表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第三章 前世編
51/120

第二十八話 紫蘭(上)

 聞きなれぬ物音に、中の君は薄闇のなかで動かしていた手を止めて顔を上げた。女房に命じさせて調べさせればよいのだけれども、長い間じっとうつむいてばかりいたせいで凝り固まった肩や首を少し動かしたかった中の君は中途の作業を置いてすくっと立ち上がり、幾重にもめぐらされた几帳をうるさげに避けて御簾をそっと見透かしてみる。


 ここは三条家のお邸の西の対である。さまざまな花や樹々を植えて美しく趣向を凝らしたお庭は、新玉の月の今、彩りに欠けるとはいえ、どことなく引き締まった風情がある。降り積もった雪がまだまばらに残るなか、松の木の下で動いているのはなにかしら……中の君は目を細める――野うさぎにしては大きすぎるわ。


「誰?」


 中の君が尋ねると、雪の上が動いていたものははっとして屈めていた身を起こして青ざめて辺りを見渡した。中の君は思わずくすりと笑いをこぼした。野うさぎではなかったけれど、まるで鷲の羽ばたきを聞きつけた二羽のうさぎのようだ。


「こっちよ、いらっしゃい」


 中の君は御簾みすのはざまより扇を差し出してそっと手招きをした。ぬくまっていた手に冬の空気がひんやりと冷たく新鮮だった。やさしい声音を聞いて、松の木の下、雪の上で動いていたもの――二人の幼い少年たちは顔を見合わせるとおずおずとしながらも、さすがに育ちのよい子供らしくすなおに駆け寄ってきてぴたりと寄り添って並んだ。その顔立ちといい、しぐさといい、いかにもよく似ているから二人が兄弟であることは火を見るよりも明らかである。どちらもからすの濡れ羽色をした清らかな髪を童形に結いあげていて、兄の方はとおばかり、弟の方は五つか六つばかりだろうか。面立ちは優れていて、ことに緊張してきりりとひきむすんだ唇と寒さに上気した頬の色とがかわいらしかった。


 中の君は久しぶりに心なごみつつ、雪明りに照らされている戸外からさらに中へと二人を招いて言った。


「まあ、かわいいお客様。北の対よりお越しかしら?」


 兄弟は揃ってこくりと頷いた。では予想通りだわ、と中の君は思った。この兄弟はかの憎き柏木右大臣の二人の息子たち、すなわち(こう考えるのは中の君にとってはむずかゆいことであったが)中の君にとっての弟たちにあたるのだ。


(それにしても父親とは少しも似ていない……母親似なんだわ、きっと。この子たちにとっては幸せなこと)


「あたくしが誰だかわかって?」


 顔の前にかかげていた扇をはずしながら尋ねると、兄弟たちは一瞬びっくりしたように目を丸くしてまた顔を見合わせた。それから兄の方が恥ずかしそうに答えた。


「……枳殻からたちのおねえさま?」

「正解よ。まあ、嬉しいわ!可愛い弟君だこと。あたくし、小さいころから妹か弟がほしかったの。なにして遊びましょうか?それともお菓子をいただきましょうか?」


 中の君はこの正月に十六になったばかりであり、すでに見た目は大人びていてもその振舞いには若々しさがはりきっていた。加えて、ぱっと花の開いたような明るさが生まれつき備わっているために、はにかんでいた兄弟たちはあっという間にこの姉に打ち解けて、すぐに袖に縋ってまとわりつくまでになった。


 ――もっとも中の君の明るさは半ばいつわったものであった。姉と引き離され、西の対に移されてからというもの、中の君は軟禁に近い生活を強いられていた。ただ、そのなかでも、なつかしい乳母たち一家が越してきてくれたことはよかったが、そうするといよいよ姉のことが偲ばれてならないのだ。乳母たちと面白おかしくふざけている時などに、ふと、姉がこの場にいてくれたらどんなに嬉しいかと思われるときがある。暁の眠りのなかに姉の夢を見る。くうに伸ばす手が姉を求めている。姉の髪の冷たさ、唇のやわさ、首筋の脆さ、胸のぬくもり。愛していると、そばにいるとささやいてくれる声のやさしさ。身を寄せ合って眠るこの上ない悦び。


(お姉さまは主上のものになってしまった。お子までみごもって……もう私だけのお姉さまではない。でも、私のものよ。私のものなのよ、お姉さまは)


 中の君は次郎君の頭を撫でていた手を不安げに頬に充てた。


(あたくしも来月からは尚侍ないしのかみとして出仕することになると、右大臣あのひとが言っていたわ。そうしたらお姉さまにも会えるかもしれないけれど……でも、あたくし、主上になんかお仕えしたくないわ。とても憎らしいんですもの)


 そして、部屋の隅に追いやられた作りかけの産着を見やる。


(乳母はそろそろつわりがひどくなるころだと言っていたわ。お手紙にはなにもないように書いているけど、相当におつらいはず。ああ、かわいそうなお姉さま!子供を身ごもるだなんて、子供を産むだなんて、恐ろしくてあたくしにはとても耐えられない!)


