第三十五話 贖罪(下)
くっきりと頬に落とされた桐の葉の青い影に目が眩み、青木翼は立ち止まる。うだるように暑いこの日盛りに何を好んで出かけていくのだろうと思わなくもないが、仕方がない。奈々が弟を保育園に迎えに行く夕方までには、朱雀の誕生日プレゼント選びを終わらせなければいけないのだから。舞も誘ったのだが嫌にそっけなく断られてしまった。怒った翼がその話をルカにすると、ルカは困ったように笑ってから「しばらくの間、舞は抜きで話を進めてくれ」と返してきた。どうやらこの件に関連することで何かがあったらしい。
門を出たところで、翼は再び立ち止まった。ちょうど隣の家からも、ひとりの少年が自転車を押して出てきたところであったのだ。自宅の敷地から道路へ出るときの、段差を踏み越える揺動によって、彼の自転車のベルが小さく鳴った。それが翼には自分の心のベルのように聞こえたのだ。少年が顔を上げてこちらを見たのも、そのベルの音を聞きつけてのことのように思われた。
意味のわからない英文がプリントされたTシャツに半ズボンという洒落っ気のない服装と、こんがりと日焼けした肌、こちらを見て丸くなったレモン色の瞳――素直すぎるほど素直に驚きを表している――この見慣れた少年にどう挨拶をするべきか翼は一瞬迷う。
「おおっ」
最初に声を上げたのは少年だった。
「なっ、なに?」
「いや、久しぶりだなって思って」
「そ、そんなこともないと思うけど……」
でも、そういえば終業式以来顔を合わせていない。だから、こんなにどきどきしているのだ。以前のようにうまく目を合わせられないのも、単に久しぶりだからだ。
翼の隣人にして幼馴染である東野恭弥は猫のようににかっと笑った。いたずらっぽい八重歯が、その口元にのぞいた。ほらね、と翼は自分に言い聞かせる。やっぱり似ていない。
「いや、母ちゃんから聞いたんだけどよ、高熱で死にかけてるって聞いたから」
「死にか……?た、ただの風邪よ!ちょっと熱出しただけ」
母ちゃんですって、聞いた?ねぇ、どきどきしているそこのあたし。
「そのわりにお前の家族は大騒ぎだったぜ。お前の母ちゃんのわめき声なんてうちまで聞こえ……まっ、いいけどよ」
無神経そうなようでその実思いやりのあるこの少年は、さすがにそれ以上は遠慮したと見えて気まずそうにこほんと咳をひとつした。そして、相変わらず目を逸らしている翼の、白地にブルーのチェック柄のワンピースを着た姿を上から下まで、ごくすばやく点検したようだった。翼は赤らむ顔を汗の下に隠す。気づかないふりをしよう。心配なんてしてくれているわけがないんだから。
「……で、これからどこ行くの?」
短い沈黙にも耐えかねて、聞かなくてもよいことを翼は訊いた。恭弥の顔がぱっと明るくなった。
「部活!」
「午後から?こんなに暑いのに」
「今日はミーティングの日だからよ」
「じゃあなんでサッカーボールが籠のなかにあるのよ……」
「そりゃサッカーするからに決まってるだろ」
このサッカー馬鹿はミーティングの意味がわかってるのだろうか、と翼は呆れて肩をすくめた。相変わらずサッカーのことしか頭にないのだ。
(でも、それで生きていけるのですね、今のあなたは。それならいいのです。あなたが幸せならば……もう皇位なんて……)
翼ははっと目を見開いた。胸に響く、よく見知った少女の声――
それはあたしではない……
「と、ところで!」
急に大きな声を出した翼に、恭弥は目をぱちくりさせた。翼自身でもしまったと思ったがもう遅い。少女の声を遮りたかっただけなのだ。一体どんな話をここからしていけばよいのだろう。話題は少しも思い浮かばない。
「ところで、なんだよ?」
「えっ、えーと……」
がんばれ、翼!なにか考えて!忘れたとでも言ってごまかそうものなら、「ボケたんじゃねぇの?」という色気のない悪口が返ってくるに決まっているのだから。
ふと、なんでもない奈々との会話を思い出す。「朱雀の誕生日って八月二十日でしょ?ってことは、桜花神社の夏祭りの日だね!」――そうだ、この話題ならきっと大丈夫。
「ほ、ほら、もうすぐ桜花神社の夏祭りだなって!」
ああ、とつぶやきながらも恭弥はなおふしぎそうな顔をしている。
「それがなんだよ?」
「なんだよってことはないでしょ。あんたは行かないの?」
