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京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第三章 前世編
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第二十九話 星衾(下)

 目を覚ましたとき、京姫はこれまでの眠りでは得たことのないような深い充足のなかにいた。背中にあてている炎が幾分弱まりながらもぱちぱちと爆ぜている音も心地よい。まだ眠い瞳を、ややよそおった気だるさでもたげてみてまなじりに追いやると、月はもう二人の真上にあった。袿一枚を敷いた下で、身を寄せ合って横たわっている二人の。


 紫蘭はまだ眠っている。不規則なかすかな寝息が時おり京姫の額のあたりにかかって、前髪をそよがせる。姫が枕にしているせいで袖の捲れてしまったただむきは白く透けていて、間近に目を落とすと、冷徹な心の断面のような静脈の青色がくっきりと浮かび上がっていた。もう片方の腕は姫の腰元に回されている。京姫は少し体を起こすと、紫蘭の寝顔へと近づいてまずは両瞼の上へそれぞれと、それから唇へと接吻した。そのささいな所作のために、京姫の肩にかかっていた紫蘭の黒髪がさらさらと流れていってしまったのが惜しくて、姫はまた横になった。夜明け前には発つと言っていたけれど、もう少し眠っていてもよいはずだ。京姫は目をつぶったが、眠気のわりに一向に訪れてこない眠りにしびれをきらして、再び目を開けると、手慰みに、紫蘭の黒髪と自分の樺色の髪を共に手にとって、その色合いの違い方をつぶさに観察してみるなどしてみた。紫蘭は意識の方では半ば覚醒しているらしく、そんないたずらを知ってか知らずか、姫をますます強く抱き寄せた。京姫は紫蘭の背に腕をまわしてささやいてみた


「好き、好き、好き……紫蘭さん、大好き」


 彼女のなだらかな山なす胸乳むなぢと彼の清いほど平坦な胸板とが触れ合う切なさに、姫は目を細めて聞き入った。


 夕景のいななきが風を渡ってやってきた。姫を抱いたまま、紫蘭が起き上がった。再びいななきと、地を踏み荒らすようなせわしない蹄の音。紫蘭は傍らの短刀を掴んで立ち上がる。寝乱れた髪とそれに縁どられるにはふさわしからぬ緊張した横顔を、焚火が照らし出している。


「どうしたの?」

「夕景が騒いでいます。何かあったのかもしれない。見てまいります」

「気をつけて……」


 紫蘭が行ってしまったせいだろうか、急に不安を覚えはじめたのは。動悸がしはじめる。寒気がするのに汗がにじみでてくる。頭ががんがんと鳴りはじめる。京姫は袿で肩を覆った。すごく嫌な予感がする。この世界に隈なく敷き詰められている善きものがばらばらと剥がれ落ちてもう二度と戻らなくなるような。


 居ても立ってもいられずに、京姫は立ち上がって紫蘭の後を追いかけた。二人が接吻を交わした草原において紫蘭と夕景が対峙しているものは遠目にも明らかであった。一頭の雄々しい獣である――白銀の毛皮を身にまとい、王冠を嵌め込んだかのごとき金の模様をきらめかせた神なる獣。太い尾を振り上げ、低く唸り声をあげて、今にも紫蘭に飛びかかりそうな。京姫はその名を呼んだ。


「白虎!」


 京姫に名を呼ばれた途端、白銀の猛虎の姿は白い光に包まれて形を変え、姫の愛する男装の麗人の姿に戻った。京姫は駆けつけてきた勢いのままに白虎の腰に抱きついた。


「姫さま……!ご無事でなによりです」

「どうして?どうして白虎がここにいるの?」


 やさしく引き剥がされながら京姫は白虎を見上げて尋ねる。


「もちろん姫さまを追ってきたのです。詳しくはまたのちほど……とにかく時間がないから単刀直入に言おう、紫蘭の君。京姫さまは今から京に戻られる。私がお連れ申し上げる。当然ながら」

「姫の不在はまだ誰にも気づかれていないということか。今のうちに連れ戻せば何事もなく済むと」


 紫蘭の冷ややかな声に、京姫は驚いた。紫蘭はかつて姫に対してこんな声音で話しかけたことはなかった。青ざめた片頬にはこわばった冷笑さえ浮かんでみえる。これが先ほど姫を抱いて眠っていた紫蘭の君であろうか?


