第二十八話 紫蘭(下)
「全て栃野のせいでございます……そうに違いありません……」
そうつぶやいたきり媼は床に伏した影のなかで黙ってしまうのであったが、その胸のうちに同じ言葉を繰り返しているのである。幾度も幾度も。心の声も擦り切れるのではないかと思われるほどに。若き主人は脇息にもたれてぼんやりと開け放した御簾の外を見つめているのだが、栃野の存在を思い出したらしく、床にばらばらと乱れた灰色の髪に向かって弱々しい微笑みを浮かべられる。
「もういい、栃野。顔を上げろ」
「この栃野めが呪われているからでございましょう。そうでなければどうして若くお美しい主お二人を続けてご不幸に見舞われるというのです」
「お前は関係ない。これは僕の運命だ。そして桐蔭の宮さまの」
紫蘭の君は嵐の凪いだ後を思わせる静かな、しかしうら枯れたような声でおっしゃると、打ち伏せている栃野を残して一人お庭の方に去ってしまわれた。
(この栃野は澤瀉帝より松枝帝、藤枝帝、桐生帝、そして今上帝と五つの御代を見てきたというに……)
栃野は若い女房たちに説教をするときに決まって用いる文句で、今日は嘆きを打ち明けようとしていた。ただ己が胸に。
(二条の者どもの騒ぎもこの目にしたというに。夫に先立たれ、七人いた子も全て亡くしてしまったというに。その上にこのような憂き目にあうとは思わなんだ。ああ、紫蘭さま、なぜこの姥を見捨てていきなさる……!)
まるで見捨てられたかのように栃野が思うのも無理はない。若き主はそれまで、急に栃野に入れ込んだようになって、ご自分の不幸について語られていたからだ。この日、紫蘭の君は御身に仕える者どもに自分が官を辞したこと、流罪やあるいはもっとひどい事態が我が身に降りかかるのを待つより、しばらくの間京を離れて暮らすことを決意したと語られた。聡明な主には聡明な人々が仕えるものである。しかし、全てを覚悟していた随身、女房、下男下女に至るまで紫蘭の君のご決意には泣き濡れた。無論、紫蘭の君に隠れてのことであったが。
そのようななかで、栃野ひとりばかりはその年齢と、境遇への憐憫もあってか、紫蘭の君の前で涙を見せることを許された。紫蘭の君は媼の嘆きに辛抱強く(というよりは半ばその意味するところを理解していないかのように)聞き入っていらっしゃったが、栃野がいよいよ子供のように泣き疲れてしまうと、暮れかけた庭を見やりつつ、今度はご自分が語られはじめたのであった。
「栃野……僕に罪のないことは誰もが知っている。だが、どうして僕が今度のような嫌疑をかけられたのかは誰も知らないだろう。お前だけには話しておく。お前は若い連中と違って、人に話すべきことも話すべきでないこともよくわかっているだろうから」
それにお前が憐れだから、とも紫蘭の君は仰った。必ず新しい主人を見つけて生き続けなければならないとも。力のない口調で。
「あの日……僕が大后さまに呼ばれたあの日だ。東の対を退出したその直後に、雷鳴が響いて、ひどく雨が降り始めた。夕景の元へ戻ってみると、三条家の馬丁が放心して突っ立っていて、僕の顔を見るなり真っ青になった。それでも僕は何も聞かずにいたが、ついに馬丁が言うことには、夕景が先刻の雷鳴に驚いて逃げ出したのだと。僕には信じられなかった。お前も知っての通り、夕景は雷ごときで逃げ出す馬ではないから。だが、理由がなんであれ逃げ出してしまったことは事実だ。僕は早く帰りたいやら、夕景が心配やらで雨のなか構わずに探し出した……いや、正直のところどうだったんだろうか。本当は何もかもがどうでもよかったのかもしれない。その時の僕はとても今より先のことなんて考えられる状態じゃなかった」
「夕景の駆けていったという方へ歩き続けて、気がつくと僕は北の対の庭中にいた。もちろん、その時はそうとは知らなかったが。僕が感じられたのは雨の灰色だけだった。それと、この身の冷たさと。僕は頭から履のなかまで全身余すところなく雨に濡れていたんだ」
