第三十話 漆(下)
息が苦しい。どんな速さで呼吸をしていたかがすっかりわからなくなってしまってから、おかしくなってしまった。脇腹が痛くて仕方がない。足の裏が熱い。冷気がこすれて、喉から血が噴き出そうだ。でも走るのをやめるわけにはいかない。
草が喪服の裾にもぐりこんで脛に触れる感覚は、最初はこそばゆかったけれど段々と何も感じなくなってきた。今はとにかく進まなくてはいけない。京へ、京へ――おかしなことだ。あんなに逃げ出したがっていた京に、桜陵殿に向かって今、必死に駆けているだなんて。京まであとどれぐらいかかるのだろう。必ず追いかけると約束した白虎はいつ追いつくのだろう。もう白虎と別れてからずいぶんと経ったような気がする。まさかとは思うけれど……いや、白虎にかぎってそんなことはありえない。白虎はとても強いんだもの。白虎の剣にはどんな屈強な男子でさえかなわないのだと聞いた。白虎に倒せない敵などいない。いるはずがない。絶対に。
それでも弱気になるのは疲れきっているせいだろうか。もう一歩、もう一歩と体を騙しながら走りつづけてはいるが、今夜は体も心もボロボロになってしまった。紫蘭と共に京を出たのが遠い昔のことように思われる――ああ、あの時から今までに、どれほどたくさんの出来事と感情が敷き詰められていることか!それも、最上の幸福と最悪の不幸が隣り合っているだなんて。
もし紫蘭さんが訪ねてきたあの時に戻れたとしたら私はどうするだろうか。ふと、京姫は考える。それは意識を手放さまいという咄嗟の問い。もちろん答えは決まっている。私は絶対に……
「姫さま!」
なつかしい声が草原を響き渡ってきたような気がして、京姫ははっと足を止めた。荒い息のためにぐらぐらとする視界で見回した京姫は、冷え切った耳朶に熱い脈拍のような馬の蹄の音を浴びた気がした。やがて、彼方むこうに星のまたたきのようにちらつき近づいてくるものを京姫は見つけた。その途端、京姫は疲れを忘れ去った。
「姫さま!」
「左大臣!」
駆け寄ってきた京姫を轢かないように、馬は姫から斜めに逸れたところに、草を蹴散らかしつ立ち止まった。鞠のように跳ねながら馬から飛び降りた左大臣はいつもの慎みも忘れて、白く太い眉を八の字にして、飛びついてきた京姫をきつく抱きしめた。
「どこに行っていらっしゃったのですか?!」
「ごめんなさい!」
京姫の涙はそのひと時、安堵の涙に代わった。だが、左大臣の腕のなかで顔を上げた姫の瞳はたちまち不安に揺れた。
「左大臣、大変なの!白虎が芙蓉っていう女と……!」
「では、芙蓉が姫さまの前にも現れましたか」
「芙蓉を知ってるの?!」
姫は目を丸くして尋ねた。
「えぇ、しかしその話はのちほど。芙蓉のことは白虎殿に任せましょう。とにかく馬に乗りなされ、姫さま。京が危ないのです!」
「京が……?」
ずしん、と頭のなかに重たいものが落ちてきたような気がした。赤い月が落ちてきたのかもしれない。夢のなかで見た光景が、赤い月に照らされ燃え上がる京の姿が、脳裏に立ち上がる。京姫は恐ろしさと疲労とに気が遠くなった。体が痺れて全ての感覚から遠のけられるのを感じた。ではあの夢が真実になったのだろうか?私のせいで……?私が京姫としての責任を放り出して、勝手に京を逃げ出そうとしたから……
「姫さま、しっかりなされ!」
よろめいた姫を、左大臣が慌てて支える。
「幸いまだ大事ございませぬ、四神の皆さまが尽力していますゆえ。しかし急ぎましょう、姫さま!」