「無論、貴様は連れてはいけない。貴様は罪人だ。まして姫さまを京から連れ出したことが知られれば貴様は重罪人――首を刎ねられるばかりじゃ済まないだろうな。私個人としては、貴様にはしかるべき報いを受けてもらいたいところだが、残念ながらこれは姫さまの名誉にも関わることだ。どこへでも行け」

「待って、白虎……!」

「それで済ませてくれるならこちらも助かる。刑吏の悪趣味な拷問に付き合わされてはたまらないからな。だが、姫はどうなる?この先一生を桜陵殿に閉じ込められっぱなしで過ごすのか?あと残りの十年間を」


 白虎は目を細めた。


「貴様はそれが憐れで姫を連れ出したのか?」

「いや、まさか。単なる腹癒せだ……京へのな」


 肩をすくめて紫蘭は言い捨てる。京姫は紫蘭の視線を捉えようと必死になった。紫蘭さん、お願い、こっちを見て。どうして嘘ばかり言うの。私ひとりで帰れるはずないじゃない。だって……


 その場に根が生えたように立ったまま寒さに身を震わせる姫を、白虎がそっと促した。「だめ!」と姫は鋭く叫んだ。


「ごめんね、白虎……でも、でも、私は帰れないよ……!もう私は京姫じゃないんだもん。京姫の地位を自分で捨てたんだもん。私は京を守れない」

「あなたは生まれながらにして京姫であり死してなおも京姫なのですよ、姫様。あなたは帰らなくてはなりません」

「いやっ!!お願い、白虎、紫蘭さんと話をさせて。私は紫蘭さんのことが好きで、だからここまで一緒に来たの。絶対に紫蘭さんの傍を離れないって決めたの……どうしても、どうしても、離れたくないの」


 白虎の表情が差し曇り、憐憫が雲の中にひらめく稲妻のようにほんの刹那にその顔をよぎった。


「姫さま、先ほどあの者の申したことをお聞きにならなかったのですか。あの者はただ腹癒せのために姫さまを連れ出したのだと、そうはっきり申したではありませんか」

「でも話がしたいの……!」

「時間がありません。あなたのご不在が主上に知れたら……」

「そうしたらどうなるの?私も追放になる?紫蘭さんみたいに。それなら私はこのままここにいる。紫蘭さんと遠くに行くの」


 京姫はよどみなく毅然と言い終えた。言葉の幼さもその無責任も、もはやこの国最高の姫巫女たる者の威厳を覆さなかった。とうとう白虎は従わざるを得なかったが、「あの者から姫さまの望んでいる言葉は聞けますまい」という忠告だけは忘れなかった。その忠告を聞きつけてか、夕景が怒ったように鳴いた。


 京姫は紫蘭の元へ駆け寄った。姫が紫蘭の両手をとっても、紫蘭はうつむいたきり決して姫と目を合わせようとはしなかった。その眉根の寄せ方、目つきや口元にはどこか荒んだものが散見され、京姫は六条紫蘭ではない全くの別人と相対しているのかと疑いかけた。


「紫蘭さん……!」

「お迎えが参ったようですよ、姫さま」


 京姫にくちづけた唇がこんなにも優しさのない口調でものを語れることに、姫は衝撃を受けた。京姫はいささか怖じつつも言った。


「私、戻らない。紫蘭さんと一緒に行くって決めたんだから」

「では御翻意くださいますよう」

「ごほん……?」

「おや、京姫さまとあろう方がこんな言葉すらご存知ないとは」

「紫蘭さん……っ!」


 紫蘭は唇の端をひらめかせて笑った。


「いえ、失礼いたしました。では改めて……姫さまはご決断を変えるべきなのです。白虎殿と共に今すぐ帰った方がいい。それがあなたにとっての一番の幸せなのだから」

「でも、でも……それじゃあ紫蘭さんは……」

「わたくしのことはご心配なく。一人でも生きていけますから」


 声が濁り出すのを抑えようとして、京姫は両手を胸で組み合わせた。


「私は必要ないの……?」

「えぇ、必要ありません」


 また何か問おうとして、京姫は口を開きかけて閉ざした。頬をひとすじの涙が伝った。


「……わかった」


 京姫は喪服の裾を優美に揺らしながら白虎の方へと向き直ったが、すでにその時白虎の姿はそこになかった。風を切るような音と、続く鈍い音にはっと振り返ったとき、白虎は拳を紫蘭の顔めがけて振り下ろしており、紫蘭は草の上に倒れ込んでいた。と、突進してきた夕景が前足で白虎を蹴らんとしたが、間一髪のところで白虎は身をかわした。敵討ち果たせずとも、夕景は主人の前に立ちはだかり、昂奮して主人の天敵をねめつけていた。


