第三十一話 月下(上)
「姫さま、間もなく南門に到着いたしますぞ!」
朱雀大路を駆ける馬上にて、声が風に散らばるのを恐れてか左大臣が怒鳴る。その胸のなかで小さくうなずいた京姫は、その時、底より突き上げる鋭い痛みを感じてぱっと胸を押さえた。痛み自体はすぐに消え失せたけれど、なおも胸のうちに燻る息苦しさを、京姫は以前も感じたことがあった。これまでに二度ほど――それは、先代の青龍と先代の玄武とが亡くなった日のことであった。
京姫は全身からさっと血の気が引いていくのを感じた。頭のなかでけたたましい鐘のようにガンガンと打ち鳴らされるものがあった。信じたくなかった。だが、信じざるを得なかった。普段は意識しないままに、姫の頭頂よりさながら長い紗の帳のように足元まで巡らされている霊力の裾に何かが絡まって、そこから動けないのだ。手綱を握っている左大臣の腕を、姫は思わず握りしめた。
わかる、私にはわかる――たった今、四神のうちの誰かがこの世から去ったのだと。遠い月の世界へと旅立ったのだと。あの赤い月の面へと?それはわからないけれど……この胸に、彼の女の想いが迫ってくる。彼の女の名前さえもわかってしまうほどに。
「白虎……!」
見上げる月は、水面に沈んだ月影のごとくたゆたい、赤く染め上げられる以前の生まれ持った静謐なる光に心地よく浸っているかのように思われた。この凍れる城の内部に月も憩っているのであろうか。月そのものは城の外に、手も触れられぬほどはるか彼方に存在しているにも関わらず、そして月の安寧は氷の屋根越しにこそ守られるものであるにも関わらず、そんな夢想が成されてならなかった。
月光を集め鍛え、その場で研磨したかのような剣を、白虎は振り下ろす。玉虫色の唇に浮かんだ冷笑はかくして凝結され永遠のものとなった。うなだれて波打つ金色の髪で顔を覆い隠したまま、足元に崩れ落ちた芙蓉の身より、まだ赤い糸のように血を滴らせている桐一葉の刃をかかげて、白虎は氷の城の壁を刺した。
さびしき野に突如として顕現した半球型の氷の城は、大地より神秘なるもの卵がわずかに頭ばかりをのぞかせたようにも見えた。その半透明の分厚い殻に、刃の刺したところより罅が入って頂きへ向けて駆けのぼる。ひろがる樹木の枝のように氷壁に描かれる白群の亀裂を、芙蓉の血の色がたちまち追いかけて赤く染めなおし、ついにその二つの色は半球のまわりを追いつ追われつして巡りながら、安寧の月まで至りついた。その瞬間、氷壁は音を立てて割れた。
雹のように夥しく降り注ぐ氷壁のかけらを、白虎は少しも怖じずに顔をもたげてその透けるほどに白い頬に浴びていた。白虎の氷は白虎自身を傷つけることはなかった。その眩いばかりのきらめきもまた薄灰色の瞳を刺さなかった。白虎の瞳が見上げていたのは赤き月であった。芙蓉の血に汚されて再び赤く濡れた月の光――芙蓉の身は氷の城の崩れるともに巻き起こった嵐のうちに掻き消えていたが、最後の一太刀を浴びるその直前、彼女が喉奥を震わせ嗤いながら放った言葉は、白虎の体を痺れさせ重たくしていた。まるでその言葉自身が毒であったかのように。
氷壁は芙蓉を閉じ込める檻のつもりであった。芙蓉は当初しなやかに白虎の剣を交わしていたものの、次第に追い詰められ、傷つき、弱っていった。しかし、芙蓉の口元には、あたかもそこに嵌め込まれたものであるかのように不敵な笑みが消えることはなかった。
……芙蓉の袖口から漂う香に気づかなかったわけではなかった。だが、麝香とも花とも蜜ともつかぬその甘い香り、女の香りに、注意を惹きつけられなくなってから白虎は久しかった――紅の髪に薫かれた香は別として。風に巻かれ冷えゆく鼻孔は疾うにかぎ取れるものに対して無頓着になっていた。
羽をもがれた蝶のように地に落ちた芙蓉の胸を刺し貫いたとき、芙蓉は大きく目を見開き、そして声を上げて笑った。血の泡が喉を洗う音が笑いにまざってもなおも笑い続けていた。芙蓉はその顔を汚すことを恐れたのか、舌の上までせり上げたはずの血を飲み干して、潤った喉でまた笑った。
「……何がおかしい」
