転生転売屋の末裔、現る ~そして店内では今日もミーナが何かを壊していた~
深夜の魔王城は、常にそのおどろおどろしい存在感を世界に向けて放っていた。
黒雲を突き破るようにそびえ立つ尖塔の群れ。赤々と燃える松明の炎。窓の向こうで蠢く魔物たちの影。そのどれもが、近づく者の心に恐怖を植えつけるための舞台装置として機能している。
黒い城壁には古代の呪文が刻まれており、夜ともなれば怪しい燐光を放つ。城の麓を流れる川は毒霧の影響で変色し、鉱毒混じりの泥が澱んでいた。南の大陸では「闇の城」と呼ばれ、地図にもわざわざ骸骨のマークが描き込まれているほどだ。一般人にとっては「近寄ったら死ぬ場所」の筆頭であり、旅人の間では「あの城が見えたら逃げろ」という言葉が慣用句のように使われていた。
しかし今夜、城の奥深くに位置する玉座の間では、恐怖とはやや趣の異なる空気が漂っていた。
「ふははははははッ!」
哄笑が石造りの天井を震わせる。
玉座に腰掛けた人物――魔王テーン・バイ・ヤーは、手に持った水晶球を高々と掲げながら、今まさに自分でも制御しきれないほどの高揚感に浸っていた。
年齢は二十代後半といったところだろうか。黒いローブに身を包み、目元には紫の隈、額には禍々しい紋章。しかし整った顔立ちのせいで、どこか「コスプレ大会で優勝狙いのオタク」という印象も否めない。ローブの裾には金糸で複雑な紋様が縫い込まれているが、よく見るとそれは「定価の三倍」という文字を装飾的に組み合わせたデザインだった。魔王城の建築費を誰も確認したことはなかったが、妙なところに余計なこだわりを感じさせる作りだった。
それもそのはず。
魔王テーン・バイ・ヤーのルーツは、遠い遠い昔に日本の秋葉原から異世界へと流れ着いた、ある転売屋に遡る。
転売屋。
新発売のグラフィックボードを量販店の行列に並んで大量購入し、フリマアプリで倍以上の価格で叩き売る。社会的には批判されても、その行為そのものは法の抜け穴をうまく泳いでいた存在。
しかしその転売屋は、かつて秋葉原でひとつの大きな失敗を犯した。行列に並ぶ青年を脅して排除しようとした挙げ句、異世界転生に巻き込まれ、そのまま二度と元の世界には戻れなかったのだ。失意の中で辿り着いた先は剣と魔法の異世界。転売スキルは持ち込めなかったが、商売の嗅覚と、人の欲望を操る才能だけは天性のものとして残った。代を重ねるごとにその才能は「貴重なものを囲い込んで世界を支配する」という野望へと変質し、やがて魔王家の血筋として語り継がれるようになった。
そして今、その子孫が異世界の魔王として君臨している。
「見つけたぞ……見つけたぞ、見つけたぞ!」
テーン・バイ・ヤーは水晶球の中に映し出された映像に向けて、がりがりに削がれた指を這わせた。
水晶球の中には、城下町の外れにある古びた建物が映っている。
看板には、異世界人には読めないはずの文字が書かれていた。
――秋葉原最終処分場。
「あの店だ」とテーンはひとりごちた。「あの店がすべての元凶だ。祖先の野望を砕いた、あの忌まわしき店が――今も異世界で商いを続けているとはな。初代転生者が遺した名だというのに、今の代になっても消えていない」
玉座の脇に控えていた魔将軍・ドルガが、重々しく口を開く。身の丈二メートルを超える筋骨隆々の魔族で、全身を黒い鎧に包んでいる。しかし主君に比べると、その表情にはやや「ついていけない感」が滲み出ていた。
「魔王様、なにゆえあのような小さな店を気にかけられるのですか。我が軍の力をもってすれば、今すぐに踏み潰すことも――」
「黙れ」
短い一言が、広大な玉座の間に鋭く響いた。
ドルガが口をつぐむ。
