第三十三話 現世へ(下)
七月三十日、金曜日。
白崎邸の門の前でじっとりと汗をかいているのは何も暑さのせいばかりではなかった。以前も舞はこんな風に緊張してインターホンを鳴らそうかどうかと悩んでいたことがある……忘れもしない。他人の名を騙って他人の家を訪ねるのは、後にも先にもあれが最後だろう。あの時の舞は白崎邸のあまりにも優美で壮大な遠望にすっかり物怖じしていたのだが、今と比べれば笑い話だ。
風はない。鈍重な雲の群れは太陽を追いつつあるが、天頂より注ぎ込まれる日光はあとしばらく遮られることはないだろう。漕いできた自転車のかたわらで、ひまわり色のリボンを結んだ麦わら帽子の鍔の影に、ノースリーブのワンピースから突き出した肩と、心持ちかかげた白い鼻先だけはおさめきれないまま舞は立ち尽くしている。自転車のかごには母から預かったお礼の品が載せられているのだか、なんとしてもインターホンは押さねばならない。だが、やはり勇気が湧いてこない。ただルカの母親にお礼を渡すだけで済むのならいいのだが……
(昨日の夜までは大丈夫だと思ってたんだけどな)
翼からメールがきた時も大丈夫だと思った。「明日、ルカさんの家でね!」という文面は、これまでと変わりなかった。
(私は友達を疑っているのかな……)
ううん、疑っているのではない――だって、まさか翼が自分を嫌うとは思えない。奈々だってそうだ。二人はきっと気にするなと言ってくれるだろう、ルカや左大臣と一緒で。それでも京姫の身勝手な行動が、結果的にとはいえ、青龍と玄武を死に導いた。その罪が舞の胸に重たく圧し掛かってくる。京姫の罪を咎めるような表情を二人の目のなかに少しでも見つけてしまったら、舞は耐えられそうにない。
「姫さま、お顔の色が悪いですぞ」
自転車のかごのなかから左大臣が言う。舞はこわばった笑みを浮かべて応えた。
「ううん、大丈夫……ちょっと緊張してるだけ」
(たとえ、何を言われても、どんな目を向けられても)
インターホンに伸ばした指先が震えている。
(私はぜんぶ受け入れるしかない)
それがきっと罪を償うということなのだろうから。
ベルの音が鳴り響き、生真面目そうなメイドの硬い声が対応してくれている間も、舞は口のなかがからからだった。せっかくリップクリームを塗ってきた唇ももう乾いている。暑いから一刻も早く部屋のなかに入りたいというのに、自転車を押しながら進む足取りがつい遅くなる。門から玄関先までの長い道のりを歩む間、何度も汗が首筋を伝っていたが、舞は拭うことができなかった。
ようやく玄関先にたどり着くと、メイドとルカの母親が迎え出てくれた。ルカの母親のソーニャは、世界中で高級ホテルを経営するShirosakiグループの取締役夫人という立場にありながら、少しも気取ったところのない気さくな女性で、以前の訪問の際も、見ず知らずの舞を(しかも他人の名を騙ってきた舞を)優しく迎え入れてくれたものだった。舞が見舞いのお礼を言って、母から預かってきた品を渡すとソーニャは表面上だけの辞退さえすることなく、すなおに喜んで受け取ってくれた。その素朴な人柄に触れるうちに、舞の心も少しほぐれてきた。
「あっ、翼ちゃんと奈々ちゃんならルカの部屋にいるわよ。今案内させるから、ゆっくりしていってね!何かあったら遠慮なく言ってちょうだい!」
「はい、ありがとうございます……」
どこの階段をのぼって、どの廊下を通ったのか、舞には全くもって理解できなかった。気がついたときには舞は窓格子の影をワンピースの裾まで投げかけられながら、規則正しいリズムで扉をノックするメイドの真後ろに立っていた。
ルカの声が聞こえてくる。舞が止める間もなくメイドは客人のために扉を開いた。突如吹き込んだ風がカーテンを煽り、扉の真正面に据えられた窓から夏の日差しがまともに舞の目を射た。ゆえに、舞は突然の襲撃から身を交わすこともできなかった。
「えっ、ちょ、うわっ?!」
何者かが勢いよく飛びついてきて、舞は廊下に危うく尻もちをつきそうになる。飛びついてきた犯人が舞をきつく抱擁したので辛うじて転倒は免れたが。舞の目の前はたちまち鮮やかな藍色に染まった。
「つ、翼?!」
「ひっさしぶり、舞!」
