第十一話 白き風の人(上)
拝殿の焼け落ちた苧環神社のがらんどうの境内には先ほどから、ぽん、ぽん、という軽やかな音が響いている。それを不思議に思う人もいないのはこの神社の不幸であるが、 煌々《こうこう》と光るまどかな月を見上げても、巡らされるその白い光の差すうちを見渡しても、音の源はどこにも見当たらぬのである。芙蓉はそこに十二単の裾を降ろして、軽やかな音の彼女をまわりをからかうように回るのにも、瞳をただ真正面の椨の森の暗闇にじっと凝らしていた。すると、ふと音が途絶えて、宙高く跳ね上げられた鞠が芙蓉の足元に落ちてころころと転がって現れる。それでも芙蓉は眉ひとつ動かそうとせず、鞠にも視線を落とそうとはしない。
くすくすと子供の笑うような声がした。
「いやだなぁ、芙蓉お姉ちゃんったら、全然びっくりしてくれないんだもん」
背後にあらわれた人影に、芙蓉はようよう物憂げそうにも見えるゆるやかな動きで振り返った。
「馴れ馴れしくってよ」
「ふふ、お気に障った?」
相手が無邪気に笑いかけるのにも、芙蓉は唇を緩ませもしない。相手が幼い子供であるにも関わらず――いや、厳密にいえば。子供の姿をとっているだけなのだが。芙蓉はそれを知っているから微笑さえ浮かべようとしないのだ。
「まあ、いいや。仲良くしようよ、ねっ?」
鞠を拾い上げて、にこりと芙蓉に微笑む幼い少年。年のころは七つほど。月明かりに雪原のようにきらめく髪、雛のように白く小さな顔、ちょっと釣り目気味な赤味がかった褐色の瞳、尖った小さな鼻と薄い唇。小柄な身には蒲公英色の水干を纏っている―― 一見するとさほど奇異には見えない少年の姿ではあるが、第一にかわいらしくは見えるけれどもその実表情の読めないことが少年に油断ならぬ印象を与えており、第二に白銀色の髪の間から突き出た二つの尖った耳と、腰元に気まぐれそうに揺れているふさふさとした筆のような尻尾とがこの少年の異形の者であることを示している。芙蓉がなにも返さぬのにも少年は不遜にも見える笑みを浮かべたきりで、それから再び鞠をつきはじめた。
「ところで、ボクに何の用なの?芙蓉お姉ちゃん?」
「……お前はなぜ螺鈿に手を貸したの?」
「そんなの簡単だよ。螺鈿お姉ちゃんには何百年も封印されてたところを助けてもらったんだもん。恩返しの一つもしなくっちゃ。狐の恩返しってね。コン、コン。稲妻を起こすぐらいならお安い御用さ」
「そう。でもお前は螺鈿を見殺しにしたわね」
鞠をぽんと頭で弾いて、狐の耳の少年は宙に浮かび上がる。
「あったりまえじゃない。ボクがなんで命がけで螺鈿お姉ちゃんを助けなきゃいけないのさ。もう十分恩義は返したっていうのにさ」
「……そういうことね」
その時、芙蓉の口元に初めて笑みらしきものが浮かんだ。空中で丸まったり伸びたりしながら、鞠を落とさぬ遊びに興じていた少年もようやく不思議そうに芙蓉の顔を見遣る。
「そういうことなら気に入ってよ。篝火、お前が螺鈿なんぞよりずっと力の強い、古い歴史を持つ妖であることは知っていますわ。わたくしたちにお前の力を貸す気はなくって?無論、見返りはあってよ。一つには……」
「これ」と言って、芙蓉は袖の内より包みを取り出してその場で広げてみせる。篝火が思わず鞠を落として興味深く見守る中で芙蓉は包みの中の重箱の蓋をとった。途端に篝火は飛び上がって歓声をあげた。
「お揚げだ!」
「ふふ、お前の好物でしょう?一つにはこれをやりますわ。もう一つには……」
と、芙蓉は袖よりもう一つ包みを取り出すと、素早くそれを解き、その中身をほんの刹那だけ篝火に示すとすぐさまに袖の内に押し隠した。篝火の目が赤く鋭く光ったのを、芙蓉は決して見逃さなかったようであった。
「……もう一つにはこれをやりますわ。但し、これは今すぐやる訳にはいかなくってよ。私たちの命を果たせたらその時に褒美としてやりましょう。私の命令を果たせるごとに、一つずつ……」
「……約束、してくれる?」
篝火が鋭い目をそのままに尋ねるのに、芙蓉はますます満足したように口の端を歪めた。
「えぇ、もちろん」
