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京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第四章 現世編―芙蓉の巻再び―
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第三十六話 祭りの夜(上)

 頬に受けるくれないは夕日のためか、それとも手にしている宝石のためか、はたまた最愛の父からプレゼントを貰った喜びのためなのか、赤星玲子という少女をよく知らない者にはわかりかねるだろう。フランス窓に向き合うようにして腰かけた玲子はめずらしく口元に微笑を浮かべてルビーのペンダントを掲げているが、この微笑みだけは偽ったものでないことを柏木はよく知っている。このごろ沈みがちであった玲子にとってはちょうどよい慰めになったことだろう。ルカからの(忌々しい)電話があって以来、寡黙なこの令嬢はいよいよ黙りがちになり、柏木が日課の通りに世話をしようとするのにさえ、無言ながらに手厳しい拒絶を示すことがあった。そういう時の令嬢の顔に、柏木は懐かしい皇女のおもかげを認めて慄然とした――それはどこか甘い戦慄ではあったけれども。


 ……とはいえ、そうだ、誕生日ぐらいはこの方とて、十六歳、否、十七歳の少女に立ち戻るべきなのだ。容姿や振る舞いだけなく、もの思うその心から。


 折しも、ちょうど出かけるところであった父親がその場に現れたことによって、少女の喜びは完璧なものとなった。


「すっかり気に入ったようだね、お嬢さん」

「えぇ、もちろん。お父様からのプレゼントですもの。いまさら返せといわれても返さないわ」


 椅子の背もたれの上から屈みこんで語りかける父親を見上げて娘が笑いながら言うと、父はその額にひとつキスを落とした。


「まったく、手のかかる子だ。なんていったってご機嫌をとるのに宝石が必要なんだから。これで一体いくつめだ、玲子?お父様ばかり貧しくなって、玲子は年々お金持ちになっていくようだね。嫁入り道具にでも持っていかれたらそれこそお父様はたまらないよ」

「そんなことしないわ。でも、お父様こそ、今日は玲子の誕生日なのにずいぶんひどいじゃない」

「大人になるとどうしようもならないことが沢山あるということさ。玲子はまだ子どもだから分からないんだよ」

「あら、玲子はもう大人よ」

「そんなことを言っていること自体がまだ子どもだという証拠なんだよ。なあ、柏木?」


 急に話題を振られた柏木は、はいともいいえとも答えかねて「わたくしには何とも答えかねます」といういささか間の抜けた、歯切れの悪い返事をした。いくらかこの生真面目で寡黙な男をからかってやろうという気もあったのだろうか、桜花市長は柏木の当惑に満足そうに声を立てて笑った。すると、玲子がもどかしそうに父の袖を引っ張って言った。


「お父さまったら。柏木をからかっている暇があるのなら早く出かけられたら?」

「これはひどい。宝石だけ奪い取ったら父親は用済みか」

「だって、お帰りが遅くなるでしょう」


 子どもっぽく拗ねてみせる玲子に父はまた笑い、それから少し考えるようなそぶりをした。やがて、なにごとか思いついたらしくぽんと手を打った父親は、いたずらっぽく娘の鼻先をつつきながら次のような提案をした。


「そんなに拗ねるというのなら、玲子、お前も一緒に行くことにしよう。誕生日を夏祭りで祝ってもらうというのも悪くはないだろう?」


 目を丸くしてきょとんしてみせる玲子に構わず、父親は市長の声に半ば戻りかけた。


「柏木、お嬢様がお出かけだ。運転手に伝えて、お前も支度をするように……玲子、ダメだ、それは置いていきなさい」




「あんた下駄と浴衣でよくそんなに動けるわねぇ。さすが日舞にちぶやってるだけあるわ」

「石段危ないから足元気をつけてね、美香。ここの石段結構きつ……うわっ?!」

「……日舞やっててもドジじゃあ意味ないわ」


 美香に助けられて身を起こしながら、舞は石段の上の暗がりから提灯の投げかける赤い光の群れへと、小さな顔をもたげる。舞の瞳はたちまち夥しい光を捉えた。同時に、抜いたえりから伸べられた白いうなじがきらきらと輝き、滴る汗は耳朶にまで宿って水晶の耳飾りのように光って揺れた。桜色の浴衣に包んだ薄い胸はまだあやうげな揺動を宿しているが、金糸雀カナリア色の帯の下はすでにしっとりと落ち着きつつあり、ほっそりした影を引き結ぶような鼻緒のべにが、薄闇のなかに鮮やかだ。人混みに後から後から押されるので立ち止まって見つめている暇もろくになかったが、美香は舞を促して歩み出しながら、思わずこう言わずにはいられなかった。


