からまる、ふそく。
「え―――」
(……神妃)
心の奥に、ずっと燻っていた違和感。
願うように感じていた、説明のつかない感情。
それが、ようやく輪郭を持った。
まるで、ずっと求めていた答えに辿り着いたかのように――しっくりきた。
驚きよりも先に、納得が、胸を満たしていく。
(ああ、きっと私は……)
この瞬間を、どこかで望んでいたんだ。
しばし、時間に閉じ込められる。
珍しく、居心地の悪さを隠しきれない様子で、彼はぽつりと続けた。
「もちろん、断っていただいても構いません」
「え……そうなんですか?」
意外すぎる言葉に、思わず声が漏れる。
「はい。神妃になり得る存在というだけで、必ずその役目を引き受ける必要はありません。神よりも簡単に放棄することもできます」
淡々とした口調の奥に、確かな真剣さが宿っていた。
「神妃になること自体は簡単です。しかし、それで背負うものは、決して単純ではありません。
――文字通り、神の妃です。神と同じ立場に立つということ、そして神の弱点として、今回のように危険な目にあったり、命を狙われたりと、背負うものの方が多くなってしまいます」
語られる現実に、私は言葉を失ったまま、彼のまなざしに見入っていた。
「それに……神妃となれば、それは翠さんの世界で言う、結婚と同義です」
彼の声が少しだけ低くなる。
「ただし、離婚、別れるという概念はありません。魂は強く結びつき、どちらか一方が命を落とせば、もう片方もまた――。離れていても互いを感じ取り、苦しみも、喜びも、すべてが共有されるようになります」
信じがたいことばかりだ。
それでも、彼の目を見るだけで、すべてが真実なのだとわからされてしまう。
「運命……共同体、ですね」
口にしてみて、その重さが胸にのしかかる。
簡単には頷けない。あまりに大きな決断。
それは、私ひとりの答えが、世界という単位にまで影響を与えてしまうことを意味していた。
(どうすれば……)
思考が絡まったそのとき、ふと彼の声がやわらかく響いた。
「だから、断っても大丈夫ですよ」
あまりにも優しすぎる声音に、思わず眉間に皺が寄った。
百年―――
ふいに、その年数が頭に浮かんだ。
ここ最近で、もっとも耳にした年月だ。
私は、そんなにも長い歳月を、一人で耐え抜けるのだろうか。
思考の深奥で、少しずつ見えてくる“答え”。
けれど、それが明瞭になればなるほど、不安も比例して押し寄せてくる。
私は、改めて彼を見つめた。
焔も、想羅も、そして時雨さえも――確かにビジュアルは神秘的ではある。
だが、不思議と“普通の人間”のようにも思えてしまう。
それはきっと、私が神妃としての資質を持っているせいかもしれない。
このままでは、いつまでも現実味を持てず、まるで他人事のようにこの状況を捉えてしまいそうだ。
やはり、今すぐに決断を下すことはできない。
「すぐに結論を出す必要はありません。期限はありませんし、僕は、いつまででも待てます」
時雨の声は、風が静かに葉を揺らすように優しい。
「こうした方がいいとか、荷が重いとか、そういうことは一切気にせず、翠さんがしたいようにしてください」
霧がかっていた視界が、一気に晴れ渡っていく。
(そっか、答えはもう出ているんだ)
けれど、覚悟はまだ、私の背中を押しきれていない。
それを薙ぎ払おうと瞳を閉じると、小鳥のさえずりが耳に運ばれてくる。
少しの間を開けて、瞼を開いた私の瞳に迷いはなく、ただひとつ。
彼のそばにいたい――
その想いだけが、明確に揺らいでいた。
「話してくれて、ありがとうございます。少し考えさせてください。お待たせしてしまうことになるのですが……」
ここでズバッと決断できたらと、歯切れの悪さに、自責の念が浮かぶ。
「全然大丈夫ですよ」
吹っ切れたように清々しい彼。
私は、「ありがとうございます」と返した。
彼が立ち上がるのを見届けて、私もなんとか身体を起こす。
太ももに力を入れ、柱に身を預けながら――
(歩ける気はしないけれど、せめて……)
言いかけたそのとき、不意に視界が揺れた。
いや、違う。揺れたのは、私の身体の方だった。
グラッと傾いた感覚と同時に、ふわりと漂ってきたのは、雨上がりの森のような香り。
湿った土と若葉の匂い、遠くに咲く花の記憶が微かに混ざり合って、私の意識をやわらかく包み込む。
「瞬間移動で帰ります」
その声で、私はようやく気がついた。
自分が、彼の腕の中にいることに。
(お姫様抱っこ、されてる……)
恥ずかしさが、後から、遅れて、泡立つように胸の奥から湧き上がってきた。
けれど彼の中では、何も特別なことなど起きていないほどの気遣いなのだろうと、その穏やかさが物語っている。
そう思えば、思考の波が、ようやく彼の言葉に追いついた。
「え、瞬間移動ですか?」
「そうです」
もう、何でもありである。
思い返せば、焔たちのときもそうだったのだろう。
「できないこと、ないんじゃないですか?」
苦笑まじりにそう言うと、
「はは、万能ではないですけど……まあ、大抵のことは何とかできますね」
と、彼も同じように笑ったが、すぐに、表情を引き締めた。
「帰る前に、お伝えしておきたいことがあります」
「?…はい」
「万のこと、不快に感じられたと思いますし、今回の件は僕も到底許せません。
でも――彼は、本来こんなことはしないんです。
確かに、他人に対してあたりが強くて、距離感も極端です。けど、誰かを傷つけるような人じゃない。むしろ、その逆で……」
一度、言葉を切る。
彼の声には、どこか悔しさのようなものが滲んでいた。
「帰ってから調べますが……あの黒い靄は、おそらく“呪い”の類ではないかと、考えています」
「呪い、ですか……」
神様に呪いをかけられるなんて、なんてスケールだろう。
私の知っている“神”たちは、チート性能の塊みたいな存在で、ほぼ無敵だと思っていた。
(神を呪える存在って、もうそれラスボスじゃないの?)