芙蓉の返答を聞いて、篝火はすっと地面に降り立った。水干の膝を地面につけ、芙蓉に深く頭を垂れて、尾を地に寝かせる。それが篝火の服従の証であった。
「仰せのままに……芙蓉様」
芙蓉は袖の中の包みより取り出したものを、篝火の前に転がした。それは傍目にはなにものとも思えぬただの石の欠片ではあったが、篝火は恭しくそれを押し戴くと、胸の内にしまいこみながら、新たな主の目に見えぬところに笑いの波をひろげていった。それは、おおよそ無垢な少年のそれとも思えぬ、獣のような残忍性に満ち満ちたものであった。
「しかし、白虎殿はなぜ……」
「だから、わからないったらー!」
六月に入って早三日、桜花市では雨は降らぬが晴れもせぬというようなもやもやした、湿っぽい天候が続き、そこに中間テストの返却が重なってきているから、桜花中学の生徒はますます気分が冴え返らない。平然としていられるのは、翼などの成績優秀者か、あとは全く成績など気にしなくてもよい奈々のようなごく一部の者だけで、舞などは授業ごとに肝を冷やし、下校時には足一歩進めるのも恐ろしいといった有様なのである。今日は翼の家で今後の作戦会議が行われているから、なんとか帰宅時間を延長できてはいるが、しかしあの数学の点数……さぞかしお母さんの雷が落ちることだろう。それを思うと、舞はこうして世界の命運にかかわるようなことを話していても、どちらが重大か決めかねるようになってくる。
左大臣はむむと言って、テディベアの腕を組んだ。何度も繰り返し同じ議題を持ち出す左大臣にうんざりし始めている舞に対し、翼は左大臣の問いにうなずいてみせる。
「でも、やっぱり変よね。あのまま姿を消したりして。怪我して気絶してたのが、左大臣たちが駆けつけたときにはもういなかったなんて」
「なんか事情があるんじゃないの?」
「事情って?」
「いや、それは知らないけどさ」
「もう……!」
無責任な奈々の言葉に、翼は肩をすくめる。奈々は暢気に頭の後ろで腕を組んで壁にもたれかかり、翼の母が出してくれた緑茶をすすっている。まるで自宅のようなくつろぎ様だ。螺鈿との戦いが終わって一段落してから、彼女たちが繰り返し話し合っているのは、あの戦いの折に京姫を助けに参じながら、戦いの後で忽然と姿を消してしまった白虎と思しき人物のことである。白虎はその後も姿を見せようとしない。この数週間の平穏をかの人も最後の憩いに宛がおうというのか。それとも、何か馳せ参じることのできない事情があるというのだろうか。このような解決のつかぬ問題がこれまで延々と語られてきたのだ。
「残る四神はあとお二方……白虎殿と朱雀殿。早く見つけ出さなければ、また奈々殿の時のようなことになりかねませぬ。白虎殿は恐らく覚醒しているから身を守れるとしても、朱雀殿の身が危ぶまれます。今度は敵の方とて鈴を奪ってからなどという生ぬるい手に出てくれるかどうか。見つけ次第殺すということも考えられます。敵より先に、なんとしても白虎殿と朱雀殿を……」
白虎――舞が先ほどから膝を抱えてふてくされているような素振りをしているのは、テストの点数が悪くて落ち込んでいるためとか、左大臣の話題に飽き飽きしているためとか、そうした理由からばかりではない。
金色の長く波打つ髪、アイスグレーの眼差し、美しい肢体と凛々しい表情、それに、手の甲に落とされたキス。それらを思い出す度に、胸がとくんと高鳴るのである。舞の中ではその人が、いつしか水仙女学院で出会った白薔薇の人と重なっている。もしや白虎はあの人――確かに容貌は瓜二つであったけれど。でも、あの戦いの中では舞も無我夢中であったし、それほどはっきりと白虎の顔を見つめられた訳ではないし。しかし、あんなに美しい人が二人といるだろうか。ああ、もう一度会えたら……
一体どちらに?そう思って、舞はどきっとした。私は白虎に会いたいの?それとも水仙女学院で会った人に?それは、白虎に決まっている。白虎はかつての仲間、四神の一人なんだもの。一刻も早く再会して……そう、そうに違いない。だって私には司がいるんだもの。他の人に、心変わりなどするものか。
「……舞?舞!」
舞ははっとした。翼が呼びかけている。ついぼんやりしていたようだ。もう、つまらないことばかり考えているから……
