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京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第三章 前世編
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第三十一話 月下(下)

「姫さまは黄櫨はぜの一族の反乱のお話をご存知ですね。『暁星記あかつきぼしのふみ』に見える……」


 馬の蹄の音に紛れぬように、朱雀は京姫の耳元で低く囁いた。正殿を巡って内裏の東側を北に向かって突き進む二人は、東宮御所であった青桐舎せいとうしゃの傍らを駆け抜けていた。灯の一切ともらぬ闇を、馬はただ月光を頼りに引き裂き、薙いでいった。そのたてがみから立ちのぼる熱気が姫の鼻孔や口元を圧し、その蹄から全身にみなぎる荒々しいまでに強靭な力が京姫を揺さぶった。姫は舌を噛まぬように、懸命に言葉を外界へ押し出さなければなかった。


「確か、白梅帝が……」

「えぇ。父白菊帝の跡を継がれて天の下しろしめた白梅帝。その白梅帝の御代にまがつ神を祀る黄櫨の一族が反乱を起こしたと記されています。その鎮圧にあたって、白梅帝の母后である稲城乙女いなきおとめがわたくしども四神を引き連れ、戦われたことを姫さまはご存知ですね」


 京姫は小さくうなずいた。


「そして黄櫨の一族を倒したのち、稲城乙女は京姫となられました。それはこの京を襲ったわざわいを永久とこしえに鎮めるため。姫さま、まがつ神と呼ばれたその神は決して悪しき神ではございませんでした。その女神は今、私たちを見下ろしている……」

「……天満月媛命あめのみちつきひめのみこと

「えぇ、まさに仰る通りです。の女神は黄櫨の一族に触れられたことによって赤く染まってしまっただけ。ちょうどわたくしたちが黄櫨の木に触れるとかぶれてしまうように。京を滅ぼさんとする黄櫨の一族の邪なる意志が満月媛を変えてしまったのです……姫さま、かのウルシという男が成さんとしているのは、まさに黄櫨の一族と同じことではありますまいか。かの男はこの京を、いいえ、この国を滅ぼそうとしているのです」


 「我が望みのためだ。お前も帝もその妨げになる」―― 一体なぜ帝を殺したのかと尋ねたとき、漆はかのように答えたのであった。その望みとはこの国を滅ぼすことであったのか。なんと……なんとくだらない望みだろう。一体なぜそんな恐ろしいことを……


 主上、と胸のなかでつぶやいてみて、京姫は痺れるような悲しみに思わず胸を押さえた。変わり果てた帝の姿が忌々しいほど克明に、京姫の脳裏に浮かび上がった。ああ、主上……!お優しかった主上、大好きだった主上、私のことを慈しみ愛してくださった主上!なぜ主上があのような惨たらしい最期を遂げなければならなかったのでしょうか。なぜ漆という男はかくも残忍になり下がることができるというの。


(それとも……もしかして、全部……)


「姫さま、稲城乙女がどのようにして黄櫨の一族を鎮めたか覚えていらっしゃいますか?」


 朱雀に尋ねられて、京姫は重たい物思いから顔を上げた。紅の月に染められた世界を見つめていると、なんだか赤く染まった水のなかを泳ぎ回っているかのような錯覚に陥ってくる。見つめるもの全てが赤く揺曳していて、呼吸するのさえ息苦しくなるような。そのなかで朱雀の声だけがまっすぐに京姫の耳へと届いてくる。


「ええっと、確か……」


 思い出せないのは恐怖と緊張のせいばかりではなかった。きちんと勉強しておくのだった。こんな時になって後悔するだなんて。『暁星記』は暗記せねばなりませんと、青龍に散々叱られたというのに。


 背中越しに伝わってくる朱雀の厳かなふるえが、京姫に()()()を思い起こさせた。



 朱雀、すでに両の翼を打ち破られれば、地に倒れ伏し、蹴爪を以ちて天を蹴り、羽搏きを以ちて地を撃ちたり。紅の羽、砂煙ばかりは夥しく舞い上がれども、遂に飛ぶこと能はず、天有明星命、その胸に這ひのぼりて……



