よかんと、いっち。
(時雨さん…)
確かな彼の名を呼ぶ声と駆ける背中が、張りつめていた身体を緩める。
涙も乾ききらぬ瞳に映ったのは、歩みを進めようとする時雨と、その後ろに静かに佇む焔だった。
私の状態を見て、顔をしかめる彼と目が合う。
「しーくん!会いたかったよー!」
そのままの勢いで、抱き着いた。
抱き着かれた本人は、石像のように静止している。
「…どうして、万」
棘のように鋭い口調で言った彼に、ショックを受けたのか、想羅は素早く時雨から離れた。
「だって、こうでもしないと、僕に会いに来てくれないんだもん……」
拗ねたように、視線をそらしている。
(まさか、私が攫われたのはそういう理由なの?)
予想よりも可愛らしい理由に、拍子抜けする。
そんなことで――
普通なら、そう思ってしまうところだけれど、想羅も百年間、時雨と会えていなかったのだと、あっけなく点が線でつながった。
時間間隔がどうであれ、決して短い時間ではない。
「……すまない」
「さすがに、神妃のためなら来てくれると思ったんだ」
「…」
時雨は、複雑な面持ちで想羅から視線を外した。
すると、焔が声を発した。
「万、時雨がどういう状況だったか、お前も知ってるだろ」
「っ、わかってるよ!けど!自分でもわからないんだよ、なんでこうなったのか。ただ、神妃のせいでしーくんと会えなくなって…元々そんなに会えてはなかったけど、百年も会えなかったんだよ。
…神妃なんて、ずっと一緒にいてくれる保証なんてないのに、神妃なんて、いなくなればいいんだ」
下を向いてそう言った想羅の身体から、黒い靄のようなものが出ている。
肩が揺れ、拳は強く握られていた。
聞くに堪えない悲痛な叫びに、心を内側からえぐられているような感覚に陥る。
「万…、ごめん。だけど、試練を受けることを選んだのは、僕だ。恨むなら僕を恨んでくれ」
辛そうに眉間に皺をよせながら、想羅に歩み寄り、涙を拭う。
「それに、このやり方は万らしくない。何か…あったのか?」
そっと想羅の頬を、ふにっと包み込む。
刹那、時雨の手のぬくもりが彼に伝わった瞬間――
黒い靄はふっと消え、空気に溶けた。
再び時雨に向けられた瞳は、先ほどまでの淀みは消え、透き通る青緑に戻っていた。
「僕にもわからないんだ…気づいたときには、どんな手段を使ってでもしーくんに会いたい、苦しみの元凶である神妃という存在をひたすら憎んで恨んでた」
すべての感情を吐き終えたかのように、彼は肩を落とし、拳も力なく垂れた。
時雨は、しばし想羅を見つめ続け、振り返り、焔に想羅を託す。
「焔、ひとまず万を僕のお店に連れて行ってくれないか?」
「わかった」
焔は、速足で想羅の元へ行き、力なく立ち尽くす彼を支える。
「万、時雨がお店においでってさ」
想羅の瞳に、光が戻る。
「いいの?」
いつも通りの幼馴染に、ほっとしたように答える。
「あぁ、僕もすぐ行くから少し待っていてくれ」
その言葉に、顔を伏せる想羅。
一呼吸おいて、眉間に皺を寄せながら声を発した。
「ごめんね。ありがとう」
そうして歩き出した焔たちの足が、数歩のところで止まり、時雨に向き直る。
真剣な面持ちの焔は、迷ったように間を開け、意を決したように口を開いた。
「時雨…、そろそろ話してもいいと思うぞ。お前もなんとなく感じてるんだろう?このままじゃ、翠ちゃんが危険すぎる」
「…あぁ、わかってるよ。話してから戻るよ」
力なく震える声を励ますように、焔が続ける。
「大丈夫さ、きっと向き合ってくれる」
時雨の肩をポンポンと二回。
そして、空気が揺らぎ、二人の姿は静かにその場から消えていった。
彼はすぐさま、傍観者だった私のもとへ駆けてきた。
その姿に胸がじんわりと熱くなる。
まるで、久しぶりに帰省した夜、玄関の明かりが迎えてくれたときのような――
穏やかで、どこか懐かしい安心感。
「翠さん…!」
素早く、ガラスに触れるように優しく、拘束から解放してくれた。
壊れ物に触れるような手つきで、私の身体をゆっくりと起こす。
眉間に深い皺が寄っている彼は、自分のことのように痛みをなぞっているみたいだった。
安心させたいところだが、張り詰めていた身体の反動なのか、支えを失えば、座っていることさえおぼつかない。
「僕に寄りかかっていてください」
「ありがとうございます」
そっと、彼の腕に身を任せる。
お礼の言葉は、かすれてしまったが、前回とは違って、話せるようでほっとする。
「…」
「……」
見守るしかなかった私は、口を挟む隙も見つけられずにいた。
鳥のさえずりだけが、響き続ける最中、抱かれている腕に力がこもる。