「ずるいわ、あんたって。ほんっと……」


 いつもそうだ、小学生のころからずっと。舞は誰の目から見ても可愛くて、親友のあたしでさえつい見惚れてしまいたくなるぐらい……当の本人は、早くも綿菓子の夜店を見つけてそこに駆けていきたそうな様子を見せながら、「えっ、何が?」と気の抜けた声で聞き返しているけれども。


 だが、もしも舞が友人の意味するところを理解していれば、きっと言葉と誠意を尽くして友人を褒めたことであろう。舞の母は美香のいつもの三つ編みをアレンジして可愛らしいお団子を作り、シュシュ(いつしか舞と一緒に買ったもの)で飾り立ててやっていた。浴衣は紺地にうっすらと花模様のあるシンプルなデザインだが、思い切って眼鏡をはずしてそばかすのある素顔をさらけ出しているせいで、普段の美香よりあどけなく見える。小麦色の肌には、親しみやすく、素朴な健康美があった。


「あっ、焼きそばもある!焼きそばもいいなー」

「あんた食べ物ばっかしじゃない。射的やろうって、射的!」


 桜花神社の境内は、石段を登って最初の鳥居を潜った先に長い参道が続いており、さらに石段をのぼると二つ目の鳥居と拝殿が控えているという構造になっている。露店が立ち並んでいるのは参道沿いであるから、人はこちらばかりに集まって、拝殿の方は詣でる人もなくしんとしている様子である。奥に向かって参道の左手にはやぐらが組まれており、祭囃子やら、くぐもった挨拶やらが聞こえてくるのはそこからであるらしい。舞たちはよくわからなかったので近づこうとはしなかった。


 祭りは大賑わいである。考えつくかぎりのさまざまな露天が立ち並ぶその隙間に、たくさんの黒い頭がひしめきあっており、それがふとした光の加減やちょっとした注意力によって、ようやく表情を持ったひとりの人間の顔となる。その一瞬と一瞬のなんの脈略もない連なりは、祭りの客の頭上をもとほる神の気まぐれの軌跡と見えて、美しい。けれども夜風は一向に訪わない。祭りの庭は熱気に満ちている。桜花市の人口をいささか見くびっている舞と美香には、この市の全ての人がここに集結しているのかとも思われるほどであった。舞と美香はあまりにもたびたび同級生に出会うので、特別挨拶をする義理がない相手を先に見出した場合は極力回避することにした。なぜって、着飾っているところを見られるのは、なんとなく気恥ずかしいので。


 ……よりによってなぜ彼らに気づかなかったのだろうか。いや、本当はお互いに気づいたのだ、舞と司は。それぞれヨーヨー釣りと射的の店の前で、友人が競技にいそしんでいるのを待っている間に、何気なく隣を見た時に。互いの姿に気づくまで数秒かかった。舞は浴衣姿であったし、司は暑さのために前髪の流れ方が少し違っていたためだろう――というより舞は、こんなにぎやかな場所に司が来ているだなんて思いもしなかったのである。しかし、お互いを認識した瞬間、舞はほつれた髪を耳にかけた姿勢のまま凍りつき、司は襟に風を入れていた手をぴたりと止めた。ぶつかりあった二人の瞳は時の流れを見失ったがごとく静止した。


 冷たい痺れのようなものが足元からいっきに体を駆けあがるのを感じた。呼吸が怪しくなった。あらゆる音が遠ざかった。結城司という人間に対してもう何の感情も抱かないという祖母への誓いは脆くも崩れ去ったのだ。この上なく大きな意味を結城司という人間に、結城司という人間の存在に、見出している。そんな自分に舞は慄いた。それは恋愛とは全く関わりのない感情であった。より深刻で、より原始的で、より観念的な……たとえば、思わぬ傷口を自分のなかに見つけ出したときのような。たとえば、なくしてしまった半身を見つけ出したときのような。