開いた朱雀門の先、人気のない京の最南の町で京姫の帰還を待っていたのは、朱雀であった。朽ちた家の柱の残骸は、針のようにささくれ立ったその割れ目に血の雫のような月光の欠片を宿し、何者かによって掘り起こされたきり放っておかれた土の色は赤く乾ききている。姫にはとてもこの場所が馴染み深く、そしてあれほど帰りたかった京とは思えない。京を出るときには、紫蘭の温もりに身をゆだねて眺めた景色だもの――同じように聞えてくるのはかしましい犬の吠え声ばかりである。
門の篝火を寄せ、四神としての正装に身を包み、たたずんでいる朱雀には、荒れ果てた地にまばゆいばかりの宝玉がひとつ置いてあるかのような奇特な印象を、姫は受けた。馬から降りる京姫に手を貸すとき、姫の手を握る朱雀の手が震えた気がしたが、しかし、朱雀は姫を見下ろすべくうつむいた顔には格別に揺らぐ感情を示さなかった。怒りも悲しみも喜びも。
「朱雀……!」
「ご無事でようございました、姫さま」
謝ろうとする京姫の唇に朱雀は静かな声を覆いかぶせた。
「しかし今は喜んでいる時間はございません。姫さま、どうか心を静めてお聞きください。姫さまのご不在をねらって、悪しき者どもがこの京を攻めてまいりました。わたくしたち四神は結界を張り、彼の者どもの侵入を防いでおりますが、姫さまが桜陵殿にいらっしゃらないことには防ぎきれません。姫さまは今すぐ桜陵殿お戻りになり、結界を一層強められますように」
朱雀はそう言い終わって、ふと顔を上げた。朱雀が見やるのは内裏の方、京の北の方である。京姫もまた朱雀の視線に倣ってよくよく目を凝らしてみると、黒い雲のようなものが北の空にくすぶっているような気がした。京姫の胸がずきんと疼いた。
「朱雀、あれは……」
「心配ございません。青龍が向かっておりますから。さあ、姫さま参りましょう。わたくしが護衛いたします」
自らの黒馬に姫を乗せようとした朱雀は京姫の腕に手をかけたところで動きを止めた。今度は、朱雀は南側を見た。閉ざされた門の向こうに向けた目が細くなったのは、風にそよいだ前髪が額をくすぐったせいであったのだろうか。朱雀は唇を小さく動かしてなにごとかつぶやいたが、間近にいる京姫にさえその声は聞き取れなかった。
「朱雀……?」
「……申し訳ございません、姫さま。わたくしは後から追いかけます。左大臣、姫さまを桜陵殿までお連れ申し上げなさい」
伯父に対する朱雀の命令的な口調に京姫は驚いたが、それを何の当惑もなくつつましやかに受け入れている左大臣の様子にもまた驚いた。左大臣は常日頃より四神を敬ってはいるものの、それは形式上、もしくは左大臣の信仰上そうしているだけであって、事実、地位としては左大臣の方が高いのだ。では、朱雀は皇女として臣下たる左大臣に命令したのであろうか……考えはめぐったが、今はそんなことをとやかくつついている暇はなかった。京姫はいつのまにやら左大臣に抱き上げられ、再び馬上へと据えられていた。左大臣の左腕越しに振り返った京姫は、朱雀が姫と左大臣を見つめながらも、その意識が遠いどこかをさまよっていることが分かった。瞳が空を映していた。
「朱雀、白虎は……!」
京姫が白虎の名を口にしたとき、朱雀の肩がびくんと跳ねた。瞳を波立たせる動揺を押し隠すように朱雀は口迅に言った。
「ご出立ください、姫さま。時間がございません」
「白虎は、芙蓉と……!」
朱雀は微笑んだ。こんな切迫した場にはふさわしくないようなあいまいな笑みだった。
「白虎は必ず戻ります。ご心配なさらず」
「姫さま、参りますぞ!」
左大臣の声と共に馬がいななき、必死に振り見ようとする朱雀の微笑みはあっという間に風の色となり、見えなくなった。京姫は思わず手を伸ばしかけた。しかし、姫の手を掴んだものは赤い月の光ばかりであった。
