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京姫―みやこひめ―  作者: 篠原ことり
第一章 現世編―螺鈿の巻―
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第十話 燃え盛る夜、そして(下)

 隣町に異変の起こっていることは人々が戸外で立ち騒ぐ気配で十分感じられたはずであるけれど、菅野すがの先生は地下の書斎にこもって懸命に書き物をしていたので気がつかなかった。書斎といっても昔子供部屋に使っていた部屋に本棚と机とを導入したという程度のものではあったけれど、本棚には様々な本たちが取りだすのも困難なほどぎゅうぎゅうに詰め込まれている。菅野先生は目を悪くしてから、全体的に明るい部屋よりかは光源を絞った方がいくらか文字が見やすいので、書斎の灯りはともさずに机の上のランプの光で仕事をしていた。妻の廊下を行く音が時折聞こえる他、夫婦二人だけの菅野家には滅多に物音はしない。書斎には万年筆が紙を引っ掻く心地よい音がだけが響いている。菅野先生はぐいと眼鏡を鼻先に押し当てて、大学ノートの上に文字をつづっていく。




・構想

タイトル…未定

人物

・お栄…和泉屋に給仕する飯盛り女。辰之丞がため火を付ける。惨めな境遇のなか自らを花魁・螺鈿にたとえて生きている(やりすぎか?せめて螺鈿への憧れ?)器量自慢。火事で怪我をし、水を汲もうとして火事で顔に怪我を負い、井戸に顔を移すべく井戸を覗きこまんとして辰之丞より預かりし櫛を落とし、転落死→花魁井戸

・市川辰之丞…脱藩の武士(東北か?)。憤激に駆られて義兄を殺し、追われる身。逃げ延びた先の和泉屋でお栄と出会い、母が形見の櫛を預ける。和泉屋で敵に追い詰められるも、お栄が火を放ったことより敵の手を逃れ落ち延びる(悲劇の方がよいか?)→火付けの犯人とみなされ処刑される?




 ここまで描いて、菅野先生はびりびりと大学ノートの頁を破り取り、屑籠くずかごめがけて後ろ向きに放り投げ溜息を吐く。


「駄目ですね、こんな話じゃ……」





「さっ、姫さん、今度こそ何度目の正直かわからないけど……」


 螺鈿の影が、倒れ伏した舞の体の上を覆う。それでも舞はただ黙って涙を流し続けるだけだ。雨滴は地に落ちたところから音をたてて蒸発していく。舞は唇にかかった涙を乾いた舌で舐めてみたけれど、それでも潤いを得ることはできなかった。その塩辛さだけが舌先を焼き、ささくれた唇の皮が舌を刺す。握りしめようとする指にも力が入らない。もう起き上がれない。ここで死ぬしかないのだ。


「さよなら、だ」


 螺鈿の声が真上から降りかかってきたその時、一陣の風が吹き抜けた。舞はぎゅっと目をつぶる。何か冷たいものが、閉じた瞼にかかって睫毛を凍らせたような気がした。雪……?でもまさか。なにかきっと別なものが触れたに違いない。そう、たとえば誰かの指であるとか。ほら、舞の頬を撫でている……


 舞はゆらめく瞼をゆっくりと開いた。涙でにじんだ視界に、火柱に赤く照らし出されながら舞を見下ろす人の顔が映った。火の色にも染められぬそのアイスグレーの瞳を、どこかで見た覚えがあるような気がする。その人は、舞の脇へと腕を差し入れて抱き起こすと、一度自分の胸に引き寄せてから袴で覆った膝の上で舞の体を仰向けに返した。その人の金色の髪が不思議な風にそよいで、舞の頬をくすぐる。


「姫様……」


 耳にやわらかく溶け込む声。無意識のうちに、まるで赤子のようにその人の頬に宛がおうとした手を、その人はぎゅっと握りしめた。


「あなたは……?」

「姫、鈴を」


 掌にぎゅっと押し当てられた小さな丸いもの。舞がそれを握り締めたのを確かめると、その人は捉えた舞の手の甲に忠誠のキスを落とした。


 突如炎が襲い掛かったのを、風がいだ。その人は舞をマントで覆ってかばい、炎がおさまるなり丁寧に、それでも素早く舞を地面におろして、螺鈿へと白銀しろがねにきらめくサーベルを向けた。舞は鈴を抱きしめて起き上がり、美しい白き騎士の肩越しに、螺鈿の右腕の袖が断ち切られているのを見た。螺鈿は忌々しそうに顔を歪めている――もう笑ってはいなかった。


