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京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第四章 現世編―芙蓉の巻再び―
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第三十四話 結城司の苦悩(上)

「京姫としての力を失った?」


 翼と奈々は信じられないという面持ちまでぴったりそのままに、見事なハーモニーを奏でた。舞は悄然としてうなずくほかなかった。八月三日の午後のこと。桜花図書館での勉強会(「舞、奈々さん、夏休みの宿題はちゃんとやってるんでしょうね?!」)の休憩時間に、公園通りのアイスクリーム屋へ寄って桜花公園のベンチに座っていた時の出来事だ。


「変身できないって、一体なんで?」

「わかんない……」


 ピスタチオとダークチョコレートアイスクリームの二段重ねが溶けかけているのも構わずに奈々が言うと、舞は力なく首を振った。


「前世の記憶を取り戻したことと何か関係あるんじゃない?」


 翼の方はさすがに器用だ。チョコミントとバニラアイスクリームを慎重にスプーンですくい取っているから、まだ手元を汚していない。「そうかもしれないけど……」とうなだれる舞の片手にはストロベリーとチョコチップアイス、もう片方の手には桜の鈴が握られている。


「大丈夫だよ、そのうちきっと戻るって!」

「もう、奈々さんは暢気のんきなんだからっ!とにかく原因を突き止めなくっちゃ。それ、ルカさんにも相談したの?」

「左大臣には言ったから、きっと今日ルカさんにも伝わってるはず……ほら、今日、ルカさんと左大臣は資料づくりしてるから」

「資料づくり?」

「奈々さん忘れたんですか?ほら、玉藻の国のことってもうなにも記録が残ってないから、今思い出せる部分で少しでも資料にしておこうって、ルカさんが。もしかしたら漆の正体のヒントが見つかるかもしれないし。今は『暁星記ぎょうせいき』を再現しているんだそうですよ」

「うわー、これまた懐かしい名前が出てきたなぁ……」


 『暁星記』――前世の舞たちは「あかつきぼしのふみ」とも「ぎょうせいき」とも呼んでいた。天つ乙女による創世、白菊帝による四神征伐と玉藻の国の統一、代々の帝の業績とその治世中に起こった出来事を記した歴史書である。京姫はこれを暗記しなければならないと言われていたが、舞はついに冒頭文以外諳んじることができずに終わった。よって、舞は今日の作業にあたっては全く役に立たないものとみなされ、目下放任されているのであった。もしかしたら、舞の神経を下手に刺激しないようにという左大臣の配慮があったのかもしれないが。


 舞はアイスクリームを一口なめた。三人が座っているところはちょうど木陰になっているから、きらめく真夏の日差しが梢に砕かれて、足元のタイルの上にちりばめられているその紋様ばかりが眩い。広場の中心に据えられた噴水はその硬質な白さを失いつつたぎり落ち、その果てに、あたかも水面自身が光そのものであるかのようにきらきら輝く金色の波が生まれ出る。噴水広場の周りに人は少ない。噴水の向こう、帽子をかぶって駆けまわっている小さな子たちの姿が影絵のように見えるばかりだ。陽光に照らされて、彼らが駆けまわっている芝生の緑も濃淡を失っている。子どもたちの高い声は、噴水が黙り込んでいるその間を伝って舞たちの元にも響いてきた。


「この世自ずから成らず」


 舞は思い出すままに呟いた。『暁星記』の冒頭文であった。


「日なければ明けず、月なければ暮れず。暁に消え残る星々は先の世をにし神々の名残なり……」

「きっと大丈夫だよ」


 翼が舞の肩をぽんと叩く。先ほど同じことを言った奈々に呆れてみせた、その翼が。


「ちゃんと『暁星記』覚えてるじゃない。だから、また京姫の力も戻るって。ねっ?」

「そうそ!くよくよしないでさ、気楽にいこう気楽に」

「夏休みの宿題もあるしね」

「えっ、翼ちゃん、それ関係ある?」

「ありますっ!戦えないでいるあいだ、舞は宿題やってればいいでしょ」

「じゃああたしは?」

「奈々さんは戦いながらやってください。っていうか、奈々さん受験生でしょ?!」

「あー、そこ言われると弱いなぁ」


 翼と奈々に挟まれている舞は、二人の応酬にだんだんと小さくなりながら鈴をポケットにしまいこみ、アイスクリームを両手で支えてもう一舐めした。二人の言う通りなのかもしれない。気楽に構えてみよう。今はじたばたしたってどうにもならないのだし。いつかきっと力も戻るはずだ。きっと……今はこの溶けかけたアイスクリームをさっさと食べきらなくては。