「前髪が重たく額に貼りついていた。激しい雨のなかでは瞬きをすることすら苦しかった。おまけに雷鳴が僕を脅かすようにずっと背後で鳴り響いていた。そんななかで不意に白くひらめくものに気がついたんだ。僕を招くように、それはひらひらと待っているように見えた。僕は思わず駆けだした。恥ずかしいことだが、その時の僕は夕景のことも忘れて、ただ寒さと雷雨から逃れることに必死だった」
「ひらめいて僕を招いていたものは扇だったらしい。屋根の下にたどり着いた僕が震えていると、薄暗がりのなかから僕を招いたらしい女の声がして、僕を部屋の奥へ奥へと引きこみながら言うんだ。『まあ、ひどく濡れていらっしゃるではありませんか。さあさあ、お召し物をお脱ぎになって。今なにか着替えるものを持ってまいりますから』……僕だって躊躇したさ。いくらずぶ濡れになっているとはいえ、知らない人の家で衣服を脱ぐなんて。だが、その女――女房だと僕はてっきり思っていたが――は手早く僕の衣服を脱がせてしまった。女が着替えを取ってくるといっていなくなってしまったので、僕は肌着のままその場に取り残された。火鉢の前で僕は震えてひたすらに待った」
「そうしてしばらくその場で待っていたが、一向に女が戻ってくる気配はない。部屋に薫きしめてある香の甘ったるいにおいのせいで僕はだんだんと眠たくなってきていた。というか、なんだかぼうっとして、頭ばかりが熱くって、だんだんと物事をまともに考えられなくなってきていたんだ。そこに誰かが駆けつけてくる足音がして、僕はてっきり先ほどの女かと思った。だが、話しかけた声は明らかに違っていた。『まあまあ、こんな雨の中を。いくらお菓子が楽しみだからといって、ひとりで出かけてくる者がありますか』。絶対に僕に対する言葉ではなかった。暗闇のなかで向かい合っている相手が僕だと知っての言葉ではなかった。だが、僕がそのことに気づいたのは、その女性が僕を抱き寄せようとした時だった」
「折しも稲光がお互いの顔を照らし出した。僕は今でも覚えている……白い稲妻に色味こそ奪われてはいたが、あでやかな美しい顔立ちの女性だった。枳殻の尚侍だということはすぐにわかった。触れた瞬間から、何かが違うと思っていたらしいが、僕の姿を見て『あっ』と小さく叫んだきり、呆然としてその場から動かなくなった。わかるか、栃野?尚侍は肌着の僕に触れたきり、飛びのこうとも僕を押しのけようともしないまま立ち尽くしていたんだ。二度目に稲妻が光って、そんな僕たちの姿を、姉上に示してしまうまで……」
柏木右大臣の北の方とも女二の宮とも呼ばれるその女人は憤った。枳殻の尚侍についてはご寵愛を向けてくださる主上の愛に背いたことを、紫蘭については主上の寵愛する女性を奪ったことをそれぞれ背信とみなし反逆とみなした。二人の男女は共に言葉を尽くして誤解を解こうとされた。だが、二人の言葉は甘ったるい香のにおいのせいか、ついもつれがちになった。恰も後ろめたいことのあるかのごとく。なお悪いことにはこの状況を作り上げた当の女房が誰だかわからなかったということである。紫蘭も尚侍も女房の姿を見ておらず、またその声にも聞き覚えがなかったためだ。脱がされた衣服は紫蘭の足元に放り出されていた。
「ああ、わたくしは弟君である紫蘭の君より、貴女に裏切られたことの方がずっと苦しい!実の妹のように思っていたのに。いえ、貴女が主上の愛を賜っているからには、いつかきっと本当に姉妹になれる日がくるものと信じていたのに!」
女二の宮は紫蘭の目からすればおおよそ姉上らしからぬそんな大仰な言葉を用いてまで、枳殻の尚侍を責めたのであった。尚侍はそれを聞くなりとうとう泣き崩れ、もはや自らの無実すら忘れてしまったかのようなありさまであった。尚侍はやがてぐったりと気を失ったという。
「どうしてあんなことが起こったのか今でもわからない。どうして姉上の誤解を解くことができなかったのかも、今となると思い出せない。ただ、僕にはもう事の成りゆきを眺めていることしかできなかったんだ。今に至るまで。まるで子供みたいに……ねぇ、栃野。これが全てだ。あまりにもあっけなさすぎる、この紫蘭の身の破滅の経緯だ」
紫蘭と尚侍、お二人の裏切りには帝も胸を痛められたという。もし話がごく内密のことで済むのであったら、帝も見過ごされたのかもしれなかった。しかし、誰が広めたのやら、事はまたたく間に京中に知れ渡ってしまい、大后は激怒された。
