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京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第四章 現世編―芙蓉の巻再び―
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第三十九話 トライアングル(上)

 わたくしが売られた先は裕福な商い人の家でございました。京の西あたりでしたかしら。あのあたりには立派なお邸が立ち並んでおりましたから。いずれにしてもそれまでのわたくしには縁のない場所でした。


 その家の実質的な主は、五十は越えようかという老人でした。すでに月に仕える身でありながら、主である息子がまだ若く頼りないということもあり、宮中にも顔が広く一度すすった甘い汁が忘れられないということもあって、なかなか俗界と縁が切れないようなのでした。要は不届きものですわ。この老人には三人の息子と二人の娘がおりました。娘たちの方はすでにどこかへ縁づいてお邸にはおりませんでしたが、当主とは名ばかりの長男をはじめとして息子たちはお邸のなかで妻や子と共に暮らしていました。


 はしためとして売られたわたくしは、最初こそ逃げ出そうとも考えましたけれど、少なくともここにいれば屋根の下で眠ることができ、その日の飢えに苦しむこともありません。決して楽な境遇ではございませんでしたが、後にお話するようにそれも段々とよくなってまいりましたので、しばらくはこの身分に甘んじることにいたしました……ひどい落ちぶれ方ではありましたが。貴人あてびとの血を引くこのわたくしが、商い人の家の婢となったのですもの。それを思い出しただけでも屈辱に身が震えます。


 確かにその家での最初の生活はひどいものでした。婢たちを監督していた年増女が――これまた正視に耐えぬほどに醜く太った女なのでしたが、性根のほうもよほど歪んでいたと見えて、何かにつけてわたくしをいじめるのです。わたくしはだんだんと寒くなる秋の夜長を冷たい水に手を浸しながら一睡もせずに過ごすことがありました。女は一番辛い仕事を年少のわたくしに押しつけて喜んでいたのです。そんな様子を見ても、この家に仕える女たちのなかには、誰一人としてわたくしを助けようとする者はいないのでした。男たちはいくらか親切でしたけれども、それも下男たちが投げかける卑猥な冗談を笑ってやり過ごせばの話でした。


 ……えぇ、これというのもすべて母が身を誤ったせいですわ。



 けれども、ほどなくしてわたくしの美貌は年老いた主に目を留まりました。この老人は大変好色で知られていました。まさかまだ十にもならないわたくしをどうするというわけでもありませんでしたが、幼いうちから目をかけておいてそのうちにというぐらいの下心はあったのでしょう。そして、いずれ自分の相手をさせるのならば一通りの教養をつけさせておこうとでも思ったのでしょうか。手習いからはじまって、学問や芸事やらと色々と仕込みはじめるのですが、わたくしも決して素地が悪くはないのですもの。老人の期待する以上の才を示しました。老人が大変驚き、喜んだことは言うまでもありませんわ。


 老人はわたくしに夢中になりましたわ。自分のそばにおいて朝から夕まで片時も離しません。その生活の全てがわたくしのために費やされるようになりました。そうなると、わたくしももう婢という身分ではございません。老人を思うがままに操るのはあまりにもたやすいことでした。そこで、かつてわたくしを不当な目に遭わせた者たちは皆報いを受けることとなりました。一方で、当の老人は操られているとは知りませんから、はたの者が時に眉をひそめるほどにわたくしをひいきにして、この子の行く末が楽しみなどとにやにや笑っておりました……えぇ、いやらしい老人ですわ。

 


 ――やがてわたくしも十四になりました。老人が待ち望んでいた時がいよいよやってきたということになるのですが、()()()()()()()そのころから老人は病に伏すようになりました。もちろんその世話をするのはわたくしです。老人は気難しくなってわたくし以外の者を枕元に近づけようとしませんでした。数十年連れ添った妻が見舞いにきても口汚く罵る始末ですから、見苦しいことこの上ございません。