「枳殻のおねえさまはきれいだねぇ。ぼく、枳殻のおねえさまよりきれいな女の人って見たことないや」


 膝の上に乗った次郎君が額髪に触れながら言ったので、中の君は暗い視線を明るませた。


「嬉しいわ、ありがとう。でも、北の方も……あなたたちのお母さまもおきれいでしょう?」


 女二の宮の美貌の噂はかねてより聞き知っていたが、この兄弟の整った顔立ちこそまさしくそのなによりの証拠であろう。三人の子の母になられたとはいえ、まだお歳は三十かそこらであるはずだ。きっとあでやかなお方に違いない。


 太郎君と次郎君は同時にこくんとうなずいた。おとなしかった太郎君の方の目がぱっと輝いた。


「はい!お母さまはとってもとってもきれいなんです。僕、お母さまが大好き」

「でも、おかあさまは妹のおせわでおいそがしくって、このごろちっともぼくたちにかまってくださらないの。それでさびしくって、ぼくたち、こっそりにげだしてきたんです」

「まあ、そうだったの……お父さまは遊んでくださらないの?」


 父と聞くなり、兄弟は急におびえたような顔つきになった。中の君はそれだけで全てを察した。


「お父さまはお忙しいのね?」

「お父さまは……よくわからない。あまりお話ししたことがないんです。多分、お父さまは僕たちのことあまり好きじゃないんだと思う」


 こんなかわいい子供たちを、無情なこと。中の君はあわれに思って弟たちを抱きしめた。右大臣にはやはり人としての心がないんだわ。


「……枳殻のおねえさまはお父さまのこと、すき?」


 次郎君の無邪気な質問は中の君を悩ませた。


「そうね……まだ好きになるほども、嫌いになるほども、一緒に過ごしたことがないのよ」


 中の君は肩をすくめて答えると、お菓子を使って早々に弟たちの気を逸らすことにした。この作戦は非常に効果的であった。



 兄弟とふざけあって遊んでいるところにお迎えがきた。母親直々のお迎えがきたと知って、中の君は驚き、あわてて取り散らかしてある周囲を片付けさせた。もっとも、散らかしたのは他ならぬその客人の子供たちであったのだが。


 中の君が女主人として来客に応じなければならないのはこれが初めてであった。これまでは姉が全て取り仕切ってくれていたから。いつも明るく家の中の雰囲気をはなやがせていても、身内以外の人間と接することは全くもって苦手であったのだ――そんな自分を尚侍にしようというのだから、養父の野心にも呆れを通り越して恐れ入る。


 女二の宮は想像通りの美しい女人であった。父上皇のために喪服をまとっているが、そのさびしい服装こそ、切れ長の瞳の、少し取りつきにくいほどの高貴な容貌とよく調和しているように中の君には思われる。


 兄弟は母の姿を見ると、中の君の前よりはいくらか行儀よく、それでも嬉しそうに駆け寄っていった。女二の宮はしとやかな言葉で子供たちを咎めつつもその口元に微笑を絶やさなかった。この方はお優しい方なのだと思って中の君は心動かされた。単に取り澄ましているばかりのお方ではないのだと。そのお方が自分の方にも同じく親しみやすい微笑を向けたので、中の君はどきりとした。


「息子たちが思いがけずご迷惑をかけました。今日は末娘が熱を出して騒いでおりましたの。それでつい誰もかまってやらなかったので退屈したみたいですわ」

「まあ……」


 中の君はなんと返事してよいのやらわからずに呆けたように言った。そんな自分がきっと子供っぽく見えるだろうことを思うと、中の君はこの貴人を前に急に自分が恥ずかしくなってきた。それでも、女二の宮の目には一向に軽蔑の表情は浮かばなかった。


