表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第四章 現世編―芙蓉の巻再び―
62/120

第三十三話 現世へ(上)




 きっと、また会えるから――











 「幸せに、なって…………」











 はっと目が覚めたとき、どこにいるのかわからなかった。明るすぎて、静かすぎて、平和すぎて、明らかについ先ほどまでいた場所とはちがった。ここはどこなの、なんで私はこんなところに……それから気がついた。私の名前は京野舞きょうのまいで、十四歳で、桜花中学校二年生で、このささやかな家で家族とともに幸せに暮らしていて、横たわっているここは自宅の寝室のベッドの上で、今まで長い夢を見ていたのだと。


(私はもう京姫じゃないんだ……)


 ゆっくりとパジャマの体を引きずりながら起き上がり、片膝に頭を載せて、安堵のあまり舞は深いため息をついた。その安堵と嬉しさと、それに対する見し夢の苛烈さは、いっそこちらの方が夢なのではないかと疑われるほどで、舞は指で冷たいシーツを何度もまさぐった。シーツは舞の体温でたちまちぬるびた。部屋にはごく弱く冷房がかけられていて、窓の外では蝉が軋んだ声を上げている。夏なのだ、と舞は思った。


 ……そうだ、夏休みが始まったばかりだったんだ。誕生日にみんなで海に遊びに行った。その夕方に結城司が訪ねてきて、思いがけず仲たがいをして、それをきっかけに司が舞の前世と関係のある人物であることを知った。そこでルカを問い詰めて、白崎家で前世の話を聞くことになったのだ。そこまでは覚えている。でも、それからどうしたんだっけ……?


 その時、ノックもなく寝室のドアが開く気配がした。


「あれ?なによ、起きたの?」


 姉のゆかりだった。母親譲りのウェーブのかかった黒髪を無造作に束ねて肩に流し、すらりと長い手足をTシャツとホットパンツから突き出して、いかにも夏らしい装いである。おまけにアイスキャンディーの棒をくわえているのだから呆れてしまう。舞は顔をあげて目をしばたいた。


「あっ、お姉ちゃん、おはよう」

「全然、おはようって時間でもないんだけど。もう二時だし。熱は下がったの?」

「熱って……?」

「えっ、うっそ、覚えてないの?あんたほら、水仙女学院うちの生徒会長の家で熱出して倒れて、送ってもらったじゃない。すっごい高級車で。なんていう車かは知らないけどさ……あんた、それから今日までずっと寝込んでたんだから」

「今日まで?……えっ、今日まで?待って、今日って何日?」

「はあ?二十七日だけど」


 舞は青ざめた。確かルカの家にみんなで押しかけたのは七月二十日ではなかったか。とすると、まるまる一週間も寝込んでいたことになるが、その間の記憶は全くない。熱に浮かされつつ前世の記憶を辿っていたのだろうか。しかし、七日間で思い出すにしては前世の記憶はあまりにも……


 いつの間にかゆかりが寄ってきて、舞の額に手を充てていた。


「うん、まあ確かに熱は下がってるわ」

「ねぇ、お姉ちゃん、私ほんとにずっと寝込んでたの?」

「そりゃあまさしく言葉どおり。寝ながら譫言うわごとばっか言ってるし、起き上がってもぼーっとして人の話もまともに聞いてないし、一時はどうなるかと思ったけど……それはそうと、あんた、生徒会長とどこで知り合ったの?あの人しょっちゅうお見舞いに来てくれてたんだよ。医者やってるという伯父さんまで引き連れて。おかげで家じゅうお菓子と果物なんだけど、この家」

「ルカさんが……?」


 ルカという名前をつぶやきながら、最初に舞の脳裏に浮かんだのは前世の白虎の姿だった。すぐに違和感を覚えて、舞は頭を振りながら、いつしか水仙女学院の校内新聞で見た、チェロを抱えたルカの姿を思い浮かべる。容貌は極めてよく似ているが、やはり違う。白崎しろさきルカはまだ十六歳の少女で、前世の白虎はすでに大人の女性だったのだから当然だ。それから翼や奈々も、青龍や玄武とはやはり違っている。多分、私自身も……舞はふと気づく。舞の記憶がよみがえったということは、翼と奈々も前世のことを思い出したのだろうか。ということは、京姫の犯した罪のことも二人は知って…………?


