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京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第四章 現世編―芙蓉の巻再び―
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第三十四話 結城司の苦悩(下)

「なあに、話って?」


 薄曇りのその日は戸外の日差しも気にならないということで、翼と奈々は白崎邸の広大な庭園の見学をさせてもらったのち、木陰にあるテラスでオレンジジュースをいただいているところであった。この庭園は、洋館に面した部分は巨大な噴水と正確無比なるシンメトリーの配置を誇る西洋風の庭園、離れに建てられた日本風の邸宅(元はルカの父方の祖母のための隠居所で、今は夫婦げんかをした際にルカの母・ソーニャが拗ねて引きこもる場所となっているらしく、白崎家では「おこもり所」と呼ばれていた)に面した部分は滝と池を配した小ぶりな和風庭園となっていた。ここではかつてさまざまな素封家、政治家、実業家などを招いての華やかな宴会が行われていたが、そういうことを厭うようになった当代が主になってもなお、年に一度は、Shirosakiグループの関係者たちが集って慰労の会を催すらしい。まさかそんなすごいところとも知らない翼と奈々は、その壮大さにすなおに感心したり、のんきに駆けまわったりしていたが。


「ああ、実はもうすぐれ……朱雀の誕生日なんだが」


 膝の上に顎を載せて甘えかかる二頭のボルゾイ犬に目を落としたまま、ルカは切り出した。


「朱雀の?」

「そうだ。八月二十日が彼女の誕生日なんだ。私は毎年プレゼントを贈っているんだが、もしよければ、君たちからも何か用意してもらえればと思ってね。会ったこともない相手にプレゼントを贈るなんて変な感じだろうが、まあ前世のよしみだ」


 翼と奈々は顔を見合わせ、ぱっと笑顔を浮かべた。


「楽しそう!でも、どんなものがいいのかな?」

「前世ではプレゼントとかお互いあんまりしなかったもんね……あっ、そういえば、朱雀って喫煙者じゃなかった?」

「奈々さん?!ダメですよっ?!」

「……将来的に彼女が喫煙者になる可能性は多いにあるが、今は彼女も未成年者だから駄目だ」

「ねぇ、ルカさん、今の朱雀ってどんな感じ?」


 翼が問うと、ルカはボルゾイの背を撫でていた手を止めた。なんと説明すればよいのだろうか。彼女を言い表しうる言葉などこの世にはないような気がする。ルカにとって、赤星玲子は神秘だった。白崎ルカとして生まれてからずっと――


 記憶が戻る以前には、彼女は時おり夢に現れる美しい女人であった。彼女は手ずから幼いルカの胸に憧れの種の植えつけると、時おり迷い込んだように様子を伺いにきては、水を与え、土をならし、悠然と微笑んでまた去っていった。憧れと恋がそこに萌芽したことは言うまでもない。彼女とめぐり合い、そのみちびきによって記憶を取り戻してから、玲子はルカが抱き寄せようとするごとに、ひらりと身をかわしては通いなれたルカの心の部屋へと優雅に立ち入り、今や大樹となった恋の樹の影にそっと身を隠してしまう。それはルカの感情ものであるのに。


 ボルゾイ犬が長い鼻先で交互に膝をつついて猛攻撃をするので、ルカは我に返った。


「ああ、すまないボリス、アンドレイ……そうだな。静かで知的な女性だ。それに相変わらずファザーコンプレックスがひどい。父親の前では年相応に、無邪気にふるまっているね。もっともあの姿こそが彼女の本性なのかもしれないが」


 ルカはそう言って、ひとり微笑んだ。


「だが、そうした本性はいつも隠している。学校ではあまり目立たない方だ。全く孤立しているわけではないが、友達と呼べる存在も私以外にいないようだし、これまでもいなかったのだろう。それを彼女はさびしいとも思っていないようだが。彼女は孤高だ。そして気高く、美しい……まるで百合の花のようにね」


 うつむいたルカの潤んだ瞳に、オレンジジュースのストローから唇をはずした翼と奈々は早くも何かを読み取ってそっと視線を合わせた。が、なぜだかぱっと顔を赤らめて、すぐに目を逸らしてしまったが。