「愚かな白虎。わたくしを倒せたも同然と考えているのでしょう……えぇ、確かに、剣の一振りでお前はわたくしを殺せますわ。でも、わたくしはとっくにお前を殺していてよ、白虎」
「なにを戯けたことを……」
吐き捨てた瞬間に視界が大きくぐらついた。よろめく足元を白虎は咄嗟に支えた。疲労と負傷によるものではないことは明らかであった。
続けて胸にせり上がってきた痛みと息苦しさとを、歯列の隙間から短く息を吐きながら忍びつつ、白虎はまさしく虎の形相で芙蓉をねめつけた。氷の壁に身をもたせかけた芙蓉は、確かに苦痛を覚えているはずであったが、滲み出る血が凍てつきほんの刹那、白く曇るのを乱れる呼吸の代わりにして、その表情には少しも苦悶を表さなかった。今この時、芙蓉の目には凱歌の律動さえもが輝いていた。
「貴様、なにをした……っ?!」
「蝶のうちに毒を持つものがあることを知りませんの?美しき蝶をねらうものがあまりに多いのですもの。蝶はその輝く翅に毒をまぶしておくことを覚えたのですわ」
香か、とその時白虎は勘づいた。毒の香で政敵を暗殺する者どもの噂をかつて聞いたことがある。彼ら自身は幼いころより少量の毒を体内に摂取し続けているために耐性を持っていて、たとえ被害者が苦しみ悶える傍らにいても、その死にゆくさまを冷酷に見届けることができるのだとか。
白虎の憤怒の前にあって、そして月の女神の御前にあって、芙蓉は恍惚の表情を浮かべてみせた。
「いいえ、いいえ、蝶は無知なのですもの。毒をまぶす術など知りませんわ。か弱い蝶を憐れんで漆さまの指がやさしく毒を塗ってくださった……ああ、漆さま!お慕いしておりますわ!今、御身のもとへ参ります!!けれども、決して、決して……!」
芙蓉の身が浮き上がった。それは瀕死の蝶の最後の羽搏きであった。身構えた白虎が剣を振り上げるより先に、芙蓉の爪の長い指が白虎の首に絡みつき、その白目と、白目とくっきりと劃られた瞳の境目が、白虎の目元に迫った。その瞬間、ついに一筋の血が口の端を汚し、芙蓉の笑みを歪ませた。
「……お前への憎しみは、忘れませんわ。お前が死したそのあとも、永遠に」
「……っ!」
首を圧するものすごき力を、白虎は薙ぎ払った。
白虎は剣を鞘に納める。刃と共に押し隠されたきらめきは夜露が枝々を伝うように白虎の髪に宿り、野の草を吹き荒らす風にはためいた光は、金の冠のごとき縞模様をめぐり、雄々しい尾の先にまで渡った。
駆けだす前の獣の低い吐息が、向かい風に抗って霧のように白く草の上を撫ぜる。草の端は凍てついて霜枯れた。その草をしなやかな大きな前足で踏んで、白虎は駆けだした。
走り出すそばから視界に霜が降りていく。毛先をくすぐる風の道が狂っている。急がなければ……京姫との約束を果たさなければならない。この血に流れる毒を浄化し、傷ついたこの身を癒せるのは京姫か玄武だけなのであるから。
(姫さまに追いつくのが先か、それとも毒が回り切るのが先か)
少女の足でどれほど行けるとも思われない。だが、もし道を見失ったとして……言葉通りに野垂れ死ぬのであろうか。街を追われ、飢えた野犬のように。死は疾うに覚悟していた。覚悟していたと思っていたけれど、でも……
(何を恐れているのだ私は。私は一条家の女ではないか。生まれながらにして白虎としての使命を背負っていたのではないか。私は敵を破り、姫さまを守ったのだ。だから心残りなどない。何一つ恐れることはない。そうだ……私の人生は全てこの夜に果てるために……)
いくら言葉を並べても、結局はそんな風に思い成せない自分の輪郭が明らかになるだけだと気づき、白虎は息を呑んだ。自分は死が怖いのだ。自分はこんなにも臆病なのだ。雄々しく振舞ってはいても、装いによって世間の目を欺きまた自らの目を欺いていても、冷たくなった母の衣の下、一族の血と骸に取り囲まれ、賊どもに怯えて震えていた、あの少女のままなのだ、自分は。虎となった今でも、なお。
(あの時は彼女が助けにきてくれた)