「舞が変身できなくなった、か」


 左大臣の報告を聞いても、ルカはさほど驚いた様子はなかった。ただ脚を組み、肘掛の上に頬杖をついた気だるげな姿勢を保ったまま、溜息をひとつついた。テディベアと会話しているところを誰にも絶対に見られないようにと(特に母親に)配慮して引きこもった、防音室のなかでのことであった。


「それで、あの日は元気がなかったのか」

「姫さまがあまりにもショックを受けなさっていたので、目の前ではついお話もしかねましてな」

「構わないさ。予想はしていたからね」

「なんと?」


 テーブルの上に広げられているのは玉藻国について記した資料の数々である。ルカが舞たちと出会う以前から少しずつ作成していたもので、中には玉藻国や京の精確な地図、玉藻国の歴史をまとめた年表、白菊帝以来の帝の系図などもある。『暁星記』は冒頭部と創世記、白菊帝の四神征伐から白梅帝までの部分が今ようやく再現されつつあるところで、ルカと左大臣の前にはその草稿が広がっていた。ルカは草稿をどけて、ティーカップに紅茶を注いだ。


「舞のことだから、きっとそんなこともあり得るだろうと思っていただけだ」

「では、ルカ殿は原因をご存知で?」

「ご存知もなにも……左大臣だって大方想像がつくだろう?」


 テディベアなりにとても想像などつかないと言いたげな表情を浮かべている左大臣に、ルカは少し皮肉っぽく微笑みかけた。


「舞は認めたくないんだ。自分が京姫であることを」


 ティーカップの影に一瞬隠れたあとで、ルカの皮肉っぽい微笑は消え失せていた。ルカは苦しげな瞳をカップのなかで揺れている濃いミルクティーの上に落として、その先を紡いだ。


「舞は自分の気持ちに気づいていないだろう。だが、心の奥底の、舞自身にも意識できないところで、舞は自分が京姫であることを許せない。京姫になんか変身したくないと思っている。理由はわかるだろう、左大臣?」

「前世のご記憶のせいですな」

「その通りだ。姫の最期はあまりにも惨たらしい。姫は命を賭して京を守ったにもかかわらず、必死に守ったはずの京の人々によって命を奪われた。舞はあの記憶を認めたくないんだ。無理もない……京野舞は家族や友人に恵まれ、周りに愛されて、幸せに育ってきた少女なんだから。人々の手で処刑されたなんてことを、そう簡単に受け止められるものか」


 他人に命を奪われる恐怖はどこにでもいる中学生の少女にとって、どれほどのものであろう。しかも、その他人というのは敵ですらなかった。かつて自分が愛し、そして彼らもかつて自分を愛してくれた、そういう存在であったのに。非力で愚かで善良な人々であったのに。大衆の前に突如として引きずり出され、彼らの総意として罰が、死が、下される。その恥辱、その痛みと苦しみはどれほどのものであっただろう。


「それだけではない。舞は京姫の行為が京を滅ぼした原因だと思い込んでいるし、姫の罪が許せないんだ。だから京姫になんかなりたくない……」

「では、姫さまのお心次第ということですな」


 左大臣はやれやれと肩をすくめて言った。それからはっと思いついて、


「もしや、わたくしめも生前の姿に戻れない……?」


 ルカはそこで初めて声を立てて笑って、


「確かにその通りだ。しばらくはそのかわいらしい姿で奮闘してもらわないとな」

「いやはや、なかなか不便ですな。姫さまがお一人のところを襲われたときはどうすればよいやら……」


 テディベアの姿でテーブルの上を歩き回り、ぶつぶつと呟きながら考え込んでいる左大臣にルカはしばらく静かに目を寄せていた。あのいかめしい老翁がこのような微笑ましい姿を借りていることは、前世を知る者にとってはいかにも意外で微笑ましい。話によればこのテディベアは舞が幼いころからかわいがっていたぬいぐるみであり、左大臣はそれを魂の依代として自在に操っているのだという。確かに誰にも怪しまれずに舞の側にいられるという点ではこの姿は都合によいようだが……しかし、そろそろ訊かなくてはいけないだろう。