今、栃野には庭にたたずむ紫蘭の後ろ姿が、正面から差し込む西日のなかに黒い影となって浮かび上がって見える。その肩の稜線にあたって、鮮血のような西日が砕け散らばっていた。年老いた者たちの言葉で「なんだか気が変になりそう」なほどに赤かった。あれは東宮が流された血の色に違いない。その血の色が紫蘭さまを染めている。鴉どもが骸を突こうとどこからともなく飛んできて鳴いて……ああ、なんとおいたわしいことやら!栃野は主人の悲運に再び涙をにじませた。紫蘭さまは今どのような思いで庭に立っていらっしゃるのか。
涙の玉が主人の影を歪ませた。睫毛のとぼしくなった瞼でゆっくりとまばたきをすると、その影は涙に溶けいって掻き消えた。そして再び瞼を開いたとき、そこに主人の姿はなかった。
「栃野さま!紫蘭さまのお姿が、どこにも……!」
その日は姫にとって嫌な日であった。まず、朝のお祈りの言葉をまちがえた。勉強でたくさん間違いをして叱られた。気分を晴らそうと池を見にいったら緋鯉が一匹死んで浮かんでいた。お昼はせっかくの好きなおかずを落として食べられなくしたうえに着物を汚してしまった。午後からずっと頭が痛かった。桜陵殿で泊まるはずだった青龍が急用で帰ってしまった。そして今、京姫はひとりぼっちである。
姫は文机に突っ伏しつつ唇をそっと動かして歌を口ずさんでいた。天つ乙女の歔欷の歌であった。あの紅葉の月に、紫蘭の君と共に奏した……姫の歌がふっとやむ。
何をしていても、誰といても、紫蘭の君のことが思われる。枳殻の尚侍とのことを耳にされて帝が心を痛められていること、牡丹大后が大変ご立腹であるとのこと、尚侍が病に伏して出仕もままならなくなってしまったとのこと、紫蘭の君がついに京を去ることを決意したとのこと――さまざまな噂が途切れ途切れに京姫のところに届いてきてはいた。しかし、世間というものを知らない京姫にとって、その噂をあるいは捨てあるいはつなぎ合わせながら、全容を抑えるというのはあまりに酷であった。紫蘭が京からいなくなるということの意味さえも、京姫は正しく理解できていなかった。ただ、永遠に会えないかもしれないという恐怖は、夢の浅瀬でうつらうつらとする京姫を襲った。
「まあ、すさまじい空の色だこと」
「芳野殿はこういう夕日を嫌がってましたわね。気が変になりそうって」
「そういえば、芳野殿は一体……」
女房たちの声が聞こえてくる。芳野という名にはっとしたこともあって、京姫は立ち上がると裳の裾を引きずりつつ端近まで出て石垣と接している空を仰いだ。女房たちがささやきかわすように、夕刻を迎えた空の色はあざやかというのを通り越して恐ろしいほどの紅に染まっていた。燃え上がる西日の一条の線は石垣の稜線さえをも侵し、緋色の雲は下界に示しているその腹の底ばかりは冬の夜の手に冷やされて翳りを湛えつつも、群れをなして進む生き物のごとくゆるやかに流れていく。鴉が庭中の木の上で鳴いていた。だが、その姿は樹々の影に紛れて見分けられそうもない。
京姫はみずからの両肩を抱きかかえた。この日暮れをひとり行く者もあるのだろうか……紫蘭の君は今どうしているのだろうか。今この間にも、ひとり朱雀門をくぐっているのだとしたら。そしてこれきり永久に会えないのだとしたら。
「紫蘭さん……」
いとしい名を呼んだ。誰かに聞きとがめられるかもしれない。でも、今となってはどうでもいいではないか。言い訳なんていくらでもできるのだから。反抗心ばかりは胸にもくもくと湧くなかで、叫び出しそうになる自分を抑えるべく、京姫は胸の上で片手をもう片方の手で抱きしめた。寒さに身がおのずと震えてくる。冷気は薄く開いた唇を乾かし、舌の上の温かい唾液を凍てつかせる。呼吸をするのさえ痛かった。
(こんな寒い夕暮れ時にあなたがひとり去っていくだなんてことがあってはならないはず)
京姫は必死にここにはいない人に向けて語りかけていた。
(絶対にそのはずなの……!紫蘭さん、だめ。私を置いていかないで。あなたと結ばれなくてもいい。もう二度と言葉を交わせなくてもいい。だから、京にいて。私があなたを守るから……!)