あの月の色と同じ言葉で呼ばれているとは思えない――思い出される、彼女のかぐわしい紅の髪。優雅の奥に悲しみと力強さを秘めた瞳。物静かな、しかし決して弱々しくはない、どこかものうげな声。あの日、母の衣の下の暗闇にそれらを見出したとき、白虎はその全てが自分ひとりのために存在するのだと信じられた。だが、彼女のなにひとつとしていまだ白虎のものにはなっていない。今、彼女と遠く隔たれて想いを伝える術もない。彼女への想いに生きたいと狂おしいほど叫びたいこの瞬間であるのに。
「朱雀、私は……!」
駆けていく視界に白い霜が敷きつめられていく。残された嗅覚と聴覚さえも間遠になっていく。急がなければ、急がなければ、京姫のもとに、そして朱雀のもとに。駆けていかなければいけないのだ。
ねぇ朱雀、もし再び君に会えるのならば、その時はもう苦しまないと誓おう。
君への想いはかくも切なく、貴いものであるから。
君を愛した、君の隣にいた、君と出会った、この何よりも大切な思い出が苦吟に満ちていることが、今、とてつもなく悲しいから。
だから、どうか……
願いはむなしく、鉛のように重く感じられた足の感覚さえ失われていく。血の流れが、呼吸が、鼓動の律動が、次第にのろく、そして薄くなっていく。
もう視界は完全に失われた。目の前に横たわるのは暗闇ばかりだ。音はほんのかすかに、風になって……今はどこを歩いているのだろう。否、自分は今歩いているのだろうか。それとも無様に野に横たわっているのだろうか。もしかしたら姫さまが目の前にいらっしゃるのかもしれない。だが、たとえ触れられていたとして、自分にはもうそれがわからない。
『姫さま……』
この風の声は届いているのだろうか。
『玄武、青龍……』
『朱雀……』
一体どうしたら届けることができるのだろうか。
朱雀……もうなにも見えないんだ。
もうなにも感じない。真っ暗なんだ。怖いんだ、朱雀。まるであの日みたいだ。二条の輩が私の家に踏み込んできて、父上も、母上も、兄上もみんなみんな殺されて……私は震えながら隠れていることしかできなくて、ひとりぼっちで……
『心配ないわ。貴女のことは私が助ける』
そう言って君はあの日、銃弾を放った。あの銃声が今、また聞こえたような気がした。
……ああ、不思議だ。
こんなにも間近に君を感じているだなんて。とても近く、とても深く。
まるで私のなかに君がいるみたいに。
……白虎のことを、左大臣にはまだ打ち明けられなかった。もし打ち明けたら本当にそうなってしまうような気がして。頭ではわかっていても、心が否定したがっている。白虎が死ぬだなんて信じられない。信じたくない。
京は目覚めつつあった。朱雀大路からまっすぐ小枝のように伸びている小路に面した家々のあちらこちらに灯りがともりはじめ、次第に近づいてくる内裏の姿は、闇のなかに佇んで眠る草食む生き物の群れのように思われた。京姫にとって野生の生き物といえば、せいぜい庭に遊びに来る野鳥や小動物ぐらいであって、野に群れて暮らす牛や馬たちが、肉食獣の気配にどれほど怯えて世を過ごすかなどということはつゆ知らなかったはずである。それでも姫は内裏の無防備さを本能的に感じ取った。その沈黙は束の間のまどろみに過ぎないのだ。
まどろみを破るような低いうなりに、京姫は人に見られる懸念を忘れてびくりと顔を上げた。咄嗟に左大臣の顔を振り仰ぐと、左大臣もまた長い白髪の眉をぴくりと引きつらせていた。
「左大臣、今のなに?」
「わかりませぬ。しかし姫さま、用心なされ。馬から振り落とされませぬように」
南門にたどり着くと、京姫は何かしらあらかじめ含んでおかれていた門番たちによって、すばやく門内に引き入れられた。門はすぐに閉ざされた。左大臣が入る隙もなく。
「姫さま!」
「左大臣!」
はっと振り返り、扉に駆け寄らんとした京姫の腕を門番たちが取り押さえた。今だかつて、かくも乱暴に他人に触れられたことのない京姫は、思わず強い憤りを覚えて門番たちを仰ぎ見た。途端に姫は戸惑い、怖じた。門番の目には光がなかった。そして二人の胸元には月光を浴びて赤く照り輝く傷口があった。
「……!」
門番の掌の冷たさが、袖越しにも関わらず直に姫の皮膚に触れたかのように沁みわたってきて、京姫は思わず門番の手を振りほどいた。
