わかいと、ぜんしん。
少しずつ、真っ暗な世界から意識が浮かび上がっていく。
ひんやりとした空気が肌を撫で、肺いっぱいに澄んだ空気を吸い込むと、瞼がゆっくり開いた。
(寝ちゃってたんだ)
目に飛び込んできたのは、柔らかな日差しと揺れるカーテン。
どこからか微かに花の香りが漂い、心地よい温もりが部屋に満ちていた。
しばらくぼんやりしてから時計を探したが、どこにも見当たらない。
ふいに吹き込んだ風に誘われ、窓の外を見やる。
空は明るく、時間はそれほど経っていないようだった。
私は両手をついて、そっと起き上がる。
「あれ……?」
信じられないほど、身体が軽くなっている。
(これも、守護パワーのおかげかな)
何気なく拳を握り、ゆっくりと緩める。
指の感覚を確かめた後、ベッドに手をついて立ち上がった。
手を放してみても、意識ははっきりしたままだ。
(これなら動いても大丈夫そうだね)
思わず口元がほころび、胸の奥に明るい気持ちが広がった。
両腕を目一杯伸ばしていると、ベッド脇の机が目につく。
寝る前にはなかった桶とタオルが置いてある。
水面にそっと指を浸すと、チャプンと音が立ち、心地よい温もりが指先を包んだ。
(あったかい)
櫛と手鏡も並べられていて、胸の奥がむず痒くなる。
(気が利くを通り越してるよね……)
ちょっぴり悔しい気持ちを胸に、口元に力が入ったが、すぐに笑みがこぼれた。
「でも、まぁいいか」
ありがたく使わせてもらおう。
相手は神だ。
凡人の私が、敵うはずもない。
ぬるま湯にもう片方の手を浸し、心を整える。
身支度を終えて部屋を出ると、柔らかな木の香りと廊下を照らす午後の光が迎えてくれた。
(時雨さん、どこだろう)
少し緊張しながらも胸の奥に高鳴る気持ちを抱え、私はゆっくりと階段を降り始めた。
「……やっぱ…、……しか……」
半分下ったところで、断片的な声が、ぼんやりと耳に届く。
内容は聞き取れず、ただ誰かが話しているという雰囲気だけが伝わる。
(焔さんたちかな?)
階段を降りるごとに、声は少しずつクリアになっていく。
聞いても問題ないかわからず、最後の一段で足を止め、壁に手をついた。
そっと影から、頭を出してみる。
すると、一つのテーブルを三人で囲んで座っている姿が目に入った。
(仲いいんだな)
微笑ましく思って、頬が緩む。
少し漏れた声に、時雨が気づいて目線が交わった。
「起きたんですね」
慈しむような眼差しに、目尻が熱くなって、壁に添えていた手をぎゅっと握る。
「えっと、ありがとうございました」
左右に揺れ動く視界で、彼がこちらに向かって歩いてくるのを確認しながら、階段脇の草に視線を集中させた。
(ど、どうしよう)
予想外のポンコツさにつられるように頭のねじが外れていくようだ。
気配がすぐそばまで来て、耳の熱は最高潮に達している。
間を置いている彼と、ずっと斜め下を凝視している私。
(初恋でも、もっとスムーズだよ…)
思考を巡らせては、迷宮入りを繰り返す。
進まない時間を断ち切ったのは彼だった。
服の擦れる音が、優しく鼓膜を撫でたと同時に、彼が視界に入ってきた。
「っ!」
驚いて肩がびくついてしまう。
彼は反応に驚いたのか、目を見開いている。
「…まだ体調が」
(違うんです~!!)