「ところで左大臣、あなたはなぜそのような姿をとっているのです?」


 テディベア姿での戦い方についてあれこれ思案していた左大臣は、カンフーのようなポーズをとったまま静止した。


「ああっ、誤解なされては困りますぞルカ殿!これはわたくしめの趣味などではなく、姫さまの最もおそばにあったものゆえに……!」

「いや、そういうことじゃないんだ。左大臣、あなたはなぜ転生しなかった?なぜあなたは魂だけなんだ?私たち四神や京姫の魂は肉体を伴い、新たな人格を持って生まれ変わったのに」

「ああ、そのことでございますか……!」


 左大臣はカンフーポーズからくるりと一回転すると、その場にあぐらをかいて腰かけた。


「実はですな、わたくしは転生できなかったのでございます」

「転生できなかった?」


 左大臣はこくりと頷いたあとで、いかにも何気ない調子でこう告げた。


「なにせ、わたくしは自ら命を絶ったものですからな」


「自ら命を……?」


 理解は言葉が形作られるより少し遅れた。繰り返した言葉の意味が呑み込めた時、ルカは初めて目を見開いた。


「いやはや、お恥ずかしい。散々に老醜を晒しておいてこのざまとは」


 左大臣は照れつつも肩をすくめてみせる。


「……わたくしは生前妻も子も親兄弟をも亡くしました。もはや失うものなどないと思い込んでおりましたが、ただ姫さまだけは…………ルカ殿、前世の姫さまが惨い最期を遂げなければならなかったのも、わたくしのせいなのです。わたくしがこの命を捨てて群衆より姫さまをお守りしていれば、姫さまはどこへでも逃げ延びられたはずなのですから。それを思うと、わたくしはとても耐えられなくなりました。それになによりも、姫さまのいらっしゃらない世界に生きていることが虚しかった。ゆえに、姫さまの死を聞くなり、わたくしは自ら腹を切りました。はは……」


 たかだかぬいぐるみの顔に、穏やかな、しかし取りつきがたい高貴な微笑みが浮かんでいた。ルカは開いた口元が唇から渇き出すのもそのままに、左大臣の微笑みをただ見つめ続けた。左大臣が自死を選んだことに対する衝撃のみならず、あれほど多くの者に慕われていた老翁が、誰にも看取られることなく、ひっそりと血を流して生涯を終えたことへのいたわしさが、ルカに言葉を禁じていた。


 左大臣はさすがにその様子に気づいたと見えて、またもや強いて繕った気楽な口調で「いやいや」と切り出しながら、首を振った。


「憐れんでいただくほどではありませぬぞ、ルカ殿。姫さまや四神の皆さまの最期のほうがよほど惨い。皆さまはまさしく花の盛りであったのですからな」

「……舞は知っているのですか?」

「まさか。今後お話しすることもありますまい。すでに終わったことでございますからな」

「そうですか」


 ルカはティーカップの取っ手を指で挟みかけてやめた。やたらとティーカップが重たく感じられたので。


「……ところで、ルカ殿。わたくしからもお聞きしたいことがございます」


 左大臣がすっと居ずまいをなおしたことに、ルカはうつむいて眉にかかった前髪越しに気がついた。


「ルカ殿、この間のお話ですと前世の白虎殿は芙蓉を倒され、姫さまを追って京へ向かわれている途中で亡くなったとのことでしたな」

「恐らくはね。芙蓉の毒にやられていたから、私自身もいつどこで亡くなったかははっきりとわからないが」

「しかし、ルカ殿は姫さまの最期をご存知でした。一体なぜです?」

「聞いたのさ、朱雀にね」


 朱雀の名が出た瞬間、左大臣とルカの間にふしぎな緊張感が漲りはじめた。石が投げ込まれた後の水面が凪ぐのを、じっと目を凝らして待っている時のような張り詰めた空気であった。


「……しかし、朱雀殿こそなぜご存知で?」

「私にもわからない。朱雀は前世の最期のことを語りたがらないから。私の予想では柏木に、右大臣に聞いたのではないかと思う。あいつなら一人逃げ延びたとしてもおかしくないからね」