「紫蘭さん……!」
「誰?」
返された声は風の音にすら埋もれそうであったのに、京姫は小鹿のように聞きつけてびくりと身を跳ねさせた。姫は小暗い庭にうつろな視線をさまよわせた。幻聴にちがいない。一体何を聞き間違えたのかしら。
「そこにいるのは誰だ……?」
いいえ、聞き間違いじゃない――京姫は瞠った翡翠の瞳をあげた。どうしてここにという疑問と、行かなければならない、こたえなくてはならないという強い衝動とが同時に胸に迫った。姫は衝動のままに駆けだした。
「紫蘭さん!」
息もつかずに石垣へと駆け抜けて、京姫は小さな穴を覗きこんだ。西日に打ち捨てられてすでに宵闇の領くところとなった場所に、紫蘭は迷子のように立ち尽くしていた。その肌も衣装も輪郭も全てが夜の色に沈んだなかに、ほどかれた長い髪だけがきらめいて、こちらに顔を向けたわずかな動作によって肩と背の上になびき流れたそのさまが、漆黒の川のごとくに思われた。紫蘭の瞳がまだ声のありかを捉えかねているのを察して、京姫は再び紫蘭の名を呼んだ。
「ひめさま……?」
「そうです!紫蘭さん、こっちに来て!どうしてここにいるの?だって、誰かに見つかったら……」
紫蘭の肩から何かぱさりと滑り落ちたものがあって、京姫は口をつぐんだ。土の色に紛れながらも香り立つものは懐かしく、ごくやわらかくわだかまったものは刺繍糸のかすかな光を放っている。京姫がかつて紫蘭に渡した古い袿であった。では、紫蘭の君はこれを着てここまで来たのだろうか。門番に見咎められる恐れがあるというのに?相当に厳しく検められると聞いていたのに、紫蘭は門番をだまし得たというのだろうか。髪をほどき宵闇にたたずむ紫蘭は、確かに女性のようにも見えるけれども。でも、そうまでしてなぜここに……?
「紫蘭さん、大丈夫ですか?」
ばかな質問だとは思ったが、京姫はつい尋ねずにはいられなかった。紫蘭が石垣の方に歩み寄りながらもぼんやりと黙り込み、じっと滑り落ちた衣の上に目を据えているからだ。紫蘭はただ乾いた声で「えっ?」と返した。まるで魂がその肉体からすっかり離れていってしまったようだ。恋をして魂があくがれ出てしまった人の物語を、姫はかつて聞いたことはあるけれども。
京姫は細い穴の中に手を通した。姫が触れたのはちょうど紫蘭の懐のあたりであったが、紫蘭が少しだけ顔を上げたような気がした。指先に、姫は紫蘭の硬くまっすぐな胸と、その平たい表面のちょうど真ん中に小さく丸く凝っているものの存在を感じた。姫は紫蘭の悲しみの結晶に触れたかと思った。だが、一瞬のためらいの後に喪服の衿の合わせ目から手を差し入れた京姫は、水晶の髪飾りを探り当てて取り出した。
「待ってて……」
なにを「待ってて」なのかは京姫自身もよくわからなかった。言葉が勝手に姫の唇をこぼれ出たのである。疲れた子供のように、されるがままに身を任せている紫蘭の髪を片手で掬い集めて、摘まみ上げた珠を何度も取り落としそうになりながら、京姫はもどかしく、じれったく、必死になって紐を結んだ。ようやく紫蘭の髪を結いあげた京姫が安堵の息をつくのと、紫蘭が目覚めたように辺りを見回すのとが同時であった。
「ここは……?」
「ここは桜陵殿ですよ」
「姫さま……!」
驚いた瞳に、京姫は微笑みかけた。
「また来てくれたんですね、紫蘭さん。もう会えないかと思ってた。でも、一体どうしちゃったの?」
紫蘭はしばし言葉を失うほど当惑し放心していたが、やがて首を振った。
「わかりません。何も覚えていなくて。ただ庭に立って夕日を見ていたんです。もう出立の準備をしなければならなかったのに。そうしたら、なんだか気が遠くなって……」
気が変になりそうな夕焼け、という芳野の言葉を京姫も思い出した。いつになく落ち着かなさげに紫蘭が話すのも無理はない。京姫は芳野がよくそうしてくれたように、差し伸べたままの手でやさしく紫蘭の髪をもてあそんでいた。
