わかいの、あと。
私は、しばらく想羅から目が離せなかった。
不意を突かれた――ただ、それだけのことだった。
けれどその沈黙は、傍から見れば、ひどく間の抜けたものか、あるいは見惚れているように見えたかもしれない。
「……ゴホンッ」
右からの咳払いに、はっと現実へ引き戻される。
視線を向けると、焔がにやにやとこちらを見ていた。
気まずさをごまかすように、頭の端に引っかかっていた疑問をそのまま口にする。
「えっと……でも、どうして想羅さんを“闇落ち”させるのに、私が関係あるんですか?」
「今回の本命が僕だったからですよ。その過程で、万も堕ちてくれたらラッキー――くらいに考えてたんでしょう、きっと」
「えぇ……?」
返ってくる言葉は、どれも予想の斜め上をいく。
「時雨は、よくも悪くも隔離されていたからね。封印が緩んだ途端、抑えが利かなくなったんだよ」
焔はケロッと笑っていたが、その目の奥には、わずかに影が差していた。
「とはいえ、魔王もやりたい放題というわけではありません。今代の魔王はやんちゃが過ぎて、普段は封印されていますし……呪いをかけるにも、相当な魔力を消耗するはずです。本来なら、封印が解けるまで、まだ時間があったはずなんですが――」
言葉は、そこで途切れる。
時雨はわずかに俯き、眉をひそめていた。
「……神と神妃が出会うとき、縁が結ばれる反動で世界に歪みが生じます。その瞬間、封印も一時的に緩んだんでしょう」
(それは……どうしようもないよね)
私は心の中で小さく頷く。
「ということは、時雨さんを闇落ちさせるのに、私の存在が必要だったってことですか?」
このときの私は、自分が彼にとってどれほどの影響力を持っているのか、まだ分かっていなかった。
「……」
沈黙が落ちる。
(……聞かないほうがよかったかも)
私はそっと様子を窺う。
焔も想羅も、同じように時雨を見つめていた。
そして――
「……それは、」
(それは……)
息をひそめて、続きを待つ。
「ま、魔王が“神妃”を誘拐して、神を闇堕ちさせるのが趣味なんです」
珍しく言葉を詰まらせる彼に、
「悪趣味ですね」
間髪入れず、言い放った。
「ほんとだよね~」
そう言った焔へ視線をやると、頬杖をついたままニヤニヤしている。
なぜかいたたまれなくなり、そのまま想羅へ視線を移すと、すっと目を逸らされた。
「けどまあ、しばらくは魔王も動けないでしょ。翠ちゃんも、少しは安心していいよ。時雨の守護もついてるみたいだし」
パン、と手を合わせて焔が言う。
「はい……」
(守護がついてるかまで分かるんだ……)
感心していると、自然と皆の視線が想羅へ向いた。
当の本人は、肩身が狭そうに身を縮めている。
そのとき――
想羅の右手が、私の目の前まで伸びてきた。
そして白い紙をひとつ残して、すっと引っ込む。
視線で促されるように、それを手に取る。
“ごめんなさい”
丸みのある、やわらかな字だった。
顔を上げると、想羅はまっすぐこちらを見ていた。
「……許してほしいとは思ってない。でも、怖い思いも、苦しい思いもさせてしまって――本当に、すみませんでした」
そう言って、深く頭を下げる。
「え……い、いえ。想羅さんが無事で、よかったです」
それが、素直な気持ちだった。
「……」
空気が静まり返る。
(え?私、何か変なこと言った……?)
「しーくん、この子……ちょっと危ないかも」
想羅がぼそりと呟く。
「……」
何とも言えない顔で、時雨は彼を見上げた。
「はははっ!」
やがて視線を落とし、目を閉じたまま無言で首を振る。
その様子に、焔が堪えきれず笑い出した。
正直、自覚はある。
だから何も言い返せず、私は苦笑するしかなかった。
(直そうと思って、いろいろ試してみたんだけどな~)
対人系の本を読み漁ったり、格闘技を始めてみたり、とにかく調べまくったり……
けれど、あまり成果は上がらなかったのだ。
「なんか、すみません」
不甲斐なさに、ぽろっと一言。
「別に、謝らなくても――それと、ありがとう。僕が言うのも変だけど、瀬梛さんに大事なくてよかったよ」
「あはは…ありがとうございます。改めて、これからよろしくお願いします」
軽く会釈をして、再び彼の顔を見る。
ほんの少し、口元がほころんでいた。
「こちらこそ、よろしく」
一拍置いて、
「それと、僕、敬語使わないから、君も使わなくていいよ」
「わかりまし、じゃなくて、わかったよ」
言葉にしてみると、なんだか少し照れくさいものだ。
けれど、張り詰めていたものがふっと解けて、そっと胸をなでおろした。
「あ!そういえば、想羅さんに聞きたいことがあるんだけど、」
一度誘拐されたからか、彼との距離感に遠慮がないことに、自分でも驚く。
これも、神の作用なのかと疑ってしまうほどだ。
「何?」
(ずっと気になってたんだけど)
「想羅さんって…心、読めたりする?」
「なんで、そう思うの?」
(なんで…これといった決定打はないけれど、)
「ただなんとなくなんだけど、話してた時に、違和感があったというか、私が言おうとしたことに先回りされたような感じがして…」
(やっぱり気のせい、かな?)
応えているうちに、考えすぎな気がして、段々と声が小さくなっていった。
「……案外、鋭いんだね、そうだよ。僕は、他の人の考えが聞こえてくるんだ」
“案外”は、言わなくても良くない?と思いつつも、話を進める。
(というか、聞こえてくる?)
「ずっと、みんなの心の声が聞こえてくるってこと?」
「うん、同じ空間にいればね。ドアとか壁を挟むと聞こえないんだけど」
その話をしている間の彼は、どこかうんざりしたような、それでいて寂しげな横顔をしていたように感じた。
「それは…善し悪しが極端そうだね。教えてくれてありがとう」
「…どういたしまして」
少し間が開いた、想羅。
お礼を言った翠の笑顔が、ある人と重なって見えたからだ。
それもあってか、久しぶりに心から笑みがこぼれたような気がした。