馬の後ろ姿をじっと見守っていた朱雀は、門を越えて吹きつけてきた風に髪を乱されぬように片手を耳元まで上げかけた。その時、白く太い綱のようなものが朱雀大路の脇を這ってやってくるのを朱雀は見つけた。朱雀大路に並ぶ石灯籠の灯を受けてちらちらと白くひらめくそれが木守であることはまちがいなかった。玄武に何かがあったものとみて、朱雀は急ぎ聖なる白蛇の元へと駆け寄った。
「木守……?」
この国の帝となった美しき女人の前で、木守は礼儀正しく一度深く拝礼したあとで頭をもたげた。黒く聡い瞳は朱雀の胸元あたりからじっと朱雀の瞳を見上げた。だが、その瞳が何を訴えかけようとしているかを朱雀は読み取りかねた。こんなことは先代の玄武の代から木守と親しんできた朱雀にとって初めてのことであった。木守は何かを訴えようとしているようでもあり、また同時に何も訴えかけていないようにも思われるのだ。戸惑いつつも木守に触れようとして、朱雀は木守の長い首が鮮血を浴びて濡れていることに気がついた。朱雀の目が大きく見開かれた。
「玄武……!」
木守の姿は輝く光の粉となってかき消えた。その意味するところはひとつである――朱雀の指先は木守に触れ得なかった。
今、まさにこの瞬間、玄武は命を落としたのだ。
白虎門が近づくにつれ、使命に燃えだっていた玄武の心は不安に冷え始めた。兄の家が近づきつつあったからかもしれない――家の様子を見ていきたい。せめていつでも避難できるようにと兄に警告するだけでもできればよいのだが。
玄武門あたりの騒ぎがこの辺りにも野火のように伝わりつつあるらしい。眠りを覚まされた人々がとぼけたような目をしながら門から顔をのぞかせては、勢いよく駆け過ぎていく玄武の馬に驚いて必要もないのに慌てて飛びのいていく。そんなことが幾度も続いた。この人々を守るためにも玄武は白虎門へと急がねばならない。あの軍勢より早くたどり着かねばならない。
背後から上がった悲鳴に、玄武ははっと馬を止めた。玄武が振り返るよりも木守が飛び出していくのが先であった。老女に飛びかからんとしていた灰色の被毛を持ったおぞましい獣に突進した木守は、獣のそれに劣らぬ鋭い牙を見せつけ、低い声で鳴いて敵を威嚇した。
人々の間にどよめきが広がったのは、家々の屋根に同じような怪物が次々と姿を現し始めたためであった。玄武はすばやく神渡を構えて矢筒の矢を抜き取った。真っ先に屋根から飛び降りようとした一頭に向けて素早く射掛け、馬の頭をめぐらせて敵の数を見定めようとしてみる。とても一人では対処できる数ではなかった。
「家のなかへ!!」
玄武が二頭目に射掛けながら怒鳴ると、恐怖のあまり口を開けて立ち尽くしていた人々も慌てて家のなかに飛び込んでいった。叫び声と駆けまわる足音、獣の咆哮のために、あたりはいちどきに騒然となった。怪物の爪と牙が動き出した人々の髪や衣服に突き出されるのを玄武は見た。また、そのうちの一頭が玄武めがけて飛びかかってきているのも。
『葦垣!』
地面からするりと生えてきた蔓が蛇のように怪物たちの体に巻きついて捕らえる。玄武に襲いかかった一頭は空中で捕縛され、地面に打ち付けられて絶命した。玄武はちらりと木守の方を見た。木守は先ほどの敵をすでに丸呑みにし終えたらしく、かわいそうな獲物の首を咥えている別の一頭の尾にかみついていた。狼にも似た、しかし狼に似つかず邪悪で狂暴そうな怪物たちは閉ざした家々の扉を破り、逃げ遅れた人を追い回そうとしている。全てを相手にしていたら、とても白虎門までたどり着けないだろう。木守を残していくにしても、ひとり(一匹)でこの敵は捌ききれるはずがない。
玄武は矢を射ながらも唇を噛んだ。一人として犠牲を許すわけにはいかない。だが、白虎門より侵入されれば京は壊滅しかねない。そうすればもっと大勢の人々が犠牲になる。そうしたら、兄の家も……
(……ああ、兄上!あたしはどうすればいいのですか?)