この不自然な間をごまかすべく、翼は慌ててこほんと咳払いをした。


「と、ともかく!あたしと奈々さんと舞で考えてみますね!朱雀が喜んでくれそうなもの!」

「ありがとう……ところで、舞はどうしたんだい?」


 愛犬たちのためにボールを遠く放り投げたあとで、ルカはふと訝しんで振り返った。舞と奈々の宿題の出来があまりにひどいからルカに教えてほしい、というのが翼からの頼みであったはずだが、肝心の舞の姿が来訪時から見当たらない。ついに訊いてみると、怒った顔の翼から返事があった。


「聞いて、ルカさん!舞ったらね、『今日は大事な用があるからごめんなさい』だって!宿題より大事な用ってあるっ?!」

「あちゃー、宿題のことすっかり忘れてると思ったのに……」


 奈々は額に手をついてがっくりと肩を落としていた。ちなみに、彼女は受験生である。




 インターホンを押してから扉が開くまでの時間が、舞には永遠かとも思われた。今なら引き返せるかもしれないと舞は思った。緊張と興奮と不安とで胸がどきどきする。胃が締めつけられるようだ。ふと振り返った曇り空の暗さは、玄関先に突き出したひさしの影にも劣らない気がする。今日は夕方から雨が降ると母親が出がけに教えてくれたが、傘を持ってきていない舞は果たしてどちらに逃げるのが正解なのだろうか。曇り空か、庇の下か……


 白い半袖のブラウスにサーモンピンクのフレアスカート、髪には誕生日プレゼントに翼からもらったリボンつきのバレッタという出で立ちで、舞は、自宅から自転車で十分ほどの、とある家の前に立っていた。と、扉が開く物音に、舞は思わず飛び上がった。その驚きぶりには、おそらくは迎える側の方がよほど驚いただろうと思われる。白髪の目立つ長い黒髪の、やつれてはいるがうっすらと綺麗に化粧をした四十がらみの女性は、現にぽかんと口を開けて、舞の動揺ぶりを見つめていた。


「あっ、こ、こんにちは、おばさん!」

「こ、こんにちは、舞ちゃん……まあ、元気にしてた?」

「はい、おかげさまで!」


 明るい返事に、呆気にとられた表情はすぐにほどけて優しい微笑みへと変わっていく。おばさんこと結城司の母親は、すぐに一歩あとずさって、舞のために場所を空けた。


「まあ入ってちょうだい。わざわざありがとうね。お茶でも飲んでいって」

「ありがとうございます。おじゃまします!」


 結城家を訪れるのは司の誕生日会以来であった。あの時は司と司の母親と舞の三人でお祝いをしたが、今日の会は司の母と舞の二人きりである。そうなるように頑張って手配したのだから。舞は母親に何度も確認した――「ねぇ、その時間、結城君おうちにいないよね?大丈夫だよね?えっ、喧嘩?まっさかぁ、そんなのしてないよ!ただ、恥ずかしいだもん……」。


 舞は案内されるままに居間へと入った。以前訪れたときはぎこちなかった居間の調度も、だんだんと馴染んできたようで、居心地のよい空間へと変わっていた。モスグリーンのソファの下に敷かれていたグレイのカーペットを片付けて、フローリングの色が直に見えるようになったのが夏らしくよいのかもしれない。結城母子が食事に使っているテーブルにも、かわいらしい花が飾ってある。相変わらず物の散らかしようのない部屋ではあったが、もう殺風景というのではなく、きれいに整頓された部屋という印象だった。

暑いところを歩いてきた舞は、エアコンの冷気に思わず息をついた。その姿を見て、司の母親はくすくすと笑った。


「暑かったわよね。いま冷たいものでも出すから、掛けて待っててね」

「あっ、あの、おかまいなく……!」


 と言いつつも、ガムシロップを二つ分入れたアイスミルクティーは、舞には嬉しかった。今回の表向きの用件である、母親が結城家から借りていたドラマのDVDと本を返すというミッションも見事にやり遂げた舞は、しばらくは他愛ない話で司の母親と盛り上がりつつ、高級菓子店のクッキーを遠慮がちにつまんで、好機をうかがっていた。


「夏休みはどこか出かけるの?」

「いいえ、今年はどこもいけないんです。お姉ちゃんが文化祭のクラス劇で主役をやるから、練習で忙しくって」

「まあ、主役!すごいじゃない。何の劇をやるの?」

「『ロミオとジュリエット』です」

「すごいわね!ゆかりちゃん、ジュリエットの役?お母さんに似て美人さんだものね。お父さん似の舞ちゃんもかわいいけど」


 舞はそこで笑いながら首を振った。


「ううん、違うんです!お姉ちゃん、ロミオ役やるんですよ!ほんと笑っちゃう、ふふふ……!あまり笑うと怒られるから、あまり本人の前で笑わないようにしてるんですけど。クラスの推薦で決まっちゃったんですって」

