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京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第三章 前世編
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第三十話 漆(上)

「朱雀!朱雀!また海に行くの?いいなぁ。海ってきれいなんでしょ?すっごく大きくて」


「いつかぜったいわたしも連れていってね。朱雀のせなかに乗っけて」


「ぜったい、ぜったいよ!……あれ?お姉さまが呼んでる。行かなくちゃ。あとでね、朱雀!帰ってきたら海のお話、聞かせてね!」


 庭の小鳥たちの騒ぎが朱雀の眠りを覚ました。朱雀は最初に文机に伏せたままうたた寝をしていた自分を恥じた。こんなところをお父さまに見られようものならば、とまで思い至ってから、ふとただならぬ気配を察して立ち上がった。降ろしていた長い髪の端が文机の角にあたって、朱雀自身には感知されないが、いかにも意味ありげな揺らぎをもたらした。


(どうしたのだろう、小鳥たちの騒ぎは。ふくろうからすでも襲いにきたのかしら。それにしてもこんな夜にうたた寝をするだなんて。姫さまは無事お帰りになったのかしら。いいえ、まだね。だとしたら白虎から連絡が……)


 庭へ行きかけたところで、朱雀は小鳥たちのはばたきと鳴き声に何か聞き慣れぬ音がまざっていることに気がついた。梟や鴉の鳴き音ではないことはその音が自分の懐より零れ出づることからもあきらかだ。鳥影のように朱雀の胸を暗い予感が横切った。


「……姫さま!」


 その時であった。女房たちの悲鳴とどたばたと邸内を踏み荒らすような足音が聞こえてきたのは。朱雀は咄嗟に武器を取ったが、そのまま物音の方へ駆け寄っていくべきかそれともまずは自らの身を守るべきか迷った。


 ところが朱雀の一瞬の逡巡を待たずして、襖が開け放たれる気配があった。蛍火の銃口は灯影に認められた人影にじかに接した。「三の宮さま!」聞き覚えのある声が、朱雀に降りかかり、その肩を抱く。


「右大臣、なぜあなたが……」

「ご無事でしたか、宮さま……よかった」


 ほんのわずかな間、右大臣の口元が緩んだような気がしたが、瞬きひとつする間に元の険しい表情が戻っていた。


「主上が何者かによって殺されました。叛逆はんぎゃくを起こそうとしている者がいる。宮さま、あなたの命も危ういかもしれませぬ」


 右大臣の報告に朱雀は静かに目を瞠った。その白い喉が詰まる呼吸のために小さくこごって、浅い翳りを帯びるのが間近にいる右大臣には見えた。だが、それを恐怖のためととらえたがるのは右大臣の独善であった。


「ご安心ください、宮さま。必ずお守りいたします。一刻も早くここからお逃げください」

「なりません。いいえ、なりません……わたくしは…………」


 右大臣の分厚い掌をすり抜けて朱雀は駆けだした。その迅速な動きに呆気にとられながらも朱雀の宮が蔀戸しとみどを押し上げて庭へと出ていくのを追いかけて、すさまじき紅の月を浴びながらも、夜空へ飛び立つ何百という小鳥の群れを見送っている美しい女性ひとの後ろ姿を見出した。


「逃げなさい……ここはまもなく戦場になる」


 つぶやき、振り返った朱雀は両手に掬った髪を結い上げはじめていた。右大臣は何か見てはならない女人の神秘を見取ってぞくぞくとはだに粟立つものを感じつつも、貴人あてびとの、否、皇女ひめみこの威厳に圧倒されて目を逸らせないでいた。朱雀の声はかつてない調子を伴った。


「右大臣……主上が亡くなり、紫蘭の君も京を去った今、松枝帝の血を継ぐのはわたくしひとりとなりました。女の帝は先例のないこと。しかし、今この時においては認められるはず。この京の、玉藻の国の危機が迫っているのですから。これは勅命です、右大臣。全てのつるぎく者どもに伝えなさい。戦うのです。民を守りなさい。悪しき者どもの手から……我々四神と共に」