「さあな。クラスか部活の誰かと行くかもしれねぇけど」
「そ、そうなんだ……!」
なんだろう、これ。なんだかあたしが恭弥を誘いたかったみたいになっている。恭弥は一ミリも気づいてないからいいけれど。
そういえば小さいころは恭弥と一緒に桜花神社のお祭りに行ったのだったと、翼は思い出す。今でもお祭りと聞くだけで胸はときめくけれども、もっと幼かったころの翼にとってのお祭りはまさしく夢の世界であり、祭りから家に帰ってからもなんだかぼーっとして、翌朝目が覚めたときには、昨夜の出来事が夢の出来事であったのか現実の出来事であったのかもわからなくなっているほどだった。しぼんだヨーヨーと小さな金魚の一二匹だけが夢の名残であるのだ。提灯の灯りと夜店のライトが煌々と照らすなか、色とりどりの浴衣と、それだけはどれも一様に赤い鼻緒の色と、リンゴ飴の光沢と、ラムネ瓶を冷やす氷水のきらめきと、水桶の内壁に反射している波の紋様とが目まぐるしく、ひとつひとつの実体がもはや捉えられなくなる。音もまた膨らみ氾濫し、人のざわめきも太鼓の音も判別する意味がなくなってしまう――それらはただ等しく祭りの色であり、音である。そのなかでつないだ小さな手の熱だけが実感を持っていて……
「つばさちゃん、ぜ、ぜったいに手、はなさないでよ!」
幼い声を思い出して、翼は思わずくすりと笑った。恭弥がけげんな顔をした。
「何笑ってんだよ」
「小さいころ一緒にお祭りいったでしょ?あの時の恭弥、まだ泣き虫で、ずーっとあたしにしがみついてたなぁって思い出して」
だからさ、懐かしいから、一緒にまたお祭り行かない?胸のなかで尋ねる声は、今度こそ間違いなく翼自身のものだったのだが。ぱっと顔を赤くした恭弥の思わぬ返事にかき消される。
「ガ、ガキのころのことはいいだろ!だいたいお前だってよく泣いてただろうが」
「いつの話よっ?!」
こうなるともう止められないのである。
「祭りのとき、綿あめ落として泣いてた」
「いちいち覚えてないわよ、そんなこと!」
「あと遊園地のお化け屋敷入ったとき」
「その時はあんたも泣いてたでしょっ!」
「剣道で負けるとすーぐ泣いてた」
「く、悔し泣きは泣いたうちに入らないのっ!」
二人はバチバチと火花を散らしてにらみ合う。こんなとき、二人の思い出がたくさんあるのだと笑いあえる余裕があれば心ももっと寄り添いあえるのだけれど。
翼はフンと言いながら、ツインテールにした藍色の髪を大きく揺らして、ぷいとそっぽを向いた。
「じゃっ、あたしもう行くから。あんたと話してるほど暇じゃないし」
「あー、そうかよ。俺だってお前と話してるほど暇じゃねぇよ!」
自転車に乗って一足先に駆け出した恭弥の背中がだんだん小さくなるまで、翼は両手を腰に怒りとほんの少しのさびしさのこもった目でじっと見つめていた。
「あら、もう桜花神社のお祭りの時期なのね」
桜花神社の前を通りかかったときのことであった。祭囃子の音を聞きつけた母がそう言ったので、京野一家は揃って石段の上の鳥居を見上げた。お盆がはじまったばかりの土曜日のことである。
桜花神社は、桜花市を区切る国道が十字に交差する場所――より正確に言えば十字路によって区切られた四つのブロックのうちの右上、すなわち北東側のブロックにあって、境内は長い石段をのぼったその上に広がっている。古代の史跡に乏しいこの町のなかではめずらしく延喜式神名帳にすでにその名がみえるという古い神社であり、祭神は桜の神・木花之佐久夜毘売である。
「来週の金曜だってさ」
ゆかりが掲示板に貼られたポスターを見つけて言った。
「そうなんだ。舞、お友達と一緒に来たらいいじゃない。結城君とか」
「男は駄目だ!まして二人きりなんて絶対駄目だ!」
「お父さん、静かにしててくださいな」
夫を叱りつけてからこちらにいたずらっぽい目を向ける母に、舞は微笑みのようなものを投げかけた。
「男子となんか行かないったら。もう子どもじゃないんだし。それに夏休みの宿題も終わってないし……」
「まだ中学生じゃない、別に変じゃないわよ。結城君喜ぶと思うけどな。夏休みの宿題だってあと一週間ぐらいあったら終わるでしょ」
「で……できないの!」