 その一瞬、戸外の蝉の声が掻き消えた。


「まあ、とりあえず、なんか食べたら?お腹すいてるでしょ。昨日までおかゆしか食べてなかったんだし。なによりあんたの胃袋でお菓子と果物、消費してほしいんだけど」

「……うん」


 うわの空のまま舞は立ち上がる――どうしよう。翼や奈々さんと顔を合わしたくない。ルカさんだって。それに左大臣にも……舞はその時、あることに気がついて部屋中を見回した。


「あれ、さだ……じゃなかった、テディは?」

「テディ?ああ、あのボロいテディベアのこと?さあね、昨日まで枕元にあった気がするけど」

「そう……」


 階下に向かいながら、どこか安心している自分を舞は責めた――私はひきょうだ。私は怖くてしかたがない。左大臣と顔を合わせることが。翼や奈々さんやルカさんと顔を合わせることが……だって、私は前世でみんなを裏切った。私が京を捨てたせいで、京は壊滅したのだから。


(左大臣もルカさんも、私が前世でしたことを知って、それでも今までずっとふつうに接してくれてたんだ)


 そう思うと苦しくなる。二人が私のことを少しも恨んでいないなんて、そんなことがありえるの?あれほどの罪を犯して、なおも私のことを愛してくれる人がいるなんて、そんなことがありえるの?そんなことがありえたとして、私はどうすればいいの?その愛を、与えられるままに受け取っていいんだろうか。


(翼と奈々さんは……?)


 そこまで考えが至った時、ちょうど居間にたどり着いた。母親はたまたま手が空いたのか、ソファの上でコーヒー片手に録画した「和の芸能」を見ていたが、舞の姿に気がつくと、「あら」と声を上げた。


「おはよう、お母さん」

「おはよう、舞……って、もう二時だけど。熱下がった?」


 母がソファの背もたれ越しを差し出したので、舞はとことこと寄っていってその掌に額を押し当てた。末端冷え症の母の手は、夏の昼でも冷房のせいで冷え切っていて気持ちよかった。


「うん、下がったみたいね。よかった、よかった」

「えへへ」


 母の手に頭を撫でられながら、舞はふしぎな心地がした――こんな心地は初めてだ。きっと、前世の記憶のなかで、母も父もいない人生を知ったためなのだろう。そう思うと、急に仕事に出かけている父親が懐かしくなり、また母親に甘えたい気持ちがまさって、意味もなくその肩に抱き着いてみたりするのであった。


「舞、なんか飲む?お腹はすいてる?おうどん作ってあげよっか。それともお菓子の方がいいかな。白崎さんが色々お見舞いで届けてくださったのよ。白崎さんのお母さまがね、ロシアのお菓子を作ってくださったんだって。なんだっけ?ああ、そうだ、プリャーニクっていうお菓子なんだけど……」

「食べる!あっ、でも、おうどんも食べる!」


 すでに立ち上がり、オープンキッチンのカウンターで大きなバスケットをがさごそと漁っていた母親は、病み上がりとは思えない舞の元気のよい声に、呆れたような顔をしてみせた。一方の舞は先ほどの憂いも忘れ、テーブル越しにきらきら輝く翡翠色の瞳を母親に向けていた。さながらおやつを前にした子犬といったところである。プリャーニクは果物やナッツやスパイスをふんだんに使ったロシアの焼き菓子であるが、一度白崎邸でふるまわれて以来、すっかり舞の好物になっていた。


「はいはい、両方ね……」



 結局プリャーニクを三つたいらげ、すっかり元気を取り戻した舞であったが、母が「あっそうだ」と言って差し出したものを見た時、心臓がどきりとするのを覚えた。それはクリーム色の封筒で、その表には、流麗な字で「舞へ」と記されていた。


