あめの、りょうちへ。
「……」
「……? どうしました、翠さん」
何も言わずに立ち止まった私を、時雨が不思議そうに振り返る。
私は答えられないまま、目の前に聳え立つ建物を見上げた。
大きいなんてものではない。
(……家?)
どう見ても、私の知っている〝家〟という言葉の規模ではない気がする。
「し、時雨さん」
「はい」
「ここは……?」
私の動揺など露知らず、時雨はきょとんと首を傾げた。
「僕たちの家ですよ」
(ですよねー……)
数時間前――
「今日はこのまま雨の領地に行ってみませんか?」
「え…」
(雨の領地?)
今までお店を家にしていたから、すっかり忘れていた。
(そうだよね、神様だもんね。治めてるよね、領地…)
相変わらずのパワーワードに顔が引きつりながらも、声を発する。
「行きましょうか」
彼が予想外とでも言わんばかりに目が見開かれた。
可笑しくて、ふっと声が漏れる。
「断ると思いましたか?」
はっとした彼が、少し慌てたように弁解をする。
「いえ、ただ、言ってから、気が早かったかなと、思ったので」
「なるほど」
そう言った彼にさらに笑みがこぼれた。
「まだ、時間はありますし、行ってみたいです」
「では、行きましょう」
彼は、繋いでいた手を放して、私から少し離れる。
「雨の領地までは少し距離があるので、緑雨に乗って行きましょうか」
「……え?」
二度目の困惑。
そんな私をよそに彼は、不思議そうにこちらを見た。
「緑雨に?」
「はい。緑雨は走るのが速いですから。それに、少ない道も把握済みです」
「さすがですね…」
(それなら安心。……とはならない)
ずっと私の肩に乗っていた緑雨を見る。
(それに……)
いつもの小さな身体。
どう考えても、人が乗れる大きさではない。
「この子に……乗るんですか?」
肩から降ろして尋ねると、緑雨が「わん!」と元気よく鳴いた。
「ああ」
そこで彼は何かを察したようだった。
「翠さんは見たことなかったですよね」
「ないと思います?」
語尾を上げながら首を横に倒す。
「緑雨、大きくなれるんですよ」
「……はい?」
さらりと告げられた言葉に、緑雨を見る。
「小さくもなれますし、少しなら飛べます」
「飛べるの?!」
ここまで溜まった驚きが一気に発せられた。
その勢いのまま、緑雨を自分の顔の前まで持ち上げる。
「わん!」
元気いっぱいの返事。
「すごい……!」
思わずぎゅっと抱きしめると、緑雨は「わん、わん」と鳴きながら私の腕を抜け出した。
華麗に着地。
そして、その身体がみるみる大きくなっていった。
「……」
目線を上げる。
それでは足りず、さらに上げる。
「わん!」
いつもよりも低い鳴き声が響いた。
(いや、大きいな?!)
人が乗れる程度だと思っていたのに、想像の三倍はある。
呆然と見上げていると、突然身体が浮いた。
「っ?!」
視界に時雨が映る。
私は横抱きで、彼の腕の中にいた。
「ちょ、時雨さん?!」
最近彼には慣れてきたが、まだ羞恥心は残っている。
耳が熱くなっていく。
「乗りますよ」
そう言いながら、どこか楽しそうに笑っている。
(なんでいっつも気付いたらこうなってるの……!)
少し睨んでみても、まったく堪えた様子はない。
むしろ満足そうなのが、悔しいまである。
時雨は、地面を蹴って軽々と緑雨の背中へ乗ると、ようやく私を前へ座らせた。
背後から、時雨の腕が身体を支える。
「少し速いので、掴まっていてください」
「……どのくらいですか?」
先日の記憶が蘇って怯む。
人間が体験していいのか疑わしいあの、速度。
「大丈夫ですよ。この前よりはゆっくりです」
「本当に?」
「……軽いジェットコースターくらいです」
(今の間は何?!)
全然安心できない。
けれど、どうしようもない。
ここで降りたところで雨の領地には辿り着けない。
覚悟を決めて、身体に回された時雨の腕を掴む。
「……お願いだから、離さないでくださいね」
言ってから、ものすごく恥ずかしいことを口にした気がした。
(そんなことは、今、どうでもいい。大事なのは、生きてたどり着くこと…メンタル的に!)
頭上から、小さな笑い声が聞こえた。
「分かりました。緑雨」
「わん!」
呼ばれたと同時に、緑雨が地面を蹴る。
グンっと身体が後ろに持って行かれそうになった。
「っ……!」
幸いにも彼に包まれている私が置いて行かれることはないけれど、今回もだいぶな速さである。
景色が一気に後方へ流れていく。
(確かに、この間ほどではない…ないのだけれど、十分速い……!)
私は、雨の領地へ着くまで時雨にしがみついていた。
「着きましたよ」
「……生きてる?」
恐る恐る目を開ける。
最初に見えたのは、大きな橋だった。
その先には建物がいくつも並び、さらに遠くまで街並みが続いている。
「わぁ……」
(ここが、雨の領地)
初めて見る時雨の故郷に、先ほどまでの恐怖も忘れて辺りを見渡した。
「ここが……」
「はい。僕の領地です」
緑雨から降りて、時雨が懐かしむように街を見つめる。
「時雨さんがここに来るのも久しぶりなんですよね?」
「そうですね」
少し考えるように視線を上げる。
「百年くらいでしょうか」
「……百年」
(相変わらず、神様の〝久しぶり〟は桁がおかしい)
「外に出られるようになってからも、色々重なって来られませんでしたから」
「じゃあ、時雨さんも楽しみですね」
そう言うと、彼は街を見たまま、柔らかく笑った。
「はい。とても」
それから私たちは街を歩いた。
久しぶりに戻った領地だからだろう。
時雨は時折足を止めては、懐かしそうに店や建物を眺めている。
私は私で、初めて見るものばかりに目を奪われた。
そうして街を回っているうちに、気付けば空は夕暮れに染まり始めていた。
「そろそろ家へ行きましょうか」
「はい」
時雨について街を抜ける。
そして、辿り着いた先で、私はさらに驚くことになった。
「……家、大きすぎない?」
改めて目の前の建物を見上げる。
首が痛くなりそうだ。
「そうですか?」
時雨は、心底不思議そうな顔をした。
「万の家も、このくらいですよ」
「……確かに」
言われてみれば、そうだった。
私は無意識のうちに、想羅さんの家を神殿か何かとして処理していたらしい。
(……神様の家なんだから、ある意味それで合ってはいる、のかな?)
考えても受け入れるには時間がかかりそうだ。
「もう遅いですし、今日は夕食を食べて休みましょう」
「あ、はい」
時雨はいつもの調子でそう言い、巨大な扉へ手をかける。
私はもう一度だけ、その建物を見上げた。
変わっていく私の世界。
少しだけ胸がざわついた。
私はその理由をまだ知らない。
ゆっくりと開いていく扉の向こうへ、時雨と共に足を踏み入れた。