「そう。でも、ゆかりちゃんなら男役も様になりそうね。背も高いし、すらっとして、ちょっと宝塚風かな?」

「でも、歌は下手なんですよ」


 舞と司の母親はそれぞれの空想で一頻り笑った。


「おばさんは、夏休み中にどこか旅行とか行かないんですか?」

「司のためには行きたいんだけど、お仕事始めちゃったからね。体の具合もまだ万全ってわけじゃないの。もちろんだいぶ良くなったんだけどね……そういえば、舞ちゃん先週まで熱があったんだって?一週間ぐらい寝込んでたって聞いたけど」


 お母さんから聞いたんだろうなと思いながら、舞は真っ赤なドレンチェリーの載ったクッキーを一口かじってうなずいた。


「はい。でも、もう平気です!」

「それならよかった。しかし、何かしらね?インフルエンザじゃなかったみたいだし、夏風邪のひどいのかしら。流行ってるって話も聞かないけど、司もやっぱり高熱が出たのよ。舞ちゃんと違って三日ぐらいでけろっと治っちゃったけど」


 急にクッキーの味がわからなくなった。舌にまとわりつくのは砂かとも思われた。なんとわずらわしいんだろう。早くアイスティーで飲み干してしまおう。あれ?なぜだか甘ったるかったアイスティーの味までなくなっちゃったみたい……


「舞ちゃん、あのね……おばさん、止めるわけじゃないけど、もう一個ガムシロップ入れるのは健康上どうかと思うの」

「いつの話ですか?結城君が熱を出したのって」


 お構いなしにイルカの飾りがついたマドラーを回す舞に、司の母親は早々に降伏した。実際のところ、舞は自分の行動も行動原理さえもわかっていなかったのだが。舞の瞳は汗をかいたグラスではなく、司の母親に向けられていた。和んでいた心臓が再び早鐘を打ち始めていた。


「そうね、やっぱり先週だったかな?どこほっつき歩いてたんだか、朝から出かけて暗くなってから帰ってきて、それからちょうどそこのソファのところに、ぱたーんって倒れちゃってね。おでこのとこ触ってみたら、ものすごい高熱なの。私じゃ二階まで運べないから、仕方なくそのソファの上に寝かせて、三日間寝ずの看病したのよ。寝てる間は譫言うわごとばかり言ってるし、起きたと思ったらぼーっとして人の話なんて全然聞こえてないし。本当にどうしようかと思ったわ……」


 司の母親がテーブル越しに指さした先を、舞も見つめた。同じだ。舞が熱を出している間も全く同じだった。ゆかりの言葉を思い出す――寝ながら譫言うわごとばっか言ってるし、起き上がってもぼーっとして人の話もまともに聞いてないし、一時はどうなるかと思ったけど……


「結城君、その後はなんともないんですか……?」


 そこにまだ司が寝そべっているとでもいうように、モスグリーンのソファを見つめて舞は訊いた。


「えぇ、体の方はね。ただ……」

「ただ?」


 振り返る舞のまなざしに打たれたのか、司の母親は居直った。


「そうね……こんなこと誰かに話したら怒られるかもしれないけど、あの子、なんだか最近辛そうなの。また京都にいる時に戻ったみたい。舞ちゃんとか東野君のおかげで少し明るくなってたんだけど。

 この間、おばさん、お手洗いに行くために夜中に目を覚ましてね。司の部屋を通りかかったら、すすり泣きが聞こえてきて。ぎょっとしちゃった。だってあの子、泣くような子じゃないんだもの、幽霊かと思ったの。でも聞いてみたらやっぱりあの子の声なのね。それで、ずっと泣いてるのよ。次の日の朝、それとなく何かあったか聞いてみたんだけど――ほら、あの子、真正面から突っ込まれるの嫌がるでしょ?――まあ、これはまた冷たいお答えが返ってきたわ。さすがに腹が立っちゃった。私は皇子おうじ様のご機嫌取りじゃないのよって、まったく」