「……一本菊剣ひともとぎくのつるぎ


 白菊帝がかつて四神を征伐する際に用いたという一本菊剣。稲城乙女は黄櫨の一族を鎮めるにあたって亡き夫の剣を持ち出した。そしてその霊力と四神たちの力を用いて黄櫨の一族を滅ぼし、その王たる黄櫨王はぜのおおきみを打ち倒したという。


「今こそ再び一本菊剣が持ち出されるべき時です」

「でも……」


 天つ乙女が御子・天有明星命を玉藻の国に降ろすにあたって、一本ひともとの白菊の下に降ろされたという。桜乙女が御子を見出し、ご養育され、やがて麗しい男子となられた有明星命と結ばれたのちも、白菊は不思議と枯れることなく咲き続けた。やがて、天つ乙女より四神征伐の命が下ったとき、菊は剣として世にも麗しき妹背の前に示された。その剣こそ、一本菊剣であった。


 幼い手にずっしりと重たく冷たかった剣の感触が、夜気に冷やされるそばから姫の掌に蘇ってくる。一本菊剣に触れたのはたった一度だけ――践祚せんその折の神饗の夜のことである。幼い京姫が剣を奉ることで、帝ははじめてこの国の正しき統治者となられたのであった。そしてそれ以来、剣は姫の知らないところに仕舞われてしまったのだ。


「でも、どこに……」

「神饗祭で使われた剣は、本物を模して作ったものに他なりません」


 姫の考えを見透かしたかのように、朱雀は言った。


「一本菊剣は天つ乙女よりこの国に授けられしもの。そうであるからには、その管掌は天つ乙女の生まれ変わりであられる京姫でなくてはなりません。姫さま、本物の剣は……」


 朱雀がすばやく手綱を引いたその動作を京姫は喪服の上に感じた。いななきを立てて急停止した馬の足元で、何かがひらめいたのを京姫は見た。続いて赤い闇が突然燃え上がったのも。驚き目を瞠る京姫が、朱雀の厳しい目線にならって見出したのは、青桐舎の屋根の上に立ち並ぶ影の群れであった。矢をかまえ、刃を光らせた幾人もの宮仕えの男女である。その顔は一様に青ざめ、瞳からは生の輝きが失せていた。京姫は事切れた帝の御顔を思い出してぞっとしたが、それでもまさかこちらに向けられているとはいえ、彼らがたった今自分に向かって矢を射ただなんてことは思いつきさえしなかった。


 再び放たれた矢に身を屈めた京姫は、朱雀の虫篝が中空で矢を捕らえ焼き尽くすさまを、姫を庇った朱雀の袖越しに目撃した。低いわらいが立ち並ぶ影のうちのいずこよりか漏れた。


「さすが。地獄の業火の使い手たる朱雀よ」


 影の群れに並んで、ひと際背の高い漆の美貌かんばせは、闇に掲げられた鏡面のように映えた。京姫はその冷たい鏡面に接したような気がして、朱雀の胸元へ身を寄せた。頭のなかがじりじりと冷えて痺れ出す。嘘だ。漆がなぜここにいるの?だって、漆がここにいるということは……


「青龍は?!」


 思わず叫んだ京姫を、朱雀は制した。だが、漆は残酷な答えを告げる機会を逃さなかった。


「息絶えた。我が扇に首を掻き切られて」

「そんな……!」


 そんなはずがない、と京姫は両手で口元を覆った。嘘だ。青龍が死ぬはずがない。玄武も、白虎も、そうだけど、でも青龍が……青龍だけは何があっても、私の前からいなくなるはずがない。そんなことは起きっこない。でも…………青龍!


「……姫さま、お急ぎください」


 震える京姫の身を抱いて、朱雀はそっとささやいた。京姫はうつろな瞳で朱雀を見つめ返すだけだった。朱雀が何を言っているのかが理解できなかった。急ぐってなにを急ぐというの?声をひそめて朱雀は続ける。


「あの者はわたくしにお任せください。姫さまは一刻も早く桜陵殿へ。剣をお探しになるのです」

「つるぎ……?」


 朱雀は京姫を突き放して、一人ひらりと馬から飛び降りた。その右手の内に蛍火の銃身がきらめいた。同時に朱雀の瞳が強く燃え上がった。


「さあ、姫さま」


 京姫はわけもわからぬままに首を振った。そしてそのまま一度は力なくおろした両手で、顔を覆った。もう何も考えたくなかった。何も見たくもなかった。とにかく眠りたい。休みたい。いや……こんな現実こそ全て悪い夢なのだ。目が覚めれば、何もかも間違いだったということがわかるはずだ。