手を振りほどいた京姫は正殿への方へと駆けだした。内裏のうちにはひとつとして灯りがともっていなかった。その異様さは、はっきりと意識されぬまま、ただ練り込めた餡のような闇のうちに白く浮き上がる玉砂利の色を通して感じられた。
紅の月より滴り落ちてきたかのように、鈍い音を立てて足元へ転がり落ちてきたものを姫は辛うじてかわした。桜陵殿の柿の実、今年はあまり実りのなかった柿の実が、熟しきって地に落ちるときの音がした。驚いて立ち止まった京姫は足元を見下ろした。それは何か黒い、蹴鞠で使う鞠よりは一回りほど大きな、気味の悪い物体に思われたが、やがて京姫はそれが人の生首であることに気がついた。京姫は本能的に後ずさった。後ずさった肩に何者かの手が触れた。
背中一面に霜が降りたかのようであった。視界にひらめく白い手から逃れようとして京姫は再び駆け出し、首につまずいて正殿へと連なる石畳の道の上に倒れ込んだ。履越しに伝わる嫌な感触とくじいた足首の痛みに片膝を抱え込んだ京姫は、覆いかぶさる影の主を恐る恐る見上げた。
姫は、切れ長の紫紺色の瞳に出会った。
「ようやくお帰りですか、姫」
「あっ……」
震えて声も出ない自分に気がついて、京姫は両の腕を抱きすくめざるを得なかった。なぜこんなにも怯えているのかが自分でもわからない。目の前の男は単に恐ろしいほど美しいというだけではないか。それとも知らない男だというだけで自分はこんなにもこの男を恐れているというのだろうか。いや、違う、確かに知らない男ではあるけれどどこかで出会ったような気がして――だめだ。思い出せない。記憶までもが凍えてしまっている。
「あ、あなたは……」
ようやく声を絞り出して紡いだ言葉はかすれていた。男はただ京姫の前に立って話しかけている、それだけなのに。
「待ちかねましたよ。一体どちらへ行っていらっしゃったのです」
男の口調が帝の口調そのものであることに、京姫はまたもや底知れぬ恐怖を抱いた。そしてまた、帝の優しいまなざしを懐かしむとともに、京姫は自分がなぜこんなにも怯えているのかを悟った。男の瞳が冷ややかながらにあまりにもひたむきに京姫に向けられているゆえに。この男はあまりにも強いひとつの感情を姫に対して抱いていた。それは京姫がいまだ知らない感情であった。月の裏側にあって、見ることも触れることもかなわなかった感情である。
京姫はぎゅっと衿元を握りしめた。
「あ、あなたは何者です?ここに立ち入ることを許されているのですか?……わ、私に、京姫たるこの私に、そうして気安く話しかけることも」
毅然とした声がどうにか出せたと姫は思った。こんな風に威圧的に人に接したことなどなかったから口調はぎこちなかったし、非礼を咎められたところで男が今更動ずるはずもないことは百も承知であったが。案の定、男は慇懃に頭を垂れただけであった。
「これはこれは失礼を」
「無礼と心得ているなら今すぐ私の前から立ち去りなさい……!」
痛む右足を庇いながら京姫は立ち上がろうとする。そうだ、第一、この男が京姫を見下ろしていることが異常なのだ。
ふと、履先に触れたものがあって、京姫はびくりと肩を跳ねさせながら、どことなくやわらかなそれを見遣った。まばたきをして、もう一度それを見た。
「……いやああああああああああっ!!!!!!!!!!!」
激しい衝撃のために、姫の胸には、名のある感情になる前の、なにか、感情の原始の海とでもいうべきものがいちどきに溢れだして口まで迫り、悲鳴になった。変わり果てた帝の御顔は青ざめ、あれほどまでにお優しかったその眼差しは開かれつつも、死の手によって閉ざされていた。感情の海は悲しみへと冷え切る前に恐怖によって煮え立たされ、京姫は帝のおん首への名残も一切携えられないままに、立ち上がって逃げ出した。それも右足首がひどく痛みだすまでのことで、うずくまりかけた京姫の目の前には帝の首が突き出されたのであった。
胸に傷口のある門番たちが京姫の両腕を捕らえる。京姫は帝の首から目を逸らして喘いだ。こんなことがあるはずがない。これは夢だ。ずっとずっと見続けてきた悪夢のひとつ。でも、そのなかでもこの夢は最悪だ。はやく目覚めて、お願い。起こしにきてよ、芳野、青龍、玄武、白虎、朱雀、左大臣……誰か……!