舞の肩を抱きしめる感触はそのままに藍色が少し遠のいて、翼の笑顔が舞の視界に広がった。青木翼は藍色の髪をツインテールにして水色のリボンで結んだかわいらしい少女で、意志の強そうな大きな青い瞳を持っている。小柄な舞より幾分背が高く、剣道をやっているから体つきはしなやかながらによく鍛えられていて、舞を抱きしめる腕も力強い。祖父、祖母、父、母、姉がもれなく皆警察官か元警察官という家庭に育っただけあって、本人も警察志望であり、正義感も人一番強いしっかり者だ。いいかげんなことをしているのが見つかると、舞や奈々はその度に翼に叱られる羽目になる。だが、翼は真面目な委員長タイプではあっても(翼は舞と同じクラスで学級委員を務めていた)融通の利かない石頭というわけではない。明るく優しい、お茶目な少女だ。
「やっほー、久しぶり舞ちゃん!うわー、かわいい服だね」
そう言いながら翼の肩越しに姿を現したのは黒田奈々であった。奈々は口調も性格も暢気だった。しっかり者の翼とは対照的に、常に我が道を進み他人の目を一切気にしない性格で、時に周囲を振り回すこともある。そうした性格ゆえになのか芸術的な才能に恵まれており、画家として名を知られているほか、手作りのアクセサリーを町の雑貨屋に置いてもらっているほどだ。舞が奈々と知り合ったのも、そうと知らずに奈々の作ったアクセサリーを購入したことがきっかけであった。おしゃれのセンスも抜群な上に細身で背が高くスタイルがよいので、個性的な服装がいつもよく似合っていた。学年は中学三年生で、舞と翼より一つ年上である。
「奈々さん……!」
そして、部屋のうちより声がもうひとつ。
「ほら翼、舞が困ってるじゃないか。奈々はティーポッドを投げ出さないでくれ。危うく舞の分の紅茶が全部こぼれるところだったぞ……舞、よく来たね。まあとにかく座ってくれ」
翼と奈々に手を引かれた舞が席に着くなり、さっそく始まったのはお茶会だった。背の高い丸テーブルには白いテーブルクロスが敷かれており、その上のバスケットのなかにはふわふわのパンとマフィンが積み上げられ、大皿にはクリームたっぷりのフルーツケーキが堂々と鎮座している。ジャムと蜂蜜の瓶が、アイスクリームを載せた銀の器に取り囲まれてきらきらと輝き、ティーカップの青色がその間にちりばめられてあざやかに映えた。奈々が投げ出したという話が今更ながらに恐ろしくなるような、見るからに高級そうなティーポッドがルカによって傾けられると、アールグレイティーの濃い香りが立ちのぼった。その香りが鼻孔を温め、くすぐると、胸のなかの小さなしこりがすっと溶けたような気がした。
「あっ、ありがとう……!」
少しだけ勇気を出して小さな笑顔をルカに向けると、ルカも微笑んでくれた。
「舞、昼は済ませてきたかい?」
「えっ?あっ、うん。オムライス食べてきたよ!」
「そうか。もうすっかり元気そうだな……よかった」
ルカは手を伸ばして舞の頭をぽんぽんと軽く撫でた。舞は急に先日の出来事が恥ずかしくなった――何も泡を食ってルカから逃げ出すこともなかったのだ。
「舞、熱下がったの?」
横から翼も尋ねてきた。
「う、うん!もうすっかり平気!」
「ふーん、やっぱりそんなもんなんだねぇ。あたしも42度ぐらいになったっていうけど、目が覚めたらすぐ直っちゃったし」
「えっ、奈々さん、42度ってそれ……」
「ルカさんの時はどうだったの?」
「私かい?私も同じさ。ひどいときには40度近くになったが、目覚めるなりたちまち元の健康体さ。母は今でも不思議がっているよ」
「そういえばルカさんはいつ覚醒したの?あたしたちに会う前に白虎としての力も記憶も蘇ってたわけでしょ?」
奈々がパンを頬張りながらもごもごと言った。
「きっかけとか何かあったわけ?」
「それは追々話すよ」
そうつぶやくときのルカはどこか遠くを眺めていた。こんな表情を舞はいつかも見たことがあるような気がした。でも、いつであったっけ。すぐには思い出せそうになかった。
「今はまだ話せない……長くなるからね」
お茶の時間は楽しかった。他愛ないおしゃべりのなかで舞は美味しいお菓子に次から次へと手を伸ばし、ルカの部屋が広いのをいいことに奈々と共にはしゃぎまわって、翼に怒られた(「高いものとかいっぱいあるんだから、壊したらどうするのっ?!」)。ルカは舞たちのリクエストに応じて、コンクールで金賞を獲ったというチェロの曲を演奏して聴かせてくれた。その後に続く難しい音楽論の聴き手は左大臣のみになったが。
しかし、それでも忘れていたわけではなかった。みんなが口に出さないからこそ謝りたいという舞の気持ちは募っていった。謝ったからといって罪が償われるわけでも、前世の悲劇が消えてなくなるわけでもないことは知っていた。でも、きっと……人間としての筋というものがあるはずだから。今は亡き祖母が幼い舞にそれを教えてくれた。