麦わら帽子の庇の下に舞は顔を隠したが、最後の言葉だけはどうも本当らしいのが、自分自身の胸に痛かった。
今日は一家そろって、桜花家――母親の旧姓――のお墓参りの日であった。桜花家の墓は桜花市の北側にそびえる通称北山の麓にあって、舞も毎年一度もしくは二度、必ずお参りに行っていた。葬られている親族の大半は舞の知らない人ではあったけれども、大好きな祖母もまたそこに眠っているので舞はいつも懐かしさを感じるのであった。
桜花神社でのやりとりから約三十分後、市役所前からバスに乗ったり山道を少し歩いたりして、京野一家は桜花家の墓前に到着した。まずは墓の手入れからである。小さいころ、ゆかりと舞が幼すぎて何の役にも立たなかったころは、両親がせっせと立ち働いている間、舞とゆかりは墓石の間を駆けまわって遊んでいたものだった。舞は額の汗を拭う手の影から、姉妹でのぼった桜の木を見遣った。私はまだのぼれるだろうか。こんなひらひらしたスカートを履いてきていなければ試すことができるのだけど――舞は前世を思い出すように、自分の幼き頃を思い出している自分にふと気づく。どちらももう取り戻せぬ時間……
持ってきたお供えものを供えたあとで、父親が御経を詠み、一同は静かに手を合わせた。
(おばあちゃん、こんにちは!また来たよ)
と、舞は話しかけた。
(おばあちゃんは元気だった?私もみんなもすっごく元気!あ、あのね!このあいだ来てからいろんなことがあったよ。まずね、猫を飼うことになったんだ。名前はお母さんがつけて、はなちゃんになったの。はなちゃんは今日はおるすばんだけど。猫は暑いのダメだから)
母が隣で鼻をすする音がした。いつもそうだ。ここは桜花家の墓ではあるけれども、流産で亡くなってしまった舞の妹か弟もここに葬られているので、母親はここに来るたびに思い出しては涙ぐんでいるのだ。
(それから、それからね、信じてもらえるかな?私、前世のこと思い出したの。前世では私、京姫っていう巫女で、玉藻国っていう国を治めてたんだって。信じられる?でも、私が悪いことをしたせいで京は滅んじゃって、私も処刑されて死んじゃったの。それでね、現世では前世の京姫の姿に変身して、敵と戦ってるの……今は戦えなくなっちゃったんだけど)
心のなかでさえ、どんな風に話してよいものか舞にはわからない。
(戦うのは怖いの、すごく。戦ってるときは夢中でわからないけど。でもね、私、みんなのことを守れるなら戦わなきゃって思ってた。前世の記憶を取り戻してからは、前世の罪滅ぼしのためにも戦わなきゃって。それなのに変身できなくなるなんて、いやだな、ほんとに。どうしてなんだろう……私が弱いからなのかな)
父の読経はいよいよ調子が出てきたようである。
(それからね、おばあちゃん、悲しいことがあったの。司が変わっちゃったの。おばあちゃんも司のこと知ってるよね?明るくて優しくて、おばあちゃんもお気に入りだったじゃない……でもね、今は別人になっちゃった。今の司はね、ううん、結城君はね、いつもひとりぼっちで、冷たいの。本当は優しいんだけど、それをみんなには隠してるの。私、私ね、結城君とも少しずつ仲良くなって、そして、少しずつ好きになっていって……)
雲の切れ目から顔をのぞかせる日差しが、舞の瞼の裏を白く染めた。
(……でもね、もう結城君のことは諦めるの。結城司という人間に、もう何の感情も抱かないって私、決めたの。だって、私、この世界でなによりも結城君を守りたいもの)
ちょうどその時、父の読経が終わった。
遅めの昼食をすませてから家に戻った舞は、ひとりぼっちにされたはなちゃんの荒っぽい歓迎を受けた後で階段を駆けのぼって自室へと向かった。祖母に報告したのだからもう覚悟は決まった。祖母は愛情深くも厳しい人だった。一度決めたことを翻したり、中途半端に放っておいたりすることを決して許さない人だった。
机の上に置かれた小さな白い箱の蓋を、舞は震える手で持ち上げた。箱のうちに収められているのはハートの形をしたガラス製のオルゴールである。司が誕生日プレゼントとして舞に贈ってくれたものだ。選んだのは柄さの母親であったと司は言っていたし、事実そうなのだろうと舞も思う。それでも、そのオルゴールが、結城司からもらったたった一つの贈り物であることには変わらない。たとえ真に幸福な気持ちでそのオルゴールを見つめた時間がほんの一瞬であったとしても。その音色をまだまともに聴いたことがなかったとしても。
