第二十九話 星衾(上)
私の手に抱かれて赤ん坊はすやすやと眠っている。この子が世にも貴い京姫となるべき存在であるなんて、どうして想像できるだろうか。こんなにも小さくて、こんなにも脆そうで、こんなにもいとおしい……ああ、姫さま!今のあなたはまだ香を薫きしめることも知らずに、やわらかな桃色の肌に乳と汗のにおいだけをさせている。私の指先ほどしかない小さな口は、いつかはこの国のため、人々のための祈りの言葉をもよどみなく唱えるのだろうけど、今は訳のわからないことをつぶやいてただ笑うためだけにある。まだ香油をつけて櫛を入れることも知らない、ふわふわした髪。この髪も今はただ私に撫でられるためにあるのだ。
ああ、かわいい姫さま!一日中抱きしめて襁褓を替えて乳を与え頬ずりをしていたとしても飽きないだろう。今は私だけが触れることを許されているのだから、私だけの姫さまだ。どうかすこやかに。あなたがお幸せになるためなら、なんだってできる気がする……たとえ全世界を敵にしてもかまわない。
夢のなかで、月日が流れる。
庭のひだまりにも幼い少女たちの笑い声はこぼれてくる。今日はお人形で遊んでいるらしい。昼餉ののちから飽きることもなく主上に贈っていただいたばかりのきれいな人形を動かし続けている。それにしても「 」が、娘が、姫さまのよい遊び相手になって本当によかった。あの子は辛抱強い。親のひいき目ということを差し引いても、あの年で主従の分をきちんとわきまえている子供はそうそういないはずだ。姫さまのわがままにも怒ることなく、さすがにそこだけは三つの子供らしく言葉足らずながらに、理を説いて言い聞かせようとしているところなど思わず笑ってしまう。まるで姉と妹のようだ、「 」と姫さまは。時には本気で喧嘩をすることもあるけれど。
いとしい私の娘たち。どうかいつまでも仲よく過ごしなさい。
また少し月日が流れる……
夕暮れのなかにたたずんでいる姫さまが見える。でもこれは……これは知らない記憶だわ。ああ、嫌な空。気が変になりそうな夕焼け。石垣の端に引っ掛かっている斜陽の破片に照らし出された姫さまの瞳が涙に濡れている。おかわいそうな姫さま。櫛を通した髪を風になびかせていても、そのご衣裳に香をくゆらせていても、やはり子供なのですね。せっかく覚えた祈りの言葉でさえご自分のために唱えることもできないで。まあまあ、今、乳母が参りますからそこで待っていてくださいね。
あら、姫さまが駆けだされていく。やめなさい。おやめなさい、姫さま。そちらへ走ってもあるのは石垣だけなのに……ああ、なんてこと。石垣の崩れめに足をかけて、石垣を飛び越えてしまわれるなんて。これでは姫さまが行ってしまわれる。気が変になりそうな夕焼け空の向こうへ……
母の危篤であるとの話を受けて、青龍は桜陵殿よりすぐさま飛んで帰ってきた。母が嫌っている血のごとく鮮烈な空がひろがる夕刻のことであった。急ぎ馬を駆けさせたせいで、青龍はまだ斜陽のなごりを頬の色にとどめたまま、母の枕上に侍った。
戸外の光から顔を遠ざけて眠る母を、節約のために選び抜かれたほんのわずかなともし火が照らし出していた。青龍はそのやつれたさまに驚きはしなかった。その薄い瞼がわずかに開いて、その眼が、病人の部屋に入ってはならないという禁を破った娘を向きながら今更咎めもしないのを、ただ悲しく見下ろすだけだ。それでも青龍は精いっぱいゆたかに微笑んで、ともし火を受けて銀色に光る母の髪を指で梳いていた。
