遭遇:淫靡なトカゲの餌となりて
いない。いない。まだいない。
口の中が渇いていくのを感じながら、逸人は発着予定が流れている電光掲示板を見上げる。
黒縁の液晶。もう次の電車が、7時37分のもの。病院の常夜灯のような緑を背景とした隣の時計に視線を移せば、もう長針は7の表示にかかっている。
携帯のロック画面。
通知は来ていない。今までに二件、乗車口の番号が伝えられたが確認すればどちらも別人だった。
ホームは既に端から端まで、三往復はしている。
通りすがる度にペースを上げ、片手の指の数より多く見かける焦った様子の大学生を駅員はそろそろ不審に思うかもしれなかったが、そんな羞恥や疑念は迫る時間を前に三秒と保たなかった。
このまま見つからなかったらどうなる。あの学生は依然実感はない記憶と同じく電車に轢かれるのか。その場合時間は戻るのか。戻らないよりは戻るほうがいい。
それとも、またも不運なことに自分が巻き込まれるのか。
「……っ」
現状に必要のない保身だったが、逸人はゾッとする。
あの時、痛みはなかった。けれどこれは覚えていないだけかもしれない。酷いショックに脳が強制的に忘れさせたのか、自分でも判断はつかない。
そんな事態にしないためにもと、逸人はなりふり構わずホーム上を駆け回る。協力してくれている少女ともすれ違ったが、表に出る変化は薄くとも彼女も確かに焦っているように見えた。
そして、時計の長針が文字盤の7を超えかけた頃、ようやく。
見つけた。
「…………」
五席が一列に並ぶベンチの右から二つ目。そこに制服の少女は座っていた。
後ろから見た記憶、それも気が動転しているタイミング。印象と呼んだほうが適切にも思える手がかりだったが、絶対に彼女がそうだと確信できる。
時間はない。見つけたと連絡する余裕も、注意深く観察する暇も残されてはいない。
ここに来るまで話しながらもずっと考えていた言葉を頭の中で何度も巡らせ、予行演習を繰り返しながら一直線にその少女の方へ向かっていく。
ベンチは一席を除いて全て埋まっている。
少女の両隣も埋まっていて、この状況下で赤の他人に喋りかけるのは視線が痛いが、どれもこれも気にしてられない。
ベンチの席、制服を着たその学生が座る目の前に立つ。一番右、端の席に座ったいかにも会社勤め風の眼鏡男が不審なものを見る目でこちらを一瞥したが、肝心の少女の方は膝の上に置いた鞄に視線を落とし続けていた。
短く白い息を吐いて気合いを入れる。
もう、最初に言うことは決まっている。それが彼女の心を動かせるか考える時間も終わった。
だから後は、口にするだけ。
「……君、大丈夫か?」
屈んで目線を合わせ、出来るだけ優しそうな印象になるように声を掛けて、自分の喉の調子を確認する。出てきた声色は想像していたよりも普段の自分と変わらなかった。
その女子生徒はゆっくりと顔を上げると、すぐそこにいる逸人の姿を見て、声を掛けられた先が自分ということを自覚してか肩を跳ねさせる。
「何があったかとか、何もわかってあげられないかもしれないけど」
返事を待つこともなく、前髪のかかった彼女の目を覗き込んで言葉を続ける。
トラウマにでもなったらどうしようかと、言葉を前もって決めているせいもあって余裕のある頭に雑念が浮かぶ。それでも、ここで全てを投げ出させてしまうよりマシに思えた。
「大丈夫。そんなに辛いなら、逃げていいから」
彼女が視線を右に左に迷わせる、その振り子のような揺れの瞬間瞬間に目が合う。
目を見て相手の感情を完全に読み取る。そんな技術は持ち合わせていなかったが、その目の中には戸惑いの他にも確かに仄昏い感情が透けていた。
「だから、生きてくれ」
目が合ったときに伝わるように、呼吸を合わせて言葉にする。
そして一歩引いた後、立ち上がってからきっちりと九〇度、頭を下げた。
「え、あっ、え、いや……!」
自分の思う最善の言葉を伝えただけで、思い詰めた人間が決めてしまった行動を踏み止まるほど、綺麗に事が進むと逸人は思わなかった。
今日はクリスマスイブ。なんでもない言葉が引っ掛かり、別の解釈をされた上で、むしろ彼女の決意を助長する結果にならないとも限らない。
だからいっそのこと、ストレートに情に訴えかけてしまうのが逸人の用意した最終手段だった。