「姫さま……!」

「おや、かわいい姫さまのわがままを聞いて差し上げないのか、朱雀よ。姫さまはお疲れだと見える。このまま休ませて差し上げてはどうだ?」


「……姫さま、お早く!」


 朱雀が声を荒げるのを、姫は恐らく初めて聞いた。


「桜陵殿へ!」


 朱雀が言い放つのと銃声が弾けるのとが同時だった。駆けだす馬の揺動に、京姫ははっと顔を上げて、咄嗟に手綱を握りしめた。そのまま景色は遠ざかる。漆と、そして漆に操られる大勢の死者の群れを前にたった一人で立ち尽くす朱雀の横顔もたちまち小さくなった。屋根の上で小さくなった青龍の姿と同じで。



 小さくなって流星のように掻き消えた青龍……



 京姫を目がけて青桐舎の屋根より飛んできた矢は皆、空中で燃え上がって焼け落ちた。朱雀が虫篝の技を京姫に授けたものとみえる。それを見るにつけても、京姫は疲労も絶望も振り落とされるかもしれぬという恐怖を忘れて、その名を呼ばずにはいられなかった。



「朱雀ーっ!!」





 檜皮葺の屋根から突き落とされた少女の体を、左大臣は抱き止めた。もう助からぬことは一目で明らかであった。切り裂かれた首筋から流れ出る血が、少女の衣装を重たく濡らし赤く染め上げていたから。それでも、左大臣の肩にかかった少女の長い髪は生まれ持った藍色を、いまだ清らかに保っていた。


 少女の呼吸は凪ぎつつある。その生命から絞り出される雫は次第にか細く、滴りの間隔は次第に遠く。しかし、少女は凪を乱してもなお、最期の言葉を紡ごうとしていた。


「左大臣……ひめさまをお願い……」


 左大臣は眉をひそめる。それは悲しみのためばかりではなく、孫娘ほどの少女がこの老残に願いを託そうとする、この歪んだ世界の不条理のために。不条理への怒りのために。この怒りはかつて親しんだものであった。妻を亡くした時、妹を亡くした時、我が子を亡くした時、この怒りは常に左大臣の隣にあった。


 だが、青い瞳から伝い落ちた涙が、左大臣の怒りを流し去った。左大臣はしっかりと頷いたあとで、冷えゆく少女の手を握りしめた。朋友との別れに際して、それがもっともふさわしい行為だと思われたのだ。


「ご安心くだされ、青龍殿。姫さまは必ずこの九条門松がお守りいたしまするぞ。我が命に代えても」


 青龍がふっと笑った。


「ダメでしょ…左大臣も、生きて……生きて、ひめさまを見守らなくちゃ……勉強、ちゃんとするように……もう、もう二度と…………逃げだしたり………………」


 その言葉が最後の一滴であったのだ。左大臣の手をほんの一瞬握り返して、少女の指は花の散るようにはらりと崩れ落ちた。左大臣はしばしその顔を眺めていたが、やがて優しく少女の瞼を閉ざしてやると、亡骸を正殿の庇の下にそっと横たえて立ち上がった。今は弔うほどの猶予もない。


 その時、左大臣は誰かの呼ぶ声に気づいて振り返った。猛烈な勢いで駆ける馬の蹄が近づきつつあった。







 駿馬の強靭な脚は風よりも速く光よりも確かに、京姫を桜陵殿へと連れ去ろうとしていた。馬の胴から立ちのぼる湯気はその足裏の土のにおいまでもぬくませて伝え、その躍動する肉体に宿るつやめきは赤い闇を幾重にも切り薙ごうと試みる白い火花のようであった。馬の野性は、茫然と手綱を握る姫の心にはまるで無関心に思われた。