 最初に目を逸らしたのは舞の方だった。これは司にとって意外だったのか、顔をそむけたあともなお一二秒は、司の瞳が舞の右頬のあたりを漂っているのを舞は感じていた。肩に打ち出でんとする震えを懸命に押し留め、下駄の歯で土の上の小石を踏みしめながら、舞は逃げ出さないように頑張った。


「あれ?京野じゃん!」


 よりによって最悪のタイミングでお声がかかった。男子の声だ。そしてよりによって司のいる方向からだ。舞はよほど無視してやろうかと思ったが、残念ながら聞こえなかったふりをするには声が大きすぎた。きっと美香もすでに気づいてしまっている。舞は仕方なく声のした方に目を遣った。


「東野君……」

「って、あれ?……なーんだ、佐久間かよ!」


 オレンジ色のヨーヨーを手にしゃがんでいた美香が立ち上がると、恭弥はしばしその顔をじっと見つめてから笑って言った。美香はヨーヨー釣りに熱中していたせいなのか、頬のあたりが薄桃色に染まっていた。


「な、なんだ、東野も来てたの?それに結城も」

「まったく誰かと思ったぜ。なっ、結城?」


 返事をしない司に代わって、美香が会話を続けた。


「あんたたちは二人?」

「ああ、まあな」


 仲良しなんだ、この二人、と舞はぼんやりと思う。まるで前の司と恭弥のようだ。性格が大きく変わっても、司と恭弥が仲良くなるというのはなんだかふしぎだ。舞と司はこんなにも上手くいかないというのに。でもきっとこれでいいのだ。司が幸せなのならば。現世の幸福で前世の不幸を希釈できるのならば――舞は物思いながら美香と恭弥にできるかぎり気取られぬように司から目をそむけていた。


「ほら、結城のやつ、桜花神社の祭りは初めてじゃねぇかと思ってよ。そんで連れてこようかと思って」


 初めてじゃないよと胸のなかでそっとつぶやいて、舞は思わず胸元を押さえる。私が何を知っているというの?でも、ああ、なんだか懐かしい気持ち……私、司と一緒にお祭りに来たことがあったっけ。そうだ、ラムネの一瓶を二人で分け合って飲んだんだった。ガラスのラムネ瓶は重たくて両手でないとうまく持てなくて。炭酸がぱちぱちと口のなかではじけて、びっくりしている舞を笑う司の声がその音にまざって聞こえてきて。空になった瓶のなかのビー玉が、この世でなによりきれいなものに思われて、欲しくて欲しくて仕方なくて……


(こんなこと思い出してどうするの?苦しいだけなら早く忘れちゃったほうがいい。だって、忘れてしまっていたら、なかったことと一緒なんだから。そう、もし、忘れてしまえるんだったら……)



「……それでは桜花市長の赤星誠治あかぼしせいじ様より、ご挨拶をいただきたいと思います!」



 マイクが伝えてくるくぐもった声が、舞を思い出から引き戻した。掌の下でどくんと大きく胸が鳴ったあとで、青ざめた目線が行き合った。司の足が一歩退こうとするのが舞にはわかった。太鼓の音があの夕立ちの日の、雷のうなりによく似ている。また逃げようとしているのだ、司は――舞の胸に悲しみがあふれ出した。その刹那に思ったのは、自分の不憫な恋心ではなく、忘れるべき前世の記憶に怯えて、友人の隣から逃げ出さなければならない司のことであった。


「美香!」


 司より先に舞は声を上げた。ハウリングしているマイクに負けないように。


「わ、私、その……ラムネ!ラムネ、買ってくるね!」

「えっ?」

「その辺で待ってて!買い終わったらメールするから」


 舞はすばやく人混みのなかに身を隠した。どこに向かっているかはわからなかった。ただとにかく司から離れようと思っただけで、拝殿の方に向かっているなんて自分でも知らなかったのだ。



