想神
「っ……」
(……痛い)
頭を殴られたような鈍い痛みが、意識の奥からじわじわと這い上がってくる。
倒れたときの激痛ほどではないが、霧の中で鈍く鳴り響く鐘の音のように、痛みが残響していた。
状況を把握しようと、身体を動かさずにそっと瞼を持ち上げる。
動かそうにも、腕を後ろで縛られ、布で口をふさがれている状況では厳しいだろう。
そして目に映ったのは、節の浮いた古い木の床。
その隙間から漏れるように、柔らかな陽の光が差し込んでいた。
ひとまず人の気配は感じられない。
できる限り見渡してみると、木造の空間が広がっていた。
(どこ、ここ…)
長い間、床に転がされていたのか、身体の節々が悲鳴を上げている。
こんな状況では、逃げようにも逃げれそうにない。
諦め半分に瞼を閉じた。
(もう、無理かも。ここで終わるなら、一思いにやってくれって、交渉でもしてみようか)
交渉の材料なんて何もないけど、懇願でも土下座でも、今なら何でもできる都強く感じた。
こんなどうしようもない状況だと、案外あっさり受け入れてしまうものなんだな――
天井を見上げながら、他人事のように、そんなことを思った。
ぽふん――
この場に似つかわしくない、軽やかな音が響いた。
(ぽふん……?)
音源と思われる方に目をやると、見知らぬ男がひとり立っていた。
差し込む光を浴びて、銀の髪が柔らかく煌めいている。
けれど、その輝きはどこかこの場にそぐわず、まるで現実の輪郭から浮かび上がる、幻のようだった。
虚ろな水の色を湛えた瞳は、こちらを捉えて離さず、此方を射抜くように見つめている。
その目に映るものが、本当にこちらなのかさえ疑わしい――
遠目でも、そんな空虚さが漂っていた。
沈黙が耳を締め付けるなか、男の足取りだけが異質だった。
空気をすり抜けるように歩み寄ってくるのに、足音はどこにもない。
そして視界の端に、ひっそりと靴の先が滑り込む。
衣擦れの音が、静かに耳をくすぐった。
「起きました?」
男は、こてんと頭を倒して覗き込んでくる。
返答する声はなく、沈黙が流れる。
はっきりと見える男の顔は、青年というよりも少年に近い雰囲気を持っていた。
完全な銀ではないその髪には、淡い青が滲んでいる。
高層の雲のように、どこか掴みどころのない色だ。
(怖い、けど、なんか気が抜ける…)
「あれ、思ったよりも怖がらないんだね」
面白くない、とでも言いたげな表情だ。
煽られているような空気感に、むっとなりながらも、無力な自分を隠すように、くりくりの目を睨みつけてみる。
「……ふふ、そんな目で見ても、ぜんぜん怖くないですよ~」
余裕しかないその態度に、焦りが湧いてきそうになったが、動揺すれば、変えられるものも変えられない。
息を吸って、噴火しかけた波を静める。
「しーくんが来るまでまだ時間がありそうだし、何しようか?…あ、動ける状態じゃないよね、ごめんごめん」
悪気のない謝罪が、静めた波を逆撫でする。
(こんな簡単に、挑発されるなんて)
動けないの状況が、かえって救いだったかもしれない。
そうでなければ、今頃何をやらかしていたことやら。
(そんなことよりも、この人は誰なんだろう…というかしーくん?)
敬称から推測するに、男性なのは間違いない。
私の知人で、"し"から始まる男性は一人だけだ。
「そういえば、僕の紹介がまだだったね。初めまして、僕は、想羅 万。想いを司る神で、しーくんとは幼馴染なんだ」
滑らかにそう言ってのけた青年は、同一人物とは思えないくらいに、朗らかに微笑んだ。
(神様、しかも幼馴染……)
突っ込みどころが多すぎるけど、今はそれどころじゃない。
時雨の幼馴染だとしたら、なおこの状況は謎だ。
彼を、呼び寄せたいみたいだが、回りくどすぎる。
何か害を及ぼそうとしているのか、それとも別の目的があるのか――
わかりようもないことばかりで、ゴールのない迷路に放り出された気分だ。
「君のことは知ってるよ。瀬梛…翠さん?」
「…」
もはや驚きはない。
「……僕のことは、適当に呼んでくれて大丈夫なので、あ、でも、苗字の方でお願いしますね~」
終始、にこにこしているが、その笑みは友好的どころか、不信感しか伝わってこない。
何をしたいのかさっぱりわからない。
しかし、今のところは危害を加えられそうにないようで、内心ほっとする。
(それにしても、やっぱり気になる…)
「なぜ、君を攫ったのか?」
驚愕のあまり、目が見開かれた。
私の思考と、嵌った音が、瞬時に意識を揺さぶる。
目を向けずにはいられなかった。
なんで――
「なんで、わかったのかって?」
発されていない声は、どこにも届いていないはずだ。
なぜ、わかるのか。
仮説は立てれど、信じがたいものばかり。
しかし、彼もまた神。
胸の奥が、言葉を追いかけるよりも早く凍りつく。
「まぁ、君に教える義理はないね」
淡々と、無表情で言い放った瞳は、一筋の光も受け付けないかのように淀んでいる。
やはり、相容れないらしい。
鼻で深呼吸を一回。
もういいや、と男から目を逸らした。
「これからどうなるかとか、興味ないわけ?」
(……)
「つまんないね…しーくんの神妃、って感じ。可愛げがないなあ」
逸らした先で睨まれ、空気が凍り付いたように痛い。
一瞬ビクッとした身体は、緊張から解放されることなく、強張ったまま固まる。
(しーくんの神妃って何のこと?)
せめてもの反抗心で、眉をひそめ、渾身の睨みを返す。
また彼の手のひらで回されるとガードを固めたが、予想外の反応が返ってきた。
「君、しーくんから何も聞いてないの?」
(何も聞いてないことはない、と思うけど)
話している感じからして、全てを聞いているとは言い難い。
「え、君はしーくんとの因果を——」
「万!」
ビクッ
突然のことに、二人して身をすくめた。
揺らぐ視界には、会いに行けなかった彼がぼんやりと映っている。
勢いよく振り返った想羅からは、今までの虚ろな雰囲気は一切ない。
「しーくん…!」
そして嬉しそうに、彼に駆け寄っていった。