「ええ。もちろん呪いだからといって、許されることではありません。
もし翠さんが関わりたくないと感じるのであれば、そのお気持ちを尊重します。
元々、無理に関わるようなことでもないので……どうか気になさらないでください」
少し視線を伏せて、言葉を続けた。
「……でも、万は本当に、そんなやつじゃないんです。それだけは、知っていてください」
伏せられた瞼が、かすかに震える。
私はそっと目を覚ましたときのことを思い返す。
最初はただ、怖かった。
何が起きたのかも分からず、不安と恐怖に押しつぶされそうだった。
“ここで終わるのか”――そんなふうに、諦めかけていた。
しかし、想羅と話している間にかその恐怖は薄らいでいた。
それは、彼が纏っていたどこか儚げな空気のせいかもしれない。
あるいは――時折見せる、寂しそうな横顔に気づいてしまったからか。
(まぁ、怖かったのは確かだけどね)
でも彼が言ったように、本当は心の温かい人だということ――それは、なんとなく感じていた。
ふっと、自然に笑みがこぼれる。
「時雨さん、私にできることがあれば、お手伝いさせてください。
大したことはできませんが、関わりたくないなんて、思ったこともありません。
何より、想羅さんが時雨さんを大切に想っているのは、私にも伝わってきましたから。だから、許すも何も、もう大丈夫です。そんなに気負わないでください」
彼は眉を下げ、どこか照れたように困った顔を浮かべる。
「…ありがとうございます」
笑みが、ふっとこぼれる。
やさしい光がその横顔を照らして、胸の奥がふわりと高鳴った。
(なんでだろう。どうしてこんなに、何気ない仕草が、輝いて見えるの……)
張り詰めていた空気が解けて、気が緩んだ瞬間――羞恥心が勢いよく顔を出してきた。
「あ、あの……この、お姫様抱っこ状態で恐縮なんですが。
……この姿勢って、必要、あるんでしょうか?」
二度のお姫様抱っこに、こっちの心臓は端っこで限界を迎えていた。
「僕に触れてないと、翠さんだけ置いていくことになりますから。
それに、さっきまで立つのもやっとだったようですし」
「ね?」と、悪戯っぽく首をかしげたその仕草に、謎の説得力を感じてしまう。
「は、はい……」
実際、立っているのがやっとだったのは事実だ。
(でも、お姫様抱っこ以外の選択肢はなかったのかな……)
むしろ、肩に担いでもらった方が羞恥は薄れたかもしれない。
観念するほかないようだ。
私は大人しく身を委ねる。
(というか、これ好きにならないほうが難しくない?)
耐えきれず、そっと手で顔を覆った。
指の隙間から、わずかに彼の顔が見える。
その視線に胸がざわつき、息が浅くなっていく。
「最後に、守護をかけさせてください」
「え?守護、ですか?」
新しい単語に、手をぱっと横によける。
「お守り探知機のようなものです。
例えば、翠さんに危険が迫ったとき、相手を弾き飛ばしたり、僕の元に瞬間移動させたり、その場面に応じて脅威から遠ざけてくれます。 身体に変化はありませんから、ご安心ください」
「それはまた、すごいものですね」
思わず苦笑いがこぼれ、視界が白一面になった。
徐々に、ゆっくりと色が戻り始め、はっきりと視界が蘇った。
「これで完了です」
彼の声が静かに響いた。
「ありがとうございます」
私は、いつも与えられてばかりだ。
どうすれば、少しでも役に立てるのだろう。
神である彼の力の前で、私にできることは―――。
それでも、何かできるなら。
私は―――
「こちらこそ。では、今度こそ帰りましょう」
決断の重みを少しだけ首に預け、私は彼の首に手を回す。
「お願いします」
少しの間が過ぎて、彼の手に力が込められた。
風がそっと吹き抜け、私はぎゅっと目をつむる。
コツン――
目を開けると、見慣れた店内が広がっていた。
久しぶりのはずなのに、どこか懐かしくて、胸が静かに満たされていく。