 勅命とならばもはや抗う術もない。ましてやこのような強いまなざしで射抜かれては。右大臣はこうべを垂れてひざまずいた――ああ、もしかしたら自分はこの瞬間を待ち望んでいたのかもしれないと、密かに思いながら。




「玄武は玄武門と白虎門を!あたしは青龍門と朱雀門に向かうから!急いで結界を張りなおすの!白虎と朱雀を待ってる暇なんてない、早くっ!!」

「わかった!」


 それぞれ馬を駆けさせて、玄武と青龍は別れていく。互いを心配するゆとりもなかったことに気づいたのは朱雀大路を走り始めてしばらく経ってからのことであった――大丈夫、玄武とあたしだもの――青龍は馬を速めた。


 東雲川しののめがわがいくらかの防衛機能を果たしている青龍門より無防備な朱雀門を先に塞いでしまおうというのが青龍の考えであった。先に朱雀が思い至ってくれていればそれでよいのだけれど。しかし、白虎が京にいないのは非常に手痛かった。離れ離れになっていても、白虎の風の力さえあれば連絡がとれるというのに。


(姫さま、白虎……どこにいるの?早く帰ってきて)


 朱雀門の朱色の屋根と篝火の明かりが遠くに見えはじめたころ、栗毛の馬にまたがった青龍の頬をなにか小さなものが触れて追い越した。よくよく見定めてみると、それは紫色の蝶なのであったが、さしてせわしなく羽ばたくわけでもないのに、馬をたやすく抜かしていくのが第一に不審である。第二に門前まで至りついた蝶が人間の女の姿となりすばやい鞭の一振りで門番を絞め殺してしまったことが……青龍は馬を速めて叫ぶ。


「そこの者っ!待ちなさいっ!!」


 門に手をかけていた女はゆっくりと振り返った。不気味なほどに美しい女であった。そして冷酷な瞳をした女であった。青龍はこの女をどこかで見たことがあるように思われて仕方がなかったが、今は記憶を手繰っている暇もない。


 玉虫色に光っている、女の口の端が吊り上がった。


「おやまあ、青龍殿。ずいぶんと早いお出ましですこと。身支度する時間もなかったのではなくて?女の外出に身支度は欠かせないものですのに」

「何者なの、あんた?この人を殺したけれど、一体どういうねらい?あんたが京を攻めにきた悪しき者なの?!」


 青龍はすでに馬を降りて、愛刀である凍解いてどけを抜いて女に向けていたが、女は少しも怯える気配がない。やはり尋常の存在ではないのだと青龍は確信する。


「質問が多いこと。わたくしは忙しいというのに。でも、わたくしの名前を知らなくてのちのち恥をかくようになっても憐れですものね。ですから名乗ってさしあげます。わたくしの名は芙蓉」


 芙蓉という名をどこかで聞いただろうか。聞いたかもしれない。だが、思い出せそうにない。そんなことよりも肝心なのは、この女が一瞬で人をあやめられるほど残虐で強烈な力を持っているということだ。


「……あんたのねらいは?」

「わたくしのねらいというものはありませんわ。わたくしはただ漆さまにお仕えする身。漆さまの望みこそわたくしの望みですもの……では、青龍殿、またお会いしましょう。わたくしは先を急ぐのです。京姫の首を漆さまにささげなければならないのですもの」

「……っ!」


 芙蓉が背を向けたその瞬間、青龍は凍解を振りかざして飛びかかった。刀は空を切った。芙蓉の身は門前から掻き消えていた。


 咄嗟に振り返った青龍は振り下ろされた鞭の一撃を凍解で受け止めた。柄を握る右手がじんと痺れ出すが、いささかの躊躇も許されない。青龍は一歩後ろへと飛びのき、門を蹴って跳躍すると地面へと降り立った。芙蓉の姿は空中にあって、青龍を見下ろし嘲笑っていた。まるで翼を持たぬ巨大な蝶のように。