大地が轟き出した。玄武は白虎門が破られたものと思って青ざめたが、馬の行進してくるらしいその物音は京の西側からではなく東の方から聞こえてきた。玄武ははっとした。やってくるのは味方だ。
玄武の予想通りであった。果たして帝に仕える兵たちが雄々しい馬を駆けさせ、剣を佩いてやってきた。先頭で黒馬に跨り、緑の狩衣をまとっている、見るからに勇壮な男性は柏木右大臣だろうか。遠目にも見覚えがある気がした。
「右大臣、ここはお願いしますっ!!」
玄武は思い切り怒鳴った。通じたかどうかはわからない。いずれにしてもこの場は任せておけるだろう。剣が抜かれる音と男どもの吼えおらぶ声を玄武は後にした。
白虎門は白くつやめく石を積み重ねて造った壮麗な門である。初めてこの門を見た時、思わず歓声を上げたのを覚えている。あの時の玄武はまだ玄武ではなかった。結婚もしていなかった。兄だけをこの世の光だと信じている少女であった。
兄の邸に立ち寄りたいという誘惑に抗って、玄武は白虎門までやってきた。走りつづけて疲れたようすの馬をいたわりつつ、玄武もまた喉のかわきを覚えながら馬を飛び降りて門の前に立った。石造りの扉にじっと耳を充ててみたが特に門の外に怪しき気配はない。少し安堵しつつも玄武は扉に両手を充て、輝く金色の宝石を象嵌された白虎の紋章を見上げた。この門の主が早く帰ってきてくれればいいのに。白虎は一体どうしたのだろう。それに姫さまも……
『我は叢に眠りし者。あさましき身なりし時、我が牙は……』
……すばやく身をかわしたのは本能であった。もはやそうとしか説明しようがない。背筋が凍るほどの寒気を覚えたのは振り返り、その者と目が合った瞬間であったから――冷たい、光のない紫紺の瞳。
玄武は門を背に矢を構えた。向かい合っているのはその形からして恐らく男であろう。細面の美貌は女のようにも見えるとはいえ。しかし、その美しさは感嘆し見惚れ憧れるような類のものではない。見る者を慄かせるような美しさだ。一体なぜかくも残忍な意志がかくも美しい姿をとることができるのかと。彼はまさしく残忍さと美との結晶であった。あまりにも厳しく精錬され、あまりにも緻密に研磨された。
すらりとした長身に、黒の直衣に烏帽子姿。冷ややかに玄武を見据える双眸は永久に明けることのない夜の色であり、海底に深く沈んで永久に日差しを浴びることのないまま闇の色に染まった貝殻の色でもあった。その面には見つめる人の影さえ映り込むことはないように思われる。皮膚の色は、象牙の雛のように白く澄んでいるが、どことなく若い女の骸の白さを彷彿とさせるものがあった。こんな男は宮中において見たことがない。ましてやその白い手に鈍色の鉄扇をひらめかせているともあっては――その鉄扇こそがまさしく先ほど玄武の首筋を狙ったのである――そうして男は憎しみも敵意を向けるでもなく、玄武に悠然と微笑みかけているのであった。背中をぞわりと冷たい汗が伝った。
「誰だ」
玄武は低く、抑揚のない声で尋ねた。男は微笑の端を少し持ち上げたきりで答えなかった。
「誰だと聞いている……!」
「……我が名は漆」
不思議に澄んだ声であった。折りたたまれて、鉄扇に散らばっていた月光は集められ扇を血塗られたごとく赤く染めた。その声と所作の優雅さがまた玄武を怖じさせた。
「それだけを知れば満足であろう、玄武よ。手土産は少ない方がよい――天満月媛への」
「何がねらいだ?」
「さあ……我が望みは深淵にして壮大だ。当の私自身が語りつくせぬほど。私の意志と私ならざる者の意志が、太古の神の意志が旁魄するがゆえに。ただひとつ教えてやろう。我が望みの果たされるためには、この国の最も斎き乙女の命が捧げられなければならないと。天つ乙女のかりそめの姿であるという姫君の命が」
「そんなこと、絶対にさせるものか……!」
怒りに瞳を燃やす玄武に、漆は嘲りと憐みを模したまなざしを向けた。
「ならば守ってみるがよい。ひとつ問うてみようではないか、玄武。他人の命を秤にかけたことがあるか?」
「何を訳のわからないことを……!」開きかけた口はそのまま声を放たぬままだった。何気なく退いた漆の背後から何者かに小突かれつんのめりながら現れ、漆に衿を取られたのは他でもない雪乃であったのだ。