「あっ、ごめん!」
「もうっ、しっかりしてよねっ!とにかくこれからもっと活動範囲をひろめてみなきゃ。敵がこのところ何もしてきてない今が絶好のチャンスなんだから!とにかくはやく白虎と朱雀を見つけなきゃ。朱雀はとにかく、白虎については顔が分かってるんだから、見ればわかるはずだもの」
一同が同意したところで翼の稽古の時間となり、話し合いはお開きとなった。奈々は弟の悠太のお迎えがあるというので、舞は途中までの道のりを並んで帰った。空は変わらず白く鈍り、今にも降りだしそうな素振りを見せつけており、風はほのかに雨の匂いを孕ませている。舞は母親に言われて傘を持ってきてはいたけれど、結局はこの数日余計な荷物になりさがっていたのが、今日この日、奈々と並んで帰る道で、初めて汚名返上の機会を得た。翼の家を出て数分ほど歩いたところで、ぽつりと肩を濡らしたものがあったのである。
「あっ……」
舞がつぶやくと、奈々は立ち止まった。
「どうかした?」
「今、降ってきたなって」
「ありゃ、ほんとだ」
見上げた額に雫を浴びたらしく、奈々も言う。奈々はあの戦いで失ってしまって以来、眼鏡をかけなくなっていた。舞はあの眼鏡が伊達眼鏡などと知らないから、密かに不思議がっていたのだけれど。奈々は頭を掻いてみせた。
「まずったなー。つい油断して傘持ってないんだよなー」
「ひとまず、私のに入ってください」
と、舞はピンク地にうさぎの模様のついた傘を広げて奈々の方に差し出した。
「おっ、ありがと!」
舞より背の高い奈々が傘の柄を持って、二人は歩みを進めていく。その間に、ぽつりときたものが初夏らしからぬしめやかな霧雨となり、亡霊のような薄墨色の影が二人の周りを彷徨い始めた。民家のブロック塀は濡れて色を沈ませ、木々は雨滴を受けて白く閃き、時折二人の横を行く車が小言でも呟くように波のような音をたてて通り過ぎていく。舞はなんだか目に見えぬ膜に覆われているような錯覚にも陥った。
「ねぇ、舞ちゃん、白虎と朱雀のこと覚えてる?」
何気ない会話を交わしているなかで、突如奈々が尋ねたので舞は不意を突かれる。
「えっ……?」
「前世のこと。あたし、前世の記憶ってやつはさっぱりでさ。まあ、時々、舞ちゃんとか翼ちゃんに似た人の顔はぼんやり夢に見るんだけど。どんな人たちだった?」
「それが、私もあまり思い出せなくて」
前世のこと。もっと思い出してもよさそうなのに、舞はあまり思い出せないでいる。断片的な記憶しか残っていなくて、そのどれもが、平穏な日常の些細なことからの切り取りであることが多い。奈々と思しき人が最近それと判別できるようになったのだが、しかし、その人は現代の奈々とはあまりに雰囲気が違いすぎている。青龍はほとんどそのままの印象であるというのに。眠りの中に見るこうした前世の夢は、そのほとんどがさして深い感情を呼び起こさないものであったけれど、最近はつまらなくも美しい前世での日常の中で、自分が誰かを恋うている、と思う時がある。けれども、そこに白虎も朱雀の姿もない。
白虎のこと――思いだせたらどんなにいいだろう。せめて夢の中だけでも会えたら。舞は慌てて首を振った。まるで水を浴びた子犬のごとく。奈々が不思議そうに舞を見る。やめなさい、舞、不純な考えは捨てなければ。
「しっかし、考えてみれば変な話だよねー」
奈々はもはや雨に濡れるとか濡れないということを気にしていないらしく、頭の後ろで組んだ腕の肘が傘の外に突き出しているのにも平気である。
「前世で会った人たちと、また生まれ変わって出会うなんてさ。そりゃもちろんロマンチックだけど……自分でもしんじらんない」
「それが縁でございます」
左大臣が鞄からぴょこんと顔を出して口を挟んだ。
「姫様と四神は深い縁でつながっていらっしゃるのです。人と人との縁は永久に途絶えるものではありませぬ。人が何度死に、生まれ、世界が何度滅び、また再生して、どれだけ長い歳月が経とうとも、縁は途絶えぬのでございます」
「わー、左大臣、めずらしくポエミーなこというね!」
「ぽ、ぽえみー?ぽえみーとはなんでございますか……」