「ほほ、気が早いこと。死に急いだって仕方ありませんのに」

「姫さまには指一本たりとも触れさせないっ!絶対にここを通すもんか……っ!」


 青龍が叫び終わると共に、ごうっと低く大地が轟くような音がした。怪訝な顔をした芙蓉がちらりと眼を降ろしたその瞬間、地面が割れ、続いて盛り上がり、そこから湧き出た水柱が芙蓉に向かってまっすぐに打ちあがった。芙蓉は間一髪といったところでするりと水柱をかわした。かわした先にも清い水の柱は続けざまに打ち立てられていくが、芙蓉はわずかに衣の裾を濡らしただけで巧みに柱の間をすり抜けていく。その間に、門と芙蓉との距離は次第に遠ざかっていった。


「まったく。とんだ邪魔が入りましたわ……からかったりしなければよかった」


 つぶやく芙蓉の真後ろにも水柱が噴き出てくる。避けようとした芙蓉が身を前に逸らしたその時、正面の水柱の色がわずかに黒く澱んだ。その変化に気がついた芙蓉は前後にそびえる二つの柱の間から抜け出した。そうでなければ水柱もろともに凍解の刃にその身を断ち切られていただろう。空振りした青龍は悔しそうに勢いの弱まった柱を踏んで、着地した。と同時に、水柱はいずれも地面の中におさまった。


 着地するや否や身を翻した青龍の動きは迅速で、いささかの澱みもなかった。速すぎたのは芙蓉の方である。芙蓉の鞭が振り返った青龍の右手を打って刀を叩き落とさせ、続いて毒蛇のように首に巻きついて締め上げた。青龍は手で鞭を掴んで振りほどこうともがいたが、芙蓉の力はその華奢な肢体のどこにそんな力がひそんでいるかと思われるほど強靭であった。このままでは窒息する前に首の骨を折られるかもしれない。刀を取ろうと地面に手を伸ばしても届かない。水柱を発生させるための詠唱は……だめだ。息苦しさのために頭が真っ白になっていく。喉を圧迫される激烈な痛みが次第に痺れに代わっていく。絶対にまずい。


 青龍は目を大きくみはって喘いだ。口を開いて出てくるのは乾ききった声の残骸だけ。地面を蹴り上げても滑稽なだけだ。芙蓉の高笑いが聞こえてくる――もう終わりですの?あまりにもあっけない。ではお前の首を京姫への手土産にするのはどうかしら?


(だ、め……!ぜったいに、ぜったいに、姫さまのもとには、こいつを……っ!)


 薄れゆく景色のなかに、ひらめくものがあった。青龍の身はどさりと倒れかけてなにものかに受け止められた。首に手をあててみると芙蓉の鞭は既にそこにない。馴染みある声が聞こえてくる。


「青龍殿!しっかりなされ!」

「さ、左大臣……?」


 いかにも、左大臣・九条門松が青龍の身を支えていた。白い眉を険しく寄せ、獅子のごとき形相で敵をにらみつける左大臣は、立てた左膝に青龍の身をもたせかけ、右腕で握る刀の切っ先をまっすぐに芙蓉の方へと向けていた。かすんだ視界で見やると、芙蓉の姿は青龍からはるか離れて、門前に浮かんでいた。青龍ははっとした。


「お主!京を守護する四神のおひとり、青龍殿に害なす奴!お前を今より敵とみなす。覚悟を決められよ!」


 左大臣の言葉に芙蓉はただ呆れたように首を振った。


「まあ、むさくるしい。老いぼれの死にぞこないがしゃしゃりでてきましたわ。お前のようなのにはわたくしの鞭をくれる価値もない。わたくしの毒さえも……ですから、わたくしのかわいいしもべどもに食らわせますわ」


 袖のうち手を入れた芙蓉が無数の紙片のようなものを撒くのを阻止することはできなかった。その紙片がまさか地に着くいた途端に、恐るべき醜悪な獣の姿をした怪物に変わるなどと、青龍も左大臣もとても予想できなかったのだから。獣たちは鋭い牙と爪を紅の月光の下鮮やかに、殺意と敵意だけを込めた眼球を光らせて群れをなし、おぞましい唸りを発していた。しかし、青龍は聡くも怪物どもの群れに気をとられてはいなかった。