 ……と、父の寝込んでいるのをよいことに、この老人の三人の息子たちがわたくしになにかと言い寄るようになりました。三人はわたくしがひとりでいると、代わる代わるやってきて、わたくしを口説こうといたします。たとえば、あるうららかな春の日のこと。わたくしが看病の疲れを癒すために、庭の林檎りゅうごうの樹の下に立って、白い小さな花たちに見惚れていたときのことです。兄弟たちのいずれかは忘れましたが、とにかくそのうちのひとりがどこからともなく忍び寄ってきて、わたくしを後ろから急に抱きすくめるのです。「まあ」と恥じらいつつ逃れようとするわたくしの手を兄弟は図々しくも握りしめて離しません。そのまま唇を寄せようとする男から必死に顔を背けるわたくしをなだめつつ、この無粋者は次々と、必死に甘い言葉をささやきかけます。


「ああ、槿きん(婢であったときのわたくしの名前です。厭わしい名。あなたが新しい名を与えてくださって本当によかった!)、お前はなんて美しいんだ。考えてみれば、父のような老いぼれひとりがお前を独り占めしているのはおかしいじゃないか。なぜ俺のものにならないんだ?俺のものになれ、槿。俺の方がお前をずっと可愛がってやれるのだから……おい、どうして俺の言うことを信じない?前から言っているだろう、もしお前が俺の子を産んだら、今の妻と子どもは追い出してお前ひとりを妻にすると。ほら、お前の欲しいものはなんだってあげるから、何が欲しいか言ってごらん」


 その時言われた言葉でしたかしら、これは……?いずれにせよ、言うことは皆同じですから変わりないでしょう。ああ、浅ましい男たち!でも仕方ありませんわ。わたくしは少女おとめからひとりの女人へと変わりゆくころでした――そうですわね、ちょうどさなぎが蝶となり飛び立つところでした。その時のわたくしは、卑しい男たちの目にどれほど蠱惑的こわくてきに見えたことでしょう……えぇ、あなたにとっては物足りないわたくしであっても、ですわ。



 兄弟は最初こそ競争心を押し隠していましたけれど、焦りのせいでしょうか、次第に表立っていがみあうようになりました。すると、元からわたくしというものが気にくわなかったうえに、ついに事態を見かねた老母が病人に告げ口いたします。大方、あの娘は性質たちが悪いから早く追い出すべきだとでも言ったのでしょう。


 病人はどういうつもりであったのでしょうか。片時もわたくしを手放したがらなかったにもかかわらず、わたくしにいとまをやることに承知したのです。自分の亡き後に(このころには病人の具合は相当悪くなっていたので)自らここまで仕込んだわたくしを息子たちに奪われてはたまらない、とでも思ったのでしょうか。老いたる者の、若人わこうどへのあてつけであったのでしょうか――いずれにしても、わたくしには親心とは思えません。それが証拠に、わたくしが家を出るまでのあいだ、老人は自分の見えないところに決してわたくしを遣ろうとしないのでした。自分が寝ているあいだのことまで心配して、わたくしに添い寝を命じます。無論、兄弟たちだって歯噛みして悔しがっていただけではございませんけれど……


 そんな日々もようやく終わりを告げ、わたくしは老人と知己の仲だという貴人の家に侍女まかたちとして仕えることとなりました。老人はわたくしが家を去ってすぐに死んだとのことです。三人の息子たちもいがみあいが続いてついに互いに手をかけあうまでになったとか聞いた気がしますけれど……でも、もううに昔のことですものね。忘れてしまいましたわ。







 翼と美香と東野君……


 美香と東野君と翼……


 東野君と翼と美香……




「なにぼやっとしてんのよ」


 朝食のビュッフェの列に並んでいた舞は後ろからせっつかれて我に返った。後ろに並んでいた美香がトレイの角でぼんやりと立ち止まっている舞の背をつついたのである。美香の後ろにはまだ長蛇の列が続いていて、思案している舞を不思議そうに眺めていた。朝食会場となっているカフェテリアには同じ学年の生徒たちがひしめきあっており、湖側の大窓をいち早く陣取って、朝日を浴びながら豪華な朝食を楽しもうと競い合っている。


 慌てた舞は何がなんだかわからないまま、銀色の容器に盛られた料理をトングで引っ掴んだ。よくよく見てみるとそれはジャーマンポテトなのであったが、気づいたときにはジャーマンポテトの山が皿の上に築かれており、トングは美香の手に渡っていた。