 ルカの冷ややかな言葉を取り上げたものかどうかと迷ったようだったが、左大臣は結局無視することに決めたらしい。


「ルカ殿、朱雀殿は、つまり転生した朱雀殿はどちらにいらっしゃるのです?」

「この町のどこかとしか答えられない。彼女は姫さまのことを案じているし、できることならば今すぐにでも参上したいと思っているはずだ。それが叶わないのには事情がある。第一に彼女は変身することができない。覚醒はしている。だが、変身する力を失ってしまった。第二に彼女は足を動かすことが出来ない。生まれつきのものではなく、ある時から急に動かなくなってしまった。彼女はじきによくなると言い張っているがね。こういうわけだ、左大臣。私たちが彼女と接触することは危険だということがわかるだろう?彼女は戦うことができない。敵に彼女の正体を勘づかれてはならないんだ」


 それからルカは少しためらってからこうも付け足した。


「……右大臣も朱雀と一緒だ」


 左大臣は深々と溜息をついた。


「朱雀殿が参上されない訳については理解いたしました。だが、ルカ殿、姫さまとのお約束をお忘れではありませんな。姫さまは朱雀殿が一体何をしたのかを知りたがっておいでなのです。結城司が豹変したことには、朱雀殿が関係しているとのことでしたな?」

「それについては彼女自身が話すと言っている」

「参上できないままに?」

「彼女はやると言ったことは必ずやる。それが姫さまにとって必要ならば今すぐにでも」


 虎の眼が左大臣を射抜いていた。左大臣はたじろぐそぶりすら見せなかったが、内心ではこの美しく雄々しい女性の想いの強さに舌を巻いていた。やはり白虎は変わらない。朱雀に寄せる想いは前世から少しも衰えることないのだ。


 今は待つほかない。舞も今は結城司のことをうまい具合に忘れているようであるし……いずれ時がくれば全てが明らかになるはずだ。




 携帯電話の着信音が赤星家の書斎の静謐をかき乱した。その部屋に所蔵されている三千四百冊あまりの本には皆、赤星文庫の印がされ、今後赤星家の後継者が途絶えたその時には水仙女学院大学図書館にその全てが寄贈されることが密かに取り決められているという噂があった。だが、今のところこうした密約が明るみに出る心配は無用である――赤星家の令嬢その人が書斎にいますかぎりは。


 令嬢は着信音に顔を上げようともしない。側に控えていた中年の男性が代わりに電話を取り上げ、やや片眉を吊り上げたあとで令嬢に差し出すと、玲子嬢はようやく頁を繰る手を止めて尋ねた。


「どなた?」

「生徒会長です」

「ルカね」


 玲子は柏木の皮肉っぽい口調にも取り合わずに電話を受け取った。


 シニヨンに結い上げられたくれないの長い髪、めったに感情を宿さない瞳、十六歳――間もなく十七歳になるが――にしては整いきり、おさまるべきところにおさまりきってしまったという印象の高貴な横顔。前世で三宮さまと呼ばれていたころと比べても、少しの遜色もない。最後に見たお姿は確か二十五、六にもなろうという年ごろでもあっただろうか。()の脳裏に蘇るのは月影の下に見た表情である。不思議だ。あの邂逅の夜の三宮さまの方が、今よりずっとあどけなく見えた……


「どうかして、ルカ?……いいえ、こちらは何事もないわ。姫さまはその後、お元気なの?…………そう、よかったわ」


(いや、このお方はあの時よりもはるかに成長されたのだ。あれから幾多の苦痛と悲しみを乗り越えたために)


 その苦痛の証である車椅子の銀色が、書斎の乏しい灯りを以ってしても彼の目には眩く見える。


「そう、左大臣が……」


(これからもこのお方の前には困難な道が続いている。だからこそ、俺はこのお方の側にいることを選んだ。たとえ呪わしい身に成り下がろうとも)


「えぇ、いつでも話をする覚悟はできているわ」


(このお方が左腕を失くした時、俺はこの女性ひとの左腕となった。このお方が両足を失った今、俺はこの方の両足として生きる……)


「……ねぇ、ルカ、考えていたのだけれど、私、そろそろ参上しようと思うの」


 柏木武はそこで物思いから呼び覚まされた。そんな相談は受けていない。無論、全ての決定権は玲子にあるのだからたかだか護衛に過ぎない柏木に相談する義理などないのだが。


 主人が長いこと黙りこくっていることから察するにどうやら猛烈な反対を受けているらしいのだが、とうに予想していたものと見えて困惑する様子は見られなかった。長らく待って、玲子はようやく反論する機会を得られたようだった。