 青龍の死が、たった今目の前で起きつつある急速な変質を、変質のその本質とでもいうべきものを、もどかしげながらに姫に伝えようとしていた。姫の心はその必死な試みに捕らわれたのだ。それは、帝の首が無残に転がっているさまを見たときにも、漆を目の前にしたときにもなおも黙り込んでいたのに、青龍の死の知らせを聞いた途端、姫に訴えかけ始めたのだ。


 無論、姫は青龍の死を実感として受け入れてはいなかった。青龍の死を信じない心も絶え絶えながらに生きている。全ては漆の嘘であるか、または青龍は死んだと見えて実は生きていて今誰かの介抱を受けているのだとそう信じたかった。だが、信じる気持ちばかりがいつも強すぎるのだ――今日こそ桜陵殿を囲う石垣から飛び出せるとそう信じていたあの頃から、いつも――寄り掛かろうとする力が強すぎるために、せっかく組み立てかけられた壁はいつも崩れてしまうのだ。実物の壁が、石垣が、堅牢に立ち塞がるのとは反対に。


『青龍!』


 それでもこの気持ちに賭けたかった。夜の暗闇に紛れて、昼の日差しを笠にして、庭に飛び出していった日々のように。


『玄武!白虎!』


 死に絶えた風で届けようとして、必死に呼びかける。


『朱雀……!』


 返事をしてよ、という言葉は唇から出た。


四神みんながいないだなんて、嘘だよね?』


 そうに決まっている。絶対に、絶対に。


四神みんなが負けるわけないよね?だって……ずっと京を守ってきたんじゃない。一度だって負けたこと、なかったじゃない。『暁星記』に書いてあるぐらいずっと昔から、四神が負けただなんて……天有明星命以外には……そんなの書いてなかったのに』


 ねぇ、ほら、青龍、私ちゃんと覚えてるでしょ?『暁星記』のこと。ただ寝てただけじゃなかったんだよ。だから、褒めて。


『私を一人にするわけないよね?』


 いつでも姫さまの元に馳せ参じますと誓ってくれたじゃない、白虎。


『まだみんなでやりたかったこと、やらなきゃいけないこと、たくさんあるよね?』


 まだ明るい笑顔を十分に見尽くしてないよ、玄武。


『……これも全部、罰なの?』


 教えて、朱雀。今すぐこの悪い夢から揺り起こして、全ては夢なのですよと言って。

 


 このままでは、四神みんなが私の前からいなくなってしまう……



 どこからともなく響いたおぞましい咆哮に、京姫はびくりと顔を上げた。不安定な視界で見回した先に、屋根瓦の上を自在に飛び越えてこちらをめつける怪物どもの群れがあった。角と灰色の被毛を持つその怪物らとすでに四神たちは相対していたのだが、初めて遭遇した姫は驚きおののいた。知らず知らずのうちに、姫は馬のもっと速く駆けるようにと命じていた。命令というよりは嘆願に近かった。


 しかし、朱雀の愛馬が姫の嘆願に真摯に応えんとしてもなお、駆ける速さでは異形のものたる怪物どもの方がまさっていた。怪物の群れは屋根の上を並走しつつ悠々と馬に追いついてしまうと、一頭、また一頭と屋根の上から飛び降りて、着地したその衝撃を跳躍の踏み切りとし、姫に飛びかかってきた。間近にせまる咆哮の太さと、赤い口腔の鮮烈さに、京姫は思わず身を屈め、黒馬は駆けながら激しく鳴いた。怪物の鋭い鉤爪はことごとく虫篝の火に焼かれ弾かれたが、馬は昂奮と恐怖のあまり蹄を滑らせた。


 どしん、という衝撃を受けて、京姫は地面に振り落とされた。左半身を打ち付けた姫は、しばらくは事態も把握できぬまま放心状態にあったが、低いうなりをすぐそばに聞いて、はっと起き上がった。怪物どもはまだ生きているのだ。

獣の吐く息の臭気とその生温かさに、産毛がぞわりと立つのを、姫は感じた。京姫は痛む足で立ち上がったが、そのまま一歩も動けないでいた。恐怖のためばかりではない。すでに周りを怪物たちに囲まれていたのである。ところで、怪物はもう一頭いたのではなかったか。