「せいりゅう……」
ひびわれた声で母が呼んだ。病がその喉から潤いを絞りだして、その体の奥で病熱へと変えてしまった。
「どうしたの、お母さま?」
「水を……水をもらえるかしら?」
「えぇ、ちょっと待っててね……」
立ち上がりかけた娘を、芳野は首を振って引き留めた。
「ちがいます。そうではなくて……あなたの水を。青龍の清き水を」
青龍の水をその喉を潤すために求めた者はかつてなかったし、これまでにもそうした話を聞いたためしはなかった。しかし、青龍はためらわなかった。清きものを愛し人々に恵みをもたらす青龍としての性質がそうさせたのとは別に、母を想う娘の気持ちが躊躇を許さなかったのだ。
いつしか東宮に下賜の品としていただいた青く澄んだ玻璃の器を持ってこさせて、青龍は手をかざした。水は玻璃の器の底に浅く影を湛えて黒ずませた。いたわり、慈しみながら青龍は芳野の頭の後ろを支えてやって、水を飲ませた。そのかぼそさと軽さ。病魔がすっかりこの人の内部を食い荒らしてしまったことが、掌の上にまざまざと感じられる。薄暗がりのなかで病人の喉は星の明滅のように小さく動いて鳴ったが、その唇の端から水はあふれだして流れた。途端に青龍の涙もとまらなくなった。
「お母さま……!」
青龍は器を取り落として、母の痩せた肩に縋りついた。
「お母さま、嫌です。いかないで……!あたしを置いていくなんてひどすぎます……っ!」
「青龍、親というものは皆我が子を置いて去っていくものなのです」
青龍の水のおかげであろうか。芳野の声にかつての潤いがよみがえっていた。
「それが親というものの宿命なのです。心から愛し、愛された人ともいつかは引き離されてしまうものなのですよ……青龍、わたくしの母親としての最後の務めは、この宿命を身をもって教えるだけ」
「まだまだ教えていただくことがたくさんあります……!」
病人の頭を支えていたはずの青龍は、いつのまにやら病人に頭を撫ぜられていた。幼子に戻ったように母親の胸にうずめていた顔を上げて、涙に濡れた睫毛をきらめかせて青龍は訴えた。
「どうして?どうしてお母さままであたしをひとりにするの?」
「お前は強い子です、青龍。そして賢い子です。お前なら、ひとりでも学んでいけるでしょう……」
「そんなことないっ!そんなことないのに、どうしてお母さまはいつもそうやってあたしを遠のけて……あたしだって、甘えたかったのに。泣き疲れて、お母さまの腕で眠りたいときもあったのに。ひ、姫さまみたいに……!」
最後のひとことを口から押し出すのをとどめかけたものは一体何であったのだろうか。単にしゃくりあげただけか、理性が抵抗したのか、青龍自身にさえもわかりかねた。母が驚いたように目を見開いた気がしたが、それはやがて弱々しい微笑みへと変わった。憐憫とも諦めともとれる笑みであった。
何か言おうと口を開いた直後に病人は苦しみにあえぎだした。青龍ははっとして母の胸から顔を上げ、その右手を両手で取った。まさか先の言葉が母と交わした最後の言葉になるだなんてことは……恐怖が青龍を青ざめさせ、焦らせた。言わなくては。もっと思いやりのある言葉、もっと理性的な言葉、もっとあたしらしい言葉を。でも思いつかない。お薬湯を。ああ、でもそんなものが、今さらなんの役に立つというの?