「びゃっ……こ……?」


 なびく金色の長い髪、はためく白いマントの背中。すらりと背の高い人だった。孤高のたたずまいを誇っていた。でも、どこかその横顔はいつも寂しげで。柳眉には、学問のもたらす知性とそれを極める人ならではの峻厳さとが重たく圧し掛かり、一方でその目は報われぬ愛を、心の枯渇を訴えていた。つい懐かしさが込み上げてくる。その名を呼んだ瞬間、舞の胸ははからずもときめいた。


白虎びゃっこ!……白虎なのね?!」

「姫様、変身なさるのです!」


 舞の問いかけには応じぬまま、かの人は叫ぶ。


「さあ、姫様!」


 鈴がりん、と鳴る。




「翼ちゃん!」


 炎の壁に触れかけた奈々を、兄が慌てて引き留める。翼は痛みと己の無力さとに打たれながら、それでも鈴の方に手を伸ばすのをやめない。ほんのわずか身をずらすことさえ今の翼には苦痛を伴うことのようである。噛みしめた歯の間から喉で押しつぶそうとしてかなわなかった嗚咽おえつが零れ出て、それは聞く人までも苦悶にすくませるような。奈々は兄に制止されながらも、炎を突き抜けん勢いであった。


「翼ちゃん!やめて!もう、もういいから……っ!だって、どうして……!」


「よくはありませんぞ、奈々殿」


 老人のしわがれた声が、奈々を諌める。と、どこからともなくぴょんと飛び出してきた小さなものがあって、それがとたとたと翼の方に駆け寄っていくのが見える。テディベア姿の左大臣が、その体でようやくここまでたどり着けたと見えて、息を切らしながらも、倒れる翼を介抱する。


「翼殿!しっかりなされ!」

「左大臣……!」

「このおきなが参りましたからにはもう心配には及びませぬ。ああ、ひどいお怪我を……!しかし、ご心配されますな。玄武の癒しの力が、必ずや全て治癒してくれましょう」


 と言って、左大臣はその体に頬を寄せて涙を拭う翼の頭に手を置きながら、奈々を振り返った。奈々に突き出したその手に黒い鈴が握られている。


「奈々殿、もういいなどと言わせませぬぞ。翼殿がここまでされたのです。貴殿には戦う義務がありましょう」

「左大臣、あたしは……!」

「それとも全て押し付けるというのですか?全ての責務を、痛みを、苦しみを、姫様と翼殿に?貴殿にはそれを和らげる力があるというのに、お二人がのたうち回るのを見て見ぬふりをなされますか?翼殿の悪しき炎の傷を治せるのは玄武の力を持つ奈々殿お一人であります。さあ、覚悟を決めなされ!この鈴を受け取るか!ここで焼け死ぬか!戦わぬとおっしゃるのでしたら、この老いぼれめは奈々殿を助けませぬ!!」


 左大臣の決死の言葉の後で、一瞬の沈黙が生まれた。握りしめた奈々の拳が震えるのを、その兄は見た。兄はそれを恐怖の印と見た。だから、奈々の肩に手をあてようとしたけれども、奈々はそんな兄の動作を見透かしてそれを拒むかのように、大きく腕を後方に振った。


「翼ちゃんを助けるッ!!!!」


 奈々は怒鳴る。左大臣に負けじと声を張って。


「鈴を!!…………さあ!!」


 左大臣の投げた鈴は炎の上を通り越して奈々の掌におさまった。それをしばらく見下ろして眺めやってのち、奈々は兄の方を振り返って言った。諦めと、そして覚悟と、相反する二つの感情を、微笑みと強い眼差しのうちに宿しながら。このひと時ばかり、奈々の声は子供のように高くて鼻を抜けていく。


「お兄ちゃん……あたしのこと、見守っててくれる?」

「奈々、一体なにを……」


 兄が言葉を言い終えるより先に、奈々は鈴を夜空に向かって掲げた。まだほっそりとした金色の月の光がわずかながらに鈴に差し入ると、奈々の足元の地面が鈴を透かした月光に明るく照らし出され、地面よりするりと伸びてたちまちのうちに花を咲かせる二輪の花の影が、その光の内に浮かび上がる。その影が奈々の脚を伝って伸び、蔦のように絡まって奈々の全身を包んでいく。


