あと、もうすこし。
「万…」
傍まで来た想羅の頭を、時雨がそっと撫でる。
「へへっ…」
焔の背中へ頬を預けたまま浮かべた笑顔が、痛いほど脳裏に刻まれる。
こちらを安心させるような、屈託のない笑顔だった。
だからこそ、胸を深く抉られる。
時雨は、背負う前に焔が拭った血の跡を、なぞるようにもう一度拭った。
その温もりを噛みしめるように、想羅は目を閉じた。
「見つけたよ」
今度は、はっきりとした声だった。
「ほんとに?!」
抑えきれない喜びが、そのまま焔から漏れた。
「うぅっ……」
想羅が小さく顔をしかめた。
時雨が何も言わずに、軽く握った拳で焔の頭をつつく。
「あいて」
そのリアクションには頭から星が降ってきそうだ。
思わず、笑ってしまう。
「それで、どこだったんだ?」
「喋れるか?」と想羅の様子を確かめながら、時雨が問いかける。
想羅は震える手を持ち上げ、ある一点を指さした。
「あ……そこ」
時雨がその手を、そっと焔の肩へ添える。
「あの、森の奥…というか……真ん中」
「えぇ~…めっちゃ不気味じゃん」
焔の言うとおり、その森には緑の葉は一枚もなく、一面を紫色が覆っていた。
まるで、この世界の異質さを象徴しているようだった。
それでも焔は、
「まぁでも、行くしかないね」
と言い、時雨も小さく頷く。
「そうだな」
と返した。
「翠さん、僕の前を歩いてください。前なら見えますが、後ろは気づくのが遅れます」
「わかりました」
守られるしかない自分が、不甲斐ない。
しかし、時雨の言葉を思い出す。
(澄さんも、気配を消せるって言ってたよね……想羅さんの神妃だから。ということは、私にも何かできるのかな?)
今度聞いてみよう。
そう心に決め、私は目の前へ意識を向けた。
森の麓まで来たところで、歩みが止まる。
「近づいてもなお、不気味だね…なんか不穏なオーラが漂ってそう」
焔は一歩、後ずさった。
「確かに、これは……入るのをためらっちゃいますね」
私も、苦笑を浮かべる。
今にもお化けが出てきそうだ。
「お前さんたち…」
不意に、右手から声がした。
「は、はい」
脊髄反射で返事をしてしまう。
その声につられるように、全員が右を向いた。
そこには、一人の老婆が立っていた。
「その森に入るつもりかい?」
「そうですけど」
時雨が静かに答えた。
「やめといたぁほうがいい。その森には、最強の魔女が住んでいる……。その魔女を我が物にしようとした者たちが何人も森へ入っていったが、一度足を踏み入れたら、ほとんどは二度と戻ってこん。戻ってこられた者も、五感を失い、言葉を発することすらできなくなってたって話さぁ」
「こっわ」
(怖すぎ!)
焔と私の心の声が、綺麗に重なった。
「…」
「それは、その魔女を我が物にしようとしたからですよね? 僕たちは違います。だから大丈夫です。忠告、ありがとうございます」
淡々と言い切る時雨に、
「あ、確かに」
と焔は素直に頷いた。
「忠告はしたからねぇ。あとは、お好きにおし」
そう言い残し、老婆は家へと帰っていった。
老婆の後ろ姿が見えなくなるまで見送ると、時雨は私と万の手をそっと掴んだ。
何をするのかと思った、その瞬間。
手のひらを、温かな魔力がふわりと包み込む。
すぐに手は離れた。
「まぁ、念には念を」
「あ、ずるい。防御魔法かけたでしょ。俺には?」
「自分で守れるだろ」
「冷たっ!今日も俺だけに冷たい!」
「そんなことない」
そう言って時雨は、私の手を引いて森の中へ足を踏み入れた。
もはやこの二人はコントである。
下を向いてくすくす笑っていると、異変に気づく。
「あれ?」
地面が、緑なのだ。
先ほどまで一面を覆っていた紫色は消え、顔を上げると、森は見慣れた緑と柔らかな光に包まれていた。
「やっぱりか」
時雨がぽつりと口にする。
「やっぱりって?」
焔の問いに、言葉を紡いだ。
「さっきのおばあさんが言っていただろう。『魔女を我が物にしようとした者』って」
「うん、言ってたね」
「つまり、この森が拒んでいるのは、人じゃない。邪念だ。何より、森園さんがここまで辿り着けていることが、その証拠だ。邪念を持たない者は、そもそもこの森に入る必要がない。だから、この森も拒まないんだろう」
「なるほど」
そんなところまで読み取れるのか。
「すごすぎない?」
あまりにも的確で、少し引いている焔。
「まぁ、半信半疑だったけどな。これなら問題なく辿り着けそうだ」
私たちは、再び歩き出した。
一筋だった光が、一面の光へと変わる。
やっと、目の前に広がる瞬間を待ちわびて。