焦燥のなかで握っている手にほんのかすかではあったが、力がこもったように思われた。ふと母の唇が波打つなかで小さく言葉を形作ろうと動いているのに気づいて、青龍は大粒の涙を頬に震わせつつ、そこに耳を寄せた。それがきっと母の最後の言葉となるのだろうことは知れていた。そしてそれが京姫に関することであろうことも青龍は知っていた。知っていた、と思っていた。
「 」
端で見ていた者たちの目には、芳野のつぶやきを聞いた青龍の瞳から顔全体へと音もなく波紋が駆け抜けていくのがわかった。波紋はせめぎあっていたさまざまな表情をまたたく間に凪がせ、震える涙を雨滴に変えた――雨滴がこぼれおち、袴を濡らすことに、そこに人間のどのような感情も関わらないはずである――それから母と娘は見つめあい、病人は苦しみのうちにもどこかいたずらっぽい笑みを浮かべて息を引き取った。
「……お寝みになりました」というのが、母の死を看取ったのちの最初の青龍の言葉であった。病人の世話をしていた者たちがお悔やみを述べる暇も与えずに、青龍は傍目にはやや性急にみえるほどすばやく立ち上がって、部屋を辞していこうとした。と、青龍は足を止めて、部屋の隅の暗闇に置かれていたために灯火の明かりに取り残されていたものの方へと目をとめた。目を細めてそれを見定めた。ただ、歩み寄っていった青龍が見定めたものをどうしたのかは、青龍の背の影に隠れて確かではなかった。
最期のお母さまの言葉……まさか、まさか覚えていらっしゃったというの。それとも死によってこの世から引き剥がされていくちょうどその間際には、この世界の理から、掟から、自由になるのでしょうか。ほんの一瞬のあいだだけ。
お母さま、あたしはもう忘れてしまいました。あたしはまだ生きているから、この世界の理から逃れられない。忘却が白い波のようにこの頭のなかを侵していきます。それは寂しいけれど、慈愛深き天つ乙女のみ手によるものですからどこだか心地よい。でも、お母様、あたしはたったひとつの事実は覚えています。お母さまが失われたはずのあたしの名前を呼んだこと……ああ、だめ!あたしよ、お願いもう一度だけ思い出して。お母さまが呼んだ名前。思い出したい。お母さまはあたしのことを……
『青龍!!』
灯りをともしていない部屋の文机の上、両手で顔を覆っていた青龍は突然殴りつけられたような気がして眩暈さえも覚えた。青龍と彼女を呼んだ声は切迫して短く力強かった。
『青龍!!どこにいる?』
『家だけど……』
一体何が起きたのだろう。白虎の声に応じながらも、青龍はまだ気持ちが戻り切らないでいる。
『どうしたの?』
『姫さまがいなくなった!いや、正確には京を出ていかれてしまったんだ……私の風の力で気配を探ってみたがどこにもいない』
頭がずきずきと痛みだす――二度も殴られれば無理はない。
『どうして……』
『時間がない。現時点でわかっていることだけを述べよう。玄武と朱雀もよく聞いていてくれ。姫さまは確かに今日の夕方まで桜陵殿にいらっしゃった。いなくなったのは女房たちが目を離していたほんのわずかな間だ。姫さまはお部屋にひとりでいらっしゃったはずだったが、夕餉の支度ができたことを告げにいったときにはお姿がどこにも見えなかった』
白虎は言葉を切った。
『どこへ行かれたかはっきりしたことはわからない。だが、推測の材料はある。一つめは姫さまが神隠しにあわれる少し前に紫蘭の君が行方不明になっていること。二つめは姫さまがいなくなったのとほとんど同時刻に二人の女房が北門から出ていること。三つめはそれからしばらくして、朱雀門を葦毛の馬が過ぎていったそうだ。朱雀門の門番曰く、主上の勅使の馬とよく似ていたので通したのだそうだが、男女の二人連れだと気がついたのはその後だったという。ところで、葦毛の馬といえば紫蘭の君ご自慢の夕景が思い出されないか?玄武が描いた似顔絵を見せたところ、門番はまちがいなく馬に乗っていたのはこの青年だといった。女の方ははっきりと顔が見えなかったそうだが――さて、ここから何が推測できるか』
『姫さまは紫蘭の君と一緒に京を出たっていうの?でもどうして?なんで二人が一緒?』
『わからない。私には拐かされたとしか思えない。姫さまと紫蘭の君が親しかったとは思えないしな』
『接点といえばただひとつ、月宮参りの時のことだけね。姫さまは確かに紫蘭の君に感謝はされていたでしょう。でも、まさか二人で逃げ出すほどとは……』
『……とにかく時間がない。どのような理由であれ、経緯であれ、ひとまず状況的に姫さまは紫蘭の君と一緒にいる可能性が高いんだ。私は二人を追い、姫さまを連れ帰る。事が知れる前に』
もし万が一この出奔が世に知られたらと思うと、それぞれ離れた場所にいるはずであるにも関わらず、四神たちは冷たいものが彼女たちの間を駆け抜けていくのを感じずにはいられなかった。それは帝への背信であり、この国と国民とを裏切ることにほかならないのだから。
『君たちも姫さまが向かいそうなところをあたってみてくれ。もちろん、あくまでも内密に。人々の口をこじ開けるためにも封じるためにも金は惜しむな。いざとなったら一条家の蔵をひっくり返す』
それきり白虎が何も言わなくなったのは、京姫を探しに出立したためであるらしい。白虎がさっさと見つけて連れ帰ってくれればいいのだけど。ふと、青龍は自分が震えていることに気がついた。これは一体どんな感情からだろうか。不安?恐れ?怒り?それとも疲労?たった今、母親が亡くなったばかりだというのに……
(ああ、お母さま!姫さまを京へと連れて帰ってください。姫さまがご無事でありますように。お願いします……!)