漆の鉄扇の端が触れたところから、雪乃の首筋には赤く線を引いたように血が流れだした。雪乃の皮膚の色の上に刃の鈍い輝きを見出した途端、玄武は理性を忘れた。
「雪乃を離せ!!」
「離してやってもよい。お前が玄武門を開くと言うのなら」
今にもつかみかかりかねない玄武の気迫には少しも怯む気配はないままに、雪乃の身を揺さぶって玄武を牽制しながら漆は冷笑する。雪乃は乱れた黒髪からのぞく顔をやや苦しげに歪めた。だが、雪乃は目線で必死に訴えていた――そんなことはなりません、御方さま。
「そんなことはできない……!」
咄嗟に言い切った、玄武の声はかすれた。漆はきっとそれを聞き逃さなかった。
「では、雪乃が死んでもよいと?」
「雪乃は死なない。それに門もひらかない……お前に言えるのはそれだけだ」
それでこそ御方さまです、と雪乃が微笑む。しかし、玄武は雪乃とうまく目を合わせられない。口だけは強がりを言っていても、どうすれば雪乃を救えるのかがわからなかったから。この漆という男がそう簡単に油断してくれるような敵ではないことは知っていたし、まさに今この瞬間、雪乃の首を切りつけてもおかしくはない残忍さを持ち合わせていることも明白であった。
漆のかすかな身じろぎにさえ、玄武はびくりとした。駄目だ。怯えていることを気取られてはいけない。
弓を構えることができないのなら、後は術を以って相手の不意を衝くしかない。葦垣の術を使って二人を引き離すことはできるだろうか。漆はほんの少しの不審を覚えたその瞬間、雪乃の首を掻き切ることができるのだ。だから、もっとすばやく、音を立てず、確実に。
漆の唇が不吉に歪んだ瞬間、玄武は蒼白になって大きく目を見開き、思考を放棄して矢を構えた。と、漆の背後に何かきらりとひらめくものがあって、漆の鉄扇は瞬間、それを受けるためにかかげられた。すると、背を押されたらしい雪乃がよろめきながら玄武の方へと歩み寄って手を伸べた。
「御方さま……!」
「雪乃!」
玄武は慌てて矢を降ろして雪乃を抱き止めた。雪乃の痩せた身にこもった重みが胸の上に圧し掛かってきた。雪乃の骨ばった肩の感触を掌でさすって、ひとまず安堵の息を吐いた玄武は、助けてくれたのは誰だろうかと確かめる。牙を向き、尾をしならせて漆の鉄扇と対峙しているのは、頼もしき相棒である。ああ、やっぱり、木守だった。玄武の危機を察して急ぎやってきてくれたのだ。
「御方さま……」
か弱い声で名を呼ぶ雪乃を見下ろして、玄武は微笑もうとした。絶対に守るから大丈夫なのだと伝えたかった。雪乃ならば簡単にその底の浅さを見透かしてしまいそうな、頼りない笑顔でも。だが、玄武の視線は降ろされたまま凍りついた。
「ゆ、き……」
もたれかかってくる身を支えなおした時、掌が生温かく濡れた。雪乃の肩越しに恐る恐る見た我が手は月光を受けて指の先までもが赤黒く沈んでいた。
「ゆ、き……!」
「おかた、さま……」
雪乃の言葉は流れ出る血の色に押し流され、その飛沫が玄武の肩にかかった。雪乃の左脇に腕を差し入れて膝から崩れ落ちんとするのを辛うじて留めた玄武は、血に濡れた手で傷口をさぐり出すと、急いで癒しの術をあてがった。玄武の腕のなかでじっとうなだれる雪乃は痛みから逃れたらしいが、涙を眦に光らせたままの瞳から苦悶の痕が消える様子はなく、吐息は弱々しかった。
「雪乃、大丈夫?」
雪乃は小さく頷いた。
「どこかに隠れて休んでて……とにかくあいつを倒さないと」
玄武はちらりと木守の方をうかがった。木守の姿はもはや宙を舞う白い光線とばかりしか見えない。その先端に牙がきらめくさまはさながら流星のようである。しかし、その牙を交わす漆のしなやかな身のこなし方にはまだおぞましいほどの気品が満ちており、漆の黒い衣装はあたかも浮遊する闇そのもののようであった。
玄武は急ぎ雪乃を助けて木陰に降ろすと、その傍らで神渡を打起こした。木守と漆はひと時たりとも静止する気配はない。右手が痛み出すが、矢の先は漆を捉えかねている。炎のせいで乾いた唇をぎゅっと浅く噛む。焦燥と当惑が指先までには伝わり切らないかすかな震えを脳内にもたらして、思い出の花瓶が倒れる。こぼれ出し染み出すのは同じにおいの記憶である。