「すみません、僕が怖気づいてしまっていたばっかりに、あなたを危険な目に合わせてしまいました」
「怖気づく…?」
「本当は、もっと早く言わないといけなかったのに、あなたに拒絶されるのが怖くて…」
今でも言うのが怖い――
そう体現するかのように、抱いている手に力が入っていく。
「無理に言わなくても、大丈夫ですよ?」
そういう問題ではないことは、なんとなくわかっている。
けれど、目の前で苦境の表情をされてしまうと、そう言わずにはいられなかった。
肩に感じていた、力みが引いていく。
「ありがとうございます」
彼は整えるように、瞼を閉じた。
そして、開かれた瞳は迷いがなく真っ直ぐ私を見据える。
「翠さん、あなたの存在は、僕の運命――神妃なんです」
「え、」
ぼそっと出た声は、もはやただの音だった。
動揺、混乱、とにかく驚きの嵐に襲われる。
同時に、すべての線が繋がって、一本になった感覚を鮮明に感じた。
「私が…神妃?」
「はい、間違いありません」
その話を聞いたとき、そうだったらいいなと思っている自分を、遠ざけていたように思う。
そうかもしれないと思ったときは、自分の願望なのだと、切り捨てていた。
けれどそれは、まだ形になっていない曖昧な感情で、混乱にまぎれた一片。
「え、本当に?」
加速する鼓動が、耳を支配する。
「神妃の雫は、神妃以外が身につけると雫自体に拒絶され、激しい苦痛に見舞われます。翠さんがそれを身につけていられること――それが何よりの証です」
「そう、なんですね……」
私は視線を落とし、胸元を見つめた。
非現実的なことが起こりすぎて、このままでは、思考を止める癖がついてしまいそうだ。
(文面通りに受け取るしか、ない、か……)
とにかく、理解よりも受け入れることに集中する。
事実として認めるしかない。
それでも胸の奥では、どこかで納得している自分がいる。
それでも、まだ飲み込めないのは――
あまりにも、ことが大きすぎるからだ。
「本来であれば、神妃の雫は、あなたに悪意を持つ者を拒み、護ります。そして、僕にその居場所を知らせてくれる。……ですが、それは、あなたが“神妃になっていた”場合の話です」
(……チートアイテム)
重責を背負う存在だからこそ、それに見合った力があるのだろう。
「どうして、時雨さんは、ここに来られたんですか? 私は、“神妃になっていない”のに」
「それは、あなたと僕が出会ったことで――運命が、結ばれてしまったからです」
「……」
(そうはっきり言われると、さすがに恥ずかしい)
ロマンチックな響きに、羞恥心が肌を刺す。
現実味はない。
けれど、こんなふうに真っ直ぐに言われたら、否応なく意識してしまう。
「そ、その“運命が結ばれた”ことで、何か影響があるんですか?」
顔が熱い。
鼓動も鳴り響いて止まない。
なのに、沈黙が怖くて、必死に言葉を探して口に出した。
「はい。大きく分けて二つ、あります。
まずひとつ目――それは“痛みの共有”です。
翠さんが感じた苦痛は、外傷・内傷問わず、僕も同じだけ受けます。
そしてそれにより、大まかな居場所も感じ取ることができる。だから、ここにたどり着けました」
「おぉ……」
チートアイテムを超える、チートスキルに気が引けた。
「二つ目は、翠さんが僕に“触れられる”ことです。
見習いではありますが、神である僕は、普通の人間――特に異世界の存在とは、物理的にも精神的にも交わることはできません。
触れるどころか、認識すらされない。僕が歩いていても、そこに“いないもの”として通り過ぎられます。
けれど翠さんは、“神妃”の素質があるから、出会った瞬間から僕に触れられ、僕が“見えた”んです」
(……つまり、普通は神の世界に干渉できないはずだけど、私はできるってことね)
「それができるということは、つまり、僕のいる世界――“神人界”にも関われます。これは、僕が旅した世界すべてに通じます。
たとえ何かの拍子に異世界を認識できても、普通の人は白昼夢だと片付けてしまうけれど、翠さんは、違います。あなたは、どの世界でも“僕に触れる”ことができ、異世界にも到達できます」
「……すごい、効果ですね」
想像以上の話だった。
私は、流れ星がゆっくり軌道を描く天井を仰いだ。
(知恵熱でそう)
「翠さん」
名前を呼ばれるのは初めてではないのに、呼ばれた瞬間、世界の色が変わったように風が頬を撫でた。
どこか第三者だった私が、一瞬で“当事者”に引き戻される。
それほどに、真っ直ぐな瞳――
「は、はい」
自然と、背筋が伸びる感覚。
「僕の――神妃になってくれませんか」
その瞳には、覚悟という名の光が宿っていた。
曇りなく、真っ直ぐに、私を射抜いてきた。