「姫さま、わたくしは一体……」
「大丈夫。大丈夫ですよ。この間と同じようにその袿を着て、北門から出ればいいだけです」
「どうしてこんなところに来てしまったのかがわからない。僕はどうしてしまったんだ……もうなにもかも失ってしまった。帰る場所だってない。ここから無事に抜けでたところで、僕は遠くに行かなくてはならない。京を発たなくてはならないんだ。もういっそのこと見つかって死刑になった方がいいのかもしれない。そうすれば、もうこれ以上苦しまなくても……」
「だめ!」
京姫は手を止めて言った。
「それだけはだめ。お願い、紫蘭さん……あなたには生きててほしいの。わかってる。私の願いのために紫蘭さんがもっと苦しまなくていけないってことも。それでも紫蘭さんが死刑になるだなんて嫌。どうしても、紫蘭さんだけは死なせたくないの」
「私は疲れました」
紫蘭の声は言葉通りに倦んでいた。
「もし死というものがただの眠りであるのなら、些かも躊躇はいたしません」
「死刑なんて痛いよ、苦しいよ……」
「首を刎ねられるだけなら痛みは一瞬です」
「死んだら何もかも終わりだなんて保証はないじゃない」
京姫の声は静かながらに厳しかった。姫の脳裏には今朝方、池の水面に浮かんでいた緋鯉の姿があった。鯉はゆたかな腹を陽光にかざして死んでおり、白い鱗はささくれ立って、斑に光を返していた。生前にはいともあでやかに思われた魚の緋色の模様はまるで病が捺した痣のように思われて、京姫はつい顔をそむけた。死してもなお泰然として在り続けるこの世をじっと睥睨していた魚の眼。その内に、ひとつの生の終わりに憩う魂の存在を認めることはできなかった。死とは決して美しくも安らかなものでもないのだと、紫蘭が望むようなものではないのだと、姫は奇しくもその朝知ってしまったのである。気がつくと、姫は紫蘭の二の腕のあたりをぎゅっと抑えていた。
「紫蘭さん、聞いて」
姫は呼吸をひとつして言った。
「全部諦めてしまうのは最後にして。ひとまずここを出るの。そして、次に京を出るの……南の方に行こうよ。南の果てにはね、海があるんだって。朱雀が教えてくれたの。海はね、とてつもなく大きな池なんだって。それでとってもきれいなんだって。朱雀は小さいころ、よく鳥の姿になってこっそり海まで飛んでいっていたんだって。いつか私のことも連れてってくれるって、そう約束したの……あれ……?約束した、はず、なんだけど……」
本当に朱雀が?だって、私が桜陵殿から出られないことを朱雀は知っているはずなのに。京姫はなにかが疼きだすのを感じてさっと額を抑えた。しかし、姫の話に聞き入っている様子の紫蘭の目線が、姫を我に返らせる。
「……ねぇ、だから海を見にいこう。紫蘭さんも見たことないでしょう?京にはなくても素敵なものがあるのかもしれないから。ねっ?お願い。私も……私も一緒に行くから」
闇に慣れた目が、紫蘭の表情を捉えた。ゆらぐ瞳と、ひそめられた美しい眉とを――お願い、そんなさびしそうな顔をしないで。わかってしまったじゃない。飛び出た言葉こそ私の本当の心なんだって、願いなんだって。気づいてしまった。主上も、四神たちも、左大臣も、芳野も、大好きな人たちを振り捨てても。この京を見捨てることになったとしても。もしも紫蘭さんとともに生きることができるのだったら、私は京姫であることだってやめられる。だって、私は……
遠からぬところで馬がいなないた。誰か人が来たものと怯えた姫は、紫蘭の腕を取ってそのまま石垣の方へと引き寄せた。まるで紫蘭を石垣の中に引き入れて隠そうとでもするかのように。二人は息をこらして、近づく蹄の音がしないかと耳を澄ませた。じっと身をひそめるなかで、紫蘭の戦慄が掌を通して京姫にも伝わってくる。紫蘭は死を望んでいないのだと知って、姫は嬉しさと憐みとを共に抱いた。