 影は白い花となって咲き誇ったところから零れ落ちて奈々の肩を露わにする。肘の上から手の甲にかけて残った蔦の影は黒いヴェールの生地となり、奈々の腕を包む。続いて、胸と背とを包む影は黒い背子はいしとなり、腰元から膝までは薄紫の小さな花が夥しく咲き連なったかと思うと、それがひだのあるへと姿を変えた。足を包む影は色をそのままに奈々の脚を覆うストッキングとなり、奈々の爪先から咲く花はパンプスへと姿を変えた。白い蛇が一匹、奈々の首に巻きつくと、奈々は手でその頭をそっと撫でてやる。蛇は目を瞑って頭を奈々の手に擦り付けた後で、紫色の領巾ひれへと変わり、スカーフのようにひらひらとなびいてみせた。奈々はそこで目を開けた。


 月の形をそのままに、天より落ちてきたものがあって、奈々はそれを手で受け取った。美しい金の弓である。それから奈々は肩の後ろに矢筒が吊り下げられていて、きらめく矢がそこに収められていることを認めた。奈々は玄武へと変身した。


「げん……ぶ……?」


 玄武の名を呟き、起き上がろうとする翼を、左大臣が抱き起こす。玄武が弓の本弭もとはずで地面を打つと、兄妹を囲って燃え盛る炎の壁を生い茂る蔦が這い上がって多い隠し、その青々とした体が黒く燃え尽きるとともに炎をも消滅させた。炎が消えるなり、玄武は左大臣に肩を抱かれている翼の方へと駆け寄った。翼は苦しげに息を吐きながらも、翼の傷ついた姿に瞳を揺らす玄武の顔を見上げると微笑んだ。


「翼ちゃん……!ごめんねっ……!」


 玄武の涙を拭うべく伸ばされた翼の手をとって、玄武は頬ずりする。


「よかった……奈々さん、一緒に戦ってくれて……」

「戦うよ!当たり前じゃないの。一緒に戦うから……だから、もう、休んでて……!」


 玄武は翼の手を両手に包みこみ、自らの額にあてる。玄武の涙が、翼の腕を伝って袖の内側にじわりと沁み込むのを感じてか、翼は心地よさそうに目を閉ざした。玄武が翼の傷痕の上に手をかざし、胸元から腰元にかけてゆっくりと動かしていくと、その手から霧のような光が降り注いで翼の傷を塞ぎ、元の滑らかな皮膚がその上に展ばされていく。最後に玄武は翼の額に手を当てた。翼の表情がふっと和らぎ、呼吸がなだらかになる。翼は夢のない眠りの中に引き込まれていったようである。左大臣と玄武とは顔を見合わせた。翁の姿を取り戻していた左大臣は、奈々に向かって頭を下げた。


「玄武殿、感謝いたしますぞ。いや、傷を癒してくださったことばかりではありますまい。しかし、今はあまり時間がありませぬ。わたくしがこの姿に戻れたところをみると、姫様も鈴を取り戻されたようです。姫様の助太刀をお願い申し上げますぞ」

「わかってる……左大臣、翼ちゃんをお願い。それから、お兄ちゃんのことも」

「お任せくだされい」


 駆け出す玄武を、兄が呼び止めようとする。玄武はただ、にこりと笑って手を振っただけだった。





 桜の花弁が舞を包み、古代の巫女の衣装を纏わせる。掲げた手にロッドの降りてこないのに気づいて、京姫は一瞬切なげに表情を揺らがせたが、切なさはすぐさま戦いへの強い意志へと変わって、翡翠の瞳が螺鈿を見据えた。白虎と思しきその人は両足に絡みついてきた蜘蛛の糸を断ち、飛びかかる蜘蛛の胴体の上に軽やかに跳躍し、その体を縦半分に切り裂いた。着地したところへ吐きかけられる炎から白い外套で身を守り、蜘蛛が再び火を吐くべく大きく体を膨らませた瞬間を逃さずにその頭を上から刺し貫く。その背後に迫れる影があった。


『桜吹雪!』


 京姫が手を掲げて叫ぶと、姫の掌より桜の花弁が蜘蛛を包み込む。京姫は己が手を思わずまじまじと見つめた。もう仗は必要ない。京姫はその持てる霊力だけで十分戦えるのだ……