「えぇ、でも大丈夫。力は使えなくても、武器は手元にあるのだもの。貴女たちの手を煩わせることはないと思うわ……」

「お嬢様、お電話中失礼いたします」


 車椅子の上で振り返った玲子は、扉横の内線電話を手にしている柏木の姿を認めた。


「急用なの?」

「来客だそうです……例の」

「約束の時間よりだいぶ早くはないかしら」

「いかがなさいますか」

「一時間後に来いと追い返す訳にもいかないでしょう。応接間で待たせておいて」

「かしこまりました」


 主人と護衛とはそれぞれの電話へと向き直る。恭しく謹んで指示を待つ門番に、柏木は主人の言葉を誤りなく伝えた。内心の呆れを少しも気取られないように気をつけながら――全く、気の早い客人だ。これも若さゆえだろうか。落ち着いた少年だと見えたが、やはり年相応のところもあるようだ。あの結城司という少年は。




「じゃあね、舞!ちゃんと次会うときまでに英語やっといてよ」

「うぅ、わかってるもん!……まったく、翼ってほんと前世と変わらないんだから」

「じゃっ、舞ちゃん、左大臣によろしくねー」

「はーい!……まったく、奈々さんは前世と全然違うのに。って、あれ?結局あんな感じだったっけ」


 一人つぶやきながら翼と奈々と別れた舞は自転車のペダルを踏み込んで、夕方の街へと漕ぎだした。日が伸びたおかげでまだ辺りは明るいがそれでも時刻はすでに十九時近い。早く帰らなければ夕飯に間に合わなかったかどで母親に責め立てられ、罰と称する姉の横暴によりおかずもしくはデザートを取り上げられるかもしれない。急がなければ……!


 ペダルを漕ぐ舞の膝の躍動とは全く無関係に、白いワンピースの裾を、夕風が膨らませはためかせていく。素肌のはぎからサンダルを履いたつま先まで撫ぜていくその風が心地よかった。日盛りのうちに煮凝った暑熱は、まだ見えない果実のようにあちらこちらに実を成しているようであったが、傾きかけた日が投げかけた長い影が肌の上をすべる一瞬は、舞はその触れればたちまちはじけそうな果皮から安全に守られていた。そして、日陰を抜け出るとき、舞の髪は果汁を浴びてきらきらと輝いた。


 やかましい蝉の声からそっと鼻歌を守りつつ、緋色の硝子窓のなかに閉じ込められてしまったような街のなかを、舞は軽快に進んでいく。今日はどっちから帰ろうか。早いのは町の中心にある十字路を突っ切っていく道なのだけれど、夕方時は混むので自転車では走りにくい。やはり少し時間はかかるとはいえ住宅街の方を抜けていこう。


 そろそろ帰宅時間であるので、住宅街の路上にもサラリーマンや部活動帰りの学生たちなどちらほら人影は見受けられた。だが、ある角を曲がると、直線上にぱたりと人影が絶えてしまった。舞の背後に沈みかける夕日に照らされ、まっすぐに続くその道は、紅の巨大な石柱を渡したようにも見えた。


(左大臣、迎えにいってあげなくてよかったかな)


  電柱や家々の屋根の影がところどころに暗いを落とすなかを、あるいはくぐり、あるいは避けて、舞は自転車を走らせた。


(お腹すいたなぁ。今日のアイス美味しかったなぁ、またみんなで食べにいきたいなぁ……今日の夕ご飯何かな)


 人気のない道路には音が少ない。蝉の声も遠く、からすの声も遠く、自転車の車輪がからからと回る音だけが足元から響く。


(……幸せだなぁ。毎日美味しいものが食べられて、みんなと遊んで、楽しく過ごせるなんて)


 やっと誰かが前方からこちらに向かって歩んでくる気配がする。


(こんなに自分が幸せだなんて、知らなかったなぁ今まで。なーんて、月並みかなぁ……でも、ほんとうだもの)