壁越しに紫蘭の身に寄り添うと、こんな切迫した場には不似合いにも思われるときめきが卵の殻のなかの雛鳥のように胸をつつくのが感じられた。汗ばんだ掌で感じている紫蘭の体温が切なくいとおしかった。この腕を離したくない、離せるはずがない。降りかかる夜の下に、人の気配はなかった。
「……紫蘭さん、私、あなたのことが好きです」
身を屈めて穴からささやきかけることはせずに、京姫は石垣に唇を寄せていた。
「だから傍にいたいの。紫蘭さんをひとりぼっちになんてさせられないよ……もう会えないなんて耐えられない。紫蘭さんのいない京を守って、どんな意味があるの?生きて、紫蘭さん。私も一緒に行く」
「しかし……」
「いいの」
論理や倫理で諫められることを恐れて、京姫は口早に言った。
「いいの、お願い……そうしなければ私が死んでしまいそうだから」
星の嵐が吹き荒れる前の静寂に悲しげな馬のいななきがまたひとつ響いたが、京姫はもう怖じることはなかった。姫の心はひたむきに壁越しの人に向けられていた。たとえ手を置いている腕が冷えゆくのを一晩中待ち続けなければならなくなったとしても厭わない。置いている姫の手の方が先にこごえてしまったとしても、冷え切った手が凍りついて朝陽に砕けてしまったとしても。
紫蘭の手が、冬の朝陽よりも先に京姫の手に触れた。冬の朝陽のように冷たく、けれども朝陽よりずっと優しい力で。
「……夕景です」
紫蘭がつぶやいた。
「あの声は夕景です、姫さま。夕景が僕を探しているんだ……行かなくちゃ」
「だめ、紫蘭さん……!」
京姫の頬を涙が流れて伝った。
「姫さま、お元気で。そしてどうか、おしあわせに……」
刹那、結び合わされていた二人の手は離れた。京姫は手を伸ばして引き留めようとしたが、袿を拾い上げるために屈んだ紫蘭の袖を捕まえることはできなかった。
そう、できなかった。
だからといって、この運命を諦めるというの……?
「待って、紫蘭さん!」
ふわりと石垣を越えて舞い降りてきたものが紫蘭の視界と言葉を遮った。紫蘭は咄嗟に宵闇の中に腕を伸ばして抱きとめた。そうしなければ、ただ一枚の袿と違って重みと温もりを持ったそれはあぶなげに着地したであろうから。
石垣を飛び越える時のはりつめた勇気と恐怖とを、京姫は甘い霧のようなかすかな吐息であらわした。その端が紫蘭の胸にかかり、乾いた唇のめくれた皮をそよがせた。紫蘭は最初、腕にかかる重みを樺色の小さな頭として見下ろしていた。次に、並び立ったふたつの翡翠がきらめいた。紫蘭はその中に他ならぬ紫蘭自身を見つけ、遂に自分の瞳の色さえをも見出した。
少女の微笑みによって、瞳の色はたちまちさだかではなくなった。唇に触れた歌ばかりがこの世で唯一確かなものであった。それは紫蘭の名だけで、そして紫蘭への一途な想いだけで綴られた歌であった。
「……行こう、紫蘭さん」
生まれて初めて交わした接吻のよろこびに満ちて、姫は言った。その声は浮薄なようにもこの世になににも増して清純なようにも聞こえた。
「夕景が待ってる」
紫蘭は永遠に抱き上げていなければならないかとも思われた可憐な重みを地上へとあずけた。石垣の外の世界は、土が水の滴りをやさしく含むように、少しの拒絶も葛藤も示さずに紫蘭の手から姫を抱きとった。これが禁忌を犯した手ごたえであると、紫蘭はとても信じられなかった。
白く薄い花弁のような手が差し伸べられる。引かれるためか導くためか。その眩さがもたらした一瞬の迷いを払って、紫蘭は京姫の手を取ると馬の鳴く方へと駆けだした。
「逃げなさい、京姫。遠くへ、遠くへ、遠くへ……希望に手を引かれて。いずれ絶望に手を引かれて帰ることになるだろうけれど、夜が明けるまで、お前は幸せでいられるだろう」




