第二十七話 雲隠(下)
上皇さまの死、そして東宮の謀反発覚と、年の暮れに暗い出来事が二つ立て続けに起こったために、元日から十五日間にわたって行われる正月の儀式は、元日の朝賀と元日節会、そして新玉の節会のみ執り行われることとなり、その他の儀式は全て中止とされた。朝賀の折、帝から次のような宣旨が下された。
「昨年は心せわしなき年であった。めでたきこととしては、玄武の代替わりに始まり、七年に一度の月宮参り、そして枳殻の女御の懐妊が挙げられよう。しかし、その傍ら心痛む出来事も多かった。殊に朕が父宮でもあらせられる松枝上皇が神去り坐した悲しみから、朕が民はいまだ立ち直れぬままだ。だが、今こそ心確かに進まねばならぬ、朕が民よ。さもなくば、この悲しみに乗じて世を擾がせんとする悪しき者たちの思いのままとなる。朕は父宮よりこの国を賜った。美しき水底の国、玉藻の国を。従って、朕はこの国を守らねばならぬ。聞け、朕が臣下よ、朕への永久なる忠誠を心に誓うのだ。今ここで忠誠を誓う全ての者を朕は命のかぎり慈しみ守ろう。一方で、朕に心背ける悪しき者らに対しては鬼神の如く振舞うことももはや躊躇せぬ……聞こえたか、朕が民よ。肯ったか、朕が臣下よ。叫ばなくともよい。跪かなくともよい。その忠誠はいずれ示されるべきときに示されることを、朕は知っている」
朝賀に集った人々がその場において帝のましますあたりに向かって拝跪したことは言うまでもない。
新玉の節会の夜、紫蘭はひとり杯を傾けていた。父の薨去と友の突然の死は、この憂い深き青年をいよいよ陰鬱にさせていた。皮肉なことに、紫蘭の容貌は内面とは反対にいよいよ照り輝くような美しさを帯びていた――雪明かりに照らし出されている華奢な手つき、通った鼻筋、沈んだ瞳。痩せた頬に酒が紅を差す具合。手入れをしばらくしないせいで腰元まで伸びた黒髪には水晶の髪飾りが夜露のごとく結ばれている。もう誰も見咎める人はいないのだ、それはなくしたはずではなかったかと言って。
去年の新玉の節会の夜、東宮と共に杯を交わしたことが思い出された。あの折には二人で正月の忙しさに辟易していたものだが、こうしていざ正月の行事があらかた取り去られてしまうとなんという物寂しさであろう。というよりは、その物寂しさを、遊び惚ける暇と見なして騒げる友がいないという事実が、ひしひしと紫蘭の胸には堪えるのである。虚しさを忘れ去るために、紫蘭は杯を飲み干して酌ませ、飲み干しては酌ませていた。酌を命じられた新参者の女房は主人を留めることをあきらめていた。
……東宮の自刃の知らせを聞いたときも、紫蘭は涙を見せなかった。たかが涙ひとつがどれほど危険なことか、理知の勝った紫蘭にはよくわかっていたからだ。東宮は謀反人として死した。憐憫の意を公に示せば自身もまたその仲間と見なされてしまう。悲しみは押し隠さねばならなかった。自分自身にさえ。
(そうでなければこの僕も杖下に死すこととなる……)
東宮が自刃したというのは嘘であろうと、紫蘭は確信していた。東宮は惨たらしい拷問の末に死に、それを三条家の輩は自刃したと言い張ったのである。東宮の亡骸はすぐに燃やされてしまったから、かつて桐花の女御と呼ばれたその母親たる女性でさえ、別れを惜しむことはできなかったほどだ。だが、紫蘭は人を遣わせて東宮の最期のお姿について情報を仕入れていたのだ。そしてその情報は、かつて東宮の親友であった紫蘭を決して喜ばせはしなかった。
(東宮と最後にお会いしたのは管弦の宴の前だった)
なぜもう戻れぬという時になって人は償えぬ罪のことばかり思い出すのだろう。紫蘭は初めて人の罪とその理に触れた気がした。あの時、紫蘭の斌を聴いて「孤独だな」と呟かれた東宮のお心が今になって、ひとしおに憐れに思い出されたためである。東宮は苦しがっていらっしゃったのに、寂しがっていらっしゃったのに。いくらあの気丈な方といえども、世から公然と無視され侮られるつらさは身に堪えたことであろうに。それだというのに自分は励ましの言葉ひとつかけるでもなかった。せめて自分だけは東宮のお側を離れないからとそう言って差し上げればよかったのに……言えなかった。親友を憐れむことがためらわれたから。常々その明るさを羨ましいと思っていた、東宮というお方を憐れむことが嫌だったから。