「すぐさま追い払ってくださってかまわなかったのに。でも仲よく遊んでくださったんですのね。ご親切な方」

「いえ、わたし自身が子供みたいなものですから……」

「かわいらしいをことおっしゃいますのね。まあ、そちらは姉上のために?」


 二の宮が視線で示したのはどうやら片付けそこねたらしい産着であった。なまじ中途半端に部屋の隅に追いやっていたために誰の目をも逃れたらしいのである。「あっ」と叫んで、中の君はたちまち真っ赤になった。だが、客人はいよいよ興味を惹かれた様子で「見せてくださる?」と訊くとおん自らその足で立って産着を取り上げた。二人の子供がそのあとをとてとてと走ってついていった。


「あの……いやですわ。そんなに上手に作れてませんもの。それに気が早いって女房たちにも笑われますし……」

「なにごとも早いに越したことはありません。それにとってもお上手ですわ。裁縫はお好きなの?」

「えぇ、でもそんなに得意ではないんですの。姉の方がずっと得意なのですわ。だから笑われてしまうかも……それに主上が嫌がられるかもしれませんわね。こんな不格好な産着は着せられないって」

「いいえ、まさか。主上ならきっと喜ばれますわ。そういえば、あなたは尚侍になるのですってね」

「はい。でも、わたし、うまく務められるはずありませんわ。尚侍だなんて。そんなとても……」

「自信をお持ちになって。困ったことがあったら私を頼ってくださってもいいのよ。主上のことなら助けられるかとあるかもしれないもの」


(そうだわ、この御方は主上の姉上ではありませんか。いやだわ、あたくしったら……それにしても本当にお優しいお方。こんなあたくしにまで気をつかってくださって)


 嬉しくて中の君は急いで礼を言った。すると、女二の宮は侍女に命じて子供たちを連れて帰らせたあとで、産着を手にしたまま歩み寄ってきて、どぎまぎしながらうつむく中の君の手に産着をそっと押し当てた。


「あなた、近くで見ると本当にきれいね」

「そんな……!あ、あの、北の方さまこそ……わたし、こんなに美しい方を見たのが初めてで……」


 ふふと小さく笑って、二の宮は中の君の頬に触れた。冷たいお手であった。まるでお姉さまの手のよう――熱のあった時に額に手をあててくださったお姉さまの手。ひんやりと冷たくて気持ちがよかった。


「もったいないことを。鏡を見ればいつでも美しいお顔が見られるではありませんか。確かに大后さまがあなたを入内させたがっていたのも納得しますわ。でも、なにも姉妹で主上のご寵愛を取り合わなくてもよいのですものね。もっとも、あなたが尚侍としてお仕えしたら、主上のお心も揺れてしまうかもしれません。こんなに美しいのですもの」


 中の君は弱々しく首を振った。


「そんなことはありませんわ。だって、あたくしより姉の方がずっと……それに、あたくし、なにがあっても姉と争いあったりしませんわ。姉の幸せを壊したくないんですもの……」

「あなたはお姉さまが大好きなのね。離れ離れになってさびしいんじゃなくって?」


 髪を撫でる二の宮さまのお手。ああ、本当にお姉さまに髪を撫でられているみたい。涙ぐみそうになるのを中の君は辛うじて堪えた……それにしても、このお方はどうしてこんなにお優しいのかしら?


「……えぇ、とても」

「おかわいそうに……ねぇ、ずうずうしく聞こえたら謝りますわ。でも、これからはわたくしのことをお姉さまの代わりと思って甘えてくださってもかまわなくってよ。同じお邸に住んでいるのですもの。もっと仲良くなりましょう」


 本来ならばあまりにも畏れ多い申し出にも、すっかりすなおな妹の心地に戻っている中の君は涙で瞳を潤ませて笑顔になった。「はい!」と明るく返事をして中の君は思わず女二の宮の手を取った。幸せそうに細めた美しい瞳の奥で、女二の宮が何を考えているかを中の君は知らない。



 この娘もまた夫の「野心」なのだろう。尚侍として出仕させていざとなれば誰とでも結婚できるようにさせておいて、本当は主上のご寵愛が真の目的なのだわ。


 我が三条家のためには大君だけで十分よ――そう、なにも()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ね。


 夫の「野心」のひとつを打ち砕くだけなのですもの。いいでしょう?つまらない、こんなのは復讐にさえならない。まるでただの遊戯のようだわ……




「紫蘭さんが……?!」


 恐るべき知らせを聞いて、朱雀と共に「暁星記」を読み解いていた京姫は思わず立ち上がった。書見台は床の上へと倒れ、古い本は乾いた音を立てて崩れ落ちた。その隣に並んでいた玄武は姫の動揺ぶりに驚いたらしかったが、知らせを届けにきた白虎は朱雀の顔ばかり見つめていて姫の様子には気が回らぬようである。


