まとまらない、きょり。
廊下を抜け、螺旋階段を降りて外に出ると、長く延びる一本道のその果てに、ひときわ異彩を放つ門が見える。
門というより、金の糸で描かれた幻のような輪郭――
精緻な意匠が施され、まるで巨大な装飾品のようだ。
だが、装飾品にしてはあまりに大きく、重さを感じさせぬその佇まいは、そこに在ること自体が奇跡のように思える。
繊細で儚く、それでいて確かに立っている、不思議な門だった。
そして、出てきた方向を見た瞬間、目を奪われた。
見上げるほど壮麗な建物が、雲を押しのけるように、天へとのびている。
(……城?)
あまりの豪奢さに、言葉を失った。
もともと適応力には自信があるほうだが、ここまで来ると限界が近い。
頭の奥で、警告音のようなものが鳴り響いている。
(もう、なるようにしかならない。一旦考えるのはやめておこう)
「本当にすみません。もう少しの辛抱です」
まるで私の動揺を見透かしたかのように、彼は眉間に静かにしわを寄せた。
焔と話していたときの鋭さは消え、いつもの柔らかな声音が戻っている。
その変化に、わずかな戸惑いと距離を感じたが、それは不必要な感情だと切り捨てる。
現状、体調が悪いがため――
余裕のなさからきているものだ。
こんなに心配そうに様子を伺っている時雨に対して、心の距離を感じるなど不躾にもほどがある。
それに、彼のほうがよほど大変なはずだ。
私をずっと抱えて歩いているのに、足取りは変わらず、姿勢ひとつ崩れない。
神だから問題ないのかもしれないが、それでも、私の感覚では想像もつかない重労働だ。
捨て去った不安のかわりに、胸の奥にふわりと差し込む、陽だまりのような感情をそっと抱く。
そして小さく頷いた。
それを見た時雨の目が、ほっと緩み、わずかに細められた。
遠くに見えていた門が、徐々に近づいてきて、その大きさに再び息をのむ。
(空まで伸びてる?)
門の前まで来て、時雨が歩みを止めた。
近くで見ると、線の一つ一つが波打ったように輝いていて、この世のものとは思えないほどに美しいものだった。
吸い込まれるように見入っていると、彼が声を発した。
「この門をくぐれば、元の世界に帰れます。翠さんは、まだ耐性がないので身体への負荷がかかります。僕の結界で最小限に抑えますが…重ね重ね無理をさせてしまってすみません」
彼の表情が歪む。
その姿を見て、胸が締め付けられた。
そんなに苦しそうにしないで――
大丈夫だと伝わるように、首を横に振る。
「ありがとうございます…」と、消え入るような音だった。
(本当に、気にしなくていいのに…それにしても結界って、あの結界だよね?逆に何を持ち合わせてないんだろうか)
今まで見聞した現実は、不可能なことはないのではないかと信じてしまうほどに、非現実的だ。
「では、行きます」
その声と同時に、私たちのまわりで、柔らかな風が渦を巻くように舞い上がった。
風に乗って煌めく光の粒は、まるで夏夜の夢のよう。
ゆっくりとこちらに寄ってきた光は、肌に触れた瞬間、そっと溶けていった。
彼の話では、この光の粒は結界の一部で、すべてが身に纏われたとき、結界が完成するのだという。
最後の一粒が溶け込むと、瞬きの刹那、全身が柔らかく光を帯び、消えていった。
そして彼は、門へと歩き出す。
「怖ければ、目を閉じていてください。一瞬で着きますので」
優しい声色に、強張っていた身体から力が抜けた。
私は頷き、ぎゅっと瞼に力を入れる。
ビュンッという音が響き、爆風が身体を叩きつけるように吹き荒れた。
けれど、すぐに静寂が訪れ、静かに瞼を開ける。
少しずつ瞳孔が明るさに慣れていく――
目に映った景色は、不思議なほど見慣れた店内であった。
(本当に、戻ってこれた)
「ひとまず、ベッドへ運びますね」
コクリ――
依然として、身体のだるさは抜けない。
遠慮したい気持ちはあったが、今はその言葉に甘えるしかなかった。
厨房脇の階段を上がり、扉のない部屋へと入っていく。
ポフンと、布が優しく沈む――
私の身体は、そっとベッドへと下ろされた。
「お水を持ってきますので、少々お待ちください」
そう言って、彼は部屋を出ていった。
遠ざかっていく足音を聞きながら、私は天井を仰ぐ。