「螺鈿!どこに行った?!」


 かの人の声に、京姫ははっとして周囲を見渡した。蜘蛛に気を取られている間に、螺鈿の姿が見えなくなっている。と、京姫は足元が突如燃え上がったのを避けるべく後ろへ飛びのく。その背後にかんざしの鋭い切っ先が鈍く光る。


「姫様!後ろ……!」


 京姫が振り返るより早く螺鈿は簪を振り上げていたが、宙を駆けて一本の矢が手の甲を射ぬいたためにその目論見もくろみは儚く崩れ去った。射抜かれた手を庇い、ひらりと空へ浮かび上がった螺鈿の影が消えたために、京姫は矢を射ぬいた人の正体を見定めることができた。黒と紫との衣装に身を包み、月のような金の弓を構えて、また今、一本の矢を放とうとする人……


「玄武!」


 玄武の矢は螺鈿の煙管きせるに弾かれたが、少なくとも螺鈿を京姫から遠のけることができた。螺鈿はさらに上空へと浮かんで、京姫たちをぎろりと睥睨すると、手の甲に突き刺さった矢を引き抜いて火柱の中へと放り棄てた。それから口の端を吊り上げて、螺鈿は笑う。


「お仲間が勢ぞろいって訳かい?楽しいこったね」

「螺鈿、覚悟しなさい!もうあなたの好きにはさせない!」


 京姫の言葉に螺鈿はわざとらしく片眉をぴくりと引き上げて落とす。


「覚悟ねェ。あちきに覚悟しろという前に、まずお前たちの方が覚悟しなければならないんじゃないかえ?」

「なにを……」


 京姫たちの体は投げ出された。熱波が火柱より湧き起こってひろがり、地面が激しく震えたためである。倒れた京姫の元に白虎が駆けつけて抱き起こし、続く熱波からマントで庇う。やがて京姫が白虎の胸より目線をあげて見たものは、姫が最も恐れていた光景であった。


 月夜が赤く染まっている――炎海の波模様を受けて。先を見通そうとしても京姫の目に映るのは、膨らみ、燃え上がり、目を潰しかねぬほど眩い炎の色ばかりである。京姫は白虎の肩に手をかけて立ち上がった。見渡す限りの地獄絵図だ。炎が家々や木々を自らの手でくべながら燃えていく音、そうした薪の焼かれ、崩れていく音、地面の揺れる音が、波のように幾重にもなってひろがっている。遠くに甲高く聞こえる音は鳥どもの騒ぐ声だろうか。はたまた人の悲鳴だろうか。


 螺鈿の笑い声が高らかに夜空に響く。


「そこからじゃアまともに見られねぇだろ、姫さん?残念だねェ。ここからだとよーく見えるよ。見たけりゃア連れてきてやってもいい。この町が燃えているのをサ」

「でも、どうし……!」


 京姫ははっと思い当たった。先ほど、矢を螺鈿が引き抜いて火柱に投げこんだ時――あの時に、螺鈿は鈴も共に投げこんだのである。きっとそうに違いない。


「鈴が三つ揃えば、この国ごと焼き尽くすこともできただろうにねぇ。生憎一つじゃあ、この町ぐらいが限界だ。まあ、それだって上出来さ。そう思わないかい、姫さん?」


 姫の心が張り裂けた。


「なぜ……どうしてなのっ?!どうしてあなたは町を焼くの?!あなたは、だって……!」

「……おかしいからサ。それだけだ」


 言い捨てて、螺鈿は顔をしかめた。急に頭痛でもしたというような様子で。螺鈿の頭の中になにか響くものがある。早鐘の音……自分の笑い声……目の前に倒れてきた燃え盛る柱――螺鈿はこめかみを抑えた。


(……もう終わりなの……?)