「しっかし、そうかー。あたしたちの前世の世界で、一回漆に滅ぼされてるから、相当前のことなんだよねー。つまりさ、歴史の教科書で習うやつより前ってことでしょ。だから、つまり……」
奈々がポエミーの語義についてろくすっぽ説明もしないで自分の世界に浸っている間、縁というその言葉を舞は胸の中でつぶやいてみる。京姫と四神たちは縁でつながっている。だから、きっと、白虎にもまた会えるだろう。それに、朱雀にも。
司は?突然尋ねだす自分に、舞は辟易しなくもない。司はどうなの?司とも前世からの縁で結ばれているのであろうか。だから、一度は永遠に失われたかと思った幼馴染としての絆も再び蘇ったのだろうか。思い出してみたいような、でもなんだか怖いような感じがする……
「あっ、じゃあ、あたし、ここで!」
十字路に差し掛かって奈々が言う。奈々は保育園に向かうため、これからこの十字路を南の方に行かなくてはならない。奈々がもう傘をするりと抜け出ているのを見て、舞は慌てる。
「奈々さん、傘……!」
「へーき、へーき。雨にあたるの気持ちいいもん!シャワー代わりになったりして」
「え……えぇっ?!」
「冗談だよ。もう、舞ちゃんかわいいなー」
と、奈々は舞の頭をがしがしと豪快に撫でる。撫でるというより髪をぐしゃぐしゃにされて、舞はまたふるふると首を振って髪をなおした。
「でも、悠太君お迎えにいくんでしょう?濡れちゃいますよ」
「あっ、そっか。でも、舞ちゃんだって傘なかったら濡れちゃうよ」
「私は大丈夫です!もうそんなに距離もないですし。走ったら、ほんとすぐですから!」
「そう?でもやっぱ悪いよ。あたし、やっぱりどこかで傘買って……」
「ほんと、私は大丈夫ですから!はいっ!じゃあ、奈々さんまた明日!」
無理やり奈々に傘を押し付けて、舞は颯爽と身を翻し、丁度青に変わった信号を走って渡っていく。その勢いたるや、いつもの舞からは想像もできないほどだ。奈々は押し付けられた傘にぽかんとした後、「あっ、ちょっと!」と舞を止めかけたが、舞はすでに横断歩道を渡りきって、こっちに笑顔で手を振っていた。奈々は仕方ないと肩をすくめ、そこからにっこりと笑って手を振り返した。
「ありがとー!」
ああは言ったものの、舞は走らなかった。走って転ぶ可能性が高いことは今までの経験上よく分かっていたし、それに走るほどの雨でもない。夏服の袖から突き出した肌に弾かれて雨が小さな雫を結ぶのを、舞は眺めてみたりする。この雨はきっと咲き初めの紫陽花を染めていくのだろう。こうして季節が変わっていく。春から夏へと。この町もいずれうだるような暑熱に煮詰まっていくだろう。でもその兆しは、今はこんな小さな雨の粒。
「姫様、よろしかったのですかな?」
「なにが?」
「傘のことでございます。濡れてお風邪を召すやもしれませんぞ」
「大丈夫!私、体は丈夫なんだか……」
言いかけて、舞が口を噤んだのは、ちょうど曲がり角で人と鉢合わせたためであったが、その人が、灰色がかった紫色のワンピースの肩あたりから傘をもたげると舞は足を止めた。それは向こうの人も同じであった。
「舞ちゃん」
「お、おばさん……!」
言ってから、舞はいきなりあまりに失礼だったのではないかと慌てたが、紙袋を下げた司の母親は少しも気にする様子はなく、嬉しそうに瞳を輝かせた。まるで少女のようだった。
「こんにちは。今学校の帰り?」
「は、はい!」
「あら、傘持ってないの?」
「ちょ、ちょっと、色々あって。あはは……」
「ふふ、だったら入って頂戴。家まで送るわ。あれから引っ越ししてなければ、そんなにうちと遠くはないはずだもの」
「いえ、でも……!」
「あっ、そうだ。せっかくだし、よかったらうちにいらっしゃいな!ちょっとお茶でもしましょうよ。どうかしら?」
結城家に行ける……!舞はどぎまぎしてしまって、返事をするにもぱくぱくと口を動かすばかりであったが、そんな舞の様子に首をかしげている司の母親を見ると恥ずかしくなって俯いた。行ってもよいのだろうか?行きたい気持ちはやまやまだけけれど。司が嫌がりはしないだろうか。それに、なんだか緊張してしまう。結城家に行くなんて、以前の司の時も近年では少なくなっていたから。すると、舞の気持ちを見透かしたように、司の母親が笑って言った。