「白崎さんから預かってたのよ。舞が元気になったら渡してくださいって。本当に親切ね」

「う、うん……」


 舞はどうしてもその場では読む気になれずに、適当な理由をつけて自分の部屋に戻ってから封筒を開いた。舞の手にはいささかもてあますほどの立派な紙に、ルカはさらさらと文章を綴っていた。




 舞へ


 君が目覚めたらすぐにでも伝えておかなければいけないことがある。もしかしたら君は私との面会を拒むかもしれないからこの手紙を綴った次第だ。君を傷つけたり苦しませたりする意図は一切ない。だから、どうか目を通してほしい。


 君は寝込んでいた間に前世の記憶を少なからず思い出したことだろう。私の記憶が蘇る時もやはり同じように高熱が出て数日間寝込んだものだ。だから君のことはあまり心配していない。たとえ38.9度の熱があろうとも――但し、体については、だが。


 君の心についてはとても心配していると言っておく。前世のことを話しはじめる前に、懐かしいばかりの話ではないと私が言ったことを君は覚えているだろうか?今の君にはその意味がわかると思う。京姫の前世での最期はあまりにも惨い。それに加えて君のことだからきっと罪の念で苦しむことだろうと思う。そして罪の念ゆえに私たちを避けようとするのではないかと危惧している。


 舞、まずはこのことをしっかり理解してほしい。前世の出来事はあくまで前世の出来事だ。京姫の行いは君の行いではないし姫の罪は君の罪でもない。京野舞は京姫ではない。白崎ルカが一条家の白虎ではないのと同様に。私たちは前世に存在したひとりの少女あるいはひとりの女性から、記憶と使命とを引き継いだ。それからいくらかの想いとを。だが、それだけだ。だから、君が前世の行いのことで自分を責める必要は全くない。これは私だけではなく、翼、奈々、左大臣、前世からの仲間全員の見解だ――思い出してほしい、舞。君は私に、君を「舞」と呼ぶことを許してくれた。そして私も君を「舞」と呼ぶことに決めたのだ。それだけで私たちが京姫と白虎ではないことの証ではないだろうか。


 どうしても京姫の罪が君の罪ではないと君が認められないとしたら……改めて考えてみたほしい。京姫のしたことは本当に罪と呼べるものなのかと。


 君は姫が感じていた孤独もさびしさを思い出せるはずだ。私には想像することができる。京姫は生まれながらにして京姫だった。生まれてから一度たりとも桜陵殿の外の世界を見たことがなかった。物心ついたころから京姫として世話をされ、奉られ、それに応えるべく務めを果たす。そうした自分の在り方を受け入れるよりほかになかった。そうした人生しか許されていなかった。与えられていなかった。……それはあの玉藻の国では致し方のないことであったとはいえ、人間の本質が前世でも現世でも変わらないことを考えればなんと残酷なことだっただろうか。


 長くなってしまいそうだから簡潔に言おう、舞。外に出たいと思った京姫の気持ちも京を離れた姫の行為も罪ではない。自立した人間ならばどんな人間であれ、明日の居場所を誰かに定められる謂れはない。しかし、あろうことか、人々は姫から自立する機会さえも奪おうとした(白虎さえも!)。花の蜜だけで育てられた少女にどれだけの成長が見込めると思う、舞?その甘ったるい残酷さは君もわかるだろう。


 それでも京姫はまっすぐに育った。あの玉藻の国には鬱悒い女部屋のなかで物ひとつ考えることなく一生を終える深窓の令嬢たちが大勢いたにも関わらず、姫はそうならなかった。姫は与えられた人生にただ納得するのではなく外の世界に出たいと考えた。それが人間としてごく当たり前に与えられるべき権利だったからだ。

 なるほど、たとえ姫の気持ちが罪でなかったにしても結果的に京に滅亡をもたらしてしまったではないか。悪しきものどもに侵入を許したのは、姫が京を離れ結界が弱まったためではないか。それに対して姫は何と咎めも受けなくてよいのか?――そう君は反論するかもしれない。だが……不確定なことを断言するのは避けておこうね、舞。だが、京姫の離京と結界が弱まったことにどれほどの因果関係があったのか、私は疑問に思っている。漆は京姫が京を離れる機会を待っていたというのか?そんなありそうにない事態を待ち受けていたというのか?万に一つもあり得ないと思われていた事態を?そんなばかげたことがあるだろうか。漆というのは偶然などというものに頼るような男ではない。そのことは君もよく知っている通りだ。