頭を下げている向こう、座ったままばたばたと手を動かして慌てている彼女の様子がわかる。ついでに周囲からの奇異の視線も十分感じ取れたが、今はまだそれを意図的に無視できる胆力が残っていた。
「と、とにかくお辞儀っ、頭上げてくださいって!」
彼女の方は興味本位の視線に晒されるのに焦っているらしく、逸人が顔を上げると顔は見事に真っ赤になっていた。
「な、なんなんですか! 急に、ていうか誰ですか!」
その言葉に、周囲から向けられる視線の温度がぐんと低くなったのを感じる。
顔見知りですらない女子高校、あるいは女子中学生に一方的に話し始めたかと思えば頭を下げる男。自分が他人の立場で目撃すれば、通報も辞さないシチュエーションだ。
「ま、まあ。確かになんか、正直、驚いたんですけど嬉しいというか、あれだったんですけど!」
「それならよかった。……思い止まってくれるって、思っていいのかな」
その学生は控えめに、目を伏せるように頷いた。
綺麗さの欠片もない、良心に付け入るような一連の言動。
それでも自分より未来のある学生を一度思い直させられたなら、意味もあっただろうかと逸人は胸を撫でおろす。
ホテルでも焦り、このホーム上でも駆け回って。
最初から最後まで、自分に起きている異常事態すら正確に理解が及ばない行き当たりばったりの事件だったが、蓋を開けてみればそれは簡単に収拾がついた。
一昨年去年のことを考えれば油断はできないが、それでも史上最も上手く立ち回れたアクシデントだった。
「あの、言いたくなかったらいいんだけどさ。君はどうして、こんなことを?」
自分が知っているのは目の前で起きたことだけ。だが口を挟んだ以上、その場凌ぎの処置で終わるのは無責任に思えて逸人は背景を探る言葉を掛ける。
「え、と。そんなに『もうどうでもいいや』とか、思ったりしないんですけど。たまに思っても、痛いのは怖いし。でも、今日はなんか……」
『間もなく、電車が参ります』
ベンチの上で座り直してぽつぽつと話し始めた彼女の言葉を遮るように、一小節にも満たない特有の通達音が流れたかと思えば、電車到着のアナウンスが響き渡る。
「いた。急ぎの間はともかく、解決したなら解決したと連絡してください」
周りの野次馬未満の乗車予定客の注意が散っていく中で、背後から聞き慣れた声がして逸人は振り返る。
そこには自身の携帯を掲げながら不満を訴える、捜すのを協力してくれていた少女が立っていた。
「ごめん。でもついさっきのことだったから」
連絡のことは完全に頭から抜け落ちていた。
そう素直に言えば彼女は確実に気を悪くするだろうから、逸人は時間不足を引き合いに連絡忘れを誤魔化した。
ともあれ、全ては予想だにしないほど順調に、理想通りに片が付いた。
時間遡行なんて現象も結果的には良い方向に物事を転がすために役立って、まるで去年一昨年の不運が今日の幸運の揺り戻しのためにあったよう。
クリスマスが一年を通して最も不運な日だなんて、そんなものは思い違いだったのかもしれない。
「とりあえずは何とか……」
「――え、まだ終わってないよ?」
当面の問題が終わって、一息入れようかという瞬間だった。
逸人の緊張が解れた時、その心情と同じく気の抜けた声が突然後ろ、さっきまで制服の彼女が座っていたところから。
駆け付けたばかりの対面の少女が目を見開くより先に、逸人はベンチの方に向き直る。
「…………。誰だ、お前」
そこには、今しがた自殺を止めた学生の上に跨るようにして。
「誰とか、どうでもいいでしょ? それより、駄目だよ。そんなことしちゃ」
異質な女が佇んでいた。
焦点の定まらない眼は、全体がカラーコンタクトでも入っているかのような琥珀色。
輝きの薄い、油絵具に浸された絹糸のような白髪は上半身を全て覆い隠すようにばらばらと伸びている。
頭髪と対照的に潤んだ唇は、彼女の覚える悦楽を込められて悪意に歪み切っていた。
女が身に纏うセーターはこちらに向けられた背にあたる布地がざっくりと大きく開いて白い肌を露出していて、身体を丸めれば服としての機能の最低限すら失ってしまいそう。
だがそんな服装以上に彼女自身が纏う、常識の埒外の雰囲気が逸人の意識を引っ張っていた。