「実際のところはどうなのかはわからない。紫蘭と枳殻からたち尚侍ないしのかみの話は。だが、三条家の怒りを買ったことは確かだ。尚侍はすでに主上のご寵愛を受けられていたし、噂によれば紫蘭の君は三条家とは決裂していたとのことだし……」

「紫蘭さんはどうなるの?!」


 いきなり飛びついて裾に縋りついてきた京姫に、白虎はようやく目を向けた。しかし、恐怖に見開かれた姫の翡翠の瞳に当惑しつつも、今この時、白虎は朱雀のことが気にかかってならないようだった。首を振って急いでこう答えたのちに朱雀の元へと歩み寄っていったから。


「わかりません……三条家の目論見が私にはまだ読めないのです。紫蘭の君は確かに有望な青年ですし、敵対しなければならぬとしたら三条家にとっても厄介な相手になるでしょうが」


(だからって、でもだからって……まさか東宮の時のようなことが……!)


 茫然として立ち尽くす京姫の耳に、背後でささやき交わす白虎と朱雀の会話が聞こえてくる。


「朱雀、こうなってくると私は君のことが心配だ。三条家は君が四神だからって容赦しないだろう」

「私は女よ……えぇ、確かに同じ女ではあるけれど、貴女のようにまつりごとに関わったりしないもの」

「そんなことは関係ないさ。牡丹大后にしてみれば君も憎き市松皇后の娘だもの。朱雀、牡丹大后は自分にとって目障りなものは全て排除するつもりなんだよ。無論、君はいざとなれば自分の命を守るぐらいたやすいことだろうけど、今までの身分や暮らしまでも守り切れるかどうか。君がいまだ松楹院しょうえいいんで暮らしていることを快く思わない者もいるそうだし」

「私のことは大丈夫よ。でも、紫蘭の君はきっと……」


 その時、京姫は傍らを過ぎて青龍が庭中へ降り立っていくのを見た。心は紫蘭のことでいっぱいになっていても、小雨の降る庭に親友が出ていくのを黙って見過ごせる京姫ではなかった。青龍に続いてきざはしを降りると、玄武もまた後に続くようだった。


 冷たい土を裸足のままで踏んだ姫は怯えた顔でふと空を見上げた。二日降り続いた雪が今日は生ぬるく雨に溶けた日のくすんだ空がそこに広がっていた。あの日のような騒ぎ声が聞こえたような気がした――ひと月前のあの日、晦日つごもりも間近であったあの日と同じ声が。それは遠雷であったのだ。あるいは鳥群がけたたましく鳴きながら、姫の白い額に黒い影を落として飛び去っていく羽音であったのだ。姫は雨滴を頬に受けた。


「青龍……?」


 池の前に立ち尽くしている青龍の背中に、京姫は恐る恐る声をかける。東宮の死以来、青龍は無口になった。もう昔のように笑ったり怒ったりすることもなくなってしまった。もちろん京姫に対する忠誠も友情も変わらない。だが、それを示す手段をなくしてしまったかのようだった。青龍の澄んだ瞳を見つめていると、京姫は時々その底に沈みきった澱の暗さに行き当たってぞくりとすることがある。だから、今、青龍が振り返りもせずに、池にかずいて藻をついばんでいるらしい鴨たちに見入っていることに、安堵のようなものも覚える。それも胸の表面をくすぐる程度のかすかなものであったが。


「姫さま……紫蘭の君はお気の毒ですね」

「えっ?」


 鴨のつがいが嘴を交わしている。その腹のあたりの深藍色ふかきいろの水面が水中でもがく足の動きを受けているらしく、さざめき淀んでいた。


「きっと嘘ですよ。紫蘭の君が中の君と通じていただなんて。三条家はそういう嘘で以って他人を陥れるような人たちの集まりなんです。奸計かんけいと邪知と、それがあの人たちの武器なんです」

「ちょっ……青龍!」


 公然と三条家を非難してみせる青龍に玄武が青くなって言った。それはややもすれば帝を非難することにさえつながりかねない。しかし、青龍は怖じる素振りもなく、落ち着き払った声音で続けた。


