覚えている。あそこの景色はなかなか風情があったもの。あとは煎湖自然観察センターだとか、龍明山りゅうめいざんでのハイキングだとか、九頭龍くずりゅう伝説の調べ学習だとか、まあ大体そんなことをやったかな」


 舞は目を輝かせながら、ぱちぱちと拍手した。


「すごーい、ルカさん!私たちがやること全部当てちゃったね」

「それってあたしたちがルカさんの小学生のころと同レベルってことじゃないの……?」


 翼の疑問に、ルカが笑うしかなかったことは言うまでもない。



 百合煎ゆりせんじという変わった地名の由来はよくわかっていない。煎じつめられるがごとく百合の花が夥しく繁茂していたためだとか(今はそんな気配はない)、いやいや煎とは宣旨のことを意味してこの地でかつて右の如き宣旨が下ったためであるとか、おおよそ信憑性に欠ける説ばかりが飛び交ってはいたけれども、結局のところ誰が呼び出したとでもなくおのずとそうなったというのが真実に近いのだろう。桜花市立桜花中学校の二年生は、毎年九月になると、四時間ほどバスに揺られてその地に趣き、二泊三日の共同生活を送るのであった。


 百合煎が龍と関わりの深い地とされてきたことは、すでに舞たちも事前学習の時間で学んでいた。殊に、標高一五二九メートルの龍明山や、周囲の長さおよそ二十キロメートル、面積にして七平方キロメートル弱の煎湖は、かつて九つのかしらを持つ竜が暴れまわった場所であるという伝説で広く知られている。伝説によればかつて野はことごとく龍の吐く毒気にただれ、湖は濁り、山の樹々も枯れ果てたとされるが、今はその面影もなくまことに風光明媚な清らかな土地であるとのことだった。宿泊する施設からは湖と山とが一望できるということもあり、またクラスメートと夜を明かせることもあり、舞たちはこの行事を密かに楽しみにしてきたのである。それは二学期がはじまって最初の行事であった。


 九月になって学校がはじまると、舞たちも夏休みまでのように好きな時に気ままに集まるということが難しくなってきた。さすがの奈々もそろそろ勉強しなければならないということが薄々ながらにわかってきたらしく、時折は(本当に時折であったが)自らルカの元に教科書を持って馳せ参じ、理解の至らないところについて教えを乞うこともあった。勉強嫌いではあっても決して地頭が悪いわけではない奈々は、それで少しずつ成長していっているとのことである。この調子で勉強し、絵の方も怠けることさえなければ、おそらく第一志望校にも受かるのであろうというのがルカの見立てだった。舞は自分も勉強を見てもらおうかとぼんやりと考えつつ、奈々に輪をかけての勉強嫌いなために、なかなか踏み出せないでいた。だって、夏休みの宿題いっぱい頑張ったし、移動教室もあることだし別にいいよね?受験までまだ一年以上あるし。まあ、中間試験まではひとまず……!


 今日は久しぶりに全員が集まれた日であった。とは言っても、まだ夏休み気分の抜けない一同はそれほど真面目な話に入り込めなかった。あきれた左大臣と柏木が別室に下がってしまうと、舞と翼はさっそく移動教室のしおりを見せびらかし、ルカはその聞き手となり、奈々は監視のもと勉学に励み、玲子はその監視と指導をはじめるというありさまである――そう、今までの集まりに新しく玲子が加わるようになっていた。感情をめったに表さず口数も少ない玲子に、ルカ以外の三人は完全に馴染めていたわけではなかったけれど。


「ちがうわ。この文の主語はMary。ということは、ここにはMaryすなわちsheの所有格が入るはずなのだから……」


  奈々に英語を教えている淡々とした声が、ルカと向き合っている舞の耳にも聞こえてくる。その声を聞くといまだに落ち着かない気分になるのはなぜだろうか。まだ慣れないせいだろうと何度も自分に言い聞かせても、舞はそれが嘘であることを結局見抜いてしまうのだ。


 あの夏祭り以来、玲子との個人的なやりとりはほとんどないに等しかった。玲子がルカによって翼と奈々に紹介され二人に歓迎されているその時も、舞はただ黙って事のなりゆきを見守っていただけだ。玲子もまた、舞に対して格別に関心を払っているようにみえなかった。玲子は舞を、翼や奈々やルカに対するがごとく呼びつけにして、取り立てて他の三人と区別するようなこともなかった――もっとも、舞とてそれが不満だというのではない。