「折角、この子がちょっと悩んでたみたいだから、背中をととんって押してあげたのに」
人差し指で自身の口元に触れながら話すその女は、もう片方をしなやかな手つきで椅子にしている学生の背中に回す。
周りの人間が、隣のベンチに座る人間がどんな表情をしてこの事態を眺めているのか。それすら認識できない。
そのくらい一挙手一投足から目が離せない。意識すれば外せるかもしれなくとも、その刹那で取り返しのつかないことが起きるのではないかという警鐘が鳴りやまない。
背中を押した。物理的に、なんて意味なわけがない。
人間、いやそれすら確証が持てない目の前の存在は、きっと遊び感覚で人を殺せる怪物だ。
「もう一回、今度はもっとふかーく……」
「それ。やめて、もらっていいですか」
「えー?」
女が人体を抱き寄せるようにして背中を押し込む動作に、思わず声を出していた。
「その子の、人の命を無駄にするのはやめてください」
今対峙しているものが、人間ではないと確証が持てた。それは爬虫類のような色をした目であったり、およそ人の枠に収まらない空気であったり様々だったが、それでも逸人は咄嗟に説得を試みる。
自分がどんなことを話しているのか、それを思い返そうとするのも難しい。
数言の間に支離滅裂になっていないか、そもそも言葉になっているのか。まともな考えは喉を震わせるには至らず、出ているのは駄々洩れでコーティングされていない思考そのものだった。
「うん、頼まれた。じゃあやめるね」
だがそんな願いは、あっさりと受け入れられた。
夢中になっていたものを唐突に放り出す子供のように興味をなくすと、女は学生の頭をあくまでも優しくぽんぽんと撫でて、そこから音も立てずに降りる。
張り詰めた空気が、逸人の意思に関わらず明らかに緩まる。
それはこの場を満たす精神的重力が彼女の思いのままであることを示すのに、十分な証拠だった。
余裕の生まれた思考は、既に駅に電車が到着していることを逸人に認識させる。
もう誰かが轢かれることはない。周りを半固形の液体のように移動していく駅の利用客たちがこちらを気にしているかまで理解するには、メモリが足りない。
「でも、その代わり」
その緩まった空気のまま、正体不明の女はビーチサンダルを履いた足で一歩歩み寄る。
接近を認識しつつも、逸人の足は靴裏のゴムが溶けて地面と接着したように動く気配すらなかった。
「本命は、逃せないかも」
言葉を聞いた瞬間、逸人の注意はふいに彼女の胸元へと向かう。
それはアルファベット五・六番目よりも大きく盛り上がった布地の向こうではなく、その表面に乗るように首に吊り下げられたアクセサリー。
一つ一つのサイズ感が大きなチェーン状のネックレス。メインになっているのは、小指の先ほどの精巧な檻だった。
縦に区切った格子の隙間は、檻自体のサイズもあって針の糸を通す穴よりも細く中は見えない。
そのはずなのに、中から幾つか、いや百を超える人間の顔がこちらに視線を返してきているような気がした。
その檻の細工を女が手に取る。すくい上げるように手の内に入ったそれは、次に手が開かれたときには鎌の意匠に変わっていた。
そして彼女はそのまま、ゆっくりと逸人の身体にしな垂れる。
たとえ動けたとしても避けはしなかったであろうその行動を、不動の身体は流れのままに受け止める。
「あ、ぁ……」
操り人形のように求められてその身体と接触すれば、彼女の胸が押し当てられた自分の心臓の部分から、音が消えた。
ポスッと服越しに触れあった感覚を最後に、重さを感じることもなく触覚が消失した。
最後の拍動、巡った血流で声にもならない空虚を吐き出せば、彼女を支える側だったはずの自分の身体が言うことを聞かなくなる。
身体を巡る大切なものが、血液かもしれない何かが全て抜け落ちてしまった。
今の今まで二本の足で自立できていた地面に倒れ込む。けれど血が物理的に流れ出たのかどうか、倒れ伏したそこに血溜まりがあるのかすらわからない。
「わたし、死神だからさ」
他の音は何も届かないのに、その声だけは鮮明に鼓膜を揺らす。
痛みもなく、命が奪われる恐怖もなく、考える脳も奪われて。
その声に飲み込まれて、ついに最後に巡っていた逸人の何かもが地面に伝わり溶けていった。