夕景は休みなく走りつづけた。飛びゆく景色は風になり、京姫を楽しませるようなゆとりもないというように、慰みにか、それとも嘲りのつもりなのか,
ただ姫の頬を打った。
馬の速さは姫を慄かせはしたけれど、後ろから京姫を包み込む紫蘭の腕がいつでも姫を幸福にした。ふしぎなことに恐怖が強まるほどに幸福も高まっていくかのようだった。荒い風がうなり声を立てながら前髪を乱す度に、ひとつに結わいて衿の内にしまった長い樺色の髪のことが思い出される。その髪を結わいているのは紫蘭の水晶の髪飾りであるのだから。この髪飾りほど紫蘭が身近にいるということを京姫に感じさせてくれるものはなかった。馬上では触れ合う肌のぬくもりさえ定かでない。
月の出を待って紫蘭はようやく馬を止め、京姫を木陰に抱き降ろして少し休まれるようにと優しい疲れ切った声で告げると、夕景をいたわって草原まで伴った。やがて戻ってきた紫蘭は、京姫は木の根に腰かけて膝を抱え、紫蘭をじっと見つめていることに気がつくと、腰に吊るしていた小さな袋より薄い紙で包んだものを取り出して、姫の方へ差し出した。姫は何かと訊く前に両の掌に受け取ってしまった。
「これはなに?」
「砂糖菓子です。夕景のおやつの残りです……ええ、失礼だとは思いますが、今はこれしか食べるものがありません。あまりたくさん召しあがると喉が渇きますからほどほどに。いずれ水辺を見つけたら立ち寄るつもりではいますが」
「夕景のおやつをもらって大丈夫かな?」
「えぇ。夕景は草を食んでいますから」
「紫蘭さんはいらないの?」
重なる質問にさすがに疲れてか、紫蘭の顔がやや曇った気がした。
「……私は要りません。それより少し休ませていただければ」
ぎりぎり無礼にはならぬというぐらいの冷淡さでそう言い捨てたきり、紫蘭は姫から離れて、常緑樹の影に横たわった様子だった。
京姫は掌の上で紙の包みをほどいてみた。月光はまだ弱いから、紫蘭が姫のかたわらに残していった灯りのもとに、包みをほどくなりほろほろとくずれるやわらかい砂糖菓子の色はおぼろげに見えた。京姫はきれいな小山をつついてみて、甘い砂のまとわりついた指先を舐めた。馬上で凍え疲れた体に、砂糖の甘さはしみわたるほど嬉しかった。
だが、姫はさびしかった。紫蘭に見捨てられてしまった気がしてならなかった。紫蘭の君はただ疲れているだけなのだと自分に説いてみても、きっと紫蘭が抱擁して温めてくれるものとはかなく信じていた京姫は裏切られたようにさえ思われて、そんな自分を咎めざるを得ない。
京姫はゆっくりと立ち上がった。その気配にも紫蘭は横たわったきり気がつくようすはない。眠っているのかもしれない……でもこんな寒いところで眠って風邪をひかないだろうか。身に巻きつけてきた袿をこちらへ向けられている背中に投げかけるようにして掛けてやってから、京姫はすばやく身を翻して夕景の方へと走っていく。京姫はその時、紫蘭と顔を合わせることを奇妙に恐れている自分を知った。
草原にほっそりとしてたたずむ夕景の姿は美しかった。見上げ、見回すかぎりの夜空にちりばめられた銀色の星々の輝きが、その毛並みの上にひとつひとつ象嵌されてきらめいているようだった。鬣もまたきららかに夜風に流れていた。京姫は寒さのなかで我が身を抱きしめながら悠然と頭を垂れて草を食む馬の方へ歩み寄っていく。夜露に濡れた草は姫の履に踏まれてしんなりと撓った。
