第1話 忘れられた第一王女
全8話完結です。
連続更新いたします。
薔薇病――
かつては、不治の病と呼ばれていた。
肌に薔薇の花びらのような痣が浮かび、やがて意識を失い、静かに命を削っていく。
王族にのみ現れるその病は、美しい者ほど、残酷に姿を変えると伝えられている。
昔話がある。
ある王女は、その病に侵されながらも、最後まで背筋を伸ばし、人前で涙を見せなかったという。
――美しく、そして哀れな最期だったと。
いまでは、治療法も確立されている。
回復の例も、珍しくはない。
それでも人は、この名を聞くとき、どこかでその物語を思い出す。
そして今も、その病を生き延びた者がいる。
王城の、奥深くで。
****
王城の北塔は、長いあいだ使われていなかった。
正確には――
使われていないことにされていた。
そこに第一王女がいることを、いまの若い侍女たちは知らない。
知っていたとしても、遠い噂のようなものだ。
国は前を向く。
戦があり、交易があり、新しい命が生まれる。
人は、止まらない。
だからこそ、取り残されるものがある。
そして時はすぎる。
第一王女リゼリアは、まだ生きていた。
リゼリアが十八歳のころ、学園を首席で卒業し、婚約話がいくつも持ち上がっていた。
王女としての未来は、すでに決まっていた。
だが――彼女は突然、倒れた。
それからの年月を、誰が正確に数えられるだろう。
数年は昏睡。
目を覚ましたあとも、言葉は戻らず、歩くこともできなかった。
王城は彼女を守ったが、同時に隔離もした。
人々は「重い病に伏した第一王女」の存在を、少しずつ、忘れていった。
「……今日は、ここまでにいたしましょう」
静かな声が、部屋に落ちた。
本を閉じる前に、リゼリアはふと、鏡に視線を向ける。
そこに映るのは、落ち着いた色の長い髪。
かつては光を受けて輝いたそれも、いまは深い影を含んでいる。
ゆるやかにまとめられた髪の下、肌には、薄く残る痕。
完全に消えたわけではない。だが、目立つほどでもない。
年齢を重ねた顔立ちは、若さの華やかさこそないものの、整った輪郭と、静かな眼差しを保っている。
かつて華と言われた面影がそこにはある。だが、それもまた遠い話のようだ。
「もう少し、お続けになりますか?」
侍女の声に、リゼリアは鏡から目を離した。
「いいえ。十分です」
本を閉じる音が、小さく響く。手袋の指先を整える。
わずかな震えは、もう見えない。
椅子から立ち上がり、歩き出す。
その途中、壁に掛けられた肖像に、視線が触れた。そこには、きれいな女性がいる。
同じ顔立ち。同じ髪。
だが、まるで違う。
光を受ける髪は軽やかに揺れ、頬には迷いがなく、笑みは無邪気に近い。
「……よく、描けていますね」
リゼリアは、足を止めずに言った。
侍女が、少しだけ声を落とす。
「当時は……国の宝と、呼ばれていたころもありましたね」
「そうでした」
それ以上は言わない。
肖像の中の少女は、何も知らずに笑っている。
リゼリアは、通り過ぎる。振り返らない。
「外は、どうですか」
窓の前で立ち止まりながら、リゼリアが言う。
「風が穏やかで、過ごしやすい日です」
「そう」
城下を見下ろす。遠くの景色は、穏やかだ。
しばらく、何も言わない。
「……行ってみたいと、思われますか」
侍女の問いに、リゼリアは少しだけ間を置いた。
「いいえ」
静かに答える。
「いまは、ここで十分です」
部屋に戻り、再び椅子に腰を下ろす。
本を開く前に、ほんの一瞬、手が止まる。
鏡が、視界の端に入る。
リゼリアは、それを見つめる。
かつてのような美しさではない。
だが――顔そのものは変わらない。
ただ、薔薇病の痕が、全身に残っている。
それでも。
姿勢は崩れない。声も、揺れない。
「……問題ありません」
誰に言うでもなく、そう言って、本を開いた。
ページをめくる音が、静かに続く。
忘れられた第一王女は、
今日も、変わらず生きている。
ただ、生きているのか――それすら、もう分からない。
だが――彼女の本当の人生は、まだ終わっていなかった。