「……東宮もそうして殺されました。あの方はまったくの無実だったのに。罪がないだなんて、清廉だからって、そんな事実はまるで役に立たなかった。真実なんてものは足蹴にされて、正義だなんてものは忘れ去られて、そしてあの方はひとりで逝ってしまった……!」


 初めて振り返った青龍の瞳がゆれて光っていた。京姫と玄武は青龍の顔の上に初めて表情らしい表情が宿ったことに気づいてはっとした。膝から崩れ落ちた友の元へ駆け寄った二人は、青龍の嗚咽を、声ならぬ叫びを、その胸に受け止めた。


 鴨が鳴き立てながら飛び去っていく。喪服の袖越しにも涙の熱を伝えてくる青龍への同情と憐憫は計り知れなかった。京姫もまた、目をつぶってこみ上げてくる感情のままに涙を流そうとした。だが、できなかった。やはり姫には紫蘭のことが思われてならなかったのだ――天つ乙女さま、桜乙女さま……上皇さま……!どなたでもかまいませんから紫蘭さんをお救いください。ああ、やっぱり私は祈ることしかできない。この国を守るだなんて言っておきながら、心から愛する人の危機にあって、立ち尽くしていることしかできない。


(……でも、必ず守ってみせる。なにがあっても。紫蘭さんだけは絶対に死なせはしない)




 紫蘭が降りて離れようとするとき、夕景はいつになく落ち着かない様子であった。それが気にかかって紫蘭は行きかけて振り返った。小柄な葦毛の牝馬は主人の袖をとらえてぐいと引かなくともよかったのだ。


「おい、夕景……」


 主人に叱られて、夕景は何事かを不満そうに言い返すと、左右の耳をそれぞれぱたぱたと動かして蹄で土を掻いた。紫蘭は優雅に土埃を避けて喪服の見事なまでの紫紺色を守った。


「心配するな、すぐに戻ってくるから」


 人の手前、紫蘭はいつもよりはかなりそっけなく夕景の首筋を撫でると、すぐさまくるりと身を翻した。そうでもしなければいつまでもそこに立ち尽くしてしまいそうな気がしたのだ。一体どんな顔をして牡丹大后にお会いすればよいのかわかるまでは、ずっと。


 そもそも牡丹大后はなぜ自分を呼び寄せられたのだろう――憤りに似た心地が震えるほどに紫蘭を襲い来るのは、今は亡き東宮のためである。紫蘭のかけがえのない友人であり、この世でただ一人、傍にいるだけで紫蘭がくつろぎを覚えることができた方。その方を紫蘭から奪ってしまったのは大后ではないのか。あの頼もしき若者を、人々が語るのも憚るほど惨たらしいお姿にして、東雲川に流してしまったのは大后ではないのか……


しかし、そこまで思い至ると、憤りはいつも紫蘭の喉を燻して苦しくさせた。紫蘭の胸に湿った落ち葉のように降り積もっているもの――大后が注いでくださった愛情が、あの幼いころのうるわしい日々が、かぐわしくも濃い香りをたてるのである。大后と三条家とを激しく憎めば憎むほど、共に育ちもはや離れがたくさえなっている愛がしたたかに紫蘭を糾弾するのだ。紫蘭はまだ三条家を愛したかった。愛すべきだと思っていた。


(考えてみれば、三条家の所行だって必ずしも非難されるべきものとは思われない。無実の者に罪を着せ、殺してきた者がこれまでにも大勢いるのだから。この京の歴史は、否、この国の歴史は血塗られているといってもよい。『暁星記』は恥ずかしげもなく、天つ神の末裔の罪深き所行を語っているではないか。悪しき神を祀ったとして滅ぼされた黄櫨はぜの一族の物語やら……)


 大后は三条家にお里下がりをされていて、紫蘭は必要もない案内を受けつつ大后のまします西の対へと向かうのである。一足ごとに紫蘭は自身の歩みがのろくなっていく気がした。感情はいよいよせめぎあい、掻き立てられ、紫蘭の心にまとわりついてあらゆる動作を重くする。理性によってそれをこそぎ落とさなければならなかった。


(鷹は兎を捕らえる。蛇は蛙を食らう。強きものが弱きものを糧とするのがこの世の常だ。なぜ人間ばかりが世のことわりから外れてはならないというのだろう。善と悪の差異はあいまいだ。そのことを僕は知っている)