 漆はただ京姫の離京を鐘代わりに使っただけだ。京を守護する姫巫女の失踪だなんていかにも終焉の始まりに相応しいから。無論、これはあくまで推測に過ぎないが、私だけの推測ではない。左大臣も同じ考えだ。


 左大臣は京野家と私の家を行き来している。君のことが心配だから離れたくない気持ちはある一方で、君が自分と顔を合わせたがらないのではないかと不安がってもいる。もし目が覚めたときに君の元にいなければ私の家にいると思ってくれ。そして、君が会いたいと思ったタイミングで連絡を寄こしてほしい。



 最後になったがもう一度言おう。舞、君には何一つ罪はない。今はとにかく早く元気になってくれ。そしてどうかまた明るい笑顔を私に見せてほしい。随分長いこと君の笑顔を見られていない気がするからね。



待ってるよ、舞。



Лука



追伸


翼や奈々にも連絡してあげてほしい。二人はすでに熱も下がって君のことを心配している。




「ルカさん……」


 感慨は舞の口からこぼれ出す。舞は思わず天井を見上げる。


「……私にもわかる言葉で書いて」


 読めないよ。「鬱悒い」ってなに?一文字もわからないもん。私が漢字知らないだけじゃないよね?中学二年生に読めるわけないよね?っていうか高校生でも読めないよね、きっと……あれ?ルカさん何歳だっけ?


 それから舞は再び手紙に向き直る。ルカの文章は難しいが、舞を思いやり心配するその心だけは痛いほどに伝わってきた。だからこそ舞はいよいよつらくなるということを、ルカは知っているのだろうか――ルカは舞のせいではないと言ってくれているけれども、舞のなかにはまだ京姫として生きた記憶も想いも生々しく残っている。いくら前世での出来事だといわれても、京姫は舞ではないと言われても、あの記憶も想いも切り離すことができない以上、やはり舞は京姫だ。


 京姫に何の罪もないともルカは書いてくれている。舞はルカを信じている。それでもルカの言葉をいまひとつ信用しきれないでいる。もう一度読み直してみよう。


……漆はただ京姫の離京を鐘代わりに使っただけだ。京を守護する姫巫女の失踪だなんていかにも終焉の始まりに相応しいから。



 もう少し前を。


だが、京姫の離京と結界が弱まったことにどれほどの因果関係があったのか、私は疑問に思っている。漆は京姫が京を離れる機会を待っていたというのか?



……漆というのは偶然などというものに頼るような男ではない。



 でも、もし漆が京姫が京を出るように仕組んだのだとしたらどうだろう。京姫はなぜ京を出たのだったっけ?舞は胸のなかで何かが軋む音を聞いた気がした。なぜだか思い出したくない。でも思い出さなくてはならない。そうだ、紫蘭と共に生きたくて京姫は……紫蘭――紫蘭って誰…………?



 ……月光を受けて白くひらめく肩。その肩にこぼれかかるつややかな黒髪。冴えわたる輪郭と皮膚。鋭いのにどこか物憂げな宵闇の色の瞳。うつむいたその影のなかで呼吸をして、ほのかに色づいていたうすい唇。



 手紙ははらりと落ちて素足の上に広がったが、舞は拾い上げることもできないでいた。その時、インターホンの音が鳴った。


「はーい」


 というのが、母の返事であった。母が玄関先へ出て訪問客とやりとりをしているらしい声がしばらくその後に続いたが、舞には誰が来たのだか何を話しているのだかわからなかった。やがて客は帰ったらしく、ドアの閉まる音がした。舞は相変わらずベッドの上に腰かけたまま動けないでいた。母が階段を上がってくる気配がした。


「舞、ちょうどいまね……あら、顔が赤いけど大丈夫?また熱が出たんじゃない?」

「えっ?ううん、大丈夫!」


 舞は慌てて言った。


「それよりなに?」

「たったいま白崎さんが来てくれたの。舞なら起きてるから会いますかって聞いたんだけど、今日はいいって。またお見舞いいただいちゃった。あなた、今度よくよくお礼言ってね」