 京姫は茫然とただ物思う。


(私はこの町を守れなかった……みんな焼けてしまうというの?戦う事はできる。でも、この町はもう助からない……だったら、私、なんのために……)


 息苦しさが襲ってくる。ただ酸素の足りぬばかりではない。頭が重たくなってくる。この町を守れなかった。家族も、友達も……その重圧が京姫から音を奪い、色を奪い、空気を奪ったのである。姫はふらふらとよろめいた。その体を白虎が支える。間近に見遣る白虎の顔は蒼白だった。京姫を支える手が震えている。この人にも愛おしいものがあるのだろうか。それでも、この人は、必死で自分を受け止めてくれている。私は一体どうすれば……


「姫……」


 押し殺した声で、京姫の肩を抱く人は言う。


「戦うのです。それしかありません……」

「でも……」


 白虎の手がますます強く姫の肩を掴む。最早、京姫は自分が支えられているのか、この人を自分が支えているのかわからなくなってきた。白虎の息は荒い。何かを堪えるように、何かを案じるように。そうして、白虎は噛みしめた歯の奥からようやく言葉を吐きだした。


「敵を倒すまで戦うのです!それが、我々の使命です……っ!」


 どこからともなく矢が放たれて、螺鈿の袖を貫く。見遣れば、玄武が弓を構えて立っている。震える足で懸命に我が身を支えながら。そして、京姫の耳にふと聞えてきた――轟音に紛れて遠くに高く鳴る消防車の音。この町はまだ生きているのだ。この町はまだ戦っている……


(そうだ。私、もう一人じゃないんだ……)


「螺鈿!」


 呼びかけると、螺鈿は我に返ったように京姫を見下ろした。それから、破れた袖に気がつき、舌打ちをしかけてふっとやめ、蔑みと嗜虐の笑みとを京姫たちに向ける。


「なんだい、騒がしいねェ。あとはお前たちを殺すだけだと思うと、気が楽だ……」

「もう容赦しないわっ!」


 京姫が放った桜吹雪を交わした螺鈿に、剣を持った白虎が飛びかかる。それをも避けて、螺鈿は矢を煙管で弾く。螺鈿が煙管を地面に投げつけると、煙管の先が突き刺さったところから爆発が起きる。京姫と白虎の影が火炎の中に掻き消えた。


 螺鈿が笑うより前に、その背後に彗星の如く白く閃くものがあった。振り返った螺鈿の右胸を、白虎の剣が刺し貫いた。


「貴様……っ!」


 白虎の剣の柄を掴んで引き抜いた螺鈿は、白虎の白い衣服に赤い返り血を浴びせてにやりと笑ったかと思うと、剣ごと白虎の身を振り回した。思わぬ力に、白虎は反撃の隙すら与えられぬ。白虎の手が剣から離れ、その体が地面に叩き付けられる。


「忘れ物だよ!」


 螺鈿が剣を白虎に突き刺そうとした時、京姫が強烈なタックルを螺鈿に食らわせた。京姫と螺鈿は共に地面を転がっていったが、早く立ち上がったのは京姫の方であった。姫は起き上がろうとする螺鈿の着物の裾を踏みつけると、逃れられなくなった敵めがけて桜吹雪を食らわせようとした。螺鈿はそれを炎の壁で防いだ。


「姫、大丈夫?」

「私は大丈夫。それより白虎が……!」


 駆けつけてきた玄武に、姫は白虎の方を指して答える。玄武は一瞬怪訝な顔をしながらも、寄っていって倒れている美しい金色の髪の人の体を起こした。額から血が流れているのは、地面に頭を打ち付けた時の傷であろう。既に気を失っている様子であった。玄武はその額に手を翳して傷を治してやる。


 一方の京姫は、天に向けて高く手を挙げる。まるで恵みを乞う人のように。あるいは剣を振りかざす人のように。彼女はただ願う。今一瞬だけの奇蹟を。


(司、お願い、もう一度だけ……!)


 桜色の光が京姫の手の中に瞬きながら集いはじめ、ロッドへと姿を変えた。恐らくこれが最初で最後であろう――もう二度と、仗はこの手に戻らない。京姫はその最後の奇蹟を武器に、螺鈿へと立ち向かっていく。




 治癒を終えた玄武が振り向くと、桜色と紅蓮の色との応戦が交わされていた。京姫は舞うように優雅にしなやかに、けれども燕のように鋭い動きで螺鈿に向けて仗を突き付けている。黒地の着物に蜘蛛の巣模様をぬめぬめと赤く浮かび上がらせて、螺鈿はまるで彼女自身が蜘蛛であるかのように姫と対峙している。玄武は弓を構えてはみたけれど、二人の位置の入れ替わりの早いこと、炎と桜色の光とがぶつかり合い、行き交うさまを見ると、螺鈿に命中する見込みは薄いと思われた。それでも玄武は弓を構えて、時を待つ。