 ブレーキの音と共に、サンダルのつま先が地に触れた。舞の「幸せ」な気分は、その瞬間にはすでにばらばらになって路上に散らばっていた。


 舞と向こうから歩んできた人も、同時に足を止めた。二人の距離はあと五メートルほどというところであっただろうか。ともったばかりの街灯が見つめ合っている人の顔を照らし出していたが、彼の人の顔が蒼褪めていたのは、なにも真上から青白い光を投げかけられたせいばかりでもないだろう。だって、この道にはあんなにも紅の陽光が満ち満ちていたのだから。


 舞の髪と同じ風に吹かれているつややかな黒髪、秀でた眉、間もなく降り来るであろう宵闇を先んじて閉じ込めたかのような薄紫色の瞳、翡翠のような血管が透けるのではないかと思うほどに白く脆い、雪のような肌――


「しら……!」


 舞ははっと両手で口を押える。違う!その人の名前は違うんだから……!


「結城君……」


 その名を呼ぶ、舞の声は弱々しかった。紫蘭の名を呼びかけたときよりもずっと。舞はうつむいた。紫蘭の顔は一瞬で掻き消えた。よみがえるのは幸せの絶頂から奈落の底へ叩き落とされた、誕生日の思い出だった。




「はっきり言っておく。僕は僕だ。赤の他人の幻影を僕に押し付けるのはやめろ」



「質問が難しすぎたか?お前には」



「二度と、僕に関わろうとするな」




 オルゴールの音がほんの少しかき鳴らされて、止まる……




「……ごめんなさい」


 うつむいた舞は消え入りそうな声で、ようやくそう言った。司がその時どんな表情をしていたかはわからなかった。ただ、舞がペダルを踏み込み、その傍らを通り過ぎていったあとも、司はその場に立ち尽くしていた。立ち尽くしているようだった。





 結城司――十四年間の舞の人生のなかで、その名ほど大切にしてきたものはなかった。司は舞の幼馴染()()()。同じ七月十一日に、同じ桜花市内の病院で生を受けた。「まあ、この子たち、まるで一緒に生まれる約束をしてきたみたいね!」――母親同士はそんなことを言って笑い合った――「もしかしたら、前世で恋人同士だったりして」。


 母親同士が親しかったことから、舞と司は自然と仲良くなり幼い日々のほとんどを共に過ごした。幼稚園、小学校、中学校……司は容姿端麗だというばかりでなく、学業にもスポーツにも秀でた少年だった。明るく優しい性格で、自分の優秀さを少しもひけらかさないため多くの友人に好かれていた。舞が自然と司に恋をするようになったのは、なによりもその気取らない優しさのためだった。泣いてばかりいる幼い舞をまるで兄のように叱りながらも、司はどんな時だって舞を見捨てずに優しくその手を引いてくれたのだ。そんな司だから、幼馴染であることが誇りだった。誰かが司のことを褒めていると我がことのように嬉しかった。目の前にいて、じっと見つめられるときは……


 ……でも、いつのころからだろう。そばにいるとどこか辛かった。司がまた誰かに好かれるたびに、怖くなった。まるで、舞の幼馴染である司がいなくなってしまいそうな気がして。誰かにとられてしまったらどうしようという不安は常につきまとった。けれどもまた、全く同じ理由によって、舞は想いを伝えることもできかねた。このまま何もせずにいても、何かをしたとしても、舞と司の関係が変わってしまうことは、舞もよくわかっていたのだ。


 それでもまさか、本当に、舞の幼馴染である結城司がいなくなってしまうだなんて思わなかった――


 四月十二日に、結城司は舞の目の前で死んだ。突如襲いかかってきた怪物から舞を庇って。非情な運命と戦うべく、舞は京姫になった。一方で、司は()()()になってしまった。


 ……怪物に襲われ目を瞑った瞬間、舞は桜色の光に包まれた。そして再び目を開けたとき、舞は四月十二日の朝の自宅の寝室にいた。全てが夢なのだと思った。だが、いつも通りに登校した舞は、桜花中学校への転校生としての結城司と出くわすことになった。彼は見た目も名前もそっくりそのままの結城司であったが、幼いころに桜花町を離れて京都に住んでいたとのことであり、舞の知っている司とは経歴が違っていた。誕生日も舞より一月早かった。もっとも舞にとっては耐えがたかったことは、性格までもが豹変してしまっていることだった。優しい人気者だった司は冷酷で孤独な少年へと変貌を遂げていた。歩み寄ろうとする舞に対しても司は冷たく頑なな態度をとりつづけていた。