(結城君のこと、まだ聞けずじまいだな……)


 玲子が一体どのように結城司に関わり、彼の人生を、舞の運命を豹変させてしまったか。舞はまだ聞けていないのである。聞くのが少し怖い気もする。今更戻らぬものがどうしてそうなったかを知ってどうするという気持ちもどこかにある。そんな気持ちが芽生えるたびに、舞ははっとする。なんだか司を裏切っているような気がして、胸が苦しくなる。


(……でも、これでいいのかもしれない。結城君のことを諦められたなら、もう関わらなくていいんだもん。そしたら結城君をもう苦しめずに済むんだし。玲子さんが何をしたかを知らないで済むんだとしたら、もしかしたら私、玲子さんのこと……)


「でも残念だなぁ」


 翼が溜息をつきながら肩を落とす姿に、舞の意識は会話の上へと引き戻される。


「なにが?」

「だって移動教室の日程って、水仙女学院の文化祭に被ってるじゃない。せっかくルカさんや玲子さんがいるから見にいこうと思ってたのに!」


 「あっ……」と舞もようやく心づく。水仙女学院の文化祭は来週の土曜日と日曜日で、舞たちが帰ってくるのは日曜日の夕方であるから、日程がまるきり被っていることになる。ということは、最愛の姉がロミオを演じる姿を拝めないということだ――いつもの仕返しに思いっきりからかってやろうともくろんでいたのに。また、それとは関係なく、優しい香苗さんがジュリエット役だと聞いていて、楽しみにしていたのに。それにまだ公言する気こそなかったとはいえ、舞は水仙女学院高校に密かな憧れを抱いていた。かなりの数の偏差値の階段が目の前に立ちふさがっているとはいえ。


「なんだぁ、今年は行けないのかぁ」

「また来年くればいいさ」


 がっかりと肩を落とす二人に紅茶を注いでやりつつ、ルカが慰める。


「ルカさんは何かに出たりしないんですか?」

「私は生徒会関係で少し動くだけだよ。女学院の大学生と合同でディベートを行うつもりではあるけれどね」

「ディベ……?」

「玲子さんは?何かしないんですか?」


 ぽかんとしている舞をよそに、翼が背もたれ越しに尋ねると、玲子は机の上でうつむけていた顔を少し上げて微笑みもせずに答えた。


「いいえ、何もしないわ」

「何も?クラスでお店出したりしないんですか?」

「えぇ、しないわ。そもそも文化祭の日は欠席するつもりよ」

「えー、もったいない!」

「人混みは嫌いなの。それに、少しももったいなくないわ。おかげで奈々の勉強が見られるのだから」


 翼のブーイングにも冷然と返す玲子に、奈々は苦いものでもなめたように舌を突き出してみせた。奈々はそのまま机の上に出された教科書に突っ伏した。


「ずっるーい!舞ちゃんと翼ちゃんは移動教室で、ルカさんは文化祭で、なんであたしだけ勉強なのさ!」


「受験生だからです」


 四人の声が奇蹟的なハーモニーを奏でた。



 「おみやげ買ってくるからね!」と翌金曜以降も桜花市に留まる三人に明るくそう言って、舞と翼は白崎邸から帰宅した。ふてくされていた奈々も二人に慰められつつ帰路についた。三人を門まで見送り部屋に戻ったルカは、玲子がひとり窓辺に寄って庭園を見下ろしているその後ろ姿を見出した。


 ルカは歩み寄って玲子の後ろから窓枠に手をかけ、もう片方の手で、結い上げられた紅の髪に触れる。そこから瞳を窓の向こうに転ずると、庭園の芝生は夏の名残をとどめている強い日差しに照らし出されて緑に燃えていたが、ちょうど盛りになった花壇のダリアが艶やかながらに重苦しい色彩をそこに添えていた。真夏の炎に晒され続けたはての、この大地の不自然な懐胎――めぐりゆく季節は、燃え尽くすことができないものの存在をほのめかしているようだった。花の上を、蝶の影がひとつふたつ、ひらひらと遊んでいるのが見える。


「君もようやくみんなと馴染めてきたというところだな」


 ルカは玲子の髪をもてあそびながらつぶやいた。どこか冗談めかした口調で言いのけることだけは、忘れずに。


「もっとも舞はまだ君に心を許していないように見えるが。いや、君の方が許していないのかな?君の厳しさは意外だよ。あれほど舞を懐かしみ、いつくしんできた君じゃないか。なんだか今の君は舞を突き放そうとしているように見える。一体なぜなの、玲子?」