 馬のいななきに振り返った京姫は、よろめきながらも起き上がった黒馬に、飢えた獣が牙を立てようとしている光景を見た。


「やめてっ!」


 叫んだ京姫は恐怖も忘れて無我夢中で飛び出した。と同時に、姫に襲いかかった怪物どもは今度こそ虫篝の炎に焼き尽くされ、聞くに堪えない断末魔の声を上げて消えた。しかし、獲物を憐れな黒馬と定めた方の獣はどうなったか――京姫にはよくわからなかった。ただ、京姫は豊かな樺色の髪の上あたりで何かが輝きを放ちだすのを見ただけだった。そして、その桜色の光が視界を覆ったかと思った瞬間、文字通り瞬き一つしたその間に光は消え失せ、怪物もまた影も形もなくなっていたのである。


「な、なに?」


 唖然として京姫は立ち止まった。一体何が起きたというの?ふと、京姫は小さなつむりの上から何かが転がり落ちてくるのと、結われていた髪が解き放たれるふわりとした感覚とを覚えて、右肩の上でその小さな何かを捕まえた。姫は掌の上に透き通った鈴が鎮座しているのを見つけた。鈴の内部には小さな桜の花弁が浮かんでいて、姫が指先で鈴を摘まみ上げるとその揺動を受けて、花弁も舞い上がった。姫の脳裏を横切ったのは四神たちの鈴、それからはるか昔のことのようにもつい昨日のことのようにも思われる七年前の践祚の神饗祭の夜に、先代玄武が御蔓みかづらにて姫に示した桜の花であった。花は卜占の水盆よりこぼれ出て、幼い姫を喜ばせた。先代の玄武は京姫には桜の相が出ていると言った。それからこうも言ったはずだ――


「京姫はご自分の象徴たるべき花をお持ちなのでございます。姫様は桜ですから、桜の相が出ていらっしゃると申し上げたのです。花はお人柄によって決まります。姫様はきっと桜の花のようにお優しく誰もが見惚れるような美しさをお持ちになったお方なのでしょう。今にきっと、類まれなる姫君になられましょう……」


 京姫はなぜだか微笑んでいる自分に気がついた。その笑みが昔を懐かしむ心より出でたものではないことも、微笑みに気がつくと共に知っていた。姫は笑いを静かにおさめると、鈴を抱きしめつつうつむいてじっと目を閉じ、やがて世にも高貴なみ顔を掲げて涙一つだけをこぼされた。


 後ろ脚を引きずりながら、黒馬は京姫の方へと近づいてきて慰めるように頬に鼻づらを押し当てた。京姫はしばしその雄々しい首のあたりに顔を埋めたあとで、馬を撫でながら言った。


「ありがとう、でも大丈夫……私、行かなくちゃ」


 痛む右足を庇いながら歩きだす京姫に、馬が鳴きかけた。京姫は振り返らずにささやいた。


「いいの、私……私、帰らなきゃ」


 帰らなきゃ、桜陵殿へ……思いが京姫の足を突き動かす。姫は駆けだしていた。桜の鈴を握りしめて。


 

 どうして私は京姫なの?――ずっと悩んでいたことはばかみたいだ。笑ってしまう、私が京姫だなんて。今にきっと、類まれなる姫君になられましょう……そんなことはなかったよ、玄武。私は自分が京姫であることを、その重みを、つまり誰かに愛され崇められ守られることの意味を、今この瞬間まで何も知らなかったんだから。紫蘭さんへの恋を前に、京姫をやめると言った、あの言葉の軽々しさが今更のように辛く、悲しい。だって、私は京姫ではなかったのだから。今まで、一度たりとも。


 月光に照らされて暗い土の色はちらちらと明滅する。その裾を幾度も踏みつけたせいで、藤色の喪服の裳がするりと脱げて、土の上に置かれた。姫は構わず右足を引いて駆け続けた。玉の汗が額からにじみだす。


 そう、私は今までずっと京姫ではなかった。ただ無知でわがままな少女だった。自分が何を与えられているかを知らず知ろうともせず、ないものばかりを声高に欲しがっては我が身の不幸を憐れんでいた、おろかな少女だ。紫蘭さんと共に京を出ることで、私はこれまでに与えられていたものを、大切なものを全て放り投げてしまった。今、私は放り投げたものが床の上に散らばって、そしてもう二度ともとの箱にはおさめられないことを知って、茫然と立ち尽くしている。しかし、これは当然の報いなのだ。この痛みも、悲しみも、涙も全て……


 吹き抜ける風が京姫の肩から藤色の上衣を奪い去る。解かれた髪がなびく。


 犯した罪を消すことはできないのならば、私は償うよりほかない――今度こそ、京姫になるしかないのだ。一本菊の剣を取り、漆を打ち倒すしかない。そのために今、最後の恋の形は、罪の証は、鈴となった。


(全ての罪を償います。ですから天つ乙女よ、もう一度、私に……!)