「ありがとう、結城君……」
物を粗末にしてはならないと祖母に教えられてきたから、捨てるのは気が引ける。たったひとつの恋の形見として取っておくということも考えなくはなかった。でも、手元に置いてあるかぎり意識してしまいそうな、縋ってしまいそうな、自分が怖い。
箱の蓋を閉じて、舞はオルゴールを階下へと運んだ。不燃ゴミは階段下の物置にまとめて置いておくのが京野家の決まりであったから。きっと母親が捨てておいてくれるだろう。
部屋に戻ると、いつの間にやら侵入してきたはなちゃんが、ベッドの上で着信音を鳴り響かせる携帯電話に前足を伸ばしてちょっかいを出そうとしているところだった。壊されたらたまらないので、舞は慌てて携帯電話を救い出した。はなちゃんの抗議を交わしつつ電話を開いてみると、画面には美香の二字が浮かび上がっている――小学生以来の親友である佐久間美香だ。
「も、もしもし、美香?」
「あーら、舞ちゃん、ひっっっっっさしぶりじゃない……!」
親友の声になぜこれほどまでの怨念がこもっているのか理解しかねて、舞は戸惑った。
「えっ?あっ、うん、久しぶりだね!えっと……元気?」
「もっっっちろん元気ですとも。でも、舞ちゃんは色々とお忙しいようで」
「えっ、うーんと別に……」
口ごもる舞に、ついに美香はとどめの一撃を放った。
「いえいえ、忙しいはずですとも!なんてったって二十五日の試合、観にこられないぐらいだもの。そうでしょう?……ま、い、ちゃ、ん?」
「えっ?あっ……あーっ!!」
ベッドに腰かけた舞の膝の上で、はなちゃんがびくりと身を震わせた。お隣の部屋からは、壁を蹴るドンという音と「うるさい!!」という怒鳴り声を頂戴した。しかし、舞の耳には入らない。
「あーらまあ、お忘れだったようで?」
美香の声には青筋が浮かび出ている。自分のサッカーの試合を見に来てくれるはずだった親友が姿を現さず、しかもその後も連絡ひとつ寄越さないとあれば怒って当然だ。舞は青ざめながら謝罪する。
「ご、ごめん!ほんとうにごめん!!忘れてたわけじゃなくて、いや、忘れてたんだけど……」
「へぇー、忘れてたんだ?」
「ちがうの!今までは確かに忘れてたんだけど、あの、だからそうじゃなくて!」
美香が深いため息をつくのが聞こえた。
「言い訳はもういいわよ……というか知ってるから。熱出してたんでしょ、あんた?あんたのママに電話して聞いたわ」
「へっ……?」
「そりゃああたしだって心配して電話ぐらいするわよ。あんた約束すっぽかしたことないもんね。試合が終わったあとであんたの携帯にかけたら、あんたのママが出て教えてくれたの。あんた、一時期、死にかけてたんでしょ?」
「いや、死にかけてはないけど……」
なんだ、とりあえず状況は伝わってみたいだと舞はひとまずほっとした。ほっとしたついでにはなちゃんの背中を撫でてみようとしたら軽い猫パンチを食らった。
「ほんとにごめんね、美香……!」
「いいわよ、別に。元気になってから連絡よこさなかったのは腹立つけど」
「モ、モウシワケゴザイマセン……」
「あーあ!美香さまのハットトリックを拝めなくてかわいそうな舞ちゃん!……で、この埋め合わせはどうしてくれるわけ?」
埋め合わせ、かぁ。舞は壁にかかったカレンダーを見遣る。宿題と、日本舞踊のお稽古をのぞけば夏休み中はさしたる用事はない。あとはルカから招集がかかれば集まらなければいけないけれど、美香と遊ぶ時間ぐらいはあるだろう……そういえば四神以外の友達と遊ぶのは久しぶりな気がする。なんだかわくわくしてきた。
ふと舞は今朝の出来事を思い出した。
「あっ、あのさ!二十日は?」
「二十日?いいけど、なんで?」
「桜花神社の夏祭りがあるんだよ。ねっ、一緒に行こうよ!」
電話の向こうで、美香はぱんっと手を打つ音が聞こえてきた。
「ああ、いいわね!よっし、じゃあそれで決まりっと!」
「じゃあ、浴衣持ってうちに来てね。うちで着付けして一緒に行こうよ!」
「オッケー!」
思わぬ楽しみができて舞はご機嫌で電話を切った。えっ、夏休みの宿題?まあ、終わるって!なんとか!……多分!!