……今こうして楽しくて仕方がない。京野舞でいられることが私はうれしいから。だから、きちんとけじめをつけたいの。前世ではきちんと言えなかったから、こうして再び会えた今こそ。
「……さて、と」
講義はどうやら終わったらしい。脚を組み替えながら注いだばかりの紅茶を一口すすってルカが切り出した。
「そろそろ本題に入らなければ。今日は単にお茶会のためだけに集まったわけではないからね」
ああ、遂に……と舞は思った。切り出すタイミングをずっとうかがっていたとはいえ、この瞬間が来ると、さすがに舞も落ち着かなかった。ルカは前世のことを話そうとしているのだ。
「いまや君たち、いや、私たち全員が前世の記憶を思い出した。私たちにとっては決して懐かしいばかりの記憶ではない。記憶を思い出したことによって、傷口はひろがり、悲しみは膨らんだ……私だけではないはずだ。違うか?」
ごめんなさい、と言おうとした。だが、それより早く翼が言葉を紡ぎはじめた。
「でも、ルカさん!あたしはそれだけじゃないと思うの。つらいことが増えた分、幸せも増えたんじゃないの?だって、あたし、現世にみんなが揃ってるってことが、こんなに幸せなことだなんて知らなかったもの……!」
「そうそう。まっ、記憶が二人分あるっていうのは正直ちょっとだるいけどさ。でも昔のことから学ぶことっていうのもあるしね。オンチコシン、だっけ?」
「温故知新だ」
ルカはこほんと咳を一つして、場を持ち直させた。
「ともかく、翼と奈々の言うことは全くもって正しい。私たちは元来た道を再び歩むために、前世のことを思い出したわけではない。私たちは前に進まなければならない。さあ、本題に入ろう――私たちはどうすれば漆を倒せるのか」
漆の名が出た瞬間、翼と奈々がごくりと唾を呑んだのがわかった。舞はただ膝の上で汗を握りしめたまま何も言えずにいた。両胸を氷柱で射抜かれたような気がした。込み上げてくる吐き気……ああ、だめ。あの時のことだけは、今は思い出しちゃだめ……!
「漆は京姫によって封印されながらも現世で再び甦り、私たちに襲いかかってくる。しかし、漆のねらいはいまだに明らかになっていない。一体なぜあの男は私たちを狙うのか。無論、前世の復讐ということもあるだろう。しかし、私たちの存在があいつの目的の妨げになるということが、根本的にあるはずだ……漆の目的。あいつを倒すためにまずはこのことを知りたい」
ルカのアイスグレーの瞳が案じるようにこちらを見つめていることに気づき、舞は辛うじて気を取り直した。青ざめつつも舞はまっすぐにルカを見つめ返した。じっとりと濡れた掌を拭いながら。
「舞、聞いても構わないかい?」
「うん……何でも聞いて」
「ありがとう。それなら教えてくれ……前世で漆は京姫にその目的を語ったか?」
目をつぶって記憶を思い出す。再び目を開いたあとで、舞は首を縦に振るべきか横に振るべきかでしばし悩んだ。
「……姫さま?」
「うーんと、あのね、言ってたと思うんだけどはっきりとは覚えてなくて。ただ、帝に代わってこの国を支配することには興味ないって、そう言ってたのは覚えてる。たとえ帝になったとして……この私がかつて手にしたほどの力は得られないとかどうとか」
「漆がかつて手にしたほどの力?」
翼がけげんな顔をした。
「それってどういう意味?」
「あやつめが帝をしのぐほどの権力者であったと?しかし、わたくしめの記憶を掘り起こしても、あのような男には覚えはありませぬ。漆というのは無論偽名でありましょうが、それでもあれほどの美貌の男が強大な権力を得ておいて、人の評判にのぼらぬということがありましょうか。笑止ですな」
「漆は死者を操る力を持ってた」
つぶやく奈々の声はいつになく低かった。
「あいつは自分を月の世界を支配する者だって、そう言ってた。前世では、月の女神は確か死の世界の女神だったよね?多分、死者を操る能力を持ってるから、そんな風に言ったんだと思うんだけど」
「死者を眷属とする能力を漆が一体どのようにして手に入れたかはわからない。しかし、もし月の世界を支配する者だという、その言葉が比喩でなかったとするならば……」