「それほど怖じずとも。見知った顔であろう、京姫?」
京姫はわしづかみにされている帝の頭越しに、怒りを込めて男を射た。
「あなたのしわざなの?!」
「いや、私ではない。だから残念ながら妹背が再びこの世で出会うことはない。私の手によって死んだ者であればその肉体ばかりは蘇ることもできるのだが。ちょうどそこの門番のように。しかし姫、形ばかりの妹背とはいえ今となっては惜しいであろう?なおも紫蘭の君が恋しいか?」
「どうしてそれを……」と尋ねかけて、姫はぐっと言葉を飲み込んだ。たとえ身罷られたとはいえ、帝のお顔を前に紫蘭の君とのことを口にしたくはなかったかもしれなかった。
「どうして主上を……?!」
「我が望みのためだ。貴様も帝もその妨げになる」
「主上に代わってこの国を治めるつもりなの?無理よ、そんなこと絶対にできない」
男の薄い唇の端がかすかに吊り上がった。
「くだらぬ。私はこの国を支配することなどに興味はない。そもそも帝に代わったところで何になるというのだ。この私がかつて手にしたほどの力は得られまい」
「……あなたは誰なの?」
帝の首がゆっくりと降ろされた。男はただ黙って、笑いもせずに、京姫と見つめあった。
「……私は月の国より生まれ出でた。姫よ、私はこの国に創世以来の奇蹟をもたらして見せよう。水底は天頂に、天頂は水底となる。私はこの国を覆す。神話ごと、な」
男の左手に黒鉄色に輝いたものがあって、その冷たい皮膚が姫の顎の下に差し入れられた。やわらかな皮膚が裂けるのを京姫は感じた。
「まこと、可憐な姫よ。かくもいたいけな姫君を芙蓉が取り逃がしたとはな」
「今宵は漆さまのご下命を賜って参りました」――芙蓉の言葉を思い出す。では、やはりこの男が漆なのだ。見た瞬間にわかっていたはずなのだけれども。この男は私を殺そうとしている。私の首を欲している……
漆が手にしていた冷たく硬いものが素早く振り上げられる。門番に腕を取られ、足を痛めた京姫にはなす術がなかった。京姫はぎゅっと目を閉じた。死を覚悟したわけではなく、ただ反射的にそうしただけであった。
鮮やかに空気を引き裂く音に、姫は驚いて目を開けた。漆は鉄扇を振りかざしたその姿勢のまま、笑みもくずさずに立ち尽くしていた。その掌には闇に印を押されたかのように黒い円が描かれていたが、京姫が驚きじっと見入るうちに、闇に朱が滲んできた。その時はじめて京姫は漆に何が起こったかを知った。
「姫さま!」
振り返った京姫は、開かれた南門の向こうに左大臣と朱雀とが並んで立っているのを見た。と、青い影が流星のように駆け抜けるのが見えて、その頭が銀色に閃いた。気づくと、漆はひらりと飛びのいて京姫から遠ざかっており、姫を背後から捕らえていた門番たちの姿はすでに玉砂利の上に倒れ、藍色の髪をなびかせた友の後ろ姿が姫のすぐ目の前にそびえていた。
「青龍!」
「これはお揃いか。いや、いくらか留守のようだが」
四神たちが身をこわばらせるのを京姫は感じた。京姫もまたはっとした。
「……玄武を殺したのはあんたね?」
低く尋ねる青龍に、京姫は目を見開いた。嘘だ、そんな。玄武まで……
「正確に言えば私ではない。私の僕となり果てたとある女だ。お前たちもよく知った女だが、その名を知りたくはないか?」
「いいえ、結構。もう十分……あんたを倒さなきゃいけないってことがよくわかったもの」
「青龍!!」
京姫が止める間もなく、青龍は再び星のごとく飛び出した。漆は不敵な笑みの水脈を引きつつも、緩慢に見えるがその実俊敏な足さばきで青龍の凍解をかわし、援護する朱雀の銃弾を鉄扇で弾いた。その隙をねらった青龍の一振りを逃れて、漆が正殿の屋根の上へと飛び上がるのに、青龍も水柱の力を用いた跳躍で続いた。京姫はただ唖然として、星と星がぶつかりあうような二人の戦いを眺めているよりほかなかった。そんな姫の肩を朱雀が背後から抱いた。