 風が取り上げかけた桜色の領巾ひれ、青龍が託した領巾、姫の知らぬところで芳野の塗った領巾を、姫は掴んで腰に巻き付けて、青龍が藍色の髪を結んでいたように蝶の形に結い上げた。


 ――するとどうであろう。藤色の衣の下に身に着けていた背子はいしと、桜色の裳とが姿を現して、姫は喪服姿から桜色の戦乙女の装いへと麗しく変化を遂げた。姫はその時ようやく、京姫となったのだ。


 蘭城殿らんせいでんから続く渡殿の欄干に痛む足でなんとかよじ登って、京姫は桜陵殿へとたどり着く。その背を綿殿の端に立ってじっと見つめる背の高い影がひとつ。


古妻ふるづまの りにし袖ぞ 振りしかば 古家ふるへいもに あれかも……」


 影は口ずさみ、ほくそ笑む。


 桜陵殿のなかはしんと静まり返っていた。妻戸を閉ざした音が恐ろしいほど大きな音で反響するように思われるなか、京姫は冷たく暗い水のなかに沈み込んでしまったような気になりながら、びくりとして立ち止まり、殿内の気配に耳を澄ませた。誰もいないのだろうか。それともみんな寝静まっているだけなのだろうか。


「誰かいないの……?」


 叫んだつもりの声はすぐに闇に吸い込まれて掻き消えてしまう。京姫はぞっとするほどの寒さに両の腕を抱いた。ここまで懸命に駆けてきて息さえ切らしているというのに、体が温まる気配はなかった。


 桜陵殿に行けと言われたからここまで来たものの、どうすればよいのだろう?月の女神の力を手にしてしまった漆を倒すためには、一本菊の剣が必要だと朱雀は言った。だが、剣の在り処を姫は知らない。朱雀が頑なに向かえといったからには桜陵殿ここにあるというのだろうか?かの一本菊の剣が?そんなことがあり得るのだろうか。今まで、芳野も左大臣も一言だって口にしなかったというのに。朱雀は何と言ったけ―― 一本菊の剣は天つ乙女よりこの国に授けられしもの。そうであるからには、その管掌は天つ乙女の生まれ変わりであられる京姫でなくてはなりません……


「姫さま」


 うつむきかけていた京姫は暗闇の向こうにたった一つ、ぼんやりと輝く灯火を見出した。その瞬間、桜陵殿の暗闇のなかに静かな波のように押し寄せて、吹き渡ったものがあった。雪降る夜、御燈みあかしのはつはつとはぜる神饗の夜を渡っていった遠い風のように。京姫はみずみずしい翡翠の瞳をみはった。


「芳野……?!」


 姫に微笑んでか、姫を叱ろうとしてか、灯火が揺れた。


「大きなお声を出してはなりませぬ」


 今すぐ芳野の元へ駆けていって抱きつきたかった。この疲れきり、弱りきった夜に、芳野の胸のなかで心ゆくまで泣き、眠りたかった。そうしたらこの悪夢が絵のように拭い去られて……姫を辛うじて押しとどめたものは先に芽生えた京姫としての誇りと自覚であった。京姫は小さくうなずいた。遠い廊下の奥から、灯火ひとつで、芳野は果たしてどのように姫の仕草を見分けたのであろうか。こちらからは芳野の影すらおぼろげであるというのに。