 父親に構ってもらえなくなると、早くも人混みにんだ玲子は柏木に命じて拝殿の方へと車椅子を運ばせた。しばらく一人でいたいからお父さまの元に戻っていなさいというそっけない命令に、柏木は恭しく従いかけて、つい今しがた若い女主人の身を抱きかかえてきた石段の半ばで立ち止まり、鳥居を振り仰いだ。主人は早くも柏木に背を向けていたが、片頬だけで見下ろすその目線で早く立ち去るようにと告げていた。


 柏木が再び石段を下りだしたのを確かめてから、玲子は慣れた所作で車椅子をすべらせる。地面の傾斜やおうとつをタイヤの裏に感じ、その揺動を全身に受けるとき、玲子はまるで直にその手その足でそこに触れているかのように思う。参道に敷かれた石畳はなめらかで冷たく、人の群れのなかで火照った皮膚に心地よかった。そうして玲子は、雑音とおびただしい提灯の灯りからやすやすと遠ざかることができたのだ。


 愛すべき静謐と、弱々しい夏の星が投げかける薄明かりのなかで、玲子は夜にそびえるご神木の桜を見た。高い葉叢はむらは昼の陽光の下にみればさぞかし眩く見ゆるのであろう。日の落ちた今は、より集って眠る蝶の群れのように黒々として安らかに憩い、夜風がそのはねをそよがすに任せている。注連縄しめなわに下がるぬさの雪のような白いひらめきに、玲子は長いこと心奪われていた。


 やがて玲子は再び車椅子をすべらせると、拝殿の方へと参り出た。闇のなかで、拝殿の屋根は夜の海のように重たく凪ぎ、今まさに波の上に漕ぎ出ださんとするみよしのごとくそそり立つ千木ちぎは暗く硬質な影に過ぎなかった。祭りの夜とは言っても夜間のことであるからすでに拝殿の扉は閉ざされていたが、賽銭箱の前にあって、玲子が手も合わせずにいたのは殊更そのためでもない。祈るべき神はもうこの世にいないのだ。神々はこの世界を離れ、暁に消え残る星となり、今はその光さえも届かぬほど遠くへと去っていった……この世自ずから成らず。日なければ明けず、月なければ暮れず。暁に消え残る星々は先の世をにし神々の名残なり――『暁星記』が記すのは、神代かみよの出来事と思われて、()()()変わらぬ世界の終焉と誕生なのである。


 玲子は長いことその場にたたずんでいた。たたずんでいるというそれだけのことが、もっとも哀切な祈りの姿に見えることも知らず。



「……一体僕に何を求めてるんだ?」



 少年の瞳の色が闇の色によみがえる。



「僕に思い出せるはずがないじゃないか……忌々しい六条紫蘭の記憶を思い出させておいて、そのうえ以前の結城司の記憶まで思い出せというのか?」



 少年の怒りは懇願に似ていた。玲子はその理由がわかる気がした。彼はきっと恐れているのだ、幸福だった自分の記憶を取り戻してしまうこと。幸福な自分と、今の自分を比較してしまうこと。


「思い出せるはずがない。思い出せるはずなんて……だって、他人じゃないか……!」



 生ぬるい風が吹きつけてきたその時、玲子はふっと何者かに見つめられているかのような気がしてならなくなった。物思うことを妨げられて、玲子はまだ夢の途中のような瞳のままで、ほとんど無意識のままに振り返った。そうして、桜の向こうに立ち尽くす浴衣姿の少女を見つけた。


 紅の瞳が見開かれた。


 京野舞の姿は儚く思われるほど小さく、遠く、玲子の目に映った。けれども、あまりに長い時を共に過ごした玲子には、その翡翠の瞳がじっとこちらに注がれていることが見えずともわかる。しかし、なぜ舞は玲子が玲子であることに気がついたのだろう。転生してから玲子の方ではずっと舞のことを追いつづけていたが、舞の方で玲子を認識したことはなかったはずだが。


 そして、玲子はふと気づく。自分の容姿が前世からさほど変わっていないことに。疎ましいほど……となると、舞が玲子の正体を遠目で悟ったのはまさしく前世の記憶を思い出したという証拠だった。玲子の胸におごそかな震えが走った。