「時雨~翠ちゃん病み上がりなんだし、とりあえず座ってもらったら~?」
無我夢中で目を瞑った途端、座ったままの焔が発した声が響いた。
その言葉に彼が振り返り、噴火寸前だった熱が、引いていく。
「あ、あぁ…」
もう一度こちらの様子を伺った彼は、腑に落ちたような表情で一息。
「すみません。気が利かなくて…休めましたか?」
「お陰様で、すごく元気です。机の上のものも、助かりました。ありがとうございます」
何とか正常運転に戻せたことに、緊張が解ける。
招かれるまま、椅子に腰かけた。
「?」
視線を感じて、その元を探す―――
バチっと目が合ったのは、想羅だった。
晴天の空のように澄み渡る瞳。
浅瀬の海のように心を和ませる青。
時雨の髪色と少し似ているが、どこか心をほどく穏やかさを帯びている。
(結局私は、想羅さんに嫌われてるのかな?そんなことより、想羅さんはもう大丈夫なのかな?)
「……」
どう接したら良いのか…と、考えていると弾むような声色が聞こえてきた。
「翠ちゃん!元気になったみたいで、良かったよ」
ニカっと笑った焔に、思わず口元がほころぶ。
「助けていただき、ありがとうございました」
「気にしないで、それに俺は、時雨の補欠だから」
そんなことはないと、返したかったが、キリがなさそうなので笑って見せた。
「…ところで、時雨」
「なんだ」
私に向けられていた視線が、彼に移る。
「今回はどうするんだ?」
「そうだな……、話しておこうとは思ってるが、いいか?」
「なんで俺に許可取るんだよ」
「なんとなく……気分的に」
ニコニコな焔とは反して、どこか気まずそうな彼。
「万も、いいか?」
想羅に許可を取り続ける時雨に、“おいおい”と突っ込みを入れたそうな焔。
その表情は、普段の彼から見るに希少そうだ。
「僕にこそ、許可はいらないよ」
耳に届いた声は、宵の帳にそっと忍び込むような気配をのせていた。
絡めとるような怪しげな声が、記憶を呼び覚まし、私は一瞬、息をのむ。
だが今は、その声の奥に、澄んだ水面のような透明感が宿っていて、すぐに鼻から息が抜けた。
「そうか、ありがとう」
「…」
そっぽを向いた想羅に、キョトンとした時雨だったが、同時にふっと笑みがこぼれていた。
(もしかして…ツンデレ?)
「…!」
鋭い視線が、私を刺した。
(……睨まれてる!?)
顔に出ていたかもと不安になりながら、ポーカーフェイス維持に努める。
「翠さん」
「はっはい!」
表情筋に気を取られていて、必要以上に声を張ってしまった。
「今回の件についてですが、」
(スルーしちゃう感じ?恥ずかしいから誰か拾って…)
救済の祈りは届くはずもなく、そのまま彼の話に耳を傾ける。
「魔王が原因で起こったと断言しても問題なさそうです」
「まおう…」
ぼそっと呟く。
一瞬、クエスチョンマークが浮かんだが、神様がいるなら魔王がいても違和感ないな、と腑に落ちてしまった。
「…魔王っていうと、ラスボスみたいな響きですね」
考えた末に出た言葉が、あまりにも杜撰で、テーブルの下にもぐってしまいたい衝動にかられた。
「確かにラスボスみたいな感じですね。ただ、倒されることがないのがイメージと違うかもしれません。魔王は、神に対抗できる唯一の存在で、いわば世界の均等を保つために必要な存在です。神を苦しめる……それが役割みたいな感じなので、仕方ないのですが、そこがまた厄介なものです」
時雨が、淡々と説明してくれる。
「なので、ほぼ無敵の神である万に、呪いをかけ……神気を瀕死状態まで消耗させ、闇落ちさせようとしたと、考えられます」
私は、微かに息を詰める。
「え、想羅さん……体調は大丈夫ですか?」
揺れる空気に誘われるように、声がこぼれる。
想羅の眉がわずかに跳ね、視線がこちらに揺れた。
わずかな戸惑いがきらめく瞳――
「大丈夫だよ…」と、彼は囁いた。
「それならよかったです」
ほっとした私に、目を細めた彼から、“ありがとう”と聞こえてきたような気がした。




