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九拾六話 敗北の天秤

 第一に、この戦いは丘を取り合い、それが局面を左右する重要なものである。

 だが、もし、その丘が何の意味もない土塊だったら?

 直接的に戦況を動かせない木偶の坊であったら?

 土塊に気を取られ、それに必死になるとはなんとも滑稽だ。

「両翼は意図的に敗北させろ。負け方は奴らに任すが、一度、丘から完全に撤退しろ」

「何故です!?」

「丘をただの土塊にする為だ」

 土塊に必死となるアルターは相当のバカだろうな。

 もし、俺が丘への関心を無くした事に気づいたら、どんな反応をするだろうな。

 だが、やっとあの爺の言ってた事が分かった気がする。

 表の目的は、一度の全軍撤退からの総攻撃だ。

 だが、真意は違う。

 貴様に丘への執着を植え付け、お前の中にある「無駄な事をしない」に定評があるリシュアンを徹底的に壊す。お前の中の俺を壊す。

 そうだろう? お前の中にある俺は、いつも前線に立ち、兵を震わせ、無駄を好まない武人だ。

 だがな、今は違うんだよ。

 冷酷無比で一見無駄に見えるかのような動きをする二流の戦術家。


 そう、俺が丘を取ろうと思うのは、丘に利がある時だけ。

 だが、こちらの配置で利が在るか無いかなんて、いくらでも操作できる。

 操作された盤面の上で踊る奴を見るのは至高の体験だと思う。


 自分の手の内を完全に読まれていると錯覚して、乱心して二流の戦術家に成り下がったリシュアン。

 それを一方的に手玉に取って、遊ぶアルター。

 いい構図なんじゃないかな。

 向こう視点ではね。

 こっち視点だと、全然違うのに。

 敵を丘に縛り付けようとする、戦史の自分と戦うリシュアン。

 掌の上でくるくると踊る人形。


 だが、その日出した命令は撤退命令だけだったから、後から散々にヴィクトルたちに問い詰められたことは言うまでもない。



 ♦♦♦



「リシュアンは……こんな戦い方しない。乱心した? でも、いきなり、こんなに先述の精度が落ちる……の? あのリシュアンが? 戦史にはこんな事書かれていない。光龍に放っている密偵からの報告にもない。こんなの、リシュアンの戦い方じゃない。()()リシュアンはこんな事しない」

「そ、そう申されますな。かの天才であろうと、(ひい)様の威厳に恐れ戦くのも当然かと」

「ち、違う……。リシュアンは……こんな戦い方なんてしない……どうして……?」

 頭が痛い。目が眩む。

 こんな計算外な事、あり得ない。あってはいけない……。

 こんな奇想天外で奇策に振り切ったような策……。

 いや、これがそもそも策かも定かじゃない。

 仮にこれが策だとしても、こんな奇策に振り切るような真似はリシュアンはしない。

 これまで、幾度となく奇策を振るってきたリシュアンとはいえ、どこかには必ず通常の戦法が含まれていた。

 けど、今回は全く違う。

 丘を完全に放棄するという愚策。奇策とも言えないような愚策。

 通常の戦法なんて片鱗も見えない。

「とっ、兎に角、丘の占拠を確実なものにします……」

「あ、ああ。今は、それ以外にできることもない。両翼を押し上げろ」



 ♦♦♦



 翌朝。

「夜のうちに両翼を押し上げた炎獄軍は、朝より陣を組み、攻撃の構えです」

 俺は珍しく朝霧が晴れないうちから起きていた。

 霧が陽光を反射して輝いて見える。

「今日は俺が右に赴く。左は撤退させろ」

「右を押し上げられるのですか?」

「いや、違う。下げてくる。右を」

 ヴィクトルが何か喚こうとしたのを横目に、俺は右へ動き出した。


「エラン、どうだ?」

「はっ、はい! 敵は丘に新たに三万を投入し、地の利を生かして流れ込んでくる可能性も……」

「そうか。分かった。右は取り合えず俺が預かる。お前は左に動け」

 エランが離れたのを確認して、俺は軍を組み替えた。

 確かに奴の戦術眼は鋭い。だが、上への対策はまだまだだ。

 前衛に盾兵を並べておきたいが、そうすると勝ってしまう。

「二万を前に出せ。兵種は混合だ」

 こんな事、馬鹿がすることだ。

 上への対策に兵種を混合にすれば、弱い弓兵などを見抜かれ、一網打尽にされてしまう。


 軍が前に出て暫くした頃、炎獄軍は丘を降り、俺の予想した通りに弱兵のところへ一目散に向かった。

「……下がれ! 一枚後ろに下がるぞ!」

 弱将ムーブ。

「左には、足並み揃えて下がるように伝えろ」

 こっちは、知将のムーブ。

「ここから一万を分離させ、中央本軍につけるように。この軍は第二線で止まれ」

 俺はそう言い残し、再び中央に戻った。

 幸い、エランの副官が残っていたからそいつに指揮を執らせておいた。

「左に寄った軍が少し右に動く気配在り! 左偏重が崩れます!」

 鋭い。

 単純に俺を殺す為に特化しただけではなく、基本より数段上の戦術をも網羅している。

 右が下がった今、左に兵を固めすぎるのは愚策中の愚策。

 なら、押し込んでいるところに兵を向けて、そこで一気に押し込む方がよっぽど上策。

「右にも左にも兵は動かさない。静観だ」

「何故!? 後方に待機している()()を動かせば一網打尽ですぞ!」

「駄目だ。アレを動かせば、敗北の天秤が俺の方に傾くことになる」

 均衡に釣り合った敗北の天秤。

 傾いた方が負ける。

 俺が後方に待機させている六万は、天秤を傾けないように敵側に置く分銅。

 これを崩されれば、均衡は崩れ、敗色濃厚にが逆戻りだ。

 わざと負けるが、致命的な傷を負わないのが両翼の使命。

 そんな高難度なこと、俺でさえ出来る自信がない。

 だが、この壁を越えてもらわなければならない。

 何故なら、君たちが天下に名を轟かすその時、俺はもう、過去の産物になりつつあると思うから。

 頼むぞ。

 つまり全ては、君たち(両翼)の戦いにかかっている。

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