テーンはゆっくりと立ち上がり、ローブの裾を引きずりながら窓辺へと歩み寄った。城の外に広がる荒涼とした大地を見下ろしながら、その口元には薄い笑みが浮かんでいる。
「あの店には、ただの商品以上のものが眠っている。かつて祖先が喉から手が出るほど欲しがったもの……現代日本の遺物だ。分かるか、ドルガ。あの店はジャンク品という名の宝物庫だ。一般人には理解できない力が、埃を被って積み重なっている」
「現代日本? ジャンク、とは?」
「お前には関係のない話だ」
テーンは振り返り、水晶球を再び手に取った。
その球の中では、店内の様子が微かに映し出されていた。雑多な電子機器の山。見慣れない機器を恐る恐る触る猫耳の少女。それを横目に苦笑いしている青年。そして奥の工作台で、なにやら精密な作業を行うエルフの女。
「面白い」とテーンはつぶやいた。「あの連中が動き出す前に、先手を打つ必要がある。資源を制し、流通を押さえ、世界経済そのものを我が手中に収める。そうすれば剣も魔法も不要だ。民は抵抗すらできなくなる。物が手に入らなければ、人は黙って膝をつくものだ」
彼の脳裏には、祖先から受け継いだ知識が渦巻いていた。
転売。買い占め。希少品の人工的な品薄状態。プレミア価格での販売。市場の独占。
現代日本で磨き上げられたそのビジネスモデルを、異世界規模で実行する。それがテーン・バイ・ヤーの野望だった。
「すでに準備は整っている」
魔将軍への言葉というより、自らへの確認だった。
「北の鉱山はすべて我が手中にある。マナ石の産地も押さえた。東西の交易路には我が軍が張り付いている。あとは南の街道さえ封鎖すれば、大陸全土の物流は止まる。それがいつになるか――」テーンはにやりとした。「三ヶ月だ。あと三ヶ月で、この世界は俺の倉庫になる」
彼はゆっくりと玉座へと戻り、再び腰を下ろした。
「ドルガ」
「はっ」
「偵察部隊を送れ。急ぐ必要はない。まずはあの店の動向を探れ。戦力、在庫、人員……すべてを把握してから動く。あの店が動き出す前に、手を打てれば理想的だ」
「御意に。して、偵察の規模は?」
「精鋭を五名。目立つな。あの店の連中を刺激する必要はない。今は静かに情報を集めるだけでいい。先遣隊が街道沿いで動きを掴んでくれれば、こちらの手が広がる」
「御意に」
ドルガが深々と頭を下げた瞬間、テーンは再び水晶球に視線を落とした。
映し出されていたのは、店の入り口。ちょうど今、見慣れない若者がドアを開けて入ってくるところだった。
「ほう……」
テーンの眉がわずかに動いた。
水晶球の映像はぼんやりとしていて、細部まではわからない。しかし、その若者が店内に入るなり、猫耳の少女と何事かをやりとりし始めたのは確認できた。やがて轟音。少女が何かを破壊したらしく、若者が頭を抱えているのが見える。それを見て、奥のエルフが肩をすくめている。
どこか、なんとも言えない空気の場所だった。
「転生者か?」
そのつぶやきには、明確な敵意が込められていた。
「この世界には複数の転生者が存在するということか。……そうか、そうか。面白い。まったくもって面白い。ならば俺も、全力で相手をしなければ失礼というものだろう」
テーンは組んだ指の上に顎を乗せ、じっと映像を見つめ続けた。
夜はまだ深い。
魔王の野望は、今まさに動き始めようとしていた。
◇
その頃。
城下町ランデールの外れにある「秋葉原最終処分場」では、今日も今日とて一騒動が起きていた。
「ミーナ! こら、ミーナ!!」
主人公――この世界でもう一人の転生者となった男、橘 翔の叫び声が、雑多な電子機器の山を縫うようにして店内に響き渡った。
二十歳そこそこの青年である。