(でも、それでもちょっとずつ仲良くなってきたのに……)


 司が京都の学校でいじめを受けていたことを知った。両親が別居しているせいで、病身の母親を一人で支えていることも知った。今度の司も舞の幼馴染であることは変わりないのだと知った。だから、舞は司に微笑みかけることができるようになった。舞の誕生日の日、司が母親から託されたというプレゼントを持って京野家を訪れてくれたとき、舞は()()()に恋をしている自分に気がついた。


(なのに、あの時私が鈴を落としちゃって、それであんな行き違いに……)




 ……あんなに楽しみにしていた夕飯も、何を食べたのか結局わからずじまいだった。舞はただお腹が膨れきっているのだけを感じながら、Tシャツにショートパンツという部屋着姿で、自宅のベッドの上に寝転がっていた。きっと母親が見たら「牛になるわよ!」と言って怒るだろう。


(あの時、結城君はもう二度と僕に関わるなって言ってた。だから、正解、なのかな……今日のことも)


 枕を抱えて、舞は寝返りを打つ。左大臣はまだ帰宅していない。


(でも、ずっとこのままで本当にいいのかな……)


 これからも司とは学校で顔を合わせなくてはならない。その度に今日のような気まずい思いをし続けなくてはならないのだろうか。それだけならまだしも、舞の母親と司の母親は数年ぶりの再会を経て友情を建て直しつつあるから、今後も結城家と行き来しなければならないかもしれない。母親にはなんとしても司との不仲を悟られたくなかったが、なにもないふりをし続けるのは恐らく無理だろう。それに、なによりも…………


 枕に押し当てた瞼にひらめいた青年の横顔と、その黒髪に宿る水晶のきらめきに、舞ははっと目を開けて顔を赤らめた。誰に説明されるまでもないが決まりきっている。舞が京姫の生まれ変わりであるように、結城司は六条紫蘭の生まれ変わりなのだ。


 紫蘭という人をどう捉えていいのか、舞はまだわかりかねている。京姫にとって大切な人であった、多分……二人は共に孤独で、おそらくそのために惹かれあって、共に京を抜け出した。それは宮廷を離れてはならない立場にあって京姫にとっては重たい罪であり、また形式上とはいえ帝の妻であった京姫をさらうことは紫蘭にとっては恐ろしい罪であった。姫を連れ出したときの本当の紫蘭の心は知らない。ただ姫に乞われるままに仕方なくだったのかもしれない。自分を追放した朝廷への、兄帝への腹癒せであったのかもしれない。馬に乗り、紫蘭に寄り添って、京を離れた姫は何も知らずに幸せだった。


(あーダメダメダメダメ、思い出しちゃ……!)


 自分でも知らぬ間に、舞は真っ赤になった顔を枕に押し当てて足を宙でじたばたさせていた。京姫の幸せの絶頂を思い出してしまったのだ。満天の星がちりばめられた誰もいない草原で、京姫と紫蘭は互いに持ち合ったさびしさを示すがごとく、抱擁し、接吻くちづけを交わした。その身を冷やし重たくするような疲労の末に、紫蘭の手枕たまくらの上で姫は眠った。二人なら永久に生きられると、その時の京姫はたやすく信じることができた。


 しかし、紫蘭は最終的に京姫を突き放した。別れたのちの紫蘭がどうなったのか、京姫の記憶は知らなかった。


(落ち着こう、舞。落ち着こう……!)


 悲しみが霜のように心に降り立ってきたところで、舞はようやく深く呼吸をすることができるようになった。うつ伏せになった舞は目元だけをピンク色の枕カバーから離した。寝室がずいぶんと明るく見える。


(とにかく紫蘭さんのことは忘れよう。紫蘭さんのことは今関係ないんだもん。今は結城君の……!)


 ふと舞は気づいた。今日の邂逅の折、舞が誤って紫蘭の名前を呼びかけたとき、司の表情が一瞬大きく揺らいだように見えはしなかったか、と。記憶違いだろうか。斜陽が見せたいたずらだろうか。まさか、司までが前世のことを知っているということはあり得るのだろうか。舞のようにもし記憶が戻っていたとすれば――


「いやはや、遅くなりました。ただ今戻りましたぞ、姫さま」


 ベッドの下の左大臣の声も耳に入らぬままに、舞はあるひとつの決意を固めた。


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