(ああ、なんでこんな時に……)
他人に期待されるのが嫌だった自分。他人に期待されるほど価値を自分に見出せなかった自分――「お気の毒」な六の君だったあたし。
四神だなんて務まらないと思っていたのに。四神に選ばれたと知った時、恐怖で身がすくんでしまったのに。高熱に喘ぎながら夢のなかに現れる顔と向き合い続けた。幾代もの、幾人もの玄武たち。あたしは嫌だと訴え、泣き叫んだ。乙女たちの顔は――そのなかにはもう皺くちゃになった顔もあったけれど――ただあたしに微笑むだけだった。
饐えたにおいだ。あたしがあたしであることを恨み憎み悲しんでいたころの記憶。あたしがあたしであることが喜ばしく感じられたのは、ただ兄上のそばにいるときだけだった。その兄上とも引き離されるとあって、あたしはもうあたしであることをやめてしまいたいとさえ思った。ああ、今思えばなんという慢心だろう。あたしは自分を嫌いながら、いや、むしろ嫌いだからこそ、あんなにわがままになれたのだろうか。他人があたしのために抱えている痛みを正視しようともしなかった。家族から白い目を向けられながら兄上があれほど優しくしてくださったのに。ひとり絵を描いて待っている夜、「もう殿はお寝みになりましたよ」といつもより香をゆたかに漂わせた雪乃が微笑んでくれたのに。
「大丈夫。玄武は玄武だよ。だから会えたんだよ、ちゃんと」――そう言ってくださったのは姫さまだった。その言葉の正しさを知るのは、あとになってからであったけれど。そう、あたしはあたしでいい。それを知らなかったから、あたしは全てを諦めざるを得なかったし、全てを諦めることもできた。でも……今は違う。
矢羽が風にそよぐとあたしの指先も痺れる。あの男を、漆を射殺さなければ。必ず一発で。そうでなければ漆はたちまち反撃をしかけてくるだろうから。こんな緊張、こんな焦燥、こんな当惑。かつてのあたしであれば容易に屈してしまっただろう。でも、今のあたしは屈しない。あたしはあたしだから。あたしはあたしでいいのだから。だから、あたしがあたしであることの責任を果たす。玄武としての責務だけではない。この京を愛し、生きたいと願い、笑いたいと願い、もう一度姫さまにお会いしたいと思っている、この切なく、小さく、ありふれた、あたしの想いへの責任を果たさなければ。
木守の猛攻に疲れたものか(いや、この男にかぎってそんなことがあり得るのだろうか?)、雪嶺のごとき白虎門の屋根の上に降り立った。この機会を逃すわけにはいかなかった。尋常の人ならば、否、かつての玄武ならば想像もつかぬほどの緻密な時間の網目をねらって、玄武は矢を放つ。いつも通りに。訓練した通りに。京姫や四神たちに励まされ、叱られてできるようになった通りに。
「あの時と同じようにね、玄武!」
神渡の矢はまっすぐに漆の左胸へと飛んでいく。
……そして音もなく、弾かれる。
「あっ」と声もなく目を見開いた玄武は、漆の冷笑と鋭い痛みとを同時に浴びせかけられた。漆の冷笑は赤褐色の瞳のなかに。鋭い痛みは背中に、つい先ほど雪乃のそこに触れたと思しき場所に。漆を睨み返すべきなのか、振り返るべきなのか、玄武は迷った。振り返らずとも目線をかすかに落とすだけで、胸に縋りつく女の手を見下ろすことはできたけれども。ああ、でも。この手がまさか……だってこの手は…………
肉体から硬く冷たいものが差し抜かれていく感触があった。けれども痛みは一向に引く気配はない。むしろ満ち潮のように玄武の身に迫ってくる。ようやく振り返る決意ができた時、翻したばかりの首筋に、玄武は赤い衝撃を受けた。
「どう、して……」
噴き出す血を右手で抑えようとするのを、あの手が、玄武の身をきつく抱きすくめることで阻んだ。玄武をいたわりつづけてきた手が。
「どうし、て……ゆき、の……」
「……ごめんなさい、御方さま」
玄武の背の傷に再び刃が突き立てられる。玄武は声を上げ、身をのけぞらせて痛みに喘いだ。咄嗟に雪乃の身を剥がそうとするとき、玄武はすでに癒し塞いだはずの雪乃の傷跡を再び探り当てた。掌は再び雪乃の血で濡れた。