 司の母が何気なく出した「皇子」という言葉に、舞は思わずどきりとした。紫蘭は松枝まつがえ帝の第四皇子だったからだ――やっぱり結城君も前世の記憶を……!先日の司の表情の変化は、夕日のいたずらなどではなかったのだ。こっそりと泣いていたのは紫蘭の記憶に苦しめられていたからではないだろうか。だって、紫蘭はあまりにも悲しい思いをしてきたのだもの。早くに母親を失い、父帝とはわかりあえぬまま、ずっと一人ぼっちで。無実の罪によって位を失い、京を追われ、草原に取り残されて。


(きっと京姫と離れてからも、紫蘭さんは辛い思いをたくさんしたんだろうな……)


 それでも幸せになれていたのならいいのだけど。あの後で、どこか人のいるところにたどり着けただろうか。あの辺りだってもう少し行けば集落ぐらいはあっただろう。誰か共に暮らせる人を見つけたのだろうか……奥さんはもらったのだろうか。子どもは?一体どんな最期を迎えたのだろうか。もし、思い出して泣いてしまうほどにそれが悲しいものだったとしたら……


 舞の表情の意味するところを全ては取りかねて、司の母親は慰めるように微笑んだ。


「心配してくれてありがとう、舞ちゃん。でも大丈夫よ。ほら、あいつも思春期だから、そういうこともあるのよ」

「はい……」

「元々が気難しくて繊細な子だからね。これでもだいぶ変わってきてるのよ。だから、おばさんは少し見守ってみるつもりなの……ねぇ、舞ちゃん。よかったらこれからも、司のこと、温かく見守ってほしいな。きっと迷惑いっぱいかけると思うけど」

「迷惑だなんて、そんな……」


 舞は弱々しく笑った。迷惑なのはきっと結城君のほうだろう、と舞は思う。前世のことを話すとき、懐かしいばかりの話ではないとルカは言ったけれど――それでも懐かしいこともある。楽しかったこともある。司はそんなことを思い出しても、笑いあえる相手がいない。舞にとっての翼や奈々やルカや、左大臣のような存在がいない。舞もまた、司にとってのそういう存在にはなれそうにない。ひとり思い出してもただ辛く、悲しいだけだ。そんな記憶、きっとない方がいい。そんな記憶を思い出させる相手など、いない方がいいのかもしれない。


(でも、それでも……)


 前世のことは変えられない。私の罪も消えない。でも、それでも、今こうして、そばにいるのだから。


(私は結城君の幼馴染……ううん、結城君の友達でいよう)


 仲直りしよう。誕生日のことを謝るんだ。許してくれるとは思えないけれど、せめて私からは微笑みかけなくちゃ。私たちは京野舞と結城司。幼馴染で、クラスメートで、一緒の病院で生まれて――そうだ。前世のことなんて、関係ない。






「もう帰っちゃうの、舞ちゃん?晩ごはん食べていったら?大したものは作れないけど」

「ありがとうございます。でも、今日は急ですから……あの!また今度、ご馳走になってもいいですか?」


 また今度、結城君が迎え入れてくれる日が来たら――司の母はにっこりと笑った。


「もちろん!また遊びにきてね。お母さんによろしくね」


 舞を送り出すために扉を開けた司の母親は、「あら」と声をあげて庇越しに空を見上げた。


「もう空が真っ暗。そろそろ降り出すんじゃない?」

「わあ、じゃあ急いで帰らなきゃ!」

「あら舞ちゃん、傘持ってないの?ほら、持っていって。おばさんので悪いけど、貸したげるから」

「大丈夫です!それに今日は自転車ですから!」


 どうやら予定よりだいぶ長居をしてしまったらしい。舞は丁寧に頭を下げて礼を言うと、司の母親が見守るなか階段をぴょんぴょんと軽やかに飛び降りて、門の前でもう一度頭を下げた。自転車は、門の傍らに道路にはみださないようにぴたりと塀に添わせて置いてあった。舞は自転車にまたがって、司の母親に向かってお辞儀をし、手を振ると、ペダルを踏んだ。明るい声が追いかけてくる。


「気をつけてね!」



 はたして走り出した舞が結城家のある通りを抜けてまもなく、煙のような雲からぽつりぽつりと滴り落ちるものがあって舞の肩を濡らした。本降りになる前になんとか家にたどり着けばよいのだけれど。


 住宅街にはすでに雨の気配がむっと立ち込めていた。こんな時は、夏の葉のにおいが濃くにおう。雨宿りの場所が見つからないのか、野良猫らしい白い猫が民家のブロック塀の上で立往生してにゃあにゃあと騒いでいたが(まだ母猫から離れたばかりなのだろうか)、取り合おうとする人もいない。皆雨を避けて屋内にこもってしまっているのだろう。胸は痛んだが、かといって何かをしてあげられるわけでもないので、舞も白猫の前を通り過ぎようとした。