 舞が玲子から目を逸らす。そんなささいな拒絶では、するべきこと成したという玲子の確信は揺るがなかった。ひとりの少年の人生をかきみだしていることへの後悔も、懺悔も芽生えなかった。ただ、今すぐ京姫の前に馳せ参じたいという古く強い願いが、器の縁が欠けるようにこぼたれた。


 玉砂利を踏み損ねたらしく、舞がその場でよろめいた。玲子ははっとして立ち上がりかけたが、その刹那は駆け寄ることのできる自分を少しも疑っていなかったのである。四月十二日に苧環おだまき神社の石段を駆け降りたのと同じように、また舞の元に駆け寄ることができると思っていた。ごく当然の摂理によって車椅子の上に引き戻されたとき、玲子はことを妨げられたような憮然とした心持ちになった。やがてそんな心持ちになること自体が、立ち上がる力を失って以来初めてだと気づいたときに、それはかぎりない悲哀へと変わりゆくのであろう。


(どうして……!)


 翡翠の瞳が揺らぎはじめる。泣きだしそうな、苦しげな表情をいっぱいに詰め込んで。鏡のごとくその揺らぎを捉えてみはった瞳の縁から、あふれ出しそうになるものを玲子もまた感じている。今ここで、奇跡的な邂逅かいこうを果たしてさえ、言葉ひとつ交わせないのだから。けれども、揺らぎは鎮められなくてはならない。自分には苦しむ資格さえない。いまだ悔いひとつ覚えていないその罪のために。この足から立ち上がる力をぎ取ったその罪のために。


 舞はようやく玲子に背を向けた。そして、参道に戻る手間も惜しんで、玉砂利を踏みながら、立ち並ぶ提灯と屋台の灯りをめがけて駆けだした。玲子はただ目を細め、その後ろ姿が光満ちる方へと遠ざかるのをじっと見守っていた。




(どうして……!)


 駆け降りる足がもつれかけて、舞は石段の半ばで立ち止まる。そう長い距離を駆けてきたわけでもないのに息は乱れ、心臓が激しく動悸を打っていた。舞は掌で胸元を押さえながらやや屈みこんで息を整える。不意にみじめになったのは、せっかく夏祭りに来たというのに少しも楽しいとも思えていないこの瞬間の自分に気がついたからだ。予期せぬことばかりが次々と起こる。それも悪いことばかり――何がいけないというの?私が何をしたっていうの?私はただ美香と一緒にお祭りを楽しみたかっただけじゃない。そんなことも許されないというの?それは、それはもしかして、京姫の、前世の私の罪のせいなの……?


 涙で歪んだ視界で見下ろすと、祭りの灯が遠い海に溜まった漁火いさりびのように思われた。あの楽しげなざわめきはきっと異界のものなのだろう。だって、あまりにも遠すぎる。あの光の海には降りていけない。降りていってはいけない。降りていけるはずがない。


 ……ふと、ざわめきが止んだ気がした。静寂のなかに残る太鼓の音――石垣を突き崩し桜陵殿おうりょうでんの庭に押しかけてきた人々。その瞳は皆一様に疲れきって、厳しかった。京姫に死を言い渡した女御さまの慈愛深き微笑み。風に吹かれていた誰かの亡骸の衣服。喉の渇き。低く鳴り響くの音――


 嫌な汗が眉のそばを伝い落ちる感触に、舞は目を開けた。その目が、白く清い石段の上になにか異質なものを見出した。()()は黒くわだかまっていた。闇に慣れてきた目は、巨大な黒い鳥のようなものの輪郭をそこに描いた。舞より数段離れたところに、その鳥のようなものは居座っていた。全身に生えているのは羽毛というよりは獣の被毛に近かった。重ねているせいで一本のように見えるその足は炭のように黒い。すぼまった首の上には、頭と思しき黒くて丸い物体が据えられてはいたが、目もなければ嘴さえも見られなかった。ただ一面黒いばかりなのである。


 舞が慎重に一歩後ずさったとき、下駄の歯が石段を踏むかすかな音を聞きつけて、それは突如として目を開いた。黒くて丸い頭にたったひとつの黄色い眼がめいっぱい開いた。と、その黄色い眼がくるりと背中側へ消えたかと思われると、今度は一つ目の真後ろにひっついていた鶴のそれのようなくちばしが舞の方を向いて、くわっと開いた。世にもおぞましい鳴き声が響き渡った。


「ひっ……!」


 舞は石段を再び駆けのぼった。一つ目の鳥は途端に飛び立った。広げた翼の内側に血に濡れたような暗紅色あんこうしょくがぬらつき、房になった尾が夜空に垂れさがった。舞は袂に入れた鈴を握りしめた。


(お願い、鳴って!今すぐに変身しないと……!)