「……不安だわ」

「なにが?」


 少しも不安を思わせぬ口ぶりで庭園を見下ろしながらつぶやいた玲子に、ルカは尋ねる。


「舞の何が不安だというんだい?」

「舞のことではないわ。敵の動きが掴めない……漆は一体どこで何をしているというの?左大臣と柏木の調べで、この辺りにすでにいないことはわかっている。では一体どこから私たちの動向をうかがっているのかしら。桜花神社を襲撃してきたのは偶然ではない。敵は私たちを狙っている」

「……確かに私たちは敵についてあまりに知らなさすぎる。それは認めるよ」


 ルカもいつのまにか玲子の声の深刻そうな調べに連れ込まれていた。


「なぜ漆が京を襲い、京姫を狙ったのか。そしてなぜ現世に蘇ったのか。それさえも私たちは知らない」

「それを知らないだけで圧倒的に不利よ、私たちは」


 玲子は紫煙を吐き出すがごとく細いため息をつく。


「敵の次の手は何?」

「おぞましいこと。残酷なこと。正視に耐えかねるほど」


 ルカは低く言って、窓辺に置いた手をややずらして玲子の手を取った。玲子がルカの顔を見上げる。眼鏡越しにまっすぐとルカの瞳を見つめて。


「……それがたとえどんなにおぞましいことであったとして、私たちは慄いてはいけないのよ」

「そうだ。戦うだけだ」


 ルカは剣の刃のような厳しさを込めて、それをいささか誇示するように言い切った。


「私たちだって潔癖ではいられないのかもしれない。これまで頼みにしてきたこの魂の純潔をも汚さねばならないのかもしれない。それでも私たちは前に進むしかない。立ち塞がる者を切り捨てるしかない。そうだろう、玲子?」

「無論その通りよ」


 ルカの手に握られた左手を打ち眺めつつ、玲子は美しい眉を寄せた。決してルカの体温が不快だったためではなかった。玲子はその時、なぜだかは全くわからないままに、ルカのその、言葉の果断さにほのかな不安を抱いたのであった。


「……えぇ、その通りではあるのだけど」




「香苗?」


 はっと振り返ると、どこか戸惑った表情をした友人が立っている。なぜそんな顔をしているのだろう。いいえ……というより、わたくしは今一体何をしていたのだろう。屋上のフェンスの前に用もなくひとり立ち尽くして。


 北条院香苗は困惑を懸命に押し隠して微笑んだ。


「あら、どうかしたの、ゆかり?」

「どうかしたのって……稽古の時間じゃない。みんな探してたんだから。こんなところで何してるのよ?」

「ああ、そうでしたわね。ごめんなさい。少しぼんやりしていたみたい……それに、空がとってもきれいだったから」


 詩情というものをおおよそ解さない友人・京野ゆかりは、彼女の目には別段変わったこともないのであろう秋晴れの空をちらりと見上げたきりで、あとは空に向けた怪訝な目をそのまま香苗に向けた。香苗はそんな親友の目にたじろいでいる自分に気がついた。やましいことなどこの胸に何ひとつとしてないはずなのに。


「香苗さ、あんた疲れてるんじゃない?大丈夫?」

「……そうなのかしら」


 確かに稽古続きで疲れてはいるのかもしれない。本番を今週末に控えて緊張しているというのもある。だからこそ稽古をしなければならないというのに――ああ、嫌だわ、この感じ。このところこんなことが続いて……恥じ入ってうつむく香苗に、ゆかりはふっと口元を緩めて優しい表情を向けた。


「じゃあさ、ちょっとここで休憩していこ。あたしたちだってリフレッシュしないとさ」

「でも……」


 ためらう香苗に、ゆかりはぴん!と人差し指を突きつけた。


「ふふん、我らが副会長さまったら、真面目だからサボれないんでしょ?今まで授業だってサボったことないもんね。仕方ないなぁ。じゃあ屋上で二人でセリフの練習をするってことで。メール打っとくわ!監督には!」

「あっ……」


 香苗が止める間もなかった。ゆかりのメールを打つ速さはなにせ学年でもっとも速いということで有名だったから。


「さて、と。送信送信……!」



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