「なん、で……?」
「私は死んでしまったから。御方さまが助けてくださる、そのずっと前に。漆によって殺されてしまったんです、御方さま。だから、今の私は漆さまのもの。漆さまの僕なのです」
「な、なにを……いって…………っ?!」
傷口を抉られる痛みに悲鳴を上げた途端、なにかものすごい力によって後方へと弾き飛ばされ、玄武は土の上に倒れ込んだ。倒れ込んだ先からも、地面が生ぬるく湿っていくのがわかった。背中がものすごく熱い。だが、首の傷の方がよほどまずい。頸動脈を切られたのだ。こちらを先に治さなくては。頭の奥ではそうしようとしているのに、腕が鉛のように重たくて上がらない。
涙と靄にかすんだ視界には赤い月だけがぼやけ膨張して映り込んでいる。もうその赤さも月光の色であるのか、己の血の色であるのか、玄武には判別がつけがたい。ふらふらと歩み寄ってくる雪乃の顔もわからない。血しぶきを浴びて、衣装が真っ赤に染まっているせいで。その手に握られた小刀の刃のひらめきだけがやけにまばゆく映った。
「ゆ、き……」
呼び慣れた名を呼ぶだけであるのに、言葉は喉奥で閊えてしまう。これが死なのであろうかと自問すると、女主人の言葉に「その通りです」と答えるいつもの微笑みで雪乃が笑った気がした。再び小刀が振りかざされる、その光が散らばり、重なって……
木守が雪乃に飛びかかるのはもはや視覚ではなく気配で感じられた。玄武は血とともに大地へと流れ去り、失われてゆく生命を必死に留めようとして、指先を動かした。玄武の左腕は腰のあたりに投げ出され、右手は肩から少し離れたところにうずくまっていた。切られた頸動脈は右側である。ほんのわずかに右手をずらせば、傷口に触れられるのだ。絶対に諦めてはいけない――たとえ意識が薄れかけていようとも。
あと少し、あと少しだから。地面の上をようやく擦った掌に屈辱的なほどの重みが加わった。地面の色に紛れて黒い履の色が映り込む。
「泥の中でもがく亀のように、今更あがいてどうするのだ、玄武?」
漆の声だ。
「雪乃は死んだ。だからお前の首筋を切りつけるなどという芸当ができるのだ。お前が一番知っているだろう、生前の雪乃の忠臣ぶりを。死者として我が眷属にならずして、どうしてあの雪乃にお前を殺すことができるだろうか」
「う、そ……」
雪乃が死んだなんて嘘だ。そう言い返したくとも、生き残った理性が漆の言葉の少なくとも半分までを肯うのを止められなかった――雪乃は絶対にあたしを裏切らない。「もう殿はお寝みになりましたよ」そう言って微笑む雪乃……
漆の紫紺色の瞳は、無様な我が身の上に氷塊のごとく滑り落ちてくる。
「玄武よ、ひとつ教えてやろう。京姫が天つ乙女の世界を統べる者であるとすれば、私は月の女神の世界を統べる者であるのだと。私は月の面に降り立ち、そこに住まう者どもを我が眷属とする術を知ったのだ。ああ、無論、全てとはいわない。私のしるしが刻まれていなければならぬのだから。ゆえに、いくら慈悲をかけたくとも、お前の兄は呼び寄せてやれない。お前の兄は芙蓉の僕に食らわれたゆえ」
「うそ、だ……!」
漆の身がひらりと飛び上がったのは、木守の襲撃を避けてのことであった。あるいは、玄武が渾身の力を以って立ち上がろうとするのを予期したためか。木守は漆を主人から引き離すと、玄武の元へと直ちに引き返してくるりと巻きつき、頭を使って玄武の右手を首元へと押しやった。首筋の傷は癒えた。続いて、背中の傷も。しかし、もうあまりにも多くの血を流し過ぎたことを玄武は知っていた。ひとりで立っていることもままならない。視界は揺らいでいる。
「かような状態で立ち上がるとは。まこと泥を這いずり回る亀よ。さすがと言わざるを得ないが……だが、もう遅い」
鉄扇で押し隠された漆の言葉も、その笑みが指すところも、事実なのであろう。あとほんのわずかな時間でこの生命は終わるのかもしれない……けれども。
「あたしは信じない」
知っている。この生命の刻限ならば、他ならぬあたし自身が。けれども、信じない。信じない。雪乃の死も、兄上の死も、一切信じない。