ルカは考え込むように両腕を組んだ。恐ろしかった最後の夜を思い出そうとして、舞もまた膝の上で両手を組み合わせた。白い月の面のようだった漆の顔ははっきりと思い出せない。ただその声が霞の向こうからややくぐもりつつも響いてくる。
「私は月の国より生まれ出でた、姫よ、私はこの国に創世以来の奇蹟をもたらして見せよう。水底は天頂に、天頂は水底となる……」
「私はこの国を覆す。神話ごと……」
舞のつぶやきに、一同は揃って目を向けた。
「……漆がそう言ってたの。意味はよくわからなかったけど」
「国を覆す」という言葉はそれぞれの唇へと配られて四つの異なる声音となった。一同は同時にうなった。最初に口を開いたのは翼だった。
「国を覆すって、ふつうは国を治めてる政権だとか、国王だとか、そういう体制を倒すってことでしょ?やっぱり帝と朝廷を倒すことがねらいだったんじゃないの?」
「確かにその通りでしょうな。ただ、朝廷を倒したその後で何をするつもりであったかはわかりませぬが……」
「でもさ、それだったらあいつは現世では何がしたいわけ?もう玉藻の国はなくなっちゃってるわけだし。今度はなんだろ?世界征服とか?」
「あり得なくはないだろうが、奴のヴィジョンがいまひとつ見えてこない。世界を征服したのちにあいつは何を成そうとしている?」
「でも、そんなことわかりようがないんじゃ……」
その後も話し合いが進展する様子はなかった。仮説が次々と出され、あるものはそのまま放っておかれ、あるものは叩き潰され、あるものは投げ捨てられた。全員がお手上げ状態となって黙り込んだところで、舞の頭を馬上の思い出が訪った。赤い月の下、桜陵殿へ向かいながら朱雀が語ってくれたこと――かつて禍つ神を祀る黄櫨の一族が反乱を起こした時に、稲城乙女が一本菊剣で以って鎮められたということ。その禍つ神こそが月の女神である天満月媛であり、満月媛は黄櫨の一族の邪な心によって《《赤く染まってしまった》》ということ。漆が成そうとしているのは、その黄櫨の一族と同じなのだということ。
それを語ろうとしたときふいに心づいた。そうだ、朱雀。朱雀はどこにいるのだろう?元々舞たちがルカから前世の話を聞くことになったのは、朱雀が原因ではなかったか。そうだ、朱雀と結城君――
結城司が豹変してしまったことには朱雀が関わっている…………
翼、奈々、ルカと、自分以外の者たちがさっと立ち上がったのにも舞はしばらく気づけないでいた。ふと座ったまま周りを見回してみて、舞は三人がそれぞれ四神の鈴を手にし、その音に聴き入っているのを認めた。そして当惑しつつも遅れて立ち上がった。
「そう遠くはないようだな。最近はおとなしくしていると思っていたが、全くよりによってこんな時に……いや、集まっている分、却って好都合というものか」
ルカは舞をいたわるように見やった。
「君はまだ病み上がりだ。左大臣とこの部屋で待機していてくれ。万が一何かあったら私の風の力で連絡するから。さて、翼、奈々、さっさと終わらせてお茶の続きとしよう」
「了解!」
「はいよ、っと」
三人が急いで部屋を出ていくのを、舞はただその場に突っ立ったまま見守っているだけだった。右手を胸元に充てたまま。三人の足音が遠ざかってもなお立ち尽くしている舞を不審に思ってか、舞の椅子の肘掛へとぴょんと飛び移って、左大臣は舞の膝のあたりを突っついた。
「姫さま、ひとまずお掛けなさいませ。ご案じになるお気持ちはわかりますが……」
左大臣はふと口をつぐんだ。それは半身だけ振り返った舞の瞳が戸惑いゆえのうつろな光を投げかけたためであったのだろう。
「左大臣、おかしいの……」
「一体どうなさいましたかな?」
舞は左大臣の前に右手をつと伸べた。掌の上に、舞の桜の鈴が載っていた。
「鳴らなかったの、この鈴。さっき他のみんなの鈴は鳴ってたのに、私の鈴だけ鳴らなかったの……それだけじゃないの。私さっきから何度も変身しようとしてるのに、できないの。私……私、京姫の力を失っちゃったみたい……」
舞の声は恐怖を胸に抑え込もうとしてか細く震えていた。舞はしばし鈴をじっと見下ろしていたが、やがて手の中にしまいこんで大切そうに再びぎゅっと胸に押し当てた。それでも鈴が舞の願いに応じることはなかった。鈴は舞の体温をしても温まり切らないまま、地に墜ちた小鳥の骸のごとく冷たくこわばり、頑なに黙り込んでいた。
「ふふ、嬉しいですわ。あなたの悶え苦しむ顔がまた見られるのですもの。楽しみましょうね、白虎……いいえ、白崎会長」
桜花町のどこかで薄色の髪の乙女が微笑む。