 仗を向けて駆け出した京姫を炎の壁が阻む。足を止めた京姫の目を、炎の壁を通り抜けてきた螺鈿の簪が狙う。京姫は咄嗟に螺鈿の腹を仗の先で突いた。螺鈿の体が炎の中に押し込まれる。


 笑いと共に宙に躍り上がった螺鈿の体には失った打掛のごとく炎が纏わりついていた。螺鈿はその裾をはためかせて、京姫の元へと急降下してくる。京姫は桜人の嵐で敵を寄せ付けなかった。


(そうよ、私が守るのよ……!)


 京姫は駆けだす。


(私がこの世界を守るの。私が螺鈿を倒すの。なんとしても生き延びてやる!だって、私は……)


『桜吹雪!』


(だって、私は、京姫なんだもの……!)


 桜吹雪を交わして、螺鈿が簪を無造作に地面に投げつける。京姫は空中でそれらを弾いたが、そのうちの一つは姫の仗を逃れて地面に落ち、巨大な蜘蛛の姿へと変わった。蜘蛛が糸を吐き出して京姫を捕らえようとするのを、姫は避けようとして車の上に飛び乗ったが、途端にその車が燃え上がった。京姫は慌てて隣の車へと飛び移ったが、その車も炎上しだす。姫が地面に降り立とうとしたところを、蜘蛛の糸が絡めとった。京姫は地面に引き倒された。蜘蛛はそのまま糸を手繰り始めたが、京姫はその頭を小突き、それから蜘蛛が眩暈を起こしている隙を狙って桜吹雪を食らわせた。蜘蛛の姿は掻き消える。と、京姫は螺鈿の姿の見当たらぬことに気がつく。先ほどは後ろから来た――京姫は咄嗟に後ろを向いたが、螺鈿の気配はない。その刹那、京姫の周囲が燃え上がる。


「しまった……!」

「とうとう捕まえたよ、姫さん」


 螺鈿が燃え残った桜の木の枝に腰を下ろして、身をじらせて顔だけを京姫の方に寄越しながら言う。


「もう、さっきみたいに逃がれることはできまいね……今度こそ、あちきの勝ちだ」


 螺鈿が目を細めた途端に、京姫の姿を炎の柱が覆い隠した。勝った、と螺鈿は口の中でつぶやく。炎の中から悲鳴も聞こえない。声をあげる暇もなかったと見える。炎は一瞬で、京姫の喉をも焼き尽くしたのだ。


(これで面倒ごとが一つ片付いた……)


 螺鈿はほくそ笑む。替えの煙管を懐中より取り出して、火を灯すと、唇にはさむ。


(鈴を一つなくしたのは惜しいが、仕方あるめぇ。四神というからには、あともう三つ鈴を持っている奴らがいるはずなんだ。そいつらのを分捕って、このつまらねぇ世の中を燃やしつくしてやらなきゃあ気が済まねぇ。漆と芙蓉へのお礼参りも残ってる。そうして……)


 螺鈿は再びこめかみの痛み始めたのに、手を遣った。柄にもなく煙に噎せこみはじめる己に気付くと、痛みはますます強くなる。柄にもなく?本当に?


(そうして、あたしは……どうしようと……)


 煙管がその手から零れ落ちる。煙管の地面に叩き付けられた音が高く響いたとき、螺鈿の胸を一本の矢が刺し貫いた。矢は螺鈿の心臓から桜の幹までを射抜き、均衡を失って枝から滑り落ちかけた螺鈿は桜の木に打ち付けられた。汚れた素足を宙を揺れる。


「なっ……!」


 唇から伝う血が口紅を赤黒く染める。螺鈿がカッと見開いた目で見据えた先に弓を構えた姿勢のままの玄武の姿があった。


「おの……れ……っ!」


 と、螺鈿の目の前でもう一つ意外なことが起こった。京姫の体を焼き尽くし、尚も燃え盛っていると思われていた火柱が途絶えて、京姫が中から姿を現したのである。彼女の周りには絡んだ蔦の燃えた跡が散らばっていった。京姫は不思議そうにきょろきょろと周囲を見渡して、命を救ってくれた植物の燃えた残骸を拾い上げる。


「私、一体……?」

「姫!今だ!今のうちに……!」


 京姫が玄武の示す方を見たとき、螺鈿は桜の木を燃やし尽くすことでどうにか打ち付けられた体を解放しようと試みているところであった。やるしかあるまい……!