「朝からよく食べるわね……」


 美香は舞の皿を見て驚きあきれつつ、じゃがいもをほんのひと切れだけ取った。舞は自分の量の多さよりも美香の量の少なさに目をみはった。舞の皿にはサラダ、ベーコン、玉子焼き、ソーセージ、ほうれん草のおひたし、納豆、パン、苺ジャム、味噌汁、ごはん、それにジャーマンポテトの小山と、色鮮やかに飾られていたが、と美香の皿にはサラダとゆで卵とじゃがいも一切れしか乗っていない。


「えっ、美香……えっ、それしか食べないの?ぐ、具合悪い?!大丈夫?!」


 舞が思わず叫ぶと、美香は周りをみまわしながらしーっと人差し指を立ててみせる。


「声が大きいわよ、あんたは!べ、別にいいでしょ!その……朝だから食欲湧かないだけよ」


 絶対に嘘だ、と舞は直感的に思った。だって、毎日サッカー部の朝練に励んでいる美香がそれしか食べないで昼まで持つはずないもの。ほんのりと桃色に染まったままの美香の横顔が、色とりどりのフルーツの手前でためらいの色を映すのを確かに認めたその時、舞はそっと美香の耳元にささやいた。


「フルーツは太らないから大丈夫だよ!」

「ちょっ……!」


 美香がたちまちゆでだこの如く真っ赤になったので、舞は自分の勘が当たっていたことを知った。やっぱりそうだった。美香はきれいになろうとしてダイエットをしようとしていたのだ。赤くなる親友を前ににこにこと微笑んでいた舞は、この甘酸っぱい一幕がほろ苦い一面を押し当ててくるのを遠のけることができなかった。


「ちょ、ちょっと……こんなによそってくれなくてもいいったら!」

「あっ?お前がついでだから自分のもよそってくれって言ったんだろ?」


 騒ぎの方に目を遣った舞は、どきりと鳴った心臓が不協和音を立てるのに早くも気づいていた。声で大体わかっていた。見てみるとやはり翼と恭弥だ。味噌汁の鍋と炊飯器の前にそれぞれ立って並び合っているのだが、どうやら手間を省くために互いの分までよそいあうことで合意したのらしい。相手が盛ったその分量に不満だというので二人は揉めているのだ。


「そ、そりゃそうだけど、こんなに食べられるわけないでしょっ!」

「べっつにこれぐらい食えるだろ?」

「食べられないったら!」

「嘘つけ!米一合ひとりで食ってたじゃねぇか。今更ぶりっ子したってかわいくねぇぞ」

「あんた相手にぶりっ子なんかする意味ないでしょ!というか、米一合っていつの話よ?!も、もう、とにかく減らして……!」

「全く自分で減らせよな。あっ、俺あさり嫌いだから」

「知ってるわよ!だからこっちはわざわざあさり抜いてやったのに」


 ぶつくさ言いながらも、恭弥は米の山をしゃもじで乱暴に削りはじめる。その量たるや駝鳥の卵でも茶碗に載せているのかと見間違えるほどであるから、翼の苦情ももっともだと思われるが、もうひとつ同じような茶碗が彼のそばに置いてあるところを見ると、彼自身はどうやらいつもその量をたいらげているらしい。


 舞は気づかれないようにそっと美香の方へ視線を移す。美香は先ほどのためらいはどこへやら、フルーツをせっせと皿に盛るので忙しない。美香の皿の上はさながら南の島の宴会かと思われるほどだ。さすがの舞も「その辺でやめておいたら」と止めかけたところで、美香はうつむいたまま舞にだけ聞こえるようにぽそっとつぶやいた。


「舞、後であんたに話があるんだけど」

「えっ……」


 ちらりとこちらを見た美香の瞳が揺れているように見えたのは、眼鏡が遠い湖面のきらめきを反射しているためだったのだろうか。美香はすぐにふいと顔を背けてしまったのでわからない。いずれにしてもこんな気弱そうな美香を見るのは初めてだった。眼鏡は普段と同じままに、髪型をお団子に変えているから、なんだか別人のようにも思われる。でも、やはりその横顔を見つめてみれば、佐久間美香その人に他ならない。いつも気丈で、サッカーが大好きで、文句を言いながらも舞の世話を焼いてくれる佐久間美香だ。ずっと隣にいたからわかる。美香がこんなに頼りなげな様子を示すだなんてよほどのことだ。舞の胸は痛んだ。