「紫蘭さん!」


 行きかけた京姫の肩を白虎の手が抑えた。


「ご心配なく、姫さま。手加減はいたしましたので。姫さまへの無礼と不敬に対する罰としては生ぬるすぎるぐらいだ。これでこの男の本性がよくおわかりでしょう。やはり話などするべきでなかったんだ。あなたを傷つけてしまうことになると、最初からわかっていたのだから」


 白虎はそう言いながら、能うかぎりの憐憫と愛情を込めて京姫を抱きしめた。


「今度こそ参りましょう、姫さま。みんな待っております。青龍も、玄武も、朱雀も、左大臣も、芳野も、みんな」


 抱き上げられるがままに京姫はその場を後にした。白虎の肩越しに望めば、立ち上がる紫蘭と主人を案じる夕景が見られたかもしれないけれど、もうそんな気力は姫から失われていた。紫蘭の声は見捨てられた子供のように追いかけてきた。


「南に行くのはよしにします。海なんてものに、僕は興味がないから……」


 京姫は両手で作った小さな暗闇のなかで声を押し殺して泣き続けた。頭上には満天の星空がひろがっているにもかかわらず――



「姫さま、ご無事かな……」


 物心ついて以来、身内が亡くなるという経験をしてこなかった青龍は、結局は玄武に頼るのが得策であろうと判断した。このような緊急事態にあたって玄武の手をわずらわせるのはどうかとも考えられたのだが、母の亡骸をそのままにしておくわけにもいかないし、葬儀だって執り行わねばならない。玄武はほんとうによき友達で、こまごまと世話を焼いてくれた。もっとも実際的なことを仕切っているのは玄武よりも雪野のほうで、玄武は主に青龍の悲しみに寄り添おうとしてくれていたのだが。


「大丈夫。他のところをあれだけ探していらっしゃらなかったんだから、やっぱり朱雀門を抜けていかれたんだよ。だとしたらもう心配ないでしょ?白虎が絶対見つけてくれるもの」

「でも、それって紫蘭の君と一緒ってことでしょ?あたしは紫蘭の君のことよく知らないけど、なんだか怖くって。なんか人のことを見下してる感じがするっていうか……」

「まあそれはあたしも同感だけど。だとしても、紫蘭の君が姫さまに危害を加えるとは思えないな。朱雀も言ってたけど、月宮参りのときに紫蘭の君は一度姫さまを助けてるでしょう?それに、紫蘭の君だって仮にも宮さまだもの。そんな手ひどいことはしないって」

「いつもふしぎだったの、なんで東宮が紫蘭の君と仲がいいのか。ご性質だって全然似てないし、むしろ正反対っていっていいくらいなのに。それに紫蘭の君は三条家に育てられたのに……」

「別に。正反対が仲良くなるって、よくあることだと思うよ。現にあたしと青龍もそうでしょう?」


 母の死と京姫の失踪とが翳らせていた青龍の瞳がぱちぱちとまばたきをすることで、一瞬明るんだ。


「玄武は最初はもっと違った感じだったよ」

「そうでしょ?暗かったもんね、あたし」

「暗かったけどもうちょっとしっかりしてた気がするなぁ……」

「えー、今のあたしはしっかりしてないの?」

「だって能天気だし、全然後先考えないし、仕事もすぐなまけようとするし」

「でも、そこが好きなんでしょ?」

「す……好きって何っ?!」

「こら、お二方」


 いつの間にやら背後に忍び寄っていた雪乃が呆れ顔で二人を見下ろして言った。


「このような夜に騒がれるものではありません、まったく……青龍さま、棺の手配は整いましたわ。明日になったら皆さまに訃報をお伝えいたしましょう。しかし、一番気が重いのは姫さまにお伝えすることですわね。京に帰ってきて早々に。きっとひどく悲しまれることでしょうから」

「ありがとう、雪乃さん。とても助かりました。それから、姫さまにはやっぱりあたしの口からお伝えしようと思います」


 青龍は遠くをみやるような目をして、


「……あたしと姫さまは本当の姉妹みたいなもの。あたしたちは芦部芳野の二人の娘なんです。母の死を伝えるのはつらいけれど、そのつらさを分かち合えるから、乗り越えることもできると思います。だから……だからこそ……っ!」