 慣れ親しんだ論理は一瞬、紫蘭から感覚を奪った。卑劣とまでは言えないが確かに冷酷であった己の振る舞いを全て正当化してくれた論理であるから。いずれも野心のため、権力のための振る舞いであった。すなわち、自分も三条家と同じなのだ。同じであったのだ。置き去りにされ踏みつぶされていく人々は弱きものどもなのだと、所詮誰かの糧にされるために生まれついたのだと、彼らという存在は形ばかりのものでそのせいそれ自身には全く意味がないのだと、これまで紫蘭は信じきっていた。


 だが、疑念が差す――東宮は単に誰かの糧とされるためだけに生まれついた方であったかと。快活で人好きのする方だった。孤独と逆境のなかでも明るさを失わず、誰からも好かれ、愛された。あのような方が踏みつぶされるこの世界は、それを是とする世のことわりは果たして本当に正しいのだろうか。そして、もし亡き友が踏みつぶされるためだけに、何者かの糧となるためだけにこの世に生まれついたのだとしたら、なぜ彼の人の記憶はかくもあざやかに、痛みを持って、この胸に蘇るのであろうか。


(桐蔭宮さまと共に過ごした思い出は全て無意味だというのか?共に酒を酌み交わした夜も、ふざけあった日も、なにもかもが。僕は本当にそうだと信じこめているのだろうか。忘れ去れるために東宮の記憶があるのだと。僕の一部が、もっとも輝かしい一部が、まったくの無意味だなんてことを、僕は……)


「……紫蘭の君がお越しです」



「まったく、紫蘭!信じられません、あなたときたら!」


 それが大后の第一声であった。


「とんだ親不孝者ですよ!ほんとうに……!見る度に痩せていくのだから。一体どんな食事を摂っていたらそうなるというの?おおかた、お酒ばかり頂いてまともなものを食べていないのでしょう。今夜は三条家うちで食事をして帰りなさい。そうだわ、いっそ泊まっていきなさいな。どうせ毎晩遅くまで学問やら仕事やらをしてろくに眠っていないにちがいないのだから」

「……ありがとうございます、大后さま。しかし、ご心配なく。食事も睡眠も十分にとっておりますから」

「では一体どうしてそんなに痩せていくというの?」

「特に変わりないかと思いますが……」

「変わりありますとも!……まあ、このような時だからふさぎ込むのも仕方がないけれども」


 紫蘭はそっと目線をもたげて御簾の奥の方に向けた。大后さまがおっしゃることの意味を取りかねたのであった。大后はしばらくの間黙っていらっしゃったが、不意にすすり泣きのようなを漏らすと、あとからあとから涙がこぼれてくるらしい、悲泣の声で話された。


「上皇さまがもうこの世にいらっしゃらないだなんて、わたくしにはとても信じられません。せっかくお元気になっていらっしゃったというのに。最後にお会いしたときはご冗談まで仰っていました。だから、またお会いできると信じて疑わなかったのに」


 ああ、上皇さまの薨去のことをおっしゃっているのだ、母上は……紫蘭は半ば安堵し、半ば落胆しながらも内心つぶやいた。無論、父の急な死が紫蘭の心に与えた動揺は計り知れなかった。その死が紫蘭と会ったその直後にもたらされたとあっては、紫蘭はいよいよ後ろ暗いものを引きずらずにはいられなかった。父に対して何をしたわけでもないのも関わらず。


 しかし、今、紫蘭はごくかすかな期待ではあったが、大后が東宮のことに触れてくださるものと思ったのだ。東宮を惨たらしく死なせたにしても、せめて東宮が紫蘭にとって最も親しい友人であったことは、紫蘭が大切な友を亡くしたという事実だけは、認めてくださるのではないかと。同時に紫蘭はどんな形であれ大妃が東宮の死に触れられることを恐れていた。その時こそ、はっきりと見定めなければならないだろうから――愛すべきか、憎むべきか、この女性ひとを。


「……最後に上皇さまとお話をしたのはお前だったのですね、紫蘭」

「はい」


 袖で涙を拭われる様子である。重たい裾が床にこすれる音が聞こえてくる。


「きっと上皇さまはお前のことが気がかりだったのでしょう。紫蘭、上皇さまはお前にあまり構わないようであったけれど、お心のなかではお前のことを案じていらっしゃったのですよ。わたくしがお前を育てることになってからも、あれこれと注意を寄こされたものです。実の母がいないお前を心から不憫に思われていらっしゃいました」