 ふと舞と猫の目が合った……と、何を思ったか、猫は突如としてブロック塀からひらりと飛び降りて、舞の進路の前に立ちふさがった。「うわぁっ?!」と声を上げた舞はブレーキをかけるのに間に合わず、咄嗟にハンドルを右に切った。


「わあっ!」


 まず前輪がブロック塀に衝突し、その反動で自転車のサドルから大きく跳ね飛ばされた。路面にどしんと尻もちをついた舞は、運転手を失った自転車が横倒しになる衝撃音に思わず目をつぶった。宙でタイヤが回ってカラカラとむなしい音を立てているのが聞こえてくる。舞には大地を轟かす爆音のようにも思われたのに、誰一人として舞の悲鳴と衝撃音に気づいたものはいないらしい。辺りはしんと静まり返って、タイヤの音以外に聞こえてくるものはない。


 舞はおそるおそる目を開けた。遠目でみるかぎり、自転車はどうやら無事のようだ。ついでにブロック塀も。猫はどうだろうか?


 路上を見遣ると、白猫は目をまんまるくして舞の姿を見つめていたが、舞と再び目が合った瞬間、「にゃあ」と甲高い声で鳴いて逃げ去ってしまった。さすがに猫の身にも感じ入るものがあったのか、それとも単に怖かっただけなのか。


「あーっ!ちょっと、まちなさーい!」


 立ち上がろうとして、舞は打ちつけた腰の痛みにしばし怯んだ。まるでおばあちゃんみたいだ、これじゃあ……と舞は思う。その上、転倒した拍子に左膝を擦り剥いたらしい。にじみだす血と、じんじんと痛む傷口をじっと見下ろしたのち、舞は思わず叫んだ。


「もうー、ついてないー!」


 でも誰も見てなくてよかった。見られてたら恥ずかしかったもの。いや、今のは私のドジのせいじゃなくて、あの猫ちゃんのせいだけど……!


 ぶつぶつ言いながら立ち上がりかけて、舞は誰かの視線を感じてぱっと顔を上げた。多分、相手は隠れようとしたのだろうが、動物的勘で以って動いた舞の方が一足速かった。さきほど過ぎったばかりの電柱の向こうに、呆気にとられた様子の少年の姿があった。その少年を舞はよく知っている。


「ゆ、結城君……!」

「京野……」


 司の目が舞から転倒している自転車の方に寄せられた。


「だ、大丈夫か……?」


 あまりの光景に今までの確執も忘れ、つい口がすべったのだろう。引きった顔で司はそう尋ねた。


「えっ?あっ、うん!」


 慌てて立ち上がったはいいものの、舞はすぐに身を屈め、「痛たたた……」と痛む腰を押さえた。見るに見かねてか、司は舞の方に歩み寄ってくると、何も言わぬまま横倒しになっている自転車を起こしてくれた。舞はただぼんやりとその姿を眺めていた。


 久しぶりだ。結城司の横顔をこんなに近くで見るのは。紫蘭のおもかげが重なるが、紫蘭は見ている方が恐ろしくなるほどの美青年であったのに対し、司はまだ少年らしく、いくらか幼げで親しみやすい。どうも切ったばかりであるらしい、黒髪の先がうなじにかかる具合が爽やかだった。


「あっ、ありがとう……!」


 返事はない。薄紫色の瞳も舞を直視しようとはしない。キックスタンドを下ろすと、司はすっと舞に自転車の傍らを明け渡し、元来た道へ向けて歩きだした。


「あ、あのさ、結城君……!」

「もう僕に関わるなと言っただろう」


 その場を立ち去ろうと急いでいる背中が言った。高鳴り出していた舞の胸も凍りつくほど冷ややかな声で。


「お前との腐れ縁はもう懲り懲りだ」

「……うん、わかってるよ」


 舞の返事が意外だったのだろうか。か細い声が遠雷に紛れてしまったにもかかわらず、司は振り向かずに足を止めた。


「わかってるよ……私がそばにいると、じゃまだよね。迷惑だよね……悲しいことや辛いこと、たくさん思い出させちゃうから」

「いったい何のことを……」

「前世の記憶、思い出したんだよね?結城君も」


 またぽつりぽつりと頭に肩に雨滴が落ちる。


「だから、もうわかってるよね?私が京姫の生まれ変わりだってことも。四神のみんなも転生して、私のそばにいるってことも。私たちはまた現世でも戦ってるの」


 肩にしみ出した雫が広がって、霧雨になる。霧雨はさらにふくらんで夕立ちになるだろう。雷雲は猫のように喉を鳴らして近づいてくる。けれどもその気配に怖じることなく、少年と少女は立ちつくしている。少女は少年の背に向かって片手を突き出す。