「ああ、司なら今いないわよ。私が追っ払っちゃったから」
へっ?と、きょとんとして顔をあげる舞に、司の母親はラベンダー色の傘を被せる。
「まあ、とりあえず一緒に行きましょう」
「ほら、って言っても覚えてないと思うけど、もうすぐ司のやつ、誕生日なのよ。それでプレゼントをこっそり買いにいってたの。あの子、私が一人で遠出するとすぐ心配して付いてこようとするんだけど、さすがに誕生日の買い物はそういう訳にはいかないでしょ?だから、塾の体験教室にでも行ってきなさいっていって追い払っちゃったの。八時ぐらいまでは帰ってこないと思うわ」
「そうなんですか。あっ、じゃあ、これがプレゼント……!」
舞は傘に入れてもらう代わりに預かった紙袋を少し持ち上げてみる。確かに上から覗いてみると、青いプレゼント用の包装紙とリボンとが見える。司の母親は声をたてて笑った。
「そう。でも、あの子、呆れちゃうぐらい物欲がないから、なに買っていいかわからなくって。だから、万年筆と、本と、それとね、サッカーボール」
「さ、サッカーボール?ゆ、結城君に?」
「そう。あの子がサッカー部に勧誘されてるの、知ってる?東野君っていうとっても親切な子がいてね、司を誘ってくれてるんだけど、司は入りたがらないの。理由はわかるわ。部活で忙しくなると、私の面倒みられないからなのよ。病院にも付き添えないし」
少し切なげに司の母親は瞳を揺らした。狭い傘の中であるから、その横顔は余計間近に見える。
「でも、本当は入りたいんだと思うのよ。入った方がいいと思うの。あの子、友達、全然いないんだもの……」
「おばさん……」
「だから、そのボールは、私のことを気にせずにはいりなさいってメッセージ。あの子が受け取ってくれるといいんだけど」
司の母と舞とは、篠川の鈍色の川面に渡された橋を過ぎて、町の最南西へと向かっていった。橋を過ぎて川辺に繁茂した草草の影を眺め遣る時、舞はつい慄きそうになる。かつてはなんの気兼ねもなく訪れていた結城家なのに――今はなんだかその門をくぐると思うだけでも恐ろしく思われてしまって。見慣れた景色すらこうも違ってみえるのかと。
結城家は、橋を渡ってからしばらく川沿いを川の流れと逆行して進み、通りを一本中に入って左手の六軒目。他の家と比べるとやや小ぶりな、けれども洒落た家である。門から家までの間には白いタイルの階段が続いていて、階段の両端と踊場とを花壇に植えられた植物や陶器の動物たちが飾っている。壁の色はくすんで少し灰色がかったごく淡い紫色で屋根は黒く、全体的には横よりも縦に長い印象である。
舞は躊躇しない訳ではなかったけれど、もうここまで来てしまったからと、司の母親の招きに応じて結城家の門を潜った。扉を開けると、見慣れた光景が飛び込んでいる。吹き抜けになっているせいでなんだか妙にひろすぎて見える玄関。リヤドロの少女の人形は舞が覚えていたのとまったく同じ位置でスカートをひろげている。舞は胸が打ち震えるのを感じた。思わず靴を脱ぐのも忘れて、舞はその場に立ち尽くす。
「舞ちゃん、どうぞあがって」
濡れた傘を軒先で振るってから、司の母親は荷物をひとまず置いて靴を脱ぎ、舞にスリッパを勧める。舞はお邪魔しますと小さな声で言って頭を下げる。居間へと案内された舞は、記憶と違って寂しげなその部屋にやや驚く。真っ白い壁紙の、片付ききった、というよりは散らかしようがないほどの物のない部屋である。扉を抜けてすぐ右手には食卓の白いテーブルに、親子が差し向かいになって座るための椅子が二つ、あとは食器をしまっていると思しき白い棚と、台所に続いている扉ばかり。左手の床にはグレイのカーペットが敷き詰められ、モスグリーンの二人掛けのソファが置かれている。ソファの正面にはテレビが置かれ、ソファとテレビとの間にはガラスのローテーブル、テレビのすぐ脇に木製のアンティークらしい棚。庭に通じているガラス戸にはベールのカーテンがかかっている。ここで寛ぐこともあるのだろうか。こんな殺風景な部屋で?