「わたくしのことはご心配なく。一人でも生きていけますから」
冷たく言い放った一言を受けて、少女は胸の前で硬く手を結び合わせた。冷酷な言葉の矢から、やわらかくもろいその胸を守ろうとするかのように。しかし、結び合わされた手は、重ねられるそばから震え出していた。
「私は必要ないの……?」
少女の瞳が揺らぎだす。翡翠色の美しい瞳だ。つい先ほどまではその瞳を間近に見つめていた。その色も見定められなくなるほど、近くに。「えぇ、必要ありません」と、そう返事をした。その言葉に偽りはなかったから後ろめたさなど覚えなかった。却ってすがすがしく思ったほどだ。この傷つきやすい、甘ったるい、無垢なる生き物を遠ざけようとしている自分自身が。ひたむきに向けられる慈愛を拒み、たやすく引きちぎることのできることができる己のしたたかさを誇りに思った――これで、僕は独りでも生きていける。この先も。
少女が純白の虎の背に乗って去っていったあと、彼は夜露に濡れた草の上に腰を下ろした。彼の真上にはわずらわしいほどの星々がちりばめられていた。古い書物の伝えではそれらはこの世を去った神々の名残であるという。名残、すなわち骸。彼に言わせれば信仰の残滓。そんなものを見上げたところで何にもならない。夜空とは広大な陵ではないか。彼はうつむき続ける。
一体これからどこへ向かえばいい?かの少女には帰るべき場所があった。だが、自分にはもう帰る場所はない。この国中をめぐったところで、居場所は見つからない。誰もいないこんな叢の上しか、眠る場所はないのである。
愛馬が不安げに顔を寄せる。慰めようとしてその頬を撫ぜる手が冷えきっていることに気づくとき、彼はかつてそこに触れた少女の温もりを思い出さずにはいられない。否、温もりと呼ぶより、それは熱と呼ぶほうがふさわしかっただろう。初めての恋ゆえに少女の身は燠のごとく燃え上がっていた。かつてあれほどまでに間近に寄せられた身があっただろうか?その身はまさに今このとき、すさまじい速さで遠ざかりつつあるのだ。そして、もう二度と二人が出会うことはなく…………
目が覚めると、すでに西日は隣家の屋根の向こうにかかり、部屋のなかは取り残されたように暗かった。痺れた指先はまだ読みさしの洋書の間に挟んであった。読書をしたままいつの間にか寝入ってしまったらしい。
洋書に栞を差し入れてから、ベッドの上で身を起こす。ベランダへと続く硝子窓に、寝起きの十四歳の少年の顔が映っている。その表情は自分自身でもよく読み取れない。なんだか不機嫌なように見える気がするのだが。と、その頬に何か光るものを見つけた気がして司は思わずはっとしたが、よくよく見てみればそれはガラスの表面の汚れであった。
一体いま何時なのだろうと、司はデジタル時計を眺めた。十八時十一分。最後に時間を意識した時、時計はまだ十五時ごろを指していたから三時間近く眠っていたことになる。母は仕事でまだ帰っていないはずだ。先に夕飯の支度でもしておこうか。それからなにげなく再び時計を見遣って、司はあることを思い出す。
そうだ、今日は……
インターホンの音が鳴り響いた。母ではない。母親は鍵を持って出かけているはずだから。母が留守中の来客は宅配を含めて全て対応しなくてよいことになっているから、司は心置きなく居留守を決め込んだ。じっと待っている間にも、インターホンは二度、三度としつこく鳴った。ようやく来客が諦めたかと思いかけたとき、聞き覚えのある声が戸外から聞こえてきた。
「おーい、結城!いねぇのか?」
「……一体何の用なんだ?」