「左大臣……!門を……芙蓉が、姫さまの……っ……ところに……っ!!」

「それではどうぞ楽しんで。ご機嫌よう」


 開いた門の奥へ芙蓉の姿は吸い込まれるように消えていった。門の向こうに見えた大地は暗く憂いに沈みながらも安らかに眠っており、銀色の大河のように夜空にはまだ星がきらめいて氾濫していた。だが、きっと、まもなく……




 白銀の毛皮の上に、京姫はぐったりと横たわっていた。振り落とされぬように両手にだけは力を込めていたが、疲れ、凍え、なにより心から打ちひしがれている姫は、もう夜露が一面草の上に降りて玉の群れのように輝く光景にも、そのまたたきの眩さとしげさに引き比べて恐ろしい静謐を抱えている星空にも、驚く余力はなかった。今はただ一刻も早く京に着けばよいと思うだけである。早く桜陵殿で横になりたい。叱られなければならないのは知っているけど今宵だけは勘弁してほしい。今宵はただ眠りたい。朝になれば全て忘れられるはずだから。紫蘭さんのことなど……


 なんとひどい言葉を投げつけられて、それなのにまだ紫蘭《あの人》を想っている自分のなんと愚かなことだろう。いくら幼い京姫と言っても、さすがにこんな折の自分の一途さに自惚うぬぼれる気にはなれなかった。夢を見ていたにちがいない。紫蘭の君が自分のことを愛してくれるだなんて、紫蘭の君と共に生きられるだなんて、あり得ないのだ。今、自分はようやく夢から覚めて、はかなくいとおしい夢のかけらを抱えてぽろぽろと泣いているのだ。本当に子供だ、自分は。


(紫蘭さんはこれからどうするんだろう)


 一人で生きられると言っていた言葉にいつわりはないのだろう。紫蘭は聡明な青年だ。それに夕景もいる。夕景は主人想いで賢く、勇敢な馬だから、紫蘭に何があっても必ず守ってくれるはずだ。


(私が心配するまでもないのかな。本当に紫蘭さんの言う通り、私なんて必要なかったんだ。ばかな私……)


 結局今度のことはすべて自分の責任なのだ。自分で考え行動した結果がこれなのだもの。自分が傷ついたのはともかくとして、京のみんなに心配をかけてしまった。眠りたいだなんて言っている場合ではない。謝らなくては、まずは。今この場にいる人だけにでも。


「白虎……」

「どういたしましたか、姫さま?」


 白虎の言葉は獣の口からは出てこない。耳の横を駆けていく風の音に響いている。その声は優しい。


「ごめんなさい」

「一体どうして?」

「勝手に京を抜け出したりしたから。みんなにいっぱい迷惑をかけたよね、私……無責任なことしてごめんなさい」


 風がふっと笑ったような気がした。


「よいのです、姫さまがご無事ならば。お心の方はご無事とは言いかねますけれど」

「でも、おかげで自分がどれだけ浅はかだったかわかったもの」

「紫蘭の君は冷血な青年ですが、幸いもう二度と会うことありません。早く痛手をお忘れになることです、姫さま。それから今宵のことは誰にも仰りませぬように。四神と左大臣だけが今宵のことを存じておりますが、明日より先は口にしないことにいたしましょう」

「わかってる……一生胸にしまっておく」


 一生……ふと思い出された言葉がある。紫蘭が白虎との会話のなかで言っていた言葉。あの時は聞き流してしまったけれど、よく考えてみれば不自然だ――この先一生を桜陵殿に閉じ込められっぱなしで過ごすのか?あと残りの十年間を――なんで十年間なんだろう。


「ねぇ、白虎」


 口を開きかけたとき、京姫は頭痛を覚えた。騒ぐ夕景の様子を見にいった紫蘭に取り残されたときにも覚えた痛みと、にじみでてくる汗と動悸。疲れているだけだと言い聞かせて、京姫は続きを紡ごうとする。


「紫蘭さんが言ってたことだけど、あ、あのさぁ……私の一生が、あと残り十年って……」


 白虎が突然立ち止まったので、京姫は慌てて白虎の太い首にしがみついた。ぎゅっとつぶった瞼の裏側にも、白虎の唸り声がなめらかな皮膚の振動によって伝わってきた。冬の冷気が寄越すそれとはちがう、寒気がする。