京姫が立っているのは小高い丘のちょうど頂きあたりであったが、丘の南の勾配はささやかな森に覆われていた。いずれ出立することになったらその森のなかをくぐっていくのだろう。しかし、今の京姫にこれから行く道のことを考えることは難しかった。たった今夕影の背中越しに見つめているのも来し方であった。延々と続くかに思われる草原、ところどころに光を宿して沼の点在を知らせる草原の先に、京があるのだ――姫が生まれ育ってきた場所。姫の知己の全てがそこに暮らしている場所。
(もう戻れないんだ……)
京姫は砂糖菓子の包み紙ごと冷たい手を袖のうちにしまいこんで体が震えるのをこらえた。
(本当に京を出てきてしまったんだ。信じられない……今頃みんなどうしてるだろう。私がいなくなって大騒ぎしてたらどうしよう。ううん、きっと大騒ぎしてるに決まってる。月宮参りの時だってあんなに怒られたじゃないの)
「無事でよかった」と言って姫を抱きしめた芳野の顔が思い浮かんで、胸がずきりと痛んだ。
(今日はあの時とちがう。あの時はたまたま迷って帰れなくなっちゃっただけだけど、今度は自分で帰らないと決めて出てきてしまったんだもん。怒られるだけで済むわけがない。本当にもう京には帰れない。どんなに私が望んでも、どれだけ反省して謝っても、もう……)
馬上にいるときには頭をかすめもしなかった悲しみに京姫は次第に取り巻かれていった。こんなに寒いところにひとりぼっちで私は立っている。もし桜陵殿にいたならば、こんな寒さも孤独も知らずに済んだのに。今頃は暖かい部屋でぬくぬくと過ごしていただろう。幸せとは言わずとも充ちたりて……今まさにこの時、丘の上に立っている自分とは別に、桜陵殿の一室で安らかに眠るもう一人の自分が存在しているような気がして、姫は切なさと鋭い妬みとを覚えた。今すぐ夕景に乗って駆け戻り、部屋から引きずり出して放り出してやりたい。もしかすると今ならまだ戻れるかもしれない。今ならまだ誰にも気づかれずに……
夕景の鼻先に袖のあたりをくすぐられる生温かい感触で、姫は物思いから覚めた。京姫は左手で馬の頬のあたりを撫でてみてご機嫌をとろうとしたが、ふと、砂糖菓子の包みを握りしめていたことを思い出して、夕景の前でひろげてみせた。
「あなたのおやつだよ。紫蘭さんにもらったの。食べる?」
優しく姫が尋ねると、夕景は少し迷うようなそぶりをみせたあとで、草の上に深い影を落として屈んだ。
「ありがとう、夕景は優しいね……それにあなたのご主人も」
姫のお世辞にも夕景は取り合わない。それが却って好ましくて、京姫は砂糖菓子のかけらを口に含んだ。冷えた舌先でゆるやかに溶けていく砂糖菓子を、子供のように大事に大事に噛み締める。
そうだ、紫蘭の君は本当に優しい――月修院の森で迷っていた京姫を救い出してくれた。不用意に心に触れてしまったにもかかわらず笑って許してくれた。蛍狩りの夜、「おやすみなさい」と言ってくれたあの声にも優しさが満ちていた。今宵も姫が凍え死なないようにこまごまと気遣って、乏しい食料まで与えてくれたではないか。もうひとかけら口に放り込みたいような誘惑にも、喉が渇くからと忠告してくれた言葉のおかげで踏みとどまることができる。紫蘭がややそっけないというだけで、傷つくのはばかげたことだ。
……いいえ違う、と胸のなかで誰かが言う。そうではない。自分は紫蘭に優しさ以上のものを求めてしまっているのだ。ただ兄のように優しいというだけでは足りない。あなたのことが好きですと打ち明けた、その心に応えてほしいのだ。夢のなかでそうしてくれたように、強い瞳で姫を射抜いて、きつく抱きしめて、接吻をして。
(なんて自分勝手なんだろう、私……!)