「この鈴はね、戦うために必要なものなの。このあいだは話せなくてごめんね……でもね、私、前世のことは結城君には関係ないと思ってる。結城君に戦う義務はないもの。だからね、前世のことはもう忘れよう」


 舞の背後、どこか遠くに落雷があったらしい。司のシャツが白く閃いた。


「もちろん完全に忘れることは難しいと思うの。でもね。現世の人生まで振り回される必要ないでしょ?私たちは現世いまを生きてるんだから、現世いま幸せになることを考えなくっちゃ。ねっ?」


 濡れた鈴を掌のなかにしまいこんで、舞は睫毛の上の雨滴を払った。前髪が重たく濡れている。紫蘭とともに夕景ゆうかげに乗って雨のなかを駆けた、あの月宮参りの日が思い出される――いいえ、あれはもう過去のこと。どれだけ切なくても、恋しくても、遠く戻らない、朽ちていく記憶…………


 何か司がつぶやいた気がした。だが、雨の音で聞き取れない。「えっ?」と聞き返した舞に、司はまっすぐ前を見つめたままこう言い放った。


「……勝手なことばかり言ってくれるな、お前たちは」


 言葉の意味はとりかねた。舞は振り返った瞳に鈴を取り落とした。軽蔑ならば同じ瞳に見たことがある。だが、憤りは?傷を負った獣が狩人を睨み返すときの、恐怖と憎悪の入り混じった感情は?振り向いた司の顔は半ば前髪と影に覆われて、左目だけが舞を鋭く射ている。その片目だけの眼光の鮮烈さに、舞は身じろぎすることもできないでいるのだ。こんな瞳を見るための言葉を投げかけたわけではないというのに。


「思い出したくもないことを思い出させておいて、その次には忘れろだと?僕には前世のことは関係ない?だったらなぜ思い出させたんだ?なぜ最初から放っておいてくれなかったんだ、僕のことを……!」

「思い出させ……?どういうこと?結城君に前世のことを思い出させた人がいるの……?!」


 唇の内側に雫を受けるのもかまわずに、舞ははっとして尋ねる。震える体は雨に打たれるせいではない。


「あの女だ。お前の仲間なんだろう?赤星玲子……桜花市長の娘だ」

「もしかして、すざ……」


 朱雀が結城君に接触したというの?そして前世の話を……でも、どうしてそんなことを?ルカさんだってそんなこと話していなかった。もしかして、私だけではなくてみんなに黙って朱雀は行動したの?そんな……そんなことって…………


 赤星玲子……


 司は憤激に耐えかねたように、濡れた地面を蹴って波立てた。舞の意識は冷たい路上にたちまち引き戻された。


「前世なんてまやかしだ。そんなことはわかっている。わかりきっている!だが、そのまやかしが夢にまでなって僕に付きまとう……忘れることなんてできるか、なかったことになんかできるか……!忘れたことにしていいのなら、なぜあんな話を僕にしたんだ?僕が何をしたというんだ?僕はそれほど罪深いのか?僕は……僕は……」


 司の唇がわなないた。


「僕はいまだに許されていないというのか……?!」


 世界を引き裂くようなすさまじい雷鳴とともに、舞と司の瞳は共に真っ白になった。「紫蘭さん……!」と舞は胸のうちで名を呼んで、今度はもう取り消さなかった。なぜなら、最後の司の叫びは紛れもなく紫蘭の君のものだったからだ。紫蘭はまだ生きていた。死という名の永遠なる安らぎのうちに眠ったはずなのに、再び揺り起こされ、たった今、稲妻に照らし出された。


 灰色の雨の向こうへ駆けだした司を、もはや追うことはできなかった。その背を見つめる舞の頬を、夕立の雨粒よりももっとこまやかで温かなものが伝い落ちていた。白猫が足元に身を擦りつけて鳴いていることに気がつくと、舞は猫を抱き上げて、濡れた体でそれを拭った。


「結城君……っ!」



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