 ふと、姫はなにものかの影を投げかけられていることに気がついて夜空を見上げた。そして息を呑んだ。女がいる――そう、女が空に浮かんでいるのだ。星屑の消え失せた夜空、紅の月を身に添わせて、薄色うすいろの髪をなびかせた女が冷然とこちらを見下ろしている。京姫と目が合って女が笑うと、玉虫色の紅を塗った唇が妖しく光を発した。まるで唇だけでひとつの生き物であるかのように。


「今宵はよい月夜ですわ。そう思いませんこと、姫さま?」


 白虎の唸り声がほとんど吼え声に変わった。


「だ、れ……?」

「あら、覚えていらっしゃらないだなんて。それは残念ですわ。でも姫さまのためには改めてご挨拶いたしましょうね。わたくしの名は芙蓉。今宵は漆さまのご下命を賜って参りました……姫さまのお首をいただくために」


 京姫がびくっと身を震わせたのを感じてか、白虎が吼えた。気がつくと、京姫は白虎の腕に抱きかかえられていた。


「姫さま、わたくしの後ろに」

「うん……!」


 降ろされた姫が白虎の背後に身を隠すと、芙蓉は冷ややかな笑みを浮かべた。


「まあ、おかわいらしいこと」

「芙蓉とやら。姫さまには指一本触れさせない。貴様が一体どういう理由で姫さまの命を狙うのかは知らないが、目的は果たされないものと思え」

「勇ましい白虎殿。とても同じ女人とは思えませんわ。でも似つかわしくない真似ばかりしているといずれ痛い目を見ましてよ。おとなしく殿方に身を任せていればよいものを」


 京姫は白虎のまわりに静かな風の起こるのを感じた。風は白虎の金色の髪を揺らし、白く丈の長い外套をなびかせた。京姫はその外套の裾に触れられないように思わず身を逸らした。


「……その舌から切り落としてやろうか」


 冬の寒さとはまた違った、もっと凄烈な冷気を感じた京姫が身を抱えたその時、浮遊している芙蓉の周囲が突如ひび割れたように歪み、幾つもの氷柱つららの尖端が芙蓉を取り巻いたと同時に、芙蓉めがけて突き刺さった。芙蓉は鞭の一振りで薙ぎ払ったが、氷の輝きに目がくらんだものか、きらきらとこぼれ散る氷柱の破片を踏んで駆けあがった白虎の剣の先からは逃れかねた。ただし、それも芙蓉の袖を切り落としただけであったが。


野分のわき!』


 白虎は氷で作った足場を踏みながら叫んだ。吹き荒れる風に巻き込まれた氷柱の破片が刃のようにいっせいに芙蓉へと襲いかかる。芙蓉はするりと脱ぎ捨てた薄紫の衣を盾に身を守った。風と氷とは衣をずたずたに引き裂いた。着地し、再び跳躍した白虎は、とどめとばかりに衣の向こうの人へと斬りかかった。


「白虎、違う!後ろ!!」


 京姫の声が白虎を救った。衣の向こうにはすでに人はいなかったのである。振り返った白虎に、今まさに、芙蓉の鞭が振り下ろされようとしていた。ひゅっと風を切る音までが耳に迫っていた。


 氷の壁一枚が白虎を守った。鞭は氷にあたってしたたかな音を立てて跳ね、氷の壁は粉々に崩れ落ちて、雪のように地に降り注ぎ草原を濡らした。白虎がそのなかに降り立つのを、京姫は手をぎゅっと組んで、青白い顔で見守っていたが、その時白虎の声がした。