「こちらでございますよ、姫さま。さあ、ついていらっしゃいませ」


 変わることのない芳野の歩調にあわせて、姫は決まった距離を守りつつその後に従った。桜陵殿のもだした廊下を、乳母と二人、黙って歩み進む心地はまことにふしぎなものであった。しかし、悪い心地はしなかった。乳母の掲げるほの明かりが、外界の鮮烈なまでああの陰影を拭い去り、喧噪を遠ざけ、悲しみをやわらげてくれた。冷え切った桜陵殿の闇は、姫の歩みのそばで風に吹かれた花のようにかすかに震えて、姫のかいなの上に淡い文字を刻もうとしてはその度ごとに諦めていた。今宵、はじめて静かに呼吸をしている自分自身を、京姫は感じていた。歩きつつ、あらゆる感情は弱まり、からまりあった思考はほどけて、ただ京姫のなかに残ったのは先をゆく乳母に対する安堵と信頼だけとなった。ここでは自らの足音さえ間遠であった。


「みんなはどうしたの?」

「避難いたしました。ご安心なさいませ、姫さま」


 京姫はその胸に通い来るものに満ち足りて、それ以上は聞こうとしなかった。


「……ねぇ、乳母」


 いつのまにか幼いころの呼び方に戻って、姫は言う。乳母が返事をしないので、京姫は続けた。


「私ね、また外の世界を見たの……世界は怖いぐらいに美しくって、だからこそ私のしたことは罪深くって、苦しくなったの」


 姫は苦しさをまだ胸のうちに抱えているとでもいうように、小さく息をついた。


「守らなきゃ、絶対に……この世界を守らなきゃ。ねぇ乳母、私ね、戦うの。私、やっと京姫になれたんだよ。神饗祭のあの日から何年も経って、今日やっと。ねぇ……だから、教えて……!」


 天一本菊剣あめのひともとぎくのつるぎはどこ?――尋ねる京姫に、乳母は無言で小部屋の襖を開いて示す。


「……お入りなさいませ、姫さま」


 京姫が入るより先に、芳野の掲げる緋色の灯火すうっと小部屋のなかに吸い込まれるようにして消えた。その後を追いかけて、姫は思わず部屋の前で立ち止まる。


 何年ぶりであろう、この部屋に足を踏み入れるのは。生まれた部屋、それから七年間の間閉じ込められていた部屋だ。こんなにも狭かったのだっけ……?小部屋からかすかに吹きつけてくる闇はひとしおに冷え切っている気がして、京姫は身震いした。闇をやわらげるのは、芳野が置いていったのらしい紙燭しそくの灯りひとつだけである。芳野の姿はない。


 その紙燭のゆらめきのなかに、何かが燃え上がるのを京姫は確かに見た。床の上に、闇のおりのように、鈍色にわだかまるものが沈んでいて、そのおもてが八千代を経て久方に炎の色を照り返したのである。まさしくそれは天つ乙女が与えたもうたという天一本菊剣であった。


 この水底の国の恐らく最も深きところへと、京姫は履先から踏み込んでいった。小部屋の空気はじっとりと京姫の衣に纏わりつき、なぜだか一つ一つの所作を重たく悲しくさせた。その時、姫に纏わりついていたのは、あるいは思い出と呼ばれているものどもだったのかもしれなかったし、あるいは幻想と呼ばれているものどもだったのかもしれない。姫は他ならぬ自らの産声を聞いたような気がした。乳母が乳を含ませこの上なくかわいらしい幼子に微笑む様子を見た気がしたし、今もなお、この小さな部屋を駆けまわる五つの少女たちの気配を感じるのであった。遠い庭から運ばれてくる日差しの色と風のにおいが、世界に対する憧れを育んだのだ……姫はあまりの切なさに涙をひとつこぼした。涙は、黒曜石、白瑪瑙、青玉、紅玉の四つの宝玉で飾られた柄を共に彩った。ただし、宝玉は神代から今宵に渡る遠き日々のなかでくすんでいたが、姫の涙だけは鮮やかにきらめいた。

 まるで水底に貼りついていたがる貝のように、剣は姫の手で持ち上げられることを拒んだ。その重みと冷たさとを京姫がようやく掌のうちにおさめた時、懐にしまいこんだ桜の鈴が鳴った。


「芳野」


 返事はなかった。だが、小さな部屋、おぼろな闇のなかに、乳母がたたずんでいることはわかった。



「お気をつけて、姫さま……どうか」


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