第2話 帰還した第一騎士団副団長
王都に、帰還の鐘が鳴った。城門の前には、人が集まっている。
歓声はある。だが、どこか抑えられている。
長い遠征だった。隣国からはじまった帝国との大きな戦争。
我が国は地理的に直接攻め込まれることはなかった。
しかし、その戦争は長く、気がつけば十年の歳月が過ぎていた。
戻ってきた者を迎える声は、喜びというより、安堵に近い。
――生きて、戻ったのだと。
ようやく戦争が終わる。
その列の中に、一際目立たない男がいた。
第一騎士団副団長。子爵家の三男に生まれ、
剣の腕と実務能力だけで地位を得た男。
短く整えられた黒髪。日焼けした肌。
鎧の隙間から覗く、いくつもの傷。
古いものと、新しいもの。
積み重ねた年月が、そのまま残っている。
顔立ちは整っているが、印象は薄い。
ただ――
視線はまっすぐで、大きな観衆の声にも反応はしない。
余計なものを見ていない目。
任務を王に報告するまでは、仕事だ。
「副団長」
隣の騎士が声をかける。
「ようやく、戻りましたね」
「……ああ」
短い返事。それ以上、言葉は続かない。
騎士は苦笑して、前を向いた。
「王都も、ずいぶん落ち着きました」
「そうか」
故郷から離れ、もう長く戻っていなかった。
親戚や両親に、興味がないわけではない。
だが――彼の思考は、そこには向かない。
心に残るのは、ただ一人。
あの人。
学園時代。
第一王女は、あまりにも遠い存在だった。
王子の妹。国の宝。
美しく、聡明で、朗らか。
同じ空間にいても、視線を交わすことすら憚られる高嶺の花。
彼女が薔薇病に倒れたと聞いたのは、遠征の話が国を巡った後だった。
――重い病だ。
――助からないかもしれない。
王子の声は、冷静さを装っていたが、震えを隠しきれていなかった。
彼は何も言わず、ただ遠征命令書に署名した。
逃げたのか。
現実から目を背けたかったのか。
もともと彼女から距離を置かなければならない。
この気持ちを遠ざけたかった。
だが、彼女の今を思えば、遠征に行くことは果たして正しいことなのか。
自分でも分からないまま。
石畳の感触だけが、あのころ、後ろ髪を引かれて王都を旅立ったときと同じだった。
長きにおける戦争終結の報告を終えたあと、ヴァルドは呼び止められた。
「久しぶりだな」
王子が、執務机の向こうで言う。
昔より、少しだけ静かな声。
「ご無沙汰しております」
ヴァルドは頭を下げる。
王子はしばらく、彼を見ていた。
「……戻れ」
唐突に言う。
ヴァルドは顔を上げる。
「どちらへ」
分かっていながら、確認する。
「北塔だ」
その一言で、時間が止まる。
北塔。
その場所の意味を、知らない者はいない。
知っていて、口にしないだけだ。
「姫の護衛に戻れ」
王子が続ける。
「……私が、ですか」
「ほかに適任がいない」
即答だった。
「体調は安定している」
その言葉に、胸の奥が、わずかに揺れる。
――助からないかもしれない。
あの日、そう聞かされた。
言葉は、それだけだった。
詳細は聞かなかった。
聞けば、動けなくなると思ったからだ。
薔薇病。
王族の血に、ごく稀に現れる病。
大きな薔薇のような赤いあざがあらわれ、
全身を覆う。
高熱。
意識の混濁。
そして――死。
第一王女は、それまで美しく、賢く、国の宝だった。
それこそ、子爵の令息である自分が
護衛など務まるのかと考えたほどに。
初めて会ったときから、彼女の美しさは脳裏から離れない。
触れたくても、触れてはいけない存在。
彼女がせめて嫁ぐまでは――
そう思っていた矢先の発症だった。
苦しむ彼女のそばにいたかった。
だが、医師は見込みがないと言った。
それでも最期まで傍にいたいと願ったが、騎士としての役目が、それを許さなかった。
いや、遠征の署名をしたのは自分。
だが、あのときは、実力者から名乗りをあげなければ、示しがつかなかったのもある。
ただ、それは言い訳だ。
任期のまま騎士団へ戻される。
姫の病状は噂でしか聞けず、回復の見込みもないまま時が過ぎた。
ヴァルドは、そのまま遠征に出た。
建前上、志願だった。命令ではない。
逃げたのだと、分かっている。
見たくなかった。
何もできない自分を、その場に置いておけなかった。
彼女の護衛、それだけの立場だけだ。
戦場では、迷いはなかった。
剣を振るえばいい。命令に従えばいい。
それだけで済んだ。現実を忘れられた。
だが、今は戦が終わり、また現実を目にする。
「……生きて、いるのですね」
遅れて出た言葉。
王子は、短く答える。
「いる」
それだけで、胸が軋む。
副団長として理解した。
これは命令であり、同時に、試されているのだと。
守る資格があるのか。
今さら、彼女の人生に立ち入っていいのか。
だが――
いまさら逃げる理由は、もうなかった。
「……承知しました」
短く答える。それしか、できない。
いや、それを許してくれるなら。きっと誠心誠意お仕えする。
それがせめての償い。
執務室を出る。
そして、廊下を歩く。足音が、静かに響く。
自分の手を見る。
剣を握り続けた手。
血を何度も浴びてきた手。
もう若くはない。
傷だらけで、
積み上げたものは、戦いだけだ。
北の塔を見上げる。
あの人は、そこにいた。
自分は、戦場にいた。
遠く、交わらないはずだった距離が、また縮まろうとしている。
「何を弁明したとしても……俺は、結局……逃げたな」
小さく、呟く。
北塔へ向かう道は、静かだった。
人の気配が少ない。空気が、わずかに冷たい。
今さら何ができる。それでも――
扉の前で、足が止まる。
ほんの一瞬の、間。
それでも、逃げることはできない。
扉を叩いた。