 駆け出した京姫は地面を蹴り、続いて宙を蹴って、月夜に高く舞い上がると、仗の先で螺鈿の胸を突いた。仗は螺鈿の胸に深く沈み込み、京姫と螺鈿の顔が間近に迫る。螺鈿が吐きかけた血が姫の衣装を赤く汚す。血走った目で螺鈿は能う限りの憎しみを込めて姫を睨みつける。だが、おののかずに京姫は叫んだ。


『……桜花爛漫おうからんまん!!』


 水晶玉から放たれた光が螺鈿を包む。螺鈿の衣装、髪飾り、化粧、そして肉体――それらは花弁となってはらはらと崩れ始めた。花魁の華やかな衣装が古いくすんだ色の着物へ、美しいその手足が傷だらけの痩せこけた手足へ、豊かな髪が抜け落ちて艶のない汚れた髪へと変わり、間近に見つめていた白粉おしろいと紅とを厚く塗りこめた花魁の顔が剥がれ落ちて、花魁井戸の中で認めた焼けただれた女の顔が現れる。京姫は、驚きはしたが、喉元でぐっと声を抑えた。女は不思議そうに舞の顔を見上げていたが、やがてぐいと自分の顔を京姫の方へと近づけた。その汚れた手で、京姫の頬を包んで。


 その時、京姫にはすべてが分かった。流れ込んでくる。この救われる魂がどのような地獄を見て、どのような最期を遂げたのか。そして、花魁井戸で彼女の顔を見た際に悲鳴をあげたことを激しく後悔した。そうだ、このひとはやっぱり螺鈿ではなかった。この女はただ……


「大丈夫よ……」


 京姫は女の体を抱きしめた。痩せさらばえて骨が痛々しく腕に突き刺さったが、それでもかまわなかった。京姫は黴臭かびくさい女の着物に唇を押し寄せるようにして言う。


「大丈夫、あなたは綺麗なままだから……」

「綺麗じゃなかったよ」


 女は愚直なまでの無知をうかがわせる声でそう言った。しかし、女の声には螺鈿の声音には見られなかったある種の清らかな印象があった。


「あんたの瞳は綺麗だから、よくあたしの顔が映ったよ。でも今となってはどうでもいい……」


 と、女はもつれた髪に挿していた赤い櫛を外して、京姫の手に押し付けた。


「これで小させぇ墓作ってさ、あたしのこと弔ってくれよ。あたしはおえいっていうんだ」

「約束する……」


 京姫が強く頷くと、女は不器用ながらに懸命に微笑んだ。二人の周囲で夥しい桜の花が舞っている。その花の一つが、女の髪に引っかかると、女は嬉しそうに、見えもしないのに見上げてみようとする。


「ありがとよ……」


 女の姿は桜の花となって散った。その花たちを見送って、京姫はすっと目を瞑る。仗もまた桜の花弁と化して消えていく。薄れゆく意識のなかで、京姫は司の声を聞いた気がした。


「舞……よくやったな」


 京姫は微笑む。唇に触れた温かな感触――彼からの褒美。最初にして、そして最後の。京姫の頬を涙が伝う。支えを失った姫の体は地面に落下していった。


「京姫!」


 慌てて走る玄武だが、京姫の着地まで到底間に合いそうにない。その時、玄武の首に巻かれていた領巾ひれがひとりでにほどけて小さな白い蛇となり、やがて風を切るうちに大蛇となって京姫の体を、とぐろを巻いたその上に受け止めた。後からやってきた玄武は、蛇が思慮深げな黒い目を京姫に向けている光景に一瞬度胆を抜かれたが、ひとまず姫の元に跪いてその様子を窺ってみる。静かに胸が動いているところをみると、単に気を失っただけであるらしい。それでも外傷が目立つので、玄武はその傷痕をあめねく治癒した。それからほっと一息を吐いた玄武に、白い蛇がほめてほしいとでもいいたげに頭を突き出した。玄武が手の甲でその美しい頭を撫でてやると、蛇は嬉しそうに頬ずりまでしてみせる。