「う、うん……」

「元気になったらぜひまた遊びにきてくださいって言ってたわよ、よかったわね。まあ、今日はまだ寝てなさい。夕飯の時間にまた起こしてあげるから」


 母が去ってしまうと、舞はつま先立ちになってそっと窓辺にしのびより、ピンク色のカーテンで身を隠しつつも外を覗いてみた。夏の日差しに金色の髪を輝かせて、ルカはまだ京野家の門の前んいたたずんでこちらを見上げていた。白いシャツに黒のズボンというシンプルで品のある装いが、すらりとした長身によく似合っている。ああ、ルカさんだ、と舞は思った。懐かしいだなんて変な感情だ。現実ではたかだか一週間会っていなかっただけだというのに。でも、やっぱり懐かしい。


 舞の影に気がついたのだろうか。サングラスのフレームに指をかけようとするルカを見て、舞は窓辺から飛びのき、ベッドの上に突っ伏した。その後ろでカーテンが揺れていることも知らないで。


(ごめんなさい、ルカさん)


 心臓が早鐘を打っている。まるで脅かされたように。こんな感情を今までルカに対して抱くことなかったのに。


(やっぱり、私、まだ……)


「姫さま」


 舞の心臓はまたもや飛び上がりそうになった。だが、今度は愕きとともに悲しみに似た感情が胸にあふれ出した。愕きが胸に受けた打撃だとすれば、悲しみはそこから流れ出る血液のようなものであった。それが胸いっぱいを浸すのだ。


「……姫さま」


 縋るようなしわがれた声であった。いかめしい老人の口から出るにはふさわしいが、かわいらしいくまのぬいぐるみの口から出るには絶対におかしい。変だ。変。慣れていたせいで変だと思わなかったけれど。舞は一瞬笑い出しそうになったが、笑いのために緩んだかと思えた唇はたちまちわななき出した。だって、おかしいと思った声は京姫を最後まで守ろうとしてくれた声だったから。


 舞は振り返った。今は足を向けている、ベッドの枕元に見慣れたテディベアの姿があった。幼いころからテディと名前をつけてかわいがっていたが、いつからか左大臣と呼び始めていたぬいぐるみだ。やはりこの時も、舞は後者の名でぬいぐるみを呼んだ。


 舞がテディベアに飛びついたのが先か、テディベアが舞の方に駆け寄ってきたのが先かは傍目からはわからなかっただろう。ともかく主従は抱き合った。そして、声を上げて泣いた。舞の目にはたちまち大粒の涙があふれだし、後から後からぼろぼろとこぼれて止まらなくなった。


「左大臣……うっ……ご、ごめんなさい、わたし、わたし……っ!」

「言いなさるな、皆まで言いなさるな……」

「いやっ!!謝らせてよっ!わたし……」

「姫さまに罪はございませぬ。姫さまがあのような最期を遂げなければならなくなったのは、わたくしめが至らなかったためで……」

「ちがうの!わたし……!わたし、左大臣に、辛い思いさせたんだもん……!」


 舞はぬいぐるみの頭の上で鼻をすすった。漆との闘いの明くる日、京姫は左大臣の前で京の人々に連れられて処刑の地へと赴いた。左大臣に止める術はなかった。彼が非力であったからではなく、京姫が左大臣に自分を庇うことを禁じたからだった。長かった冬にようやく春が芽吹きはじめたと思われた、うららかな朝のことであった。


「……確かにあれは悲しい記憶でございましたな、姫さま」


 左大臣の言葉は力なくしぼみかけた。


「しかし、一番お辛かったのは、姫さまではありませぬのか?老いぼれには姫さまと再び出会えたという、それだけでよいのでございますから…………ああ、姫さま!今いらっしゃるのですな!紛れもなく、この九条門松くじょうかどまつめの前に!」

「うん、左大臣、また会えたね……!また会えたんだね……!」


 京野舞と京姫は別人じゃなくていい――少なくともこの瞬間だけはそう思えた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