秋葉原でグラフィックボードを買おうとして転売屋に刺された結果、異世界転生という割に合わない経緯で今ここにいる。髪は黒、目は黒、服装は現代日本のカジュアルウェアをこの世界の素材で再現したもの。スペック的には「平均的な日本人男性」以外の形容が思いつかないが、電子機器に関する知識と技術は折り紙つきだ。小学三年生のときに初めてパソコンを分解して以来、机の引き出しには常に精密ドライバーが収まっていた。オタクの道を歩んで十年以上、その知識量は現代日本のパーツ屋店員より上だと自負している。
そのカケルが今、血相を変えて走っているのは――
「だから触るなって言ったのにィ!!」
店の奥から轟音が響いてきたからである。
続けて、甲高い声が聞こえた。
「あ! あ、あああ……こ、壊れてないよね? 壊れてないよね?!」
「もう壊れてるに決まってるでしょうが!!」
カケルが奥の作業スペースに飛び込むと、そこには割れた液晶パネルを両手に抱えたまま固まっている猫耳の少女の姿があった。
猫耳の少女――ミーナ・ネコムラ(本名ミーナ、ネコムラは店主が勝手につけた苗字)は、年齢不詳の外見をしていた。十五歳から二十歳の間のどこかだろう、というのがカケルの見立てだ。猫耳は頭頂部からぴょんと生えており、毛色は茶色。しっぽも同色で、今は申し訳なさそうに丸まっている。服は店の作業着……のはずなのだが、胸元に無数の油染みがついており、この二ヶ月で彼女がどれほど多くのものを破壊してきたかを雄弁に物語っていた。腰のポーチには工具が入っているが、使い方を覚えるより前に壊してしまうのでほぼ飾りと化していた。
「だって触ってみたかったんだもん!」
「触ってみたかった、じゃないんだよ! これ四十年前の希少品なんだから!」
カケルはミーナの手から液晶パネルの破片を受け取り、そっとワークテーブルの上に置いた。溜息が出た。本当に、深いところから出た溜息だった。
液晶パネルの破損状況を確認する。
ひびは画面右側に集中しており、タッチパネルの配線も断線している。ただし内部の基板への影響は最小限に留まりそうだ。修復不可能ではないが、部品を調達するのが問題になる。何せここは異世界だ。秋月電子もaitendoも存在しない。必要なパーツは、店の在庫を漁り、ときには現地の素材で代用品を作るところから始めなければならない。
「……直せなくはないけど」
「ほんと?!」
ミーナの耳がぴんと立った。
「「直せなくはない」と言ったんだ。確実に直せるとは言ってない。それにまた何週間もかかる」
「……ごめんなさい」
しっぽがしょんぼりと垂れ下がった。
カケルはもう一度溜息をついて、ミーナの猫耳をぽんぽんと叩いた。怒る気力も失せていた。この二ヶ月間で、彼女に同じことを何十回繰り返したかわからない。
「もう、なんで毎回触る前に聞かないの」
「だって、聞くより触った方が早いじゃない」
「その思考回路が問題なんだって……」
「ミーナ店員の行動原理は非常にシンプルです」
涼しい声が横から入ってきた。
カケルとミーナが振り返ると、作業台の前に腰かけたエルフの女性が、こちらを一瞥もせずに手元の基板に向かって精密ドライバーを走らせているところだった。
エレナ・シルバーフォレスト。
年齢は……聞かない方が良いと習った。エルフは長命種なので、見た目の二十代は実年齢を全く反映していない。カケルより確実に年上なのは間違いないが、具体的な数字は「プライバシー」として開示されていない。一度だけ聞いてみたことがあるが、「数えた記憶がないので正確には分かりません」という返答だった。多分三桁だとカケルは踏んでいる。