「姫さま、今のうちに桜陵殿へ参りましょう」
「青龍は……」
京姫の瞳に揺れる不安を、朱雀はいつもどおりの静かなまなざしのうちに含んで包み込んでしまった。
「今は青龍を信じましょう」
共に歩きだそうとして、京姫は足首を怪我していたことを思い出した。痛みは少し遅れて来た。屈んで顔をしかめる京姫の様子に心づいて、朱雀は左大臣を呼んだ。左大臣は青龍と漆の戦いぶりを注意深く見守りながらも、馬をくぐらせて連れてきて、いち早く馬上の人となった朱雀に京姫を抱き渡した。
「姫さま!」
空から降ってくる声とともに、赤き月光に代わって姫の視界に注ぎ込み、一面を覆ってしまったものがある。そのやわらかな、どこか懐かしいかおりのするものを顔からそっと取り上げてみると、それは桜色の領巾であった。京姫は庇を見上げた。
「まだ、許してませんからねっ!勝手に京を出ていったこと!あとで……あとでお説教ですから……っ!」
「青龍!」
馬は駆けだした。朱雀の腕越しに振り返り、月光に赤く濡れた瓦の上を見定めようとしたけれども、激しく揺動する視線はひとりの少女の姿を捉えかねた。京姫は青龍の凛々しさを知っていた。清純さを知っていた。そして無論その強さも。けれども、漆を、この世でもっとも邪にして冷酷なる意志を前にしたとき、清らかなる少女の姿はあまりも儚すぎて、ただ青い影としか……流星のように束の間激しくきらめいて、消えていく…………
京姫は桜色の領巾を我が身に巻きつけて、抱きしめた。
ああ、まさにこの夕であったのだ。母が亡くなったのは――
もう遠い昔のことのように思われる。声をあげて泣きもせぬうちから――お母さま、あたしは親不孝でしょうか。でも、お母さまなら許してくださいますね。
……でも、お母さま、あたしは姫さまを許せるでしょうか?もちろん、あたしは姫さまを愛しています。いいえ、いいえ!愛しているだなんてそんな仰々しいものでもなければ、軽々しいものでもない。姫さまはあたし自身のようなものなのですから……そう、だからこそ、あたしは姫さまを許せないかもしれない。玄武の死も、白虎の死も、姫さまのせいではないとわかっていても。
玄武、白虎……もう世にいないだなんて信じられない。あたしの手から愛すべき人々が一体何人失われていくというの?あたしは二人の死をこの目で見たわけではないのだから、信じなくともよいのだ。でも、わかってしまう。四神というのは一体どうして……いえ、これこそがあたしたちが四神である証なのだ。
この国の始まりにあって、荒ぶる神の本能のままに世を荒らしまわっていたあたしたち四神を、白菊帝の一本菊剣が薙ぎ払ったという。そして、禽獣の身を恥じたあたしたちを憐れみ、乙女の姿をお与えになったのが最初に京姫を名乗られた稲城乙女であり、その時以来、あたしたち四神は京姫をお守りすることを誓ったのだ。それははるか昔、記憶の海の遠い波間の上、手繰り寄せられぬほど彼方に漂う誓い。もはや『暁星記』を紐解かなければ思い出せぬほどに遠い神代の誓いが、今もあたしたちを結びつけている。
……そう、だからね。
だからね、玄武。あたし、わかったんだよ。北門の守りが解かれてしまう前に。なだれこんでくる敵軍を目の前にする絶望より前に、あなたを失う絶望を知ってしまった。降り注ぐ矢を目の前にしてもどうしても体が動かなくって、あたしは結局、柏木右大臣の刀に助けられた。