「よしよし、よくやった、と」


 それから、玄武は夜空を見上げる。京姫が気を失い、螺鈿が消え果ても尚、花弁は降り積もっている。炎はもう跡形もない。桜の花弁はしんしんと降り続け、炎が残した著しい傷痕を覆っていく。ふと、玄武は桜の花弁が降り積もったところから、目の前の桜の木が蘇っていくのを目撃して目を擦った。はっと立ち上がって見渡してみると、焼け落ちた木々や物、家々が再生していくのがわかる。その焦げ跡さえも残さずに。玄武は呆気にとられた。これが京姫の力だというのだろうか――だとすれば、京姫はなんと偉大な巫女であろう。しかし、目の前で眠る少女のなんとあどけなく、可憐なことか。玄武は驚き呆れていた口元を緩める。


「ついていきます、姫様。あなたがいる限り、きっとこの世界は守られる……」


 呟いた傍から、声が聞こえてくる。左大臣が、翼を背負った兄を連れてこちらへやってくるところであった。夜風が心地よい。奈々は笑顔で、大きく手を振った。






 あの夜の出来事は、その後、ちょっとした騒ぎを巻き起こした。町を焼き尽くした火事のことを誰もが覚えていたというのに、その証拠はどこにも残っていないのである。焼けたはずの我が家はすっかり元通りであるし、火柱に燃えつくされたはずの桜花神社は何事もなく由緒正しき姿を守っていた。ただし、京姫の力を以ってしても癒し得なかったものがあって、それが人の命であった。だから、舞たちは悲しい想いもしたけれど、絶望的な悲劇だけはどうにか避けられたのであった。


 舞はあの戦いの夜と次の一昼夜眠りつづけて目が覚めた。ということで、舞は戦いの夜の翌日にあった体育祭に参加できず、後から美佳にこってり絞られたのであった。翼の方はすぐに回復して、きちんと徒競走、選抜リレーにおいて一位をとり、美佳、恭弥、司らと共に赤組を優勝に導いたらしい。舞はクラスの祝杯モードに加われなかったことだけが少し寂しかった。


 赤い櫛をどこに埋めようかと迷った末、舞は結局花魁井戸の跡地に埋めることにした。長い間閉じ込められていたところだから嫌がるものかと思ったが、結局彼女に馴染みのある場所はここしか思い当たらないのであった。それに、多分、ここなら滅多に人に荒らされないだろう。彼女の受けて来たあまりにも酷い仕打ち、きらびやかな世界に憧れ必死で日々を耐え忍んできた彼女の生き様、そんななかに訪れた一夜の思い出、生涯を賭けた恋、強すぎた思い故の犯罪とその罰。それらに思いを馳せながら、舞は左大臣と共に手を合わせた。と、立ち去りかけた舞の革靴の上に、一匹の小さな蜘蛛がぴょこんと飛び乗ってきた。舞は驚いてのけぞりかけたものの、やがて優しく微笑みかけるのであった。蜘蛛ってなんかかわいいかも……大きいのは怖いけど。





「舞!おっはよ!」


 通学路を英語のテキストを広げ、ぶつぶつと呪文のように英単語を呟き歩いていく舞の肩を、翼がぽんと叩く。舞は「うわあっ!」と声をあげて教科書を取り落とした。


「なにしてんの、もう……」

「だって、翼がいきなり声かけるから……!」

「そんなもん読みながら歩いてる方が悪いんでしょ。で、ちゃんと勉強したの?」

「したよ!したけど……」

「聞いてくだされい、翼殿!姫様ときたら、昨日も結局漫画本に読みふけって……」

「ちょっと、左大臣は黙ってて!」

「こら!舞!再テストなんてやってる暇ないって言ったでしょうがー!」

「ほらー、翼が怒ったー!」

「当たり前でしょっ!」

「やあやあ、諸君。おはよう!今日もいい天気だねー」

「ああ!奈々さん!おはようございます!助けて!」

「えっ、なになに?」

「翼が怒るんですよー!怖いんです!」

「舞がちゃんと勉強しないからですっ!」

「えー、勉強なんてあたしもしてないけど……」

「ほ、ほら、ねっ?」

「ねっ、じゃない!奈々さんもちゃんと勉強してください!!」


 五月の終わりの空に少女たちの明るい声が響いている。天変地異が起こったとして、この明るい声ばかりは到底やみそうもない。






【第一部 終了】

To be continued…



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