「……うん、いいよ」


 舞はそう言って、先ほどとは違うやさしい微笑みを美香に向けた。




 ようやく二人きりで静かな時間がとれたのは、龍明山のハイキングの時であった。最初はクラスごとにきちんと列になって進んでいたはずなのだが、次第に列は乱れ始め、ところどころ前後に間隔をあくようになってきたのである。舞と美香はわざとゆっくりと歩いて目の前を歩いていた佐々木と矢嶋から距離を取った。後ろから来る女子三人組をうまいこと引き離してからも、舞と美香はしばらく黙ったままでいたが、やがて美香が深いため息をついて切り出した。


「舞、今朝言った話のことなんだけどね」


 舞は何も言わないままに美香を見つめて先を促した。何が話されるかがわかっていても、美香の言葉で聞きたかった。そうでなければ意味がないと思っていた。


「……あたしさ、好きな人ができたの」


 まるでそれが悪いことであるかのような弱々しい告白であった。


「できたのって言い方おかしいかな。あたし、東野のことがずっと好きだったの。去年の秋ぐらいからかな……黙っててごめん」

「謝らないで。東野君のことが好きな気持ちは美香ひとりのものだもん。友達だから打ち明けなきゃいけないなんて、そんなことないもん」

「でもあたし、好きな人なんていないってずっとそう言ってたから。なんか嘘ついたみたい」

「美香の性格じゃしょうがないよ」


 舞は美香の背中をぽんぽんと叩いた。木漏れ日が霏々《ひひ》として少女たちの頬にこぼれかかった。聞き慣れない小鳥の声が飛び交うなかに、降り積もった落ち葉を踏む二人の足音が響く。後ろの話し声は間遠だった。


「東野君のどんなところが好きなの?」

「わかんないけど……多分、なんだかんだいって優しいとこかな。すごく周りのこと気遣ってるの、あいつ。それがわかってから好きになっていたかな。部活の時もリーダーシップがすごいし、責任感も強いんだなってわかるし。それにサッカーやってる時の東野、ほんとかっこいいもん……!」


 美香の頬はみるみるうちに紅葉のごとく染まっていく。舞の口元がひとりでに綻んだのは、美香の語った恭弥が以前の司とよく似ていたからだ。以前の司も優しくて、周りのことを気遣っていて、リーダーシップも責任感もあって、テニスやサッカーをしているときの姿は本当にかっこよかったもの。


「……でもさ」


 美香の声が低くなった。


「東野ってモテるでしょ。そりゃそうだよね、あんなかっこいいから。だからあたしの方なんか振り向いてくれないって、ずっとそう思ってたんだけど、でも……!」


 美香の声が上ずって、そのまま小鳥のかなでる調べに吸い取られていく。


「……でも、こないだの夏祭りのとき、あんたも結城もいなくなっちゃったから二人きりになって……あの時間、東野があたしのことだけを見ててくれたの。二人でお祭りを回って、花火を見て、なんだかデートしてるみたいで、すっごく楽しくて、すっごく幸せで。あたし、ずっとこうしてたいって思ったの……このままずっと東野の隣にいたいって、そう思ったの……!」 


 舞は美香が泣き出すんじゃないかと思った。リュックサックを背負う美香の肩は震えていたのだ。そのリュックサックのファスナーに揺れているのは、龍明神社の恋守り――いつの間にか二人は立ち止まっていた。


「あたしね、告白するつもりで来たんだ、今回の移動教室」


 美香にじっと見つめられて、舞は思わず目をしばたいた。まさか美香がそこまで思いつめていたなんて。すると、これまで親友をただいじらしいとばかり眺めていた舞の心がかき回される。澱が浮かびはじめる。藍色の髪と水色のリボンが、木漏れ日に刺された瞼を横切った。



「だめ、かな……?」


 縋りつくような声だった。


「だめ、じゃないよ」


 吐き出す呼吸が苦しかった。


「……本当に好きなら、好きって気持ちを伝えたいなら、そうするべきだと思う。そうじゃないと、伝えられなくなったときにきっと後悔するから」

「伝えられなくなったとき?」


 けげんな顔をする美香に舞はなんでもないと急いで首を振った。


「ねぇ、聞いてもいい?東野君の返事、美香にはわかってるの?」

 今度は美香が首を振る番だった。


「わかんない。昨日まではすごくうまくいってると思ったんだけど、今朝、東野と青木さんが話してるの見てたら不安になっちゃった。幼馴染の仲ってやっぱり入り込めないなぁって思ってさ……」