「まあ、よかったら、かけて頂戴」
司の母親は、食卓の方の椅子を舞に示し、礼を言いながら舞の手から紙袋を受け取って、自分は荷物をどこかにしまうためか部屋を出ていってしまった。舞は座れもしないでぐずぐずしていたが、戻ってきた司の母親はその様子を見て改めて舞に椅子を勧めると、今度はキッチンの方に消えていった。再び現れた司の母親は、アイスティーを入れたグラスとクッキーの缶をお盆の上に載せていた。
「ごめんなさい、こんなものしかなくて。ジュースでもあればいいんだけど、うちになくって。今温かい紅茶を淹れてるからね」
「いいえ、とんでもないです……!ありがとうございます」
舞は恐縮しながらグラスを受け取って、ミルクを断って一口飲んだ。アイスティーの味よりも、舞にはしみひとつない食卓ばかりが気になって仕方がない。ここで食事をしたことがあるのか疑わしく思われるほどだ。というより――この家で本当に生活というものが営まれているのだろうか。まるで人がここで暮らしていることを慌てて物を寄せ集めて演出したとでもいうような雰囲気である。しかし、司の母親はこんな家の中の光景にも慣れきっているらしく、舞を改めて見据えて嬉しそうに笑った。
「嬉しいわ。舞ちゃんがまたこの家に来てくれるなんてね。何年ぶりかしら……もう十年ぐらい経つのね。舞ちゃんは小さい頃からかわいい子だったけど、まさかこんなに綺麗なお嬢さんになるなんて。いよいよ将来が楽しみね。ねっ、舞ちゃん?」
「そ、そんな……!」
舞は頬を赤らめる。なんだか司の母親にかわいいと褒められると、以前の司に褒められているような、妙な気分になる。
「司も舞ちゃんのこと大好きだったものね。お嫁にもらうんだって、よく私には言ってたのよ。あら、真っ赤になって。ごめんなさい、気にしないで、子供の頃の話じゃないの。もう、舞ちゃんったらずいぶんと純粋なのね。あっ、ほら、クッキー食べて」
司の母が手をつけようとしない舞にクッキーの缶を押しやった。舞は遠慮がちに一つを指でつまんで口に運ぶ。その味もよく分からないままに。
(あ、あの結城君が、私を……?!)
「そういえば、お姉ちゃんは元気?今おいくつかしら?」
「あっ、はい!今高校生一年です。水仙女学院に通ってますけど」
「まあ、すごい」
「そ、そんなこともないです……!それこそ、結城君だって。どんなテストも大体学年一番だし。先生たち、みんな結城君のこと褒めてます。桜花中なんかじゃ勿体ないってクラスのみんなも言ってますし……」
舞の褒め言葉に、司の母親は喜んでいるのやら切ないのやらどこかわからない微笑を浮かべた切りだった。舞は自分が危ないところを踏み抜きそうになっていることに気がついた。
「あっ、あの、おばさんと結城君はどうしてこの町に……」
言ってから、舞ははっと口を噤んだが、司の母親はたおやかな微笑みのうちに言葉を含ませて、やかんの火を止めに立ち上がった。司の母親が戻ってくるまでの、舞には永遠とも思われた時間、舞は自分を呪い、罵り、責めたが、ティーカップに紅茶を注ぎ込むときの司の母親は却って舞に対する親しみを一層深めたようにみえた。なにも言わずに紅茶を差し出すその瞳の伏せ方に、その伏せ方で必死に示そうとしている寂しさに、そうした親しみが表れていた。舞はまるで話を切り出されたかのように司の母親をじっと見つめ始めた。
「……ねぇ、舞ちゃん。あの子、上手くやってるかしら?」
口を開かぬ舞は、決して返答を渋った訳ではなかった。
「心配なの。あの子、あんな性格だから。友達だってろくにいないでしょうし……毎朝つまらなさそうに学校に行くの。愚痴こそ零さないけれど、きっと楽しくないんだろうなって分かるの。親バカだと言われるかもしれないわね。あの子が人を寄せ付けないで、見下したような態度をとってるのがいけないことは、私もよくわかってるのだけど……それでも、なんだかつまらなそうに学校に行くあの子が、なんだかかわいそうで。ああ、あの子には居場所がないんだって。この家の中にも、学校にも。でも、どうしたらいいかわからないの。どうしたら、あの子、小さいときみたいに笑ってくれるのかしら……」