「漆……お前が何者かは知らない。だが、お前の罪はお前のつらねる嘘の数々、それだけで充分だ。お前のような者を京に入れたのはあたしの不覚、あたしの失態。だから、だからこそ、お前はあたしが倒す……!」
あたしがあたしだから。
「まだ御託を並べる余力があったとは。ふむ、こうもしぶとい姿をみるといっそ付き合ってみたくもなくなるものだ……だが、私は往かねばならぬ。この国の最も斎き乙女の元へと」
「姫さまには指一本たりとも触れさせない!!」
怒鳴った瞬間、意識が消えた。木守の頭突きが、玄武を留めた。よみがえった視界に漆の姿はなかった。漆の哄笑は夜空より響いた。
「退屈が恐ろしいというのなら雪乃を置いていくとしよう。玄武好きにするがよい。戦うも戦わぬも、お前の自由だ」
「待っ……!」
玄武は踏み出しかけて、木守の上に倒れ掛かった。それでも手を伸ばし、構えの姿勢をとれば地に転がった神渡は銀色の光で彩られつつ形を成した。赤い月めがけて玄武は矢を向ける。とはいえ、すでに朦朧とする視界に闇に溶けた漆の姿が見当たるはずもなく。風が梢を騒がせるようなかすかな物音が玄武の視線を捉えようとする。
見遣った女が立っていた。木守に襲われ退散したと思っていたのに。そうであったらいいと願っていたのに。雪乃は――否、きっと雪乃の形をしているだけに違いない女は、左足を引きずり引きずりやってくると、玄武をひたと見据えて、破れた袖に小刀をきらめかせた。
「御方さま……」
女は雪乃の声でつぶやく。表情はないがその光のない瞳の奥に必死になにか訴えかけようとしているものがあるような気がして、玄武はどこか切ない。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「木守、行って……」
今にも途切れそうな声で、玄武は吐き出した。蛇は賢しげな眼を咎めるように主人に向けた。が、主人は首を振った。
「行って、みんなの元へ……漆のことを伝えなくちゃ。あたしは後から追いかけるから。絶対に……!」
あたしは信じていないのだから、この命の刻限など。その思いは言葉なくともきっと木守には通じただろうとの確信が玄武にはあった。代々の玄武に仕えし者、玄武そのもの、玄武の一部である神なる蛇、木守には。血に濡れた手でその首に触れると、木守は目を瞑って玄武の額にこつんと頭をあてた。
白い標縄のような木守の身がゆるゆるとほどけて、玄武を取り残して白虎大路の彼方へ消えていく。音もなく去っていく木守であったから、玄武は木守が遠ざかる気配を、肌の上から飛び立っていく木守の冷たい鱗の感触で辿るほかない。
ふらつく足で大地を踏みしめる。唇を噛み締めながら、けれども全身の力を研ぎ澄ませて、暗転した視界を投網のように遠く投げかけると、迫り来る小刀の刃が網目に光った。今度こそ外すわけにはいかないのだ。雪乃の姿をした者に矢を向けることへのためらいも苦しみも全て押しつぶし、小さな銀色の貝のようなひらめきめがけ、玄武は引き絞り、そして放った。
神渡の矢はまっすぐに雪乃の左胸へと飛んでいく。
……ああ、御方さま。
さすがです、御方さま。修行を続けた甲斐がございましたね。
まるで見違えるように勇ましくなられました。ほんとうに立派です、御方さま。雪乃は鼻が高うございます。だって、雪乃は御方さまが本当は立派な御方なのだと信じていましたから……
ああ、なぜ泣かれるのです御方さま。なぜ?敵を見事打ち倒したのですもの。お笑いなさいませ、御方さま。
お笑いなさいませ……
ごめんなさい……
御方さま、ごめんなさい。でも、もしも許されるのなら、この死の間際に、二度目の死の間際に願ってもよろしいでしょうか。一度目はそうする隙さえなかったのですもの。
ねぇ御方さま。もしも、もしも許されるのなら、
雪乃はもう一度
御方さまのお傍で……
胸に受けた矢をまるで宝玉であるかのように誇りつつ、凡庸な容姿ながらその忠誠のうるわしきこと、しとやかなることこの上なき女性は地に横たわる。彼の女性から離れることわずか、震えつつ数歩を踏み出した少女もまた地に伏した。それきり少女が起き上がることはなかった。一度だけその唇が言葉らしきものを紡いだけれども。
「みんな、ごめん……」