……いや、違う。本当は嘘をつけなかっただけだ。世の全ての人々を敵にしてまで東宮のお側にいられるという自信がなかっただけだ。だから、聞かなかったことにしたかった。いつもの東宮の明るさのうちに全てを紛らわせて、それで全て終わりにしてほしかった。
(あの方は孤独のうちに死んでいった……根笹の宮をはじめ東宮の《《同胞》》とされた人々は官を解かれただけで済んだのに。東宮はただおひとりで亡くなったのだ)
東宮が苦しまれている間、親友である自分はなにも知らないでいた。ただ突然の知らせに茫然自失とするばかりで、ただ四日目の朝日が事を明るみにしてくれるものと、無邪気に信じていた。愚かな紫蘭……その四日目の朝を待たずして東宮は亡くなった。
(そして、あの方の亡骸は燃やされ、東雲川の下流に投げ込まれた。あの方のために祈ることも、花ひとつ手向けることも許されない……誰がこんな未来を想像できただろうか。かくもむごたらしい最期があの明るい方を待ち構えているだなんて)
確かに大后は東宮を手にかけることさえ厭わない女人であると知っていたけれども、まさか本当に……それもこんな残酷に。
(右大臣もいくらか絡んでいるのだろう。あの人がここまで卑劣な手を使うとは思わなかった。古き武人のような見かけにもよらないものだな。それにしても、主上も全てご存知であったはずだ。なぜ止められなかったのだ?あのお優しい方が。主上は常々、東宮に対してもなにかと気を遣っていらっしゃったというのに)
枳殻の女御がご懐妊されたからだろうか。ご自分の血統を守るためには、主上は「鬼神の如く」振舞われることもためらわれないというのか。
(主上……大后さま……もし僕があなたがたの邪魔になったとしたら、どうされますか?やはりあなたがたは躊躇などしないのでしょうか)
怖い……紫蘭は初めて胸のうちにすなおに恐怖を感じている我が身を見出した。怖い。何百回と杖で打たれる痛みに悶えつつ死んでいくこと。誰にも顧みられぬ存在になってしまうこと。歴史の空白に投げ捨てられてしまうこと。
(大丈夫だ。僕には九条の血など流れていないから。僕は三条家で育てられたのだ。三条の氏を名乗ることは許されなかったとはいえ)
そうだ、僕は六条紫蘭だ。九条紫蘭ではない。しかし、三条紫蘭でもない。
……そうだ、三条紫蘭ではない。だから、牡丹大后は自分に皇位を許そうとしなかった。
(結局、大后さまにとって僕は他家の子、他人の子なのだろうか)
夕凪と夕景。大后さまが帝と紫蘭にそれぞれくださった。双子の馬は姉の方が大きかった。
(主上、夕凪と夕景を駆けくらべする話をお忘れなのですか)
怖い。ひとりぼっちで死ぬのは、とても怖い。
知らぬ間に片膝を抱えてうつむいていた紫蘭は、床にこぼれた酒を拭く媼のしなびた手に触れられてぼんやりと顔を上げた。栃野はこんなになるまで飲ませ申し上げて、と、若い女房を叱りつつも、せっせと手を動かす気配であった。東宮に仕えていた者たちは皆散り散りになってしまったが、年老いた栃野にはとても勤め先はなかろうと、紫蘭は東宮のせめてもの供養もかねてこっそり雇ってやったのである。話によれば栃野は古くから東宮にお仕えしていたために共に捕まり尋問されたということであるが、主人が死ぬとあっさりと放免されたとのことであった。この家で働きだしてからも、栃野は目立って変わった様子をみせなかったが、明け方ごろにどこからともなくしわがれた歔欷の音が漏れるのを紫蘭は時おり聞いた。
この老いた女房を家に置いていることをもし三条家の人々に知られたらどうなるだろう、と紫蘭は酔った頭で考えた。瞬間、恐怖が冷たい波となって紫蘭を襲いきた。いけない。早く暇を出さなくては。三条家の人々に猜疑の目を向けられることはもちろん、政敵にとっては自分を蹴落とす恰好の口実となる。今すぐ放り出さなくてはならない。
紫蘭が目覚めていることに気づいて、栃野が顔を上げた。笑うことを忘れたこの媼はただ真剣な目つきを紫蘭に向けてこう言った。
「紫蘭さま、少し酔いが過ぎたのではありませぬか。お水を召されませ。今、栃野が持って参りますから」
「……ああ」とだけ低く返事をして、紫蘭の宮は膝に顔を埋めた。駄目だ、やはり駄目だ……僕は許せない。主上も大后さまも、共に敬愛する方々であるけれど。無実の友を惨殺したことだけは、かけがえのない友の命を奪ったことだけは、決して許せないのだ。
左膝を少しひきずって歩く栃野の足音が、紫蘭の頬に涙を伝わせる――