『姫さま、芙蓉は私が食い止めます。姫さまは一刻も早く京に向かわれますように』

『……わかった』


 白虎のことは心配であったが、熾烈な戦いを前に自分がここにいても何にもならないことを知っていた京姫はすなおにうなずいた。


『白虎、必ず追いかけてきてね』

『えぇ、必ず』

『……待ってるから』


 白虎が剣を、桐一葉きりひとはを構えつつこちらに微笑みかけるのを待って、京姫は駆けだした。京まであとどれぐらい?いや、関係ない。白虎がすぐに来てくれるはずだもの。冷えた体を急に動かしたために、足はもつれかけ、すぐに息がはずみ、体の底に沈滞していた血が急に昇ってきたために口のなかいっぱいに鉄の味が広がった。あたたまりきらない顎と、風をまともに浴びて冷えていく鼻先が痛んだ。それでも姫は駆け続けた。京へ――ああ、白虎!お願い、早く追いかけてきて――剣と鞭のぶつかりあう音が、風に乗って聞こえてくるような気がした。



 お願い、どうか、天つ乙女よ。桜乙女よ。

 

 私の罪を清めるためならどんな代償だって支払います。


 でもどうか、愛する人々の命だけは、それだけは――




「開いてる……」


 玄武門に到った玄武は開かれっぱなしの門を前に唇を噛んだ。門番の姿も見えない。一体なにがあったというのだ。鈴の音はすでに鳴りやんでいたが、肌を刺す冷気としてひしひしと感じられる邪悪なものの気配は強まるばかりであった。馬も先ほどから落ち着かなさげである。


 とにかく急いで門を閉ざし、青龍の教えてくれた通りに結界をかけなおすことにして、玄武は扉に手を掛けた。不意に玄武は庇の下の闇に鈍く光っている飾りに目を止めた。庇の下は玄武がその力を司る草花を模した細やかな紋様で彩られ、ちょうど板扉の真上に来るように、門の表と裏それぞれに玄武の紋章が刻み込まれている。黒い亀のその胴体に絡みついている白い蛇の姿で、亀の目の部分には緑色の宝玉が嵌め込んであったが、その宝玉が光を放った気がしたのだ。


(本当に悪しき者だなんて襲ってくるの……?この京に。あたしたちが平穏に暮らしてきたこの京に。いくら姫さまがいないからといって。ここには兄上が……)


 宝玉に気をとられていた玄武は、門の向こう、闇のなかから飛んできた矢に気がつくのに少し遅れた。その首に巻かれた紫色の領巾ひれがひとりでに解かれて白い大蛇の姿となり、その硬い尾の鱗で弾き飛ばしてくれなかったら、玄武の左肩あたりに命中していただろう。玄武は矢をつがえた。


「誰だっ?!」


 返事はない。だが、静寂に低く太く、響くものがある。地を伝い、地を震わせて、真夜まよの海鳴りのようにざんざんと大地を律動させている。どうして今まで気がつかなかったのだろう、と玄武は訝しんだ。音は間近に迫っていた。すぐ隣では木守は鎌首をもたげ怒ったようにしゅーっという低い音を立てながら、闇をじっと睥睨していた。玄武は再び怒鳴った。


「そこにいるのは誰だ?!」


 今度は答えの代わりにすさまじいときの声があがった。玄武と木守は飛び上がりかけた。一斉にともされた松明の火は暗闇のなかに膨れ上がり、その下に群れなし駆け来る人々の影もまた夥しかった。玄武は雨のように降りかかってくる矢をつるの壁で慌てて防ぐと、木守と協力しつつ門の扉を閉めにかかった。


「うそっ?!あいつらが悪しき者どもなの?あんな大勢なんて、聞いて、ないってば……っ!」


 扉を閉ざし終えたその瞬間、群行が扉に突進して大きく門を軋ませた。玄武と木守は不安げに顔を見合わせて、同時に背で扉にもたれ掛かった。しかし、あの人数――暗闇と炎のために正確にはわからなかったが、到底玄武ひとりで太刀打ちできる人数ではなかった。扉が破られるのも時間の問題ではなかろうか。


 ……とにかく結界さえ張りなおせばよいのだ。玄武は心臓が突き上げられるような衝撃からそっと背を離し、ぎゅっと目をつぶって門を抑えようとする木守ひとりに今少しのあいだ番を頼んで、扉の前に両掌を掲げた。唱えるべきことばは青龍より教わっていた。