司の母が指先で抱えている、琥珀色の水面が震えている。
「京都からこの町に戻ってきたのはね、舞ちゃん。京都でも上手くいかなかったからなの。あの子ね、あっちの中学でいじめっていうか……疎まれてたのね。あんな性格で、同級生は寄せ付けないくせに、それでいて先生受けはいいでしょう?だから、色々といやがらせを受けたり、無視されたり。それでもあの子、私にはなにも言わなかったわ。気付いた担任の先生が教えてくれて、やっと知ったのよ。私ったら、もう……!自分が情けなくて仕方なかったわ。問い詰めても司はいじめられてるなんて絶対認めようとしなかったけど、でも、もうわかり切ってしまっていていたもの――あの子の上履き、ボロボロだったの……!先生と面談しに行ったとき、私、初めて気づいて……っ!」
舞はできるだけ静かな何気ない動作で鞄を探り、クリアファイルを退けてハンカチを取り出すと、司の母親に差し出した。司の母は小さな声で礼を言いながらそれを受け取った。
「ごめんなさいね、こんな話をして……それで、決めたのよ。司をこの学校にはいさせられないって。どこかに転校させなきゃいけないって。もちろん京都の他の学校でもよかったのだけど、でもね、ふっと思ったの。桜花市に戻ろうって。だって、この町でのあの子はあんなに笑っていたんだもの。懐かしさでも、ただ単に住む場所が変わったっていう珍しさだけでも、とにかくなんでもよかったわ。この町なら、あの子は変わるかもしれない。そう思って引っ越してみたの。でも、結局は……」
「……結城君のこと、好きだって人もちゃんといます」
はっと目を上げた司の母親から揺らぐ目元を隠すために舞は紅茶の上に覆いかぶさった。ミルクも砂糖もまだ入れていない、濃い液体を一口飲んで、舞は声の揺らぐのを、茶の熱かったせいだと思い込む。
「東野君はずっと結城君をサッカー部に誘ってます……きっと一緒にサッカーしたいから。この間、一緒に社会科の授業で発表をしたけれど、結城君がとてもきれいに資料をまとめてくれるから、グループのみんなも大助かりでした。結城君はすっごく頭もいいし、あまりしゃべらないし、一人でいることが好きみたいだから、クラスのみんなもちょっと怖いとは思ってます。でも、本当に嫌いなわけじゃないんです、みんな。少なくとも私はそうです。結城君は、一度、私のことを守ってくれました……」
それからようよう舞は顔を上げた。水を吸って崩れかけていた心の地盤を意志の根で以ってぎゅっと縛りなおして。
「おばさん、私、ちゃんと司のこと覚えてました!昔、二人で道に迷ったときに手を引っ張って連れて帰ってくれたこと、ちゃんと覚えてました!司の笑顔も……私にもできることがあれば、協力しますから!大丈夫ですよ!結城君の笑った顔、また見られるように、二人で頑張りましょう!」
「舞ちゃん……」
司の母親は舞のハンカチを目に押し当てて、桃色の布の端の影で微かに笑った。
「ありがとう、舞ちゃん。嬉しいわ。なんだか元気が出たみたい……」
「……っていっても、私もなにができるか」
「いいのよ、その気持ちだけで十分嬉しいわ」
「あの、あんまり思い詰めないでくださいね。きっと結城君もおばさんがつらそうな顔してるのが、一番つらいはずですから」
「えぇ、そうね。まずは私が笑顔にならなきゃね」
二人は笑い合う。互いの顔に認め合っているこの笑顔が、一人の少年の顔にもいつしか描かれる時があることを願いながら。舞の胸のなかで一度は枯れ果てたと思われた希望が芽生えていく。またあの司に会えるかもしれない。だって、司は司だった。だからきっと、いつか、笑顔があの結城少年の顔に戻った日、舞は司と再会できる――
「ただいま!」
元気な声で帰宅した舞に、リビングのソファで雑誌を読んでいた母親と、その足元で寝転がり携帯電話をいじっていた姉とは珍しそうに顔をあげる。今日のテストは上手くいったのだろうか。しかし、母と姉の脳裏には同時に同じ言葉が横切る。まさか、それは在り得ない。ともあれ、舞は晴れ晴れとした顔をのぞかせた。