夜中に赤ん坊が目覚めてぐずりだしたのを、若い乳母では手間取るので母自らが起き出して乳を含ませてやり、抱いてあやしてようやく寝かしつけた。女二の宮は眠りを妨げられて不機嫌ではあったが、高貴な方の常として感情を表に出すことをよしとしないから、至って平静を装いつつも寝所に戻った。しかし、疲労のせいか寒さのせいか寝付くこともままならず、苛立ちを募らせている間に夜が明けて夫が帰ってきてしまった。
この十年の間で、格別求められないかぎり夫の方に背を向けて寝る習慣がついていた。夫が短い朝寝のために気だるげに身を横たえる気配を感じても、身じろぎひとつせぬのが常である。ところが、この日、女二の宮はふしぎな音を耳にして、眦に瞳を寄せ、夫の様子をうかがった。なにか硬く冷たいものに触れるような冴えた音であったが、その音は夫の朝帰りに妻が煩悶することもないというこの冷めきった夫婦関係を端的に表しているようにも思われて、二の宮には痛快でもあり不愉快でもあった。硬く冷たいものは妻の軽蔑であり夫の嫌悪であり、また、義務として夫に触れられるときの妻のこわばりでもあり致し方なく妻に触れるときの夫の諦観でもあったのだ。
(なにかしら……私を殺すために短刀でも隠しているのであれば少しは見直してあげるのだけど)
夫に気づかれぬよう、静かに、ゆっくりと半ばまで振り向いた女二の宮は、夫がこちらに背を向けながら(これも習慣だった)白い暁の闇のなかに銀色のものをかざしているのを見た。それが銃であると気づくために、深窓の令嬢、皇女として生まれた女性にはやや時間がかかった。一瞬、本気で夫が自分を殺す気なのではないかしらと妻は慄然とし同時に胸のときめきをも覚えたのだが、やがて、その武器が、朱雀の宮――他ならぬ妹の武器であったことに気がついた。
(あれは女三の宮のものだったわ。いつぞやの儀式のときに見た気がする……なぜあの人が持っているというの。あの人が三の宮に懸想していたというあさましい噂は聞いていたけれど、もしかしてあの二人は密かに通じているとでもいうのかしら)
すると、今までに経験したことのない感情が女二の宮の胸に起こった。二の宮自身でさえ驚愕するほどの強烈な感情であった。母大后の愛憎の深さを呆れて眺めていた二の宮であった。いかなるときも悠然とすましていることを美徳として教え込まれてきた二の宮であった。そして、その教えに反するような事態にも立ち会うことはなかったというのに。
これまで夫が他の女性と関係することについて、無頓着というよりほとんど無関心でいられた。嫉妬するほどの価値を、相手の女性どころか、夫にさえも見出せないでいたからだ。だが、女三の宮ともなると……あの妹と比較されるのだけは我慢ならない。
幼いころから自分の方がずっと美しかった。三児の母となった今でもそれは変わらぬ自信がある。学問といい音楽といいその他のあらゆる芸事、女のなすこまごまとした業においても自分の方が秀でていたはずだ。それにも関わらず、朱雀であるというだけ、そして実の母を亡くしたというそれだけのために、父宮は妹ばかりをかわいがっていらっしゃった。
それだけではない。柏木右大臣に娘を賜ると約束したときも、自分の方を降嫁させたではないか。いくら将来性があるといえども、卑しい家柄の男の元に。そうしておいて、父宮は三宮を手元に置かれていとおしみ、片時たりとも離そうとされなかった。右大臣殿は妹宮に懸想していらっしゃったのにさぞ残念がっていることでしょうというこの上なく屈辱的な噂にも耐えねばならなかった。凍りついた夫婦関係を世の人々があざける声を無視して、二人の子を、今では三人となった子を、育てなければならなかった。
(もし、夫と三の宮のことが世に知れ渡ったら私はとんだ笑いものになる……そればかりは耐えられない)
夫は銃をしまいこんだようである。切なげにその皮膚を撫ぜながらも。
品位の点では母親よりもはるかに優れたこの娘は、母后から受け継いだ激烈なる感情をも巧みに調合して毒へと変える術を知っていた。そうであるから、感情の赴くままに動き身を滅ぼすという多くの者が、殊に多くの褄が辿る過ちをも優雅に回避することができた。憤りを胸の奥にしまえる大きさにまで丁寧に畳み込んだ二の宮は、眠りの呼吸と全く同じ律動だけを刻みつつも、策略を巡らしはじめる。
(どうしようかしら。どうすればあの人に復讐ができるのかしら)
同じころ、京姫が目を覚ます。今日もまた悪い夢に襲われて。
終焉まであと一月――