 そう打ち明けてから、美香はすぐに何かに気づいたようにごめんと舞に謝った。


「あんた、青木さんとも仲いいのにさ」

「私のことは気にしないで。それでも美香はやっぱり好きって伝えたいんでしょ?」


 美香は一瞬ののち、こくんとうなずいた。


「このチャンスを逃したら、あたし、一生伝えられない気がするから……」

「じゃあ、伝えなきゃ」


 「ありがとう」と美香は小さく言った。なんだか泣きそうな顔で微笑みながら。舞もまた泣きそうになっている自分に気づいていた。翼のことを思うとつらかった。美香の恋がどうなるかはわからない。もし美香の恋が叶うのだとしたら翼は……けれども、舞は佐久間美香に向けられるのは、佐久間美香の親友としての言葉だけだ。いくら翼のためとはいえ、美香を留まらせるような卑怯なまねは絶対にできない。逆も然りだ。どちらの恋が叶ってほしいというのではなく、舞は自身の友情に対して誠実でありたかった。たとえそのために苦しまなくてはならないのだとしても。


「……あたし、今夜告白する」


 歩み出した二人の背中に、後続の女子たちのおしゃべりが迫ってきていた。








「ただ今より第六十七回清廉祭(せいれんさい)を開幕する!」


 生徒会長白崎ルカの宣言によって、今年の文化祭は幕を開けた。校門にはチケットを手にした大勢の来客が列をなし、いつもは清らかな秩序に包まれている校舎にもにぎやかな音楽と明るい声が満ち満ちている。女学院生やら来校者やら教員やらとにかく追いかけられ続け、ようやくひとりになることができたルカは、生徒会室の静寂にほっと息をついた。さして仕事はないはずなのに、文化祭というやつはこれだから参ってしまう。


 窓辺の指定席に腰を下ろすなり、ルカは学生帽を机の上に放り出し、母お手製のサンドイッチの包みと校内のベーカリーで買ったメロンパンと共に携帯電話を取り出して、電話の方に先に取り掛かった。空腹ではあったがルカの留守の間、白崎邸に身を寄せている者たちが気になったのだ。ちょうど、玲子と奈々が白崎邸を使って勉強会を開催しているところであったから。


 呼び出し音を聞きながら椅子を回転させて窓の方を向いたとき、ルカはガラスに映った自分の顔の背後に、女の立ち姿が映り込んだのに心づいた。女の白い顔は凍えかけた月のようにぼんやりと窓外の空に浮かび、その輪郭を、紫雲のように、薄色の長い髪が取り巻いていた。


 はじける白い星のごとく、ルカはすばやく立ち上がって振り返った。女を睨んだ眼差しは驚きに見開かれると同時に力を失った。


「香苗……!」

「まあ、会長」


 大仰なルカのようすに香苗は困惑したようすだった。


「すまない、驚かせて……その、別人かと思ったんだ」


 その時はじめて、ルカは香苗とかの女の髪の色が同じであることに気がついた。薄色うすいろというのはまことに妙なる色である。野にある花の色にもない。やわく甘く、でも容易に見通せず、気品のなかにも触れればほろほろとく剥がれゆきそうな脆さがある色だ。しかし、その色も妙も清らかな乙女の髪に宿ってこそ価値がある。香苗とかの女とのあいだになにひとつとして通い合うものなどない。毒婦の美は冴ゆるほどに忌まわしい。


 芙蓉――前世においては白虎の爪牙に敗れつつも毒を以って刺し違え、現世に蘇ってのちも執拗に白虎を追った。白崎ルカの、否、白崎ルイの弱みをついた芙蓉は二度も白虎を追いつめながら、ついに京姫と四神たちの力に屈したのだ。それでも首ひとつになってさえ飛びかかってきたその怨念のすさまじさ、浅ましさは、思い返しても戦慄が走るほどである。芙蓉の心のうちにも白虎への憎しみと漆への心酔と、はたしてどちらの方が強いのだろうか。