(実感、わかないな……)
あまりに突然で、しかも別世界のことばかり。
整理どころか、どこから処理していいかすら測り兼ねている。
けれど今は、力すら入らない体の回復が最優先だと思い直し、彼が戻ってくるまで目を閉じていた。
コツ…コツ…
足音がリズムよく近づいてきて、気配を感じる。
私は、そっと目を開く。
「お水、飲めそうですか?」
ベッド脇にかがみながら、ストローの挿さったコップを見せてくれる。
頷いたものの、どう飲もうか戸惑ってしまう。
(起き上がれるかな……)
苦笑いを浮かべていると、「ちょっと待ってくださいね」と彼が言い、人差し指で空中に弧を描く。
すると、コップに入っていた水が大きな雫となって、ふわりと口元までやってきた。
お手玉みたいに遊べそうな、ぷよぷよした見た目に、少し心が躍る。
そこに、彼がストローを挿す。
「どうぞ」
ストローがゆっくりと口元へ近づき、飲みやすい位置でぴたりと止まった。
(本当に、現実なのかな……ここは)
躊躇いながらも、そっとストローをくわえ、水をひと口。
……普通に飲めた――
もういいや、と思ったその瞬間。
ふわふわと宙に浮いていた雫は、元のコップへと戻っていき、ちゃぷん、と音を立てて収まった。
「作っておいた雑炊も温めたのですが、食欲はありますか?」
(そういえば、食事の途中だったような?)
倒れていた間、何も口にしていない、そう思った途端、お腹が元気よく鳴いた。
首を縦に振ると、彼はほっとしたように息を吐き、近くの机に置いてあったお盆から、お椀を手に取る。
(……いつの間に、置いたんだろう)
彼は確か、水しか持っていなかったはずなのに。
なんとなく腑に落ちないまま、眺めていると、お椀を持った彼の動きにあわせるように、雑炊の香りがふわりと鼻をかすめた。
「良かったです。起き上がれそうですか?」
その問いに、う〜んと小さく首を傾げる。
少し間を置いて、彼が言葉を継いだ。
「…では、少し失礼しますね」
お椀を戻すと、そのまま彼が近づいてくる。
驚きつつも、ただ見つめていると、視界がふっと暗くなる。
次の瞬間、グイッと引き上げられ、
ベッドの背にもたれるような体勢で、優しく支えられていた。
「問題なさそうですか?」
大丈夫だということと、お礼にコクリと二回。
それを聞いた彼は、近くにあった椅子を持ってきて、腰かけ、再びお椀を持った。
私はただ、その一連の動きを眺めていた。
ふとある考えが頭をよぎり、その光景に、思考が大慌てで走り出す。
そして、浮かんだ光景が現実になるまでそう時間はかからなかった。
彼が、スプーンを構え、「四十度くらいに冷ましているので、安心してください」と、すくった雑炊を口元に持ってきたのだ。
(ですよね~、いや、そうだよね!?私全然動けないもんね!そうなっちゃうよね、ごめんなさい!けれど、これはさすがに…)
心の中の私は、赤面して手で顔を覆っている。
その要因である当の彼は、「こうするのが、普通ですよね」とでも言いたげに平然としている。
世は普通だとしても、私にとっては普通ではない。
けれど、自分で食べようとしてこぼしてしまう方が、個人的には避けたい。
意を決して、ずっと差し出してくれているスプーンを口にふくんだ。
(一口で、お腹いっぱいかもしれない)
私は無心を極め、運ばれるままに食べていった。
味わう余裕など、微塵もなかったが、この状態でも食べやすいということは、最初からそう作ってくれていたのだろう。
少々残念に思いながら、自分の初心をひっぱたいた。
全てを食べ終え、力を振り絞って首を下げた。
(ごちそうさまでした)
「お粗末様でした。食べていただけて良かったです」
彼はゆっくりと近づいてきて、私を元の体制に戻してくれた。
「少量なので、問題ないと思いますが、気持ち悪くなったらこのベルを鳴らしてください。何か音をくれればすぐきますので」
枕元に置かれたベルは、レジの隣に置いてあったベルだった。
「遠慮せずしんどければ、眠ってくださいね」
そう言ってお盆を持ち、部屋を出ていった。
(はやく、回復しないと)
強く思いながらも、意識が段々遠のいていき、眠りについた。