 紫蘭は再びうつむいたが、それは敬意を表してのことではなかった。切なさが胸を揺るがしたのであった。


「……上皇さまは最後に何を語られましたか?」

「多くのことを。けれども取り留めのないことを。私の母親の話などを聞かせてくださいました」

「そうですか……木蓮の更衣はたいそう美しい人であったとわたくしも聞いています。入内の時にお父君がご存命でなかったのが気の毒でした。お前のためにもね」


 紫蘭は肩をすくめてみせただけだった。大后の最期のお言葉には格別意味があるようには思えなかったためだった。母親の後ろ盾がないために松枝帝は四の宮を臣下に降ろされた――これまでもよく聞いた話であったから。まさか大后が語られようとしていることの端緒がそこに現れているなどとは考えてもみなかった。


「大后さまは……」

「紫蘭、あなたが後ろ盾を持たずに生まれたことは残念です。ですが、それがためにわたくしはあなたの母親になれました。幼いお前がわたくしのことを『三条のお母さま』とそう呼んでいたころを思い出します……ねぇ、紫蘭、お前は再びわたくしをお母さまと呼ぶ気はありませんか」


 紫蘭は困惑して何か聞き返そうとし、言葉を見つけられずに口を閉ざした。大后は重ねて言った。


「三条紫蘭と名乗る気はありませんか、紫蘭」

「それはどういう……」

「簡単なことです。お前が三条家の養子に入ればよいということ」

「しかし、なぜ……?」


 紫蘭は呆然とした。


「なぜですって、紫蘭?これまでも実質はそうであったのだから。それだけでよいではありませんか」

「ですが、これまで実質そうであったのならこれからだって……なぜ今更になって名前だけを変える必要があるのです?」

「お前のためですよ、紫蘭。お前のためです」


 そう言い放つ大后の声から涙は消えていた。


 紫蘭は押し黙った。全くもって紫蘭には理解しがたい事態であった。なぜなのか。そして、なぜ今なのか。わかるまではまともな感情も湧いてきそうにない。大后は紫蘭の気持ちを汲み取られたらしく、咳払いを一つした上で語りだした。


「紫蘭、今更なぜと言いましたね。では答えましょう。わたくしはかつてお前を三条の養子にと望みました。上皇さまが……松枝帝がお前を臣下に降ろすとのご決断をされた時です。しかし、上皇さまはわたくしの望みを受け入れられませんでした。わたくしなどの与り知らぬ深いお考えによるものなのだったのでしょう、きっと」


 嘘だ。紫蘭は胸のうちでつぶやいてはっとした。なにを疑っているのだ、僕は。でも、絶対に嘘だ。


「でも、どうして……」

「紫蘭、なぜそんなに当惑する必要があるのです。お前は三条家の一員になりたくないというのですか?それほどまでにわたくしどもを嫌うのですか?」

「そうではありませんが、しかし……」

「それとも六条の姓に思い入れがあるのですか。もう疾うに絶えた一族です。お前には縁もゆかりもないのだし。お前は三条家で育てられたのです。それを止めだてする上皇も亡くなった今、お前が三条の姓を名乗るのはごく当然のことではありませんか」


 紫蘭は落ち着き払った表情こそ崩さないでいた。だが、できることならばこの場で子供のように寝そべり、丸まって、心ゆくまで考えたかった。大后の仰せになることは確かにその通りではあるのだ。紫蘭を臣下に降ろすというのなら、生まれ育った三条家の子とするのが最もはやく最も自然な道であったのだ。それを拒んだのは他ならぬ牡丹大后であると紫蘭はこれまで信じてきていたし、今もそう思っている。牡丹大后はきっと紫蘭を三条家の子供としては受け入れられなかったのだと。紫蘭の臣籍降下を願ったのと同じ理由で――やはり、自分の子ではないから。


「でも……」


 三条家に入るとはどういうことか。望んでいたあらゆる権力に近づけるということである。かつては恐ろしくさえ感じた力を手にできるということである。今向かい合っている女性の息子になるということである。この人に自分の子として認められる――僕が最も望んできたこと。


「でも……」


 静かなまばたきのその瞼の裏に映り込むのは東宮のお姿である。紫蘭のびんを聴いて「孤独だな」と呟かれていた東宮。落としたはずの髪飾りが友の黒髪に結ばれているのをもう見とがめられない東宮。今はただおひとりで、東雲川に浮きつ沈みつする東宮……とてもお話ししたくありません、紫蘭さま。だって、もうどなたかもわからないお姿で……