 鈴の返事はない。鳥は背中に向けた嘴でやかましくわめきながら、感情のない黄色い眼で舞を睨み、急降下してくる。


(お願い……!)


 石段を踏み損ねる。舞は目を大きく見開いた。バランスを崩した体が仰向けに宙に放り出されていく。袂からこぼれた鈴が目の前に浮かんでいる。落下する……!無防備な舞の顔に尖った鉤爪が迫った。


(嫌っ……!!)


 舞は最後の一瞬に賭けて手を伸ばした。指先が鈴に触れたその瞬間に。


 ……しかし、鈴は輝き出さなかった。舞を助けたのは一発の銃声と、その背を受け止めた何者かの腕であった。まだ中空を見上げている舞の視界で、怪鳥は悲鳴を上げて地に墜ちた。同じ視界に見知らぬ男の顔が映り込んだ。


「お怪我はございませんか、姫さま?」

「……あっ」


 見知らぬ男と思ったのは誤りであった。落下する舞を片腕で抱き止めた男の声にも、その精悍な顔つきにも、明らかに覚えがあった。ただ、どうも記憶よりいささか年嵩なような気もしなくはないが……舞は震える声でそっと尋ねた。


「右大臣……?」


 男はかすかに笑いを浮かべた。京姫がついに馴染めなかった、あの皮肉めいた笑い方であった。


「そう呼ばれていた時期もありました。今はただ柏木武という名が残るのみです」


 柏木の視線にならって石段の上に目を遣った舞は、車椅子の上で銀色の銃を構えている玲子の姿を認めた。


「……柏木、皆を避難させて」


 京野舞が聞く、赤星玲子の最初の言葉であった。


「お嬢様おひとりで戦われるのですか?」


 柏木が眉をひそめて物申す。舞はその時はじめて柏木のスーツの肩越しに、参道の真上で宙を舞う例の怪鳥の一軍を見つけて青ざめた。いつかテレビ番組で見た、死肉を狙う禿鷹はげたかの群れそっくりだ。時々黒い体に灯台がともるごとく黄色い小さな光がひらめいて見えるのは、単眼で下界を睥睨へいげいしているためであろう。のものどもは獲物に襲いかかろうと、祭りの客どもを吟味しているにちがいなかった。


「あの程度なら今の私でも片付けられるわ。ここからでも撃ち殺せるから。今はあなたしか皆を避難させられる者はいない……さあ、祭りの余興で済ませられるうちに早く」

「姫さまは?」

「お連れ申し上げなさい」

「かしこまりました」


 柏木が舞を抱きかかえて駆け出そうとすると、舞は慌てて「待って!」と叫んだ。


「私にも何かできるかもしれない!私、確かに今は変身できないけど、でも!このままひとりで逃げたら、本当に京姫じゃなくなっちゃう……!私、ここに残る!」


 玲子がこちらを見つめたとき、先ほど桜のご神木を挟んで向かい合ったときの表情が拭い去られているのに、舞も気づかざるを得なかった。そこにはもはや慈愛も憐憫もなかった。敬意さえもが冷たく硬かった。


「……舞」


 この名を容赦なく呼びつけにする声に、思わずどきりとした。


「邪魔よ、去りなさい」

「……っ!」


 何か言いかける間もなく、舞は柏木によって軽々と抱きかかえられ、石段の下へと運ばれていった。遠ざかる玲子を呆然と眺めやる舞の景色に重なったのは、内裏における朱雀との別れの場面である。京姫を桜陵殿へ向かわせるべく、朱雀はひとりその場にとどまって漆を留めんとした。姫の乗る馬を走らせるために鳴らされた銃声の厳しさを、舞は思い出したのである。舞の口からあの時と同じ叫びがこぼれ出そうになった。


「すざ……っ!」 


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