玄関の扉を開きながら、司は今度こそ紛れもなく不機嫌に言った。来客こと東野恭弥は、司が出てきたことに対して「おっ!いるじゃん」と嬉しい驚きを表したが、その目はすぐに、司の背後に吸い寄せられていった。彼にとってブラックホールと等しい吸引力を持つものがそこにあったのである。
「おい!あれ、どうしたんだよ?あれ!」
いぶかしげに振り返った司はそこにサッカーボールを認めてげんなりした。そういえば誕生日プレゼントに母にもらったものを、玄関に置きっぱなしにしておいたのだった。母親は、司の邪慳な態度にもめげずにサッカー部に勧誘し続ける恭弥の友情に大いに感激し、息子にそれとなく入部を勧める意味でプレゼントを贈ったとのことだった。司はその気持ちだけは一通り汲んだけれども、いまさら部活動などというものに入るのは億劫だったので、最後まで頑として首を縦に振らなかった。そもそもサッカーは得意とはいえ、特別好きというわけでもない。しかし、これを恭弥に見られたのは、また面倒なことになった。
案の定、恭弥はきらきらと光る目をこちらに向けてくる。人によっては子犬のようにと形容するかもしれないが、司からすれば死肉をねらうハイエナのようにしか見えない目だ。
「もしかしてサッカー部に……」
「入らない」
司はすばやく言った。
「じゃあなんでサッカーボールがあるんだよ?!」
「サッカーボールが家にあったからといってサッカー部に入ることにはならない」
「じゃあ、今度そのボール使ってサッカーしようぜ」
「しない。あれは……その、あれは、単なる飾りだから……」
相当苦しい言い訳をしていることは我ながらわかっていた。
「そんなん、もったいねぇだろ!」
「使いたいなら貸してやる。だが僕はサッカーはしない……ところで何しに来たんだ?勧誘なら帰れ」
チッと舌打ちをしつつ、恭弥は渋々といった面持ちでサッカーボールから目を離し、それからやっと本題を切り出した。
「いや、今日は桜花神社の夏祭りだからよ」
それは知っている。先ほどデジタル時計の日付を見て思い出したところだ。別にだからといってどうというわけでもないのだが、母親がなぜだかやたらとその話題を振ってきたのを覚えていたのだ。
「だからなんだ?」
「だからよ、一緒に行かねぇかと思って」
けろりとした顔で答える恭弥の答えがあまりにも意外だったため、司はしばらく何も言うことができなかった。僕を誘う?正気がこいつは?他に一緒に行くやつならごまんといるだろう。何を好き好んで僕を……ついでにサッカー部にでも勧誘するつもりか?クラスメートという以外に特に深いつながりもないのだし、これまで学校の外で個人的な付き合いをしたことすらないというのに、どうして……?
当惑する司の目が、斜陽のいたずらのせいか、恭弥の顔の上によく似た違う顔を描き出す。彼はある日突然目の前からいなくなり、そして永遠に会えなくなった。無実の罪で捕まり、拷問の末に惨死したのだ。彼は玉藻国の東宮であり、六条紫蘭の悪友であった。
弱々しい夏風が、司の腕をわななかせた。
「行くだろ、夏祭り?」
「ああ……」
無意識のうちの答えはかすれていた。飛び上がって喜ぶ恭弥の声を背後に、出かける支度をするために自室へと向かいながら、司は胸のなかに同じ言葉を繰り返していた。会えたのだ。再び会えたのだ。自分たちは、こうして…………
同じころ、京野家では二人の少女たちがかわいらしい浴衣に着替えてはしゃいでいた。黒田家からは姉と双子の妹と末弟、姉の親友というにぎやかな五人連れが、桜花神社へ向けて出発したところだ。白崎家は一家そろって賓客の応対に忙しない。
「にぎやかですこと。祭りというのはよいものですわ……でもね、もっと楽しくしてさしあげますわ。このわたくしが」
薄色の髪の少女が笑う。ご神木の桜の巨木の影で。