整った顔立ちに、先端の尖った長い耳。銀色の長髪は今、邪魔にならないよう後ろで束ねられている。店の作業着を着ているが、それでも彼女が身に纏うと何故かお洒落に見えた。長く生きている分、姿勢と所作に無駄がないのだろう。カケルが同じ作業着を着ると「さえない電気工事士」にしか見えないのと比べると、人生の積み重ねというものを感じさせる。
「触れるものはすべて触れてみる、破壊してから考える。それがミーナの思考回路。そしてそれを毎回繰り返し、毎回カケルに怒られ、毎回反省する。非常にシンプルです」
「エレナまで……」
「事実を言っているだけです」
エレナはさらりとそう言い、視線を基板に戻した。その指先は作業を一切止めていない。ちなみにエレナが今修理しているのは複雑な多層基板で、カケルが三十分かけても見つけられなかった断線箇所を開始五分で特定していた。
「ちなみに今修理しているのは?」
「昨日ミーナが壊したサーキットボードです。接触不良だったものを力任せに引き抜いた結果、半田が剥がれたので」
「……ミーナ、昨日も何か壊したの」
「えっと……その、カケルが昨日不在だったから」
「不在の間に壊した件数は?」
長い沈黙。
「……三件」
「今日で四件目」
「五件! 今日で五件目にしないようにがんばる!!」
力強く宣言するミーナに、カケルは返す言葉を見つけられなかった。
エレナが小さく「ふふ」と笑った。それはほんの一瞬だったが、カケルはその笑みを見るたびに「長い歳月を経た人だな」と思わずにいられなかった。ミーナの破壊活動を三桁年分見てきた余裕が、その笑いの中にある気がした。
「二人とも、賑やかだな」
奥の扉が開いて、青年が姿を現した。
店長・リョウこと、霧島 涼。
この「秋葉原最終処分場」の二代目店主であり、初代店主――かつて日本から異世界に転生したという伝説の人物の血を引く青年だ。年齢はカケルと同じくらい、二十代前半といったところか。黒髪で細身、眼鏡をかけている。飄々とした雰囲気の持ち主だが、実は店と仲間のためなら躊躇なく動く、根の部分での熱さも持ち合わせていた。祖父が異世界に持ち込んだという「時代を超えた商売の知恵」を受け継いでおり、ジャンク品の価値を見抜く目は、カケルが認めるほど確かだ。
「店長、ミーナがまた――」
「見てた」とリョウは言った。「三階の窓から全部見えてたよ。ミーナちゃん、今日何個目?」
「四個目……」
「昨日合わせると何個?」
「……七個」
リョウは静かに目を閉じ、天を仰いだ。
「ミーナちゃん、ひとつ聞かせてほしいんだけど」
「な、なに」
「君はもしかして、ジャンク品を増やすために働いてる?」
「ち、ちがーーーーう!!」
ミーナが顔を真っ赤にして叫んだ。猫耳が激しく揺れ、しっぽが床をバシバシと叩いた。
「壊してから直す、という新しいビジネスモデルかもしれません」とエレナが静かに付け加えた。
「エレナさんもー!!」
店内に響き渡るミーナの抗議の声。それを聞きながら、カケルはやれやれと肩をすくめた。
気がつけば、この店に来て二ヶ月が経過していた。
最初は戸惑うことばかりだった。現代日本で転売屋に刺されて命を落とし、気がついたら剣と魔法の異世界に放り込まれていたのだ。当然といえば当然である。
しかし今のカケルには、この店は「居場所」と呼べるものになっていた。
雑多なジャンク品の山。日本語の看板。ミーナの破壊活動。エレナの冷静な解析能力。そしてリョウの飄々とした店長業。
ここには確かに、カケルが守りたいものがある。
「ところで」
リョウが声のトーンをわずかに変えた。
カケルはその変化に気がついた。ミーナも耳をぴくりと動かす。エレナも基板から目を上げた。
場の空気が、わずかに変わった。
「今朝、行商人が来た」とリョウは言った。「例の噂、聞いたことあるか? 魔王が動き始めたって」