 紫蘭は突如として、胸の奥がかっと熱くなるのを感じた。


「……できません」


 紫蘭は生まれて初めて己の怒れる声を聞いた。胸の内に幾重にも響いていく声に驚き目覚める紫蘭は、空谷に響く我が遠吠えにじっと聞き入る若い狼のように、はじめは頼もしく、そして最後には諦念にも似たものさびしい心地で、我が心の声を聞いた。紫蘭は繰り返した。


「できません」

「できませんとはどういう意味なの、紫蘭?」


 大后は純粋なる疑問を紫蘭に投げかけてきた。立ち向かうためには紫蘭には少しの時間が必要だった。


「私は三条家の人間にはなれないという意味です、大后さま。私は確かに大后さまを母のようにお慕いしております。大后さまに育てていただけたことは不幸な生まれの私にとってこれ以上ない僥倖ぎょうこうでした。その御恩を忘れたわけではありません。ですが、私はやはり三条家の人間ではないのです。だから、三条家の人間にはなれない」

「なぜです、紫蘭。あまりに馬鹿らしい。なぜ自分は三条家の人間ではないなどと、わけのわからないことを……」

「おわかりにならないのですか?大后さまには」

「わかるはずがないでしょう」

「本当にまったくおわかりにならないのですか」


 低いささやき声を聞いて、大后がはっと息を呑まれる気配がした。紫蘭は涙ぐむかわりに熱を持った汗をかきながら、居住まいを直した。心臓の音が早鐘のごとく鳴り響いていて、少し眩暈がする。膝の上の拳が震えた。


「簡単なことです。私はもう三条家の人々と喜びを共にできないのです」

「まわりくどい言い方をよしなさい」

「なぜと訊きたいの私の方です……なぜ東宮を死なせたのです?なぜあの方があんなにも悲惨な最期を遂げなければならなかったんだ」

「あの者が罪を犯したからというそれ以外にどんな理由がありますか」

「ちがいます。あの方は無実だ」

「まあ!紫蘭」


 と大后は鋭く叫ばれた。


「謀反人を庇うだなんて。それでは誰かがあの者に濡れ衣を着せたとでも?主上が罰するべき者を誤ったとでも?そんなことが起こり得るはずありません。紫蘭、お前は自分が何を言っているかわかっているの?!」

「えぇ、わかっております。無実の東宮を苦しめ、殺したのは三条家あなたがただ」

「一体誰にそのような戯言を吹き込まれたですか?」

「誰にも。ただ私はこの目で見、この耳で聞いたことから判断しただけです」

「それさえもまやかしなのです」

「まやかしならばいっそどんなによいか……!」

「……ねぇ、紫蘭」


 大后は疲れたような、哀切な調子で訴えられた。それから優しい、けれども威厳ある太い声に転じられて、


「お前はひどい誤解をしていますよ。お前が東宮と親しかったことは存じています。だからお前は認められないのでしょう?東宮が謀反人であったという恐るべき事実を。つらい気持ちはよくわかります。でも、冷静になって御覧なさい。なぜ東宮は自刃したのです?それはまさしく罪の念があったからに違いないのです。これほど明白なことはありません。もしかしてお前は恐れているのではないですか、東宮と親しかったお前もまた謀反に加担していたと思われることが……」

「どうしてあなたはいつもわかってくださらないんだ……!」


 紫蘭の言葉はほとんど悲鳴であった。


「僕を三条家に引き入れたいのなら全て手の内を明かすべきでしょう!……でも、駄目だ。それでもできない。僕は東宮を奪った三条家あなたがたを許せない……!」


 長らく大后と紫蘭は共に御簾越しに黙り込んでいた。人払いを済ませていたので喪服姿のお二人の周囲から下々の者どもは皆立ち去っていた。すすり泣きをされる大后と、顔面を蒼白にして身をわななかせている紫蘭とのそのお姿を見つめている者は誰もなかった。


 そう遠からぬ場所で雨雲が低くうなっていた。冬らしからぬ雷雨の訪れである。もし稲妻が京のどこぞにでも落ちれば火事になるのだろうな、と紫蘭は剥離した意識のひとかけらでぼんやり考えていた。それは水面に浮いた油膜のような意識であった。いっそ雷が今ここに落ちてくれればいいのに。この身も、三条家も、京も、なにもかもが全て焼き尽くされて消えてしまえばいいのだ。


 あまりにも長いこと大后がなにもおっしゃらないので、紫蘭はついに自らいとまを告げた。大后はそれには答えられなかった。ただ、紫蘭が部屋を退出するときに叫ばれただけである。


「紫蘭……!すべて、すべてお前のためだったのに!」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