 ……しかし、その芙蓉もすでにこの世にない。ルカは不快な思いを振り払うと、改めて香苗を見つめた。芙蓉と見間違えたのは許されざることであるとしても、今日の香苗が別人のように見えるのは確かであった。いつもは結んでいる髪を下ろしてこうべには色とりどりの花冠を戴き、うっすらと舞台用の化粧も施しているようである。唇が薄紅色を帯びていた。ベルベットのジュリエットドレスはオリヴィア・ハッセーが映画で着ていたものとよく似ていたが、色はラベンダー色で、香苗のたたずまいによく調和していた。いかにも令嬢らしい、しとやかなジュリエットだ。却って、幼くあやうい恋に転んでいくのかが不安に思われるほどである。


 黙って見つめていると、香苗ははにかむように頬を染めて目を逸らした。ルカは何か言わなければいけないことに気がついた。


「綺麗だ、香苗」

「そんな……」


 香苗の言葉はあたたかい唾液に濡れた砂糖菓子のように薄れていく。


「やはり思った通り、いや、思った以上と言おうか。今まで見たなかでも一番美しいジュリエットだ、香苗。しかし、公演は明日の午後だったはずだが、もう衣装に着替えているとは気が早くないか?私の目を喜ばせるためではないだろう?」

「……いいえ、そうかもしれませんわ」


 と香苗がごく小さな声で言ったので、ルカはやや拍子抜けした。しかし、香苗はいつも通り慎ましくルカの前に歩み寄ってきて、うつむきつつも、封蠟を模したシールで封をした立派な招待状を差し出した。


「これを会長に……生徒会長へ、特別席のご案内ですわ」

「ありがとう」


 厚ぼったい封筒を手にしたその時、何かが小刻みに震えるような音が聞こえてきて、ルカの目と香苗の目は同時にそちらを向いた。ルカははっとした。携帯電話のバイブレーションだ。恐らく先ほどの電話に玲子がかけなおしてきたのに違いない。


 ルカが腕を伸ばすよりも早く、香苗が自由になったばかりの手ですっと電話を取り上げた。開きっぱなしにしていた画面を感情のない目で数秒ほど見つめ、香苗はルカに電話を差し出した。


「赤星先輩ですわ」


 香苗の口元にはいつもの笑みが浮かんでいた。だが、何か底知れぬものを読み取ったルカには携帯電話を受け取ることがためらわれた。まして電話に出ることなど、とても。なぜかはわからないままに。


「お出になりませんの?」


 香苗は小さく首をかしげる。


「……切れてしまいましたわ」


 そう言って微笑みながら、ルカを咎めた。


「いや、いい。後でかけなおすから」


 ルカはようやく携帯電話を受け取って言った。電話を受け渡す折、香苗の指とルカの指がつかの間に触れ合ったが、ルカは香苗の指の冷たさに驚いた。改めて見てみると、香苗の指は長くしなやかでそして蝋のように白かった。まるでロレンス神父のかりそめの死の薬を飲んだ後のようだ。香苗はことさらにその指をルカの手に押し付けるようにして電話を預けた。


「か、な……」

「会長……」


 ルカを間近に見上げている香苗の吐息がルカの唇を曇らせた。花冠から立ちのぼる香りが甘い眩暈を呼ぶ。その瞬間、機械越しにルカの指を捉えている香苗の冷たい指先だけが、ルカの知覚でき得る世界の全てであった。


 足元がふらついた時、花冠は百万の花の群れのごとくルカを襲いきた。百万の花はいずこに咲くか。この鼻梁の先か。はたまたこの脳を苗床として?花の香に揺らいだ視界を閉ざしたルカは、その拍子に唇に何かが触れた気がしたが、ついにそれが何かを確かめる術を得なかった。たとえそれが()()()()()()()()()であったとしても。


 ルカと香苗の指を、無機質な震えが引き離す。玲子から再びの着信であった。ようやく靄がかった視界が晴れて、ルカはこちらを見上げる香苗の瞳を見出すことができた。瞳は綺羅星のような光を刹那に点じて、微笑の影に畳み込まれた。


「では会長……きっとお待ちしておりますわ」


 香苗はベルベットのドレスの裾を翻して、生徒会室から駆け出ていった。




 

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