すいこうと、かっとう。
目を開くと、一面に黒が広がっていた。
宙に浮いている感覚。
(何も見えない)
顔を動かしてみる。
けれど、景色は変わらない。
(この空間は、一体……)
僕は、周囲の気配に意識を向けた。
空間全体に、漂っている魔力。
それは、今まで感じたことのない類のものだった。
(これは、みんなが言っていたように、まだ発見されていない世界のもの…かもしれないね)
しかし、この規模の空間を作り出せる者がいるとは、簡単には受け入れられない。
魔力を辿る限り、その広さは計り知れない。
一つの世界が存在していても、不思議ではないほどに。
(どちらにしても、この暗さじゃ瀬梛さんがどこにいるか、わからないね)
彼女が纏う時雨の神気を探ろうと意識を向けた、その時だった。
「この間と同じだ…あれ?」
声が、下のほうから聞こえてくる。
「私がこの記憶にいるなら、想羅さんも、きっと成功してるよね…?」
彼女の思考が、流れ込んできた。
(そういえば、彼女、心の声は、忙しないタイプだったね)
右往左往する彼女の思考に、思わず口元が緩む。
その声を辿りながら、僕は静かに宙を進んでいった。
しばらく進んでいると、光が見えてきた。
「澄さんだ」
ドクンッ——
心臓を掴まれたような衝撃が走る。
(だめだ、平常心、平常心…まだ、わからないんだから……冷静に判断することだけ考えよう)
そんな足掻きは、光が近づくにつれて、少しずつ崩れていく。
もう彼女の存在を感じ取ってしまっている。
期待してはいけない。
動揺してはいけない。
何度も自分に言い聞かせる。
しかし、本能だけはどうしても誤魔化せなかった。
(まだだ……ここで衝動に駆られたら、どうなるか分からない。みんなが積み重ねてくれた努力まで、無駄にしてしまう)
僕は、逸る心を押さえ込みながら、必死に平静を保とうとしていた。
そして、その焦燥は、猫の姿を目にした瞬間、凪いだ。
はっきりと映ったその姿。
頬へそっと温もりが宿った。
(澄……)
待っていたわけじゃない。
(本当に………)
もうこの世には、存在していないと思っていたから。
話を聞いた時でさえ、自分には彼女を探す資格などないと思っていた。
そんな自分の愚かさは、彼女の存在によって、優しく打ち砕いていく。。
(猫になっても、変わらないね)
美しく、凛とした佇まい。
まっすぐな瞳。
自分の瞳とは対照的な色をした毛並み。
今すぐにでも駆け寄りたい。
そんなことは許されない。
わかっている。
この世界への干渉は、瀬梛の記憶が終わってからでないと、いけない。
それより前に手を加えれば、記憶の改ざんとなってしまう。
そうなれば、脳神経は耐えられない。
できなくはない。
ただ、それは禁忌だ。
相応の代償も伴う。
(今回の目的でもないしね)
僕は、その時が来るまで、ただ彼女を見つめ続けた。
今この時を、一つ残らず目に焼き付けるように。
さらに二人の会話は進み、不意に瀬梛の焦った声が響く。
「え、ちょっと待って、ってことは、またあの引っ張られるやつやるの?!」
(引っ張られるやつ?)
疑問を抱き、瀬梛へ視線を向けた。
すると、瞬く間に彼女の姿は消え、気配も遠のいていく。
(ここまでなんだね)
瀬梛の声が、微かに届く。
「想羅さん…!聞こえているかわからないですけど、あとはお願いします……!!!」
思わず込み上げそうになった笑みを胸の奥へ押し込み、澄へ視線を向けた。
残された澄は、残念そうに首を垂れた。
『行ってしまったのね。どこまで聞こえていたのかしら……大事なところまで話せなかったわ』
僕は感覚の隅々まで意識を研ぎ澄ませ、気取られないよう逆探知を発動させる。
糸のように細い光が、ゆっくりと澄へ伸びていく。
その光には、気配を覆い隠す魔法も重ねてある。
こちらに気づく様子は、ない。
『万のことは知っていたみたいだし……』
澄は俯いたまま、ぽつりと零す。
『万……元気かしら。とても、会いたいわ』
(っ…)
その一言だけで、保っていたものすべてが崩れそうになる。
今すぐ、抱きしめたい。
会いたかったと、伝えたい。
守れなかったことを、謝りたい。
一生許してくれなくていい——
そばに、いたい。
抑え込んでいた想いが、止めどなく溢れてくる。
(…相変わらず、僕を責めないんだね)
聞こえてくるのは、想い人への焦がれと、僕を案じる気持ち。
そこに恨みも、怒りもない。
今も変わらず、愛ばかりが満ちていた。
僕は生まれて初めて、心の声が聞こえてよかったと思った。
(何が何でも、君を、見つけ出さないとね)
揺らぎかけた意識を繋ぎ止め、逆探知へさらに力を注いだ。
光の糸が、彼女の身体に辿り着き、包み込む。
来た方角に戻っていく彼女のから、気づかれた様子はない。
(上手くいった…あとは、戻るだけ…)
戻ろうとした意識が、ふと留まる。
(三秒だけ…)
どうしても、もう少し、ほんの少しだけ、彼女を見ていたかった。
(一、二……三)
三を数え終えると、僕は、離れがたい感覚を払いのけ、意識を引っ張り上げた。
「万!」
焦った表情で、時雨がしゃがみこむ。
「…しーくん?あれ、僕、遅刻しちゃった?」
時雨は、僕の両肩に手を置き、冷や汗を浮かべていた。
「あと十秒で、三十分だったんだよ」
凩が、困ったように肩をすくめる。
「時雨が、ラスト三十秒で我慢できなくなってきてたんだよね~」
焔も笑っていたが、その表情には安堵が滲んでいた。
何も言わなくても、わかってしまう。
聞こえてくる心の声に、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
心の底から安心し、気が抜けた様子の時雨へ、勢いよく抱き着いた。
「っわ」
驚きながらも、時雨はその身体を受け止める。
「みんな、本当にありがとう…!」
今もなお、神気は減り続けている。
不安がないと言えば、嘘になる。
けれど、たとえ窮地に立たされても、どうにかなる。
どうにかしてみせる——
そう強く決意していた。
(それに…みんながいれば、何とかなる気しかしない)
彼女が去ってから、百二十年。
突如として差し込んだ希望は、想羅の笑顔を少しずつ取り戻していた。