沈黙。
「魔王……」カケルが繰り返した。「本物の?」
「この世界に偽物の魔王がいたら、逆に怖いな」
「それはそうだけど……」
「行商人の話だと、北の鉱山が何者かに買い占められたらしい。鉄鉱石、マナ石、レアメタル類……ほぼ全部だ。同時に、東の交易路でも通行妨害が相次いでるって。いつもより荷馬車の到着が遅れたり、突然通行料が三倍になったり」
「資源の囲い込み?」
「そういうこと」
カケルの眉が寄った。
資源の囲い込み。希少品の買い占め。流通の妨害。
それは――まるで転売屋の手口だった。
「詳しく教えてほしいんだけど、リョウ」
「それが狙いで話した」とリョウはにやりとした。「お前、なんか引っかかることがあるだろ」
「ある」
カケルははっきりと頷いた。
「それ、魔力とか剣とかじゃなくて、もっと地味な方法で世界を詰める気だ。じわじわと物資を絞り、経済を崩壊させることで、戦わずして人類を追い詰める作戦じゃないかと思う」
リョウが静かに目を細めた。
「俺も同じことを考えた。で、もう一個情報がある」
「なに」
「魔王の名前」
「情報屋から入手した。昨日、銀貨五枚で買った情報だ」
リョウはその名前を告げた。
――テーン・バイ・ヤー。
カケルは一瞬、きょとんとした顔をした。それからもう一度、声に出してみた。
「……テーン・バイ・ヤー?」
「そう」
「それって……」
「うん」
「もしかして……」
「"転売屋"の言葉遊びだろうな」とリョウは言った。「祖父が言ってた。かつて秋葉原で転売屋と揉めたことがあったって。そいつが失意のまま異世界に転生して、子孫がここまで育ったのかもしれない」
沈黙が落ちた。
ミーナが「てんばいや? なんのこと?」と首を傾げていたが、今の流れを止める空気ではなかった。
カケルは窓の外を見た。
城下町の空には雲が広がっていた。遠くに見える山脈の向こうに、例の魔王城があるのだという。
「つまり」とカケルはゆっくりと言った。「俺たちが転売屋に殺されたり絡まれたりした恨みが、異世界規模で返ってくるってこと?」
「割と笑えないな」
「全然笑えない」
エレナが基板から顔を上げ、二人の方へ視線を向けた。
「対策は?」とエレナが聞いた。
「今のところ、ない」とリョウは答えた。「だからお前らに相談した」
「なるほど」
エレナはそれだけ言って、再び基板に視線を戻した。しかしその表情には、微かな変化が浮かんでいた。エレナが「本気モード」に入るときの、あの表情だ。かつて一度だけ、緊急の状況でその目を見たことがある。エルフとしての長い歴史の重さを、全部引き受けて立っているような目だった。
「ミーナ」
「な、なに?!」
「とりあえず今日これ以上物を壊すのは禁止」
「……うん」
「それと」
カケルはミーナの猫耳を、今度は少しだけ力を込めて撫でた。
「何かあったとき、お前の力が必要になるかもしれない。だから今から壊すのは、俺が「これを壊せ」って言ったものだけにしてくれ」
ミーナの目がぱっと輝いた。
「破壊していいの?!」
「状況次第では、な」
「やったーーー!!」
「喜ぶポイントはそこなんだ……」
カケルは苦笑しながら、窓の外に視線を戻した。
世界を巻き込む戦いが始まる。
武器は剣でも魔法でもない。
ジャンク品だ。
そして彼らが積み上げてきた、知識と絆だ。
「リョウ」
「なんだ」
「旅の準備、始めよう。店に積み上がったジャンク……全部、使えるものを洗い出す」
リョウはにやりと笑った。
「それを聞きたかった」
秋葉原最終処分場の、新たな戦いが始まろうとしていた。
その扉は、今まさに開かれようとしている。
◇◇
同じ夜、城下町ランデールの外れ。
