おわりは、まくあけ。
「てことは、澄ちゃん、もう人間には戻れるの?」
焔が頬杖をつきながら問いかける。
「ええ、もう大丈夫です」
「戻るなら、神人界に戻ってからの方がいいよ」
澄に続いて、維深が言った。
「あっちの方が、君たちも色々と勝手がいいだろうしね」
「確かに」
全員が頷く。
澄を抱く想羅の腕が、僅かにその身体を引き寄せた。
「さて」
維深が膝に手をつき、立ち上がる。
「昔話も終わったことだし、そろそろ行きなよ、澄」
耳に届いたのは、慈愛に満ちた穏やかな声だった。
「そうね……」
澄はほんの少しだけ眉を下げる。
百二十年、その時間を思えば、簡単に別れられるはずもない。
維深の手が、小さな頭へ伸びる。
陰浅葱色の毛並みを、ゆっくりと撫でた。
「彼らが来られたってことは、隠されてたゲートは開いてるはずだ。また、いつでも来たらいいよ」
(隠されてたゲート……?)
ものすごく意味深な単語に引っかかる。
そもそも、どうして隠されていたのだろう。
気にはなったが、今は二人の間に割って入る気にはなれず、私は黙って澄を見つめた。
「そうね。本当にありがとう、維深」
「君と過ごせて楽しかったよ」
二人が微笑み合う。
長い年月を共に過ごした二人にしか分からないものが、その短いやり取りの中にはあるような気がした。
「僕からも」
想羅が口を開く。
澄を抱いたまま立ち上がると、維深へ向き直り、深々と腰を折った。
「澄を助けてくださって、本当にありがとうございました。僕にできることがあれば、何でもいたします」
「何でもかぁ。それは魅力的な言葉だけど」
維深は少し考えるように首を傾げる。
「今は特に困ってないからね。それに、私もやりたくてやったことだから、気にすることないさ」
「それでも、何かあればいつでもおっしゃってください」
「……ずいぶん念を押すね」
困ったように苦笑する維深に、想羅は真剣な表情を崩さない。
「それくらいでは、足りませんから」
一瞬だけ、維深が目を丸くしたが、すぐに柔らかく笑う。
「それは頼もしいね。じゃあ、何かあった時は頼むよ」
「はい」
「それじゃあ、帰りましょうか」
澄の言葉に、私たちは席を立った。
維深に案内され、森の中を進む。
しばらくすると、木々の隙間に見覚えのあるゲートが現れた。
「あ」
ゲートが蔦に巻かれ、静かに佇んでいる。
「もう、ちゃんと繋がってるよ」
ゲートへ向かう維深の足取りは軽快だ。
そして、ゲートへ手をかける。
「ほら」
ゲートから光の粒が舞う。
維深はゲートを手前に引き、そのまま手を置く。
「さぁ、どうぞ」
その言葉を合図に、全員が歩き出す。
(苦手なんだよな…あの感覚)
足取りの重い私の手を時雨が引いていく。
焔、時雨、私の順で、ゲートを通る。
そして、澄を抱いた想羅がゲートの目の前まで来たとき、澄が想羅の名を呼んだ。
「万」
返答の代わりに想羅はもう一度振り返る。
ゲートを押さえたままの維深が、軽く手を振っていた。
「またね」
「ええ。また」
澄が答える。
ぎゅっと瞑った瞼を開くと広がるのは、私たちのよく知る神人界。
長い息を吐いた。
「……帰ってきた」
あの森にいた時間自体は、それほど長くないはずなのに、百二十年分の話を聞いたからか、随分と長い旅をしてきたような気分だった。
「万、降ろしてもらってもいい?」
後ろから声がして、私は半身を引き、肩越しに後ろを振り返る。
「……うん」
返事までに、僅かな間があった。
想羅は名残惜しそうに澄を地面へ降ろす。
そっと着地した小さな身体を、淡い光が包む。
その中で輪郭がゆっくりと変わっていく。
光が収まると、そこには一人の女性が立っていた。
瞳と髪は想羅と対照的な色彩を纏いながらも、どこか似た雰囲気を感じる。
身長は、私とそう変わらないくらいだろうか。
細身で華奢に見える身体を包んでいるのは、ゆったりとした柔らかな服。
袖や裾には余裕があり、どこかナイトウェアを思わせるような、力の抜けたシルエットだった。
ふわりとした髪質は、想羅とよく似ていてウエストのあたりまで伸びている。
柔らかな髪が動きに合わせて揺れ、穏やかな表情を縁取る。
派手さがあるわけではない。
それでも、傍にいるだけで不思議と肩の力が抜けるような、朗らかな空気を纏った人だった。
「万」
澄が微笑む。
その声は、猫の姿の時と変わらないけれど、表情も相まって、どこかほっとする。
「澄……」
想羅が、呆然と見つめている。
何度も夢に出てきた姿。
現実味のない感覚のまま、想羅は手を伸ばす。
澄の頬へ触れ、確かめるように指先が動いた。
「本当に…」
「疑ってたの?」
首を傾げながら、想羅の手を上から包む。
「そんなわけないでしょ」
僅かに揺らいだ声。
「ふふっ」
その揺らぎを吹き飛ばすように笑って想羅の手を握りなおす澄。
「ただいま、万」
その一言を聞いた瞬間、感情に任せて澄を抱きしめる。
「おかえり」
再び震えた声を最後に、静寂が訪れた。
少しして、二人がゆっくりと身体を離す。
想羅がこちらを向いた。
「しーくん、焔、瀬梛さん」
その隣に、澄も並ぶ。
そして二人揃って、私たちへ深く頭を下げた。
「本当に、ありがとう」
「本当にありがとうございました」
「ちょ、やめてよ」
真っ先に声を上げたのは焔だった。
「二人とも無事でよかったです」
「本当に」
私たちの返答に、二人は柔らかく笑った。
「柳さんと、恒にも今度挨拶しに行くよ。信たちにも」
「うん、燎華も澄ちゃんに会えるの楽しみにしてたから、いつでも大歓迎だよ」
「私も、みんなに早く会いたいですわ」
焔が大きく伸びをする。
「じゃ、俺たちはそろそろ行こうか」
「そうだな」
時雨が頷く。
想羅と澄を見ると、二人は自然と顔を見合わせていた。
話したいことは山ほどあるだろう。
「本当にありがとう」
もう一度礼を告げる二人に手を振って、私たちはその場を後にした。
「じゃあね、二人とも」
「あぁ」
「はい、また」
焔が逆方向に曲がった。
その背中を見送って、時雨が私に向き直る。
「翠さん」
真剣な面持ちの彼に、緊張感が走った。
「今日はこのまま雨の領地に行ってみませんか?」
「え…」
長い間止まっていた一つの物語が、ようやく動き出した。
そして私たちもまた、自分たちの物語へ戻っていく。