自己嫌悪が募るあまり思わず頭を振った姫を、夕景が不審げな目で見やった。
(今はそれどころじゃないのに。紫蘭さんは京を追われたんだもの。私だって京に戻れないけれどそれは自分が決めたこと。でも、紫蘭さんは無実の罪で京を追われたんだ……)
悲しみは自分一人のだけのものではないのである。紫蘭もまた憩う体のうちに京姫のそれより痛切な悲しみを青い炎のように燃やしているのだ。京姫は抱擁してほしいなどという我儘を、今すぐ京に帰りたいなどという我儘を、強く戒めた。苦しんでいる紫蘭をたったひとり残して帰ろうだなんて。「紫蘭さんをひとりぼっちになんてさせられないよ」と言ったのは他の誰でもない姫自身なのに。
(紫蘭さんは傷つき弱り切った末に、私のところに来てくれた……)
そして自分は馴染み深いたくさんのものたちと紫蘭への想いを秤にかけて、紫蘭を選んだ。生まれて初めて自分の手で選び取って歩み出した。だから、絶対に後悔などしない。
(どうしてなのかはわからない。でも、理由なんてどうでもいい。ただ私には現在があって未来がある。私は紫蘭さんと一緒にいる)
なにがあろうと紫蘭を見捨てない。紫蘭の傍を離れない。愛されるためではなく、愛するために。
両肩にやわいものが触れたと思った瞬間、京姫の体はか細い力に包まれた。振り払えばたちまち飛び去ってしまいそうな、だがそれゆえに切実な力であった。袿に焚き染めた香は薄れゆきながら放たれて、寒さに肩をすくめているために衿に接した姫の耳朶と頬とを過って夜空に立ちのぼっていく。まるで置き去りにされていくように姫は感じた。だが、この身に縋りついた力は翼を失った水鳥のように重たく濡れて、京姫とともに地上に残されている。京姫と紫蘭は共にある。
「お風邪を召します、姫さま」
くぐもって耳に届くよりも豊かな髪に埋められ広がっていく声の方が、ずっと間近に真摯に姫には聞こえてくる。
「ありがとう、紫蘭さん。でもいいの。紫蘭さんの方がずっと寒いはずだから」
「わたくしは男ですから」
「私はあたたかいの……紫蘭さんのそばにいるから」
その証を示そうと、肩の上に置かれた冷たい手に手を重ねた。途端に紫蘭の身がわななき出した。
京姫は手をとったまま、すかさずゆるい束縛のなかで身を翻して、紫蘭に向き合った。すべり落ち二人の履の間にわだかまった袿は、頼りなくもあの堅牢な石垣の代わりに二人を阻もうとしているのかもしれなかった。しかし、そびえたつ石垣と違って、袿などもはや飛び越える必要どころか踏みしだく必要もなかったのである。京姫はわずかに背伸びをするだけで紫蘭の頬の涙の上に唇を落とすことができた。聞こえてくる――暗闇のなかのすすり泣き。夢のなかで泣いている誰かの声。
「姫さま、僕は……」
「泣かないで、紫蘭さん」
ああ、そうだ。ずっとかけたかった言葉。ずっと届けたかった言葉。今ようやく伝えられたんだ。夢のなかで泣いていたのはあなただったのね、紫蘭さん。
やっと伝えられたというのに紫蘭の涙は後から後からとめどなく流れてくる。京姫は紫蘭の手を握る指先に力を込めた。そうすればきっと紫蘭の涙は止まって、優しい微笑みが戻ってくるものとかたく信じていた。
「大丈夫だよ、私が絶対にそばにいるから。何があっても」
「あなたを連れてきて本当によかったんだろうか……僕は不安で仕方ない。この先何が起きるかもわからないのに、あなたを守れる自信が僕にはない。きっとあなたを苦しめて悲しませて不幸にしてしまう。そんなことはわかっていたはずなのに……」
「そんなことない。私は紫蘭さんのそばにいるだけで幸せだもの」
京姫は紫蘭の声につられて涙ぐみながらも微笑んだ。
「……本当だよ、本当に幸せなの。こんな恋叶うはずないって何度も諦めようとしてたのに、これからはずっと一緒にいられるんだもん。それに紫蘭さんが無理やり連れてきたわけじゃないでしょ?私が一緒に来たくて、ついてきただけ」