 青龍がいきなり床を殴りつけたので、玄武と雪乃はびっくりして飛び上がった。


「もうっ!絶対に許さない!無理やり連れていかれたんだろうがなんだろうが、桜陵殿を出るだなんて、あたし姫さまのこと絶対に許さないっ!こんなに心配かけて……!おやつもなしにするでしょ?お勉強の時間もうんと厳しくして、これからは嫌いなものもちゃんと食べるよう見張るし、それから、それから……」


 青龍が口を噤んだのは、二人の胸元からなにか澄み切った高い音がこぼれ出したからである。玄武がふしぎそうに音の源を摘まみ上げたのとは対照的に、青龍は青ざめた顔でそれを取り出した。二人の鈴が鳴っている。それぞれ黒と青色の、代々の四神に受け継がれてきた鈴が。


「あれ?なんで鈴が鳴って……?」

「玄武……」


 青龍の声が震えていた。


「青龍?」

「もしかしたら、もしかしたらだけど、最悪なことが起こったのかもしれない」

「えっ、それってどういう……」


  飛び立つがごとく駆け出し、妻戸を開けて空を見上げる青龍が息を呑む。追いかけた玄武もまたその視線にならった――血塗られたごとくものすさまじいくれないに染まった巨大な月。


「やっぱりそうだ……玄武、やっぱりそうなんだよ。来てしまった。この機会を、姫さまが京から去るのを、やつらは狙っていたの。姫さまがいなくなって、京の結界が崩れてしまった。悪しきものどもが京を攻めてくるんだ」




 京の最北に位置する玄武門の扉が、門番の掛け声なくしてひとりでに開いていく。門の内で待ち構える女は柳のごとくすらりとした細身に薄色うすいろの長い髪を添わせ、妖しいまでの美貌を紅の月明りにいっそう艶やかにかかげながら、門の開く低い唸りを聞いている。その両手が銀の盆を支えているが、盆の上に戴かれたものは女の胸の暗がりが月光を遮るために判別がつかない。


 門の軋みがやむ。玄武門より月修院へと続く道は官道であるから、本来ならば間遠ながらに灯りがともされているはずであるが今宵は一面の暗闇が立ち込めている。濃く深く呼吸をするだけでその肺の奥までも浸してしまいそうな闇だった。その闇のなかにぼんやりと白い顔が浮かび上がる。女とも男ともつかぬ、清涼かつ精緻な線で形作られた麗しのかんばせであった。篝火の光のなかに彼の人が立ち入ると、彼の人がまとっている黒い直衣がまるで闇が膨らみ迫り出してきたかのように明らかになり、その衿元に覗くあこめの色と、瞳の紫紺色と重なって焔の端を宿した。


「お待ちしておりましたわ」


 女は十二単の重みもかさばりもなんのその、流麗な動きで恭しくひざまずいた。迎えられた人の方が黙って手を差し出すと、女はその甲に唇を落とし、それから指を口に含んだ。


「私の芙蓉はしばらく見ぬ間にひと際美しくなった」


 唾液で濡れた手で芙蓉の唇をまさぐりながら、彼の人はつぶやいた。彼の人が触れたしるしのように玉虫色の唇が蜜を帯びたようにつやめきだすと、芙蓉は目を閉じ、恍惚と恭順の意とを表した。


「あなたさまをお待ち申し上げる幾千夜がわたくしを磨き上げました」

「いやいや。待つという行為は人を疲れさせ、老け込ませるものだと聞いている。お前を磨き上げたのはいずかたの手であろうか。正直に申してごらん、芙蓉」

「お戯れを……えぇ、確かに児戯には興じましたわ。でもそれは全てあなたさまのお心にかなうと信じてのこと。不貞ではありませぬ」

「して、児戯のお相手はどうしたかな」

「御前に」


 芙蓉は膝の上から銀の盆をかかげてみせた。彼の人の唇に凍れる微笑が浮かんだ。


「憐れなことだな、芙蓉。この水底の国、玉藻の国の帝ともあろう方が。だが、私の芙蓉に触れたのだもの。その対価とも思えば……」

「まあ嫌、対価だなんて。わたくしは春をひさぐような女ではありませんわ」

「もっともだ、芙蓉。お前は月の女神に仕える巫女だもの。ところで、巫女といえば天つ乙女に仕える巫女はどうしたかな?この御方の奥方は?」

「ふふ、都合のよいことに今まさにこちらへ近づいておりますの。自らの首を差し出すために。ですからわたくしは行って参りますわ」

「ああ、そうしなさい。では、()()は私が預かっておこうね。さて、私も仕事にとりかかるとしよう。いってらっしゃい、芙蓉」

「ありがとうございます……うるしさま」



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