「おかえりなさい。どうしたの?妙にご機嫌じゃない」
「あっ、お母さん!今日ね、結城君の……!」
舞の言葉が止まった。友達からの返信がきたために再び携帯電話の画面の方に目線を戻していたゆかりは、自分の肘のあたりに妹の目線を感じて、怪訝そうに舞を見遣った。舞の目は事実、ゆかりの肘の下に敷かれている水仙女学院高等部の広報誌に釘付けになっている。ゆかりはちらりと視線を落として納得した。
「お姉ちゃん、その人……!」
「一目ぼれするなよ、舞。女だぞ」
なあに?と不思議がっている母親に、ゆかりはやや皺の寄った広報誌を手渡した。舞が急いで駆けてきて、母の背後からその一面に食らいついた。そこに掲げられていたのは、チェロを奏でる美しい波打つ金色の髪の、アイスグレーの瞳のひとの写真――いつしか舞に白い薔薇を捧げ、その手の甲に唇を落としていったひと。そして今度こそ紛れもない。螺鈿との死闘のなかで、舞を救いに駆けつけてくれたひと――白虎――記事の見出しに大きくその名が記してある。
白崎ルカ、金賞――アンナ・スルツカヤ国際チェロコンクールにて
本校二年生の白崎ルカさんが4月10日にモスクワにおいて行われたアンナ・スルツカヤ国際チェロコンクールにて金賞をとるという快挙を成し遂げました。アンナ・スルツカヤ国際チェロコンクールは、ロシア(当時ソ連)の女性チェリスト、アンナ・スルツカヤ(1922~1987)の功績を称えて死後10年にあたる1997年から始まったコンクールで、現在では若いチェリストの登竜門とも呼ばれ、毎年世界各国か集まった多くのチェリストがその技を競いあいます。白崎さんは日本人初の入賞者となり、本誌のインタビューにおいて「大変光栄です」とコメントされました。白崎さんは4歳の時よりチェロを習い始め、8歳の時に全日本ジュニアコンクールで入賞、10歳で……
「白崎ルカ……」
その名前を呟いてみる。そして再び写真に目を戻す。琥珀色の優美な楽器をその開いた脚の間に抱え込み、瞳をなにか恍惚とさせたように静かに伏せて、まるで己の奏でる音楽に聴き入るかのように、ほんの心持顔を突き出している。タキシードを着ているから、姉の忠告がなければ女性であると気が付けなかっただろう。そうか、この人、女性だったんだ。きれいな女性……舞はなんだか落ち着かぬ気分を覚えなくもなかったが、同時にほっとしてもいた。司に対して膨らみはじめた新たな期待と、この女性に抱いていた感情はどうやら両立し得るようであったから。
「まあ、きれいな子ねぇ。これで高校生なの?」
「あったりまえでしょ。お母さんがロシア人なんだって。これで性格がまた男前なもんだから、もうモテてモテて仕方ないんだから」
「お姉ちゃん、この人と知り合いなの?」
「一方的に知ってるだけよ。殿上人だもん。お父さんはほら、あの白崎ホテルの取締役。ほら、桜花小学校から道路はさんで少し入ったところに大豪邸があるじゃない?あそこに住んでるんだって」
「そうなんだ……」
手の甲に触れた柔らかくて温かな感触を懐かしまない訳ではない。あの瞳に見つめられたときのことを思い出すと、やはりどきどきしてしまうのは、どうしようもないけれど。白い薔薇をいつまでも指先で愛でていたときの煩悶は、忘れようがないけれど。でも、もうきらきらしい思い出に固執してもいられない。舞は進まなくてはいけないのだ。そう決めたのだ。司の笑顔を取り戻すため、ただ一人の想い人と再び会うために。
(みんなに言わなくちゃ)
舞の心は固まった。
(みんなに言おう。この人が白虎だって。また水仙女学院に行かなくっちゃ。そして、なんとしても、見つけ出さなくっちゃ。白崎ルカさんを)
舞は母親の両肩をぽんと軽く押して、階段を駆け上っていく。母親が数学のテストを見せるよう求める声は、都合よくも舞の耳には届かなかった。