秋葉原最終処分場の二階に設けられた小さな談話室で、カケルは一人、ノートに文字を書き連ねていた。
現代日本式の横書きで、左手に走り書きが続く。
「敵の戦略:資源独占→流通妨害→経済崩壊→社会混乱→降伏」
「対抗手段:①代替流通路の確保 ②資源確保(どこかに未発見の産地?) ③直接対峙(ジャンクの活用)」
「問題点:俺たちには軍事力がない。魔法もほとんどない。あるのはジャンク品の山と、多少の知識だけ」
ペンを止める。
窓の外には夜空が広がっていた。星の数が多い。現代日本の都会では見られないほどの星空だ。最初のころは感動したものだが、今はそれよりも先のことを考えてしまう。
敵は経済戦争を仕掛けようとしている。
それは、銃や剣では対処できない種類の脅威だ。物が手に入らなければ、人は抵抗する気力を失う。腹が空けば、戦う意欲より食べ物を求める気持ちが勝る。それは人間の本能であり、悪意ある者が最も巧みに利用できる弱点だ。
転売屋の手口は、現代日本では個人レベルの嫌がらせだった。
しかしそれが世界規模になれば、これは立派な「経済侵略」になる。
「カケル」
ドアをノックして、エレナが入ってきた。手に二つのカップを持っている。この世界の草を煎じたお茶だ。カケルにとっては微妙な風味だが、エレナが淹れると何故かおいしく感じた。長命種の「茶道」があるのかもしれない。
「少し休んだ方がいいですよ」
「そうは言っても、考えることが多くて」
「考えすぎても、良い答えは出ません」
エレナはそう言いながら、カケルの向かいに腰を下ろした。カップをテーブルに置き、自分もひとつ手に取る。
「エレナは怖くないの」とカケルは聞いた。
「魔王が動き始めたって話」
「怖い、という感情はあります」
エレナは静かに言った。
「ただ、怖いからといって動けなくなるほど弱くはありません。長く生きると、恐怖との付き合い方が分かってきます」
「三桁年分の経験か……」
「数えた記憶はないと言いました」
「ごめんなさい」
エレナが微かに笑った。
「ひとつ聞いていいですか、カケル」
「うん」
「あなたは、この世界に来てから後悔したことがありますか」
カケルは少し考えた。
転売屋に刺されて死んだことへの怒りは、今でも消えてはいない。しかし、その怒りが今の自分を動かしているかと言えば、そうでもなかった。今カケルを動かしているのは、もっとシンプルなものだ。
「後悔……は、あまりないかな」
とカケルは答えた。
「元の世界に帰りたいって気持ちは今でもあるけど、ここで出会った人たちを守りたいって気持ちの方が強くなってきてる。リョウも、ミーナも、エレナも」
エレナはカケルの言葉を聞いて、ゆっくりと目を細めた。
「それを聞いて、安心しました」
「安心?」
「私も、同じ気持ちですから」
短い沈黙。
遠くで、夜風が鳴った。
カケルはカップのお茶を一口飲んだ。微妙な風味だが、今日は不思議においしかった。
「明日から、準備を始めよう」
「はい」
「最初は店の在庫確認から。旅に使えるジャンクを全部洗い出す。エレナにも手伝ってほしい」
「了解しました。ただ」
エレナがわずかに眉を動かした。
「ミーナには事前に「触るな」の範囲をきっちり決めた方がいいと思います。でないと、分類作業中にもう三つくらい壊されます」
「……それは必ずやる」
カケルはノートを閉じた。
窓の外、夜空に輝く星はまだ変わらない。しかしその星の下で、世界はゆっくりと動き始めていた。
秋葉原最終処分場、出動準備開始。
武器はジャンク品。
仲間は猫耳と長耳と、転生者の血を引く店主。
それで十分だ。きっと。
多分。
……頼むから十分であってくれ。
カケルは祈るように窓の外を見上げた。
プロローグ 了