『我は地中に眠りし者。あさましき身なりし時、我がこうつるぎを通さず。乙女の身になりし今、我が矢は悪しき者どもを射る。通さじ。この門は通さじ。清らなる我が身をもて、水底みなそこの国、玉藻の国のみやこまもらん。我が名は玄武。北の守護者。北の甲冑かっちゅうとなるべき者……!』


 今度こそ間違いなく玄武の紋章のまなこが光り輝いた。板扉に何か重たそうなものが激突する音がふっと止んだ。結界は完成したのだ。少なくともこの玄武門においては。


「よしっ!木守、次は白虎門に行こう。奴らが西から侵入する前に」


 口笛で呼び寄せた馬が木守に怯えたので木守は仕方なく玄武の領巾に戻った。玄武が馬にまたがり、手綱を握ったその時であった。一本の火矢が門を越えて小さな寺院の屋根に落ちた。小さな火はじわじわと屋根を舐めてまもなくそびえるほむらとなり、立て続けに浴びせかけられる他の火矢とつがって恐るべき朱と金の悪鬼となった。茫然とする玄武になす術はなかった。


 炎に気づいた人々が家々から飛び出し騒ぎ立てるさなかに立って、玄武ははじめて自分が動かなければいけないことを思い出した。炎を消さなくてならない。人々を逃がさなくてはならない。だが、自分はどうすれば……?考えろ、考えろ、考えなくては。このままではいずれ炎は玄武の住処をも焼き尽くし、やがては京中に……兄上の家に……


「玄武ッ!!」


 友の叫び声が玄武を我に返らせた。玄武大路を、藍色の髪をなびかせながら、栗毛の馬に乗った青龍が駆けてくるところであった。


「何があったの?!結界は?!」

「結界は張れたはずなんだけど……!」


 青龍は馬の足元に落ちてきた火矢を避けて、事の次第を悟ったようであった。驚く馬を静めながら、青龍は厳しい目つきで玄武門の屋根瓦の向こうを睨みつけた。門の外で焚かれている松明の火の端が屋根と暗闇の接するあたりまでをも薄明るくしていた。


「敵は?」

「ものすごくたくさん!侵入されたらとてもかなわない……!」


 一体彼らは何者でどこから来たのだろう。なんのための京を襲うのであろう。疑問は尽きなかったが、玄武としての自分が成すべきことはただ彼らと戦うというそれだけだ。彼らが京を襲い、滅ぼそうとするかぎりは。青龍の横顔もまた同じ思いを語っていた。


「とにかく火を消さなくちゃ。玄武、ここはあたしに任せて白虎門に行って!白虎と姫さまはまだ戻らないの。左大臣が迎えに行ったけど……もしかして、芙蓉が……」

「芙蓉?」


 けげんな顔をする玄武に、青龍は少し迷ったあとで首を勢いよく振った。


「ううん、なんでもないっ!行って、玄武!」


 行きかけて、玄武は馬を青龍の傍らに寄せた。裳の裾で汗を拭い、ふしぎそうな顔をする青龍の頬にあてた手を静かに滑りおろして指先で首筋に触れる。痛々しい痣が触れられたところから薄れ消えていった。


「あ、ありがとう……!」


 驚き照れたように微笑む青龍に、玄武は返事の代わりに微笑んだ。冬の夜とは思えない暑さのなかで額は汗ばみ、瞳は乾き始めていた。人々の怒鳴る声、叫ぶ声、泣く声、屋根が焼け落ち崩れる音、煙のにおい、炎の色、降り注ぎ視界を横切っていく雨のような灰、なにもかもが氾濫し、渦巻きながらが二人を取り囲んでいる。急がなければいけないことはわかっている。そのなかでもどうしても見つめあっていたい一瞬があった。しかし、二度ほど急いで瞬きをしてもこちらをじっと見つめ返す青龍の瞳の色はかすんだ。


「玄武、気をつけてねっ!」


 せわしなげな青龍の言葉に、玄武は我に返った。


「……青龍もね」


 玄武は手を振って、馬を駆けさせる――必ず生きて会える。青龍とも、姫さまとも、白虎とも、朱雀とも……そうに決まっている。


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