それからあたしの水は火矢から広がりゆく炎についに追いつけなくなった。まだ絶望の痺れのなかにあるあたしを見かねてか、右大臣が怒鳴った。「青龍殿、主上の元へ向かわれよ!」と。あたしの目の前でとある家が焼け落ちた。幼い子どもを連れた母親の叫び声が崩れ落ちる屋根に呑まれた。
はっきりと悟った。我が子を庇って柱の下敷きとなった母親の手から、幼子を抱きとる時――今宵、どんなに悲しみが積み重なったとしても、涙にくれている暇はないのだと。あたしは悪を倒さなくてはいけないのだ。
正義が水のように世界に流れるために。
正義が水のように流れる世界がもし明日の朝陽に照らし出されたのなら、その時こそあたしは思う存分泣くことができるだろうけれど。
その時まで、涙はいらない――
檜皮葺の屋根の大棟の上に建って、じっとこちらを見下ろす漆を青龍は細めた目で睨み返す。これまで青龍として、数多の敵と相対してきた。だが、見つめ合うだけで指先から冷えゆくような敵は初めてである。凍解の刃が反射している男の眼差しさえも何か、不吉なもののように思われてならない。それが終焉を予兆する星の光であるだなんて、青龍は信じたくなかった。
漆の口元が不意に歪んだ。
「なるほど、芦部媼の末裔か。なぜ不似合いなものを手にしているのだ?お前の務めは戦場では果たせないであろう」
「あたしの務めはあんたを斬ること。なぜなら、あたしは青龍だから」
「そうして幸福を遠ざけて生きてきたのか、憐れなことよ。いつでも手近に寄せられる幸福をどれほど拒んでも、お前の望むものに替えることはできないと知っていてか?」
「言いたいことはそれだけ?」
いつでも手近に寄せられる幸福――肯えばきっと上手く進んだのであろう縁談と、その先にあったのであろう家庭のささやかな幸福。乳母としての職掌から得る限りない誉れと満足――もちろんそんなものが敵うはずがなかった。あのお方のそばにいられる喜びに。なぜこの男が知っているだろう。いや、当てずっぽうに違いない。とにかく相手の挑発に乗ってはいけないと、青龍は静かに呼吸をする。この男に与えるのは青龍個人の怒りではなく正義の制裁でなくてはならないのだから。
「あんたが何を言おうと無駄。あたしの感情はすでに消えたの。あたしには青龍としての務めがあるだけ。生まれの名を失った時点であたしは青龍よ、他の誰でもない青龍」
「勇ましき乙女よ……」
穴の空いた漆の掌のなかで鉄扇がひらめいた。青龍は目を細めた――もう血が止まっている。それに漆は少しも痛みを感じていない気配だ。一体この男は……何なのだろう。かざされた鉄扇の向こうに漆の瞳が鈍く光る。
最初に動いたのは青龍であった。一息に屋根を駆けのぼった青龍は、凍解が空を切るその速さで刃に映り込む紅をも白銀に塗り替えた。
振り向いた青龍の鼻先に黒い風が走った。青龍は燕のように軽い身のこなしで飛び上がり、鬼瓦を越して反対側の屋根の斜面の上に着地した。そこから再び駆けだすまでは、影を落とす間もないほどであった。
青龍を迎え入れようとする漆の冷笑が、刹那に崩れた。わずかに身を逸らし肩越しに背を見遣った漆の瞳を、一筋の矢の細くも力強い体が奮えながら斜めに横切った。そのまま庇の下に落とした瞳には次の矢を番える左大臣の姿が映り込む。
正面に向き直った漆は、疾駆する群青の星の輝きに圧された。鉄扇は宙に舞った。その要に添えられた指の白さ、銃弾に穿たれた暗闇もろともに。
凍解はまっすぐに漆の左胸めがけて差し込まれた。赤く頬を汚した青龍はもう怯む様子もなく、間近に漆の瞳を覗きこんでいた。
『青海波……!』
押し寄せる清らかな波が、漆の体をさらってかき消した。