「そうは言っても、僕にはやはり連れてきた責任がある。あなたは京姫なのだから……」
「私はもう京姫じゃないよ」
紫蘭さえもはっとするほどの静かに、したたかに、京姫は言った。京姫の瞳はまっすぐ紫蘭の瞳を見据えていた。
「前に紫蘭さん、私に聞いたよね?自由になるために京姫としての地位を捨てられるかって。私、捨てることにしたの。紫蘭さんと生きられるなら、何を捨てても惜しくないって思ったから……紫蘭さんのことが大好きだから」
最後の言葉を一息に言い終えた京姫は頬が赤らんでくるのを感じた。すでに桜陵殿で想いは伝えたはずなのに、なぜいまさら恥ずかしがる必要があるのだろう。もう手だって握っているし、唇も重ねたではないか。一方的であったとはいえ。火照っていく頬に、京姫はそっと紫蘭から目を逸らして、握った手を放そうとした。だが、込み上げてくる感情は恥じらいなどというものを弾劾し、もっとあざやかでもっと甘美な衝動で京姫を押し流そうとしてくる。その衝動のままに、少女は紫蘭の胸元へと身を投げかけた。
ごくためらいがちに、紫蘭の手にささやかな力がこめられていく。それを感ぜられるようになるまでに、姫は幾星霜を待ったような気がした。ただ手を握り返すというそれだけの所作にさえあふれているぎこちなさには、愛撫に慣れていない若者の不安と昂りとが漂い出ていた。姫は無心になろうと努めつつ、紫蘭の思いがけない初々しさを、意味のわからないながらにいとおしく思った。
空いた右手が不器用に姫の頭の後ろに触れて長い髪を指先で梳いていく。解かれた髪がひろがって、うなじと髪の間が冷たい夜風を孕む。目をつぶっていた姫は愕いて薄く瞼をひらいたが、漏れ出た翡翠のかがやきが紫蘭の瞳と行きあった。姫は心持ち顎を上げて長い睫毛を伏せ、今度はそれほど待たずして成りゆき通りに物事が進められていくのを――すなわち、紫蘭の唇が降りてくるのを感じた。ぞわりと身が震えた。最上の喜びと、逃げ出したいような欲求が、姫の胸のなかに同時に生まれせめぎあいはじめた。紫蘭は猟犬のような本能で、逃げ出そうとする気持ちの方だけを察したらしく、捕らえた水鳥の首を前足で踏み押さえるように、姫のたおやかな手を痛いほどきつく握りしめた。
その間にも紫蘭の右手は姫の背を辿っていたが、こんなことに慣れない紫蘭であるから、ゆるやかに波打ちながら腰まで流れていく髪のなめらかさと長さが、なにか実態のないものに触れているようで、もどかしくなったのかもしれなかった。紫蘭の手は背の半ばで止まり、樺色のゆたかな髪の間を分け入って、強く姫の身を自分の胸元へと押しつけた。足元に絡んだ袿が前のめりになった姫をその場にとどめようとしてよろめかせ、姫は転倒をまぬかれるために、小さな一歩を踏み出さなければならなかった。姫の膝は紫蘭の脹脛の硬い張りに挟まれ、二人の太腿の稜線は熱を持って融けあった。紫蘭の両の腕が京姫を抱きすくめると、示し合わせていたように、二人は互みにうるんだ目を交わした。よろめいた隙にまくれた姫の薄い唇から、真夏の花の香りのような、甘い熱風が吹き出ていることも紫蘭にはすでに知られていた。余すところなく結び合っていると京姫は信じきっていた。
……どちらが制止したというのでもなく、深い息を吐きあって二人は接吻を止めた。京姫は紫蘭の胸に額を充てて休んだ。紫蘭は眩い星空を見上げて休んだ。そうして二人は共に休息が必要なのだと気がついた。
「少し眠りましょう。夜も更けてまいりましたから……夜明け前にはここを発たなければ」
と紫蘭が言うと、この世で最も幸せな少女は打ち捨てられていた袿を拾い上げてすなおにうなずいた。袿は夜露にしっとりと